てまえであしぶみ。
「今日はここまでだな」
「うん?」
立ち寄ったいい雰囲気の食堂で、昼食を取りながらこの先を思って、クロノはもうすでに今日の宿の事を考えていた。
「今からだと王都に到着するのは真夜中になる」
「え? もうそんな所まで?」
今までの移動は地図を頼った事が無く、持って生まれた感覚と勘だけで旅をしていたユウヤは、地理には本当に疎かった。
もっと日にちが掛かるって言ってなかったと、ユウヤは軽く返事をしている。
そのユウヤが思いの外この強行軍に平気な顔で付いて来たことに気が付いていない。
男でも根を上げそうな距離を、文句ひとつ言わずに駆けてきた。
クロノは口の端を持ち上げて、ユウヤの頬を指先で撫でる。
「この後、宿を探そう」
「……撫でる意味……」
「そうしたいからとしか……」
「ああ……そう」
急に時間が空いたので、この町のハイランダーズの詰め所に立ち寄った。
地元の者の話を聞いて、良い宿を紹介してもらう。お勧めされるまま、町の賑やかな場所から離れた宿を訪ねる事にした。
立場は明かしてないものの、身形で判断されたのか、訪れた宿は今までになく立派で高級そうな宿に見えた。
敷地はぐるりと瀟洒な高い鉄の柵で囲まれて、その内側は緑が溢れ、少し覗いただけでは中が窺い知れない。個人の屋敷に見えるが、表には宿の名前が掲げられていた。
来る人を選ぶと前面に押し出した門構え、そこをくぐるかどうかすら躊躇いそうな雰囲気の宿だった。
門の手前で馬を降りるクロノに、ユウヤは声を上げる。
「ここまで贅沢しなくても、今までみたいな所で充分だけど……」
「まあ、最後くらい構わないだろう?」
すぐに人が現れて門が開かれる。
きっちりとした服を嫌味なく着こなした門番は、ようこそおいで下さいましたと上品な笑顔を向けている。遅れて馬を世話してくれるのか、別の人がお預かりしますと手綱を受け取った。
呆れて遠くを見ていたユウヤがふと気が付くと、足元に踏み台が置かれていた。
いつの間に用意されたのか分からないが、せっかく出してもらったのに、踏み台を使わない訳にもいかない。
ユウヤはいつもとは逆の、馬の頭の方に足を持ち上げて、両足を揃えて馬から降りる。
もちろんクロノの差し出された手を取って、腰の辺りを支えられながら。
無表情になっているユウヤに、クロノは笑いを堪えている。
「気に入らないか?」
「んー……よく分かんない……」
「……そうか」
そのままクロノの腕に手を掛けて歩き出す。
緑の絨毯を通る石畳の小道を、大きな建物に向けて進む。
外側に輪をかけて、内側は煌びやかだった。
至る所がつるつるに磨かれて、そこかしこがきらきらしている。細部までよく見ようという気が全く起こらない。そこで働いている人が失礼無く上品で良い人そうなのが救いで、その他は見れば酔いそうな程ごちゃごちゃした印象だった。
案内された部屋もご立派過ぎて、気が休まる感じがしない。
部屋に入ってふたりきりになると、堪らずクロノが笑い出した。
「趣味が悪いな……」
「……クロノがそう思ってて、安心した……クロノの家はこんなんじゃないよね?」
「ここまで派手じゃないな」
「……だと良いけど……大きいの?」
「ここよりか?……そうだな、ここよりは」
「へぇ」
「ほとんど使っていない部屋ばかりだな」
「そりゃ……そうでしょうよ……え? クロノってそんなに偉い人なの?」
「まあ……そうだな」
「ハイランダーズの中で?」
「話して無かったな……ハルからも聞かなかったか?」
「そんな話、ハルとはしてない」
クロノはどう切り出したものか、思案してみる。
ユウヤの手を引いて、近くにある椅子に座らせた。向かいに椅子を持ってきて、クロノも腰掛ける。
