姫の翼。
「明日にはもう、三歳だよ?」
「うーん、この前までヨダレお化けだったのにね……今日なんてユウヤに説教してたよ。もう!ダメでしょ、ユウヤ!……って、サヤの怒り方そっくりで笑っちゃった」
頭の下にあったネルの腕に力が入って、アメリは自分の頭を少しだけ浮かせる。ごそりと気配が動いて、ネルの寝相が変わったと目を閉じていてもわかる。
腰に巻き付いてきた腕や、肩に当たる息や頬から伝わる温かさで、昼間よりもネルの熱が上がったのを感じる。
でもそれは口に出さないことにした。体調の悪さは本人が一番分かっているだろうから。
「どうして怒ったの?」
「さぁ……多分、稽古中にユウヤが私をおちょくってたからかな、急に怒りだして、面白かった」
怒っても、どうして腹が立ったのかの理由は説明出来ない。そのもどかしさがさらに姫様の怒りを増させた感じは伝わってきた。
「まぁユウヤのあのからかい方は、確かにイラっとするもんね」
「姫様に叱られて泣きそうな顔してんの……」
小さな女の子に怒られる大の男。
姫様の前で小さくなってひたすら謝っていた。
その光景を思い出して小さく笑い声をあげる。
「……ねぇ、アメリ。僕、考えたんだけど……ていうか、ずっと考えてたことがあるんだけど……」
「……うん?」
「僕が……サヤになろうと思う」
ふわふわと今にも眠りそうで引っ込みかけていた意識が、力尽くで引きずり出されて問答無用で殴られた感覚がする。
目を開いてネルの方を向くと、自分に向くのを待ち構えていたネルと視線が絡み合う。
「いま、なん……何て言った?」
「僕がサヤに……アメリにはユウヤになって欲しい」
勢いよく起き上がってネルの頭の横に手を付くと、アメリはその顔を覗き込んだ。
「本気で言ってる?そんなこと出来るわけ……」
「無いって誰も言ってないし、ダメとはどこにも書いてないよ」
ユウヤの役目は姫様と共に旅をし、世界の瀑布まで守り、導くこと。
サヤの役目はそこから先、姫様が世界の錘として、役目を果たせるように補佐をし、世話をすること。
当然のようにユウヤは男性が、サヤは女性がなるものだと、今まで疑うこともなくそう思ってきた。ネルの言う通り、男女が逆の役割を果たしてはいけないと、誰も言ってないし、どの本にも書かれてはいない。
「……私に、サヤは出来ないって思ってるの?」
そんな事、ネルが考えていないのは分かっている。同じように稽古をして、同じように学んできた。姫様がここに来てからの三年間、『姫様付き』になってから嫌でも増した使命感に、何をするにもそれまで以上に真摯に向き合ってきた。
それはネルもアメリも変わらない。ふたりが過不足なくどちらの役目も負えると分かっている。
不満なのは、ネルがサヤの役目をしたいと言ったこと。
サヤの役目を担うには、この先どうなるかを知っているから。
「……違うよ? そんなことひとつも思ってない」
わかるでしょ、と覗き込んでいるアメリの髪を掬って耳にかける。
「じゃあ、私がサヤでいいでしょ」
「……でもどっちが向いてるか考えれば、誰でも同じ答えになる」
「いや……絶対に嫌だから」
「……アメリ。 アメリッサ、僕には姫様と長い旅なんてできないよ」
「……ちょっと熱があるから何? また弱気になってんの?」
起き上がって、アメリは体を震わせた。
言葉にしないまでも周囲がどんな風に考えているか、病気がちなネルや、男顔負けのアメリの強さになんと思っているか、当人たちは何となく感じていた。素直に従おうとしているネルに腹が立つし、そんなことを考えさせてしまった、それに今まで気が付かなかった自分が憎たらしい。
「……違うよ。僕は長く生きられない」
「そんなこと……! それは!……それは私だって一緒でしょ!!」
ネルはゆっくり起き上がると、アメリに向かい合って座る。アメリの頬を撫でてその指で唇をなぞった。
静かに、みんな起きてしまうとアメリを抱き寄せる。
「……時期の問題?……違うよね……アメリは確実に死ねるかどうかって考えてるでしょ?」
錘姫とサヤは、七つの世界を鎮めるためにこの世界の人ではなくなってしまう。
その力が尽きるまでの間、長く在る為にこの世界の体を捨て、人の及ばぬ時を渡れる存在に変わる。