早く話を始めないとユウヤが不安になるだろうと思っても、話せば妻になるのをやめると言い出さないかと考えてしまう。
生活で困らせる事はないが、別の苦労をかけるのは充分に理解している。
「私は……その……」
「え……なに、怖いんですけど……」
「責任のある立場にいる」
「うん?……まぁ、それはなんとなく分かってるけど?」
「一番重い責任を負っている……と言うか」
「そ……ん? それって、一番偉いってことだよね?」
「そうだな」
「ハイランダーズで?」
「ああ……」
「一番偉いの?」
「そうだ……」
「ぇぇええ?」
「悪かった、そう簡単に明かせる立場じゃないから……今まで黙っていて、済まないと思っている」
震える手を口元に持っていったユウヤは、ついに我慢が出来なくなって声をあげて笑い出した。
クロノは虚を突かれてしばし呆然とする。笑うとは思いもしなかった。事態を把握できなくて、ただユウヤを見る以外にない。
ユウヤは収まるどころか、ますます声を大きくする。体を折り曲げて、腹を押さえた。
苦しいとか、お腹痛いと合間に訴えながら、それでも笑っている。
「はあぁぁ……ていうか、何してんの、こんなとこで」
「なに?」
「……はは! なんでしょうもない女に現を抜かしてんの?」
「……ユウヤ?」
ユウヤは少し落ち着いて、目元に溜まった涙を手の甲で拭った。
息を整えて椅子の上で膝を抱える。
「はー……おかし……騎士団長の妻が元娼婦とか……」
「自分の事をそんなふうに言わないでくれ」
「……でも周りはそんな目で見るよ?」
ユウヤは眉を下げて、困った子どもを見るような目でクロノを見ている。
何がきっかけでどんなふうに話が伝わるかは分からない。クロノには数え切れないほど心当たりがあるし、手痛いでは済まない経験もある。
それは止めようにも止められない事だと分かっている。
「誰も知らない事だ」
「でもいつかは知られる」
「それも……貴方の一部だ。私はその事を……言って回る気も隠す気も無い……でもユウヤが知られたくないなら……」
そうじゃない、伝えたい事は、もっと別の事だ。
上手く言葉にならないのがもどかしくて、クロノの手に力が入る。血の気が引く感覚がするのに、湧いてくる感情は怒りに近い。
「……違う、クロノ……クロノや、他の人がバカにされたら、絶対に私は私を許せなくな……」
座っていた椅子が勢いよく後ろに倒れる。
その音が響く前に、クロノはユウヤの座る椅子の背もたれを押して、すぐに倒れないように今度は支えている。
椅子は斜めに傾いたまま二本足で均整を取り、そこから前にも後ろにも動かない。
不安定な状態と、クロノから発される気迫に、ユウヤの背筋を何かが這い上る。
「……や……だ、いや……」
視界のほぼ全てを相手の顔が占めるほど、クロノは顔を近付ける。
「……見くびらないでもらおうか?……私が妻にと願った人がその程度だと?」
いつもよりゆっくりと紡がれる言葉、いつもよりさらに声は低い。
ユウヤは腹の底から震えが上がってくるのを感じる。
「下らない中傷に、私と私が選んだ人が傷付くとでも?」
「……だって! 心無い人はどこにでも……」
「心無い人に、貴方が惑わされる必要はない」
「そ……んなの……」
「私は惑わない」
椅子を元に戻して、クロノはその場に膝をついてユウヤを見上げる。
「自分で自分を貶める必要はないんだ、ユウヤ」
ユウヤの足を床の上に下ろして、両手を取って握る。冷たくなっている指先に、怒りに任せてやり過ぎたかと罪悪感が顔を出す。
握っている手を見下ろして、考え込むユウヤの顔。言葉を飲み込んでいる時の奥歯を噛み締めるような仕草。手を伸ばして頬を撫で、それを止めさせる。