一方ユウヤは世界の瀑布までの露払いになって、我が身を盾にし、七つの世界が混濁する状況に置かれて魂を削られる。
『姫様付き』は帰ってこない。
どちらもこの世界から居なくなって、今までの、どの『姫様付き』も生きて再びサザラテラの地を踏むことはなかったと記録は残っている。
それでもアメリには考えがあった。
ユウヤなら、運が良ければこの世で生きることが出来るんじゃないか、記録はなくても、かつて生き残った『姫様付きのユウヤ』が居たっておかしくない。誰も姫様付きのユウヤの生死を確認していない。サザラテラに戻らないだけで、全員が死んだとは、そんな記録、それこそどの本にも残っていない。
「アメリが……自分のことを大切にしていないのに、僕が気が付かないとでも思った? この世界で生きるより、死んでこの世界とは関係のない場所に行きたいと、アメリが思ってるのを知らないとでも?」
「……私は……ネルに……この世界にいてもらいたい……この家に……」
「僕はね……アメリ。足枷になりたいんだ。君が死んでしまっても構わないと思っているこの世界に居る為の足枷。一度でも多く笑って、少しでも長く幸せだと思っていてもらいたい……この世界が好きだって言ってほしい。僕には出来ないと……無理だと思う?」
「そんなことない……私は、今だって……」
「アメリが好きだよ」
「私も……ネルが好き」
抱きしめてそのまま寝台に横になる。ネルの胸にくっ付いたアメリの耳は、くくくと奥の方から響く笑い声を拾い上げる。
「僕の好きと、アメリの好きの種類が違うのは分かってる?」
「……分かってる」
「ああ……なんだ分かってるのか、それは……残念」
ぐるりと上下が入れ替わって、ネルはアメリに覆いかぶさった。
「……お互いに確認しちゃったら、何もできなくなっちゃうね……」
「何かする気なんて、ないくせに……」
「あるよ!……酷いな、今まで散々我慢してたのに!」
ネルはアメリに口付ける。
角度を変えたり、時間をかけたり、合わせるだけや、噛み付くような口付けを何度も繰り返す。
息を乱して覗き込んでくる目は朱に染まって、ネルから別の種類の熱も上がっているのを感じる。
「もっと……したい、もっと、別のことも……」
「……いいよ」
体にかかっているネルの重みも、絡めている足に当たっているものも、この後 自分がどうなって、どうしたらいいのかも、知っている。
身をゆだねることに少しも抵抗はない。
ネルは顔を歪めて口の中で笑うと、体を起こす。大きなため息がアメリに降りかかった。
「しないけどね……絶対にしない」
「……私が娼婦だから?」
ぴくりと片方の眉が跳ね上がる。怒った時のネルのクセ。アメリの顔の上から両方の頬を鷲掴みにすると、力をこめて指を動かした。
痛いといった内容の声がアメリから漏れ出ても、しばらくその力を緩めない。
「ちーがーうーだーろー? なんだよ、なんで今までの流れが無くなっちゃうかなぁ」
頬を掴んでいた手は、今度は優しく額にかかる髪を梳いた。
「大切な女の子だよ?……男として見られてないのに、できないよ。……したいけど!……したくない」
「私は……」
「別に構わないとか、絶対に言わないで!」
「だって……」
「失礼だよ、僕にも……アメリ自身にもね」
いいんだ、と横に寝転ぶとアメリを抱える。
「顔も頭も気立ても良い、優しくて賢い兄だと思われてても、僕を男だと思ってなくても。僕はアメリが好きだし、アメリも僕を好きだと言ってくれる」
「ふふ……そうだね」
「こうやって好きな女の子を大事に出来るんだ。アメリを抱っこしながら眠れるんだからね……充分だと思わないとバチが当たるよ」
「……なにそれ」
「僕は幸せ者だってこと……だから」
「だから?」
「僕がサヤになる」
「……その話」
「もう決めた……アメリは少しでも長く生きて、幸せだと思って欲しい」
「ネルが……いた方が……私の幸せだって……」
「……ああ、その発想はなかったな……でも自分の体のことは分かってるつもりだよ」
アメリの眉間に寄ったしわを、ネルは優しく撫でさする。
「僕は姫様が大きくなるまでもたないよ……姫様を守りながら旅をするなんて出来ない」
姫様の三回目の誕生日。