「どうして……私なの?」
「ユウヤ?」
「どうして私じゃないとダメなの? 他に……他にも、クロノに相応しい人はたくさんいるのに」
「そうか?」
「もっときれいな人もいるし」
「そうかもな」
「もっと優しい人も」
「……そうだろうな」
「ちゃんと言うことを聞く、大人しい人とか」
「……ユウヤ?」
「もっと、クロノを、好きな人が」
「そんな人……いるのかどうか知らないが……私は貴方が良い」
「どこが良いのか、分からない」
「聞きたいか?……貴方のその、人を思いやる心が素敵だと思っているよ……貴方の」
「……いい、やっぱ……いい、長そう」
「長くなるに決まっているだろう……それから」
「もういいって……わかった……」
「貴方以上の人は居ないんだ」
「ごめん、て……卑屈なこと言って、ごめんなさい」
「……来なさい」
くいと手を引いて、クロノは腕を広げる。ユウヤの両腕を肩に回して抱き寄せる。子どもを抱きかかえるようにして膝に乗せた。
「でも同じだけ、好きを返せない……」
「……いいんだ。私の側に居てくれれば、それで」
「もうこれで、最後にするから。最後に一回だけ……」
「うん?」
「こんな私で、ごめん。もっとちゃんとした人だったら良かったのにね。……ごめんなさい、クロノ」
ユウヤを潰しそうになるくらい腕に力をこめる。
「……そんな貴方だから、一緒に居たいんだ」
「……変な人」
腕を緩めて体を離す。
困ったように笑うユウヤの顔。
今さらどう言われようが、この想いも、この温もりも重みも。手放す気は無い。
「……口付けをしても?」
「……今さら聞く?」
「しても?」
「……すれば?」
息のかかる距離まで近付くと、ユウヤは目を逸らして伏せる。
唇を引き結ぶ、その仕草が堪らない。
逃げないように首に手をかけるときゅっと目を閉じるところも、可愛い。
唇に吸い付いてわざと音を立てて離れる。
一番好きな顔、目を薄く開いて、しばらくしたらこっちを見る時の、ユウヤの瞳。この表情。
腹の内側から焼けて消し炭になりそうだ。
しばらくは付き合ってもらわないと、収まりそうにない。
浅く深く繰り返し口付けをされている間に、気が付くとユウヤはいつの間にか床に寝かされている。息が苦しいとクロノを叩いてもその手は床に張り付けにされる。
合間にユウヤが苦しいと文句を言えば、息を吸う間も惜しんで私も苦しいとクロノが返す。
いつまで続くのコレ、終わる気配がないけど。
どうにか足で蹴って……楽しそうに笑うな。
久々にイラっとしたわ。
何とか手を振りほどいて掴んだのは、多分シャツの襟だと思う。気合いで上に押し上げる。
ボタンが飛んだのか、ぱちんと音がした。
そのあとしゃらと、音が鳴る。
喉の辺りに落ちて来たのはきっと白金の証だろう。掴んでクロノに押し付ける。
そこでやっと離れる気になったらしい。
体にかかった圧迫感が薄れていく。
口の端をゆっくり丁寧に拭われる。
力が抜けて床に溶けて流れ出ているような感じかする。このまま寝ろと言われたら、余裕で眠れる。
「ユウヤ……?」
呼ばれても目を開けたくない。
どうせいつもみたいな甘ったるい顔で見てるんでしょ。
熱がこもったような、許しを乞うような、苦しそうな顔で。
はい。
ほらね。
やっぱり。
ああ……わたし。
まだもう少し。
ごめんね、クロノ。
本当にごめんなさい。
私は、男の人の、この顔が。
この顔が、大嫌い。
だから、もう少し。
待ってください。
もう少し、目を瞑らせて。
いつかクロノと同じような、同じくらいの好きが返せるように。
がんばるから。
クロノの妻に相応しく見えるように、振る舞うから。