ネルはユウヤとサヤに。
先代の居る前で、自分の考えを迷いなく話した。
気持ちの揺るがないことも一緒に。
「本当にいいんだな?」
再三問われて飽き飽きした顔でネルは頷き返す。
ユウヤに顔を覗き込まれたアメリは、ネルの希望に沿うと泣きそうな顔で肩をすくめた。
「……お前たちを尊重しよう……お前たちの決意を誇りに思うよ」
ユウヤは扉を叩く。
その内側からは重々しいとは言い難い男の声で返事が聞こえる。
連れてこられたのはユウヤとサヤも世話になったという職人の家。
薄暗い室内は薬の匂いと、酒の匂いが混ざり合った、でも不潔には感じない、逆に清潔そうな整った場所だった。
背中に翼を刻み込む彫師の男の家。
その家の主人は酒瓶が手放せないといった風体の、祖父に近い年齢に見える男で、ユウヤと軽口を叩き合うと、ふんふんとネルとアメリの顔を見ている。
不安そうにしているふたりに、ユウヤは心配は要らないと、取って付けたように笑う。
「まぁ酔っ払ってても、腕は確かだから」
それはユウヤの背中を見たことがあるので、そうなのかも知れないが、それとこれとは話が違う。
「……僕が先に……それから酒は終わるまで飲まないでもらえませんか……さっきからアメリが苦しそう……」
部屋の中に充満する臭いに当てられて、我慢していたのに、呼吸が苦しくなっているのがネルにばれている。
大丈夫だと声を出そうとしたところで、出てきたのは声ではなくて咳だった。
ユウヤが慌ててそこらの窓を開け放つ。
「そうだった……おっさん、この子 酒に弱いから、最大限に気を配ってやって」
昔から匂いだけでも息が苦しくなる。飲むなんて以ての外、体に当たれば赤く腫れたりと、酒とは驚くほど相性が悪い。飲んだら死ねる自信がアメリにはある。
そりゃ難儀なことだ、もったいないと老人はからからと笑った。始まる前に言ってもらって良かったと、棚の奥から小瓶を取り出して、古ぼけた札に書かれた小さな文字を目を眇めて確認している。
「危ねぇ……俺の時、消毒だっつって、口から酒を吹きかけられたんだった……」
どっちの意味でも軽く気が遠のきそうな話に、アメリは気が付いてくれたネルを感謝を込めて見つめ返す。
「そんじゃ、おっさん。こっちが左で」
ネルの肩を叩き
「こっちが右ね」
とアメリの肩を抱き寄せた。おでこに口付けのおまけ付きで。
老人は軽く目を見張って、酔いが覚めたわと笑う。しばらくはそりゃいいねと繰り返し誰にともなくつぶやいて、にやにやしている。
ユウヤにしっしと手を振ると、ネルに服を脱いで横になるようにと寝台を指差した。
捨てられた子犬のように悲しげな目で見てくるふたりに、頑張ってと笑い返してユウヤは部屋から出て行った。
どうにも心配の二文字しか浮かばない彫師の老人の腕前は、交互に少しずつ色をのせられるお互いの背中を見て、間違いないと安心できた。
長時間に渡って背中の痛みに耐え続けて、もうどうでもよくなりかけた頃、やっと風切り羽の一番先が太腿の真ん中までたどり着いた。
ユウヤの背中には、肩から肩甲骨の辺りに、もっと簡略化された紋章のようなものが描かれていたが、自分たちの背中には、本物に近い鳥の羽が緻密に描かれていた。
「ユウヤのこんなにでっかくなかったよね?」
『姫様付き』だとここまでなのかと聞いてみれば、老人は興が乗っちゃったと、子どものように笑って片目を閉じて舌を出す。
ケガをしたのと同じだから無茶をするなと、諸注意を受けて家を放り出されたのは、月も沈みかけた夜半過ぎだった。
「……しばらくは仰向けで寝られないね……」
「……姫様がぶつかってきたら泣くと思う……」
灯りの消えた家々に、小さく絞ったはずの声はよく響いて返ってくる。ふたりはくすくすと笑い合う。
同じ痛みと、同じ翼を背負えたことが嬉しかった。
夜の空気のように黒く澄んだ背中の色を思い出す。
子どもの頃のように手を繋いで家に帰ると、眠らずに待っていたユウヤとサヤに迎えられる。
ずいぶん時間がかかったことに、どうなったとネルの服がほぼ脱がされた状態で、ユウヤは晴れ晴れした表情で宣言する。
俺とサヤは先代になる、これからは役目を渡した、ただのお父さんとお母さんだと声は高らかだった。




