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六翼の鷹と姫の翼  作者: ヲトオ シゲル
ななつの世界とおもり姫
19/80

おもりひめ。







その日の夕食後も、いつもと同じようにサヤ先生の講義はつつがなく進行していた。


数日続いたネルの体調不良も、回復して調子を取り戻すまでさらに数日かかって、今朝からついに稽古も本格的に再開していた。

久しぶりに全部の稽古をこなして、今回はネルの方が眠そうに瞬きを繰り返している。誰に言われるでもなく立ち上がると、いつかのアメリのように椅子の後ろのちょっとした場所で型を始めた。


部屋の広さを考えると、今夜は眠くなっても自分は我慢して頑張らないと、アメリはそう思って姿勢を正す。

その向かい側にいるサヤが目を見開いた。


「アメリ?! どうしたの?!」

「……? なにが?」


サヤに頬を撫でられ、その指先が濡れているのを目にする。少し下を向けば手元や広げた本の上にぱたぱたと水の粒が落ちた。


「え?! ちょっと、ネル坊主?!」


ユウヤの慌てた声に背後にいたネルを振り返ると、さっきまで体を動かしていたのに今は床に両手と両膝をついている。

床に自分の頭を打ち付ける鈍い音。

ネルは悪態を吐いて息の続く限りの大声を上げた。こんな風に怒りを露わにするネルを初めて見る。

突然の事におろおろする両親。

アメリは向かい側にいるサヤの手に自分の手を重ねる。


「サヤ……姫様が……生まれたよ」


思ったよりも小さな声が、恥ずかしいくらい震えているのが分かる。

嬉しくて嬉しくて、嬉しくて堪らないのに、こんな風に家族で過ごす夜はもう無くなってしまうんだと、自分の目から流れているのは涙なんだと、アメリは今はっきりと実感した。



それからは早かった。

すぐさま慌ただしく旅の準備を始め、眠る時間も惜しんで陽の昇る前に家を出発する事に決まった。

受け継がれてきた仕来り通り、旅は姫様の存在を感じることが出来るふたりだけで行く。

この夜よりネルとアメリッサは『姫様付き』となった。

心配だ、気を付けろ、とユウヤに一晩中繰り返され、その合間にサヤの旅の注意事項を挟まれる。

割合が逆な気がすると思いながらも、ネルとアメリはその全部に返事をした。

サザラテラで一、二を争う丈夫な駿馬を借り出して、満足いく形で旅支度を整えた頃には、もうすでに旅を終えたような、疲れ切った顔を四人で見合わせて笑った。


ユウヤは出発の直前まで悩んで、アメリの方に自分の剣を渡す。鞘の全体に美しい彫刻の入ったユウヤの剣。現時点での腕前は、どう甘く見積もってもアメリの方が上だった。

ネルもそれに異論はないのか、苦笑いをして肩をすくめると彫刻の入ってない剣を受け取った。


「急げ……全力だ」

「帰りはゆっくりでいいからね」


サヤの手で外套にぐるぐる巻きにされたネルとアメリは、その隙間から強い意志の光を湛えた視線を返す。心配そうに見上げる両親に馬上から無言で頷いて、温かで幸せな場所から、夜の明けきらない冷えた空気の中に走り出していく。

馬に跨るふたりの後ろ姿に、どこに行くにも手を繋いでいた、まだ小さな頃の後ろ姿が重なる。


間を置かずふたりは丘を駆け上ってその向こうに消えた。

サヤはとうとう堪えきれなくなって声を漏らす。

ずっとこのままで、『姫様付き』は他の代にと、そう思っていたのはネルとアメリだけではない。

ユウヤはサヤの肩を抱き寄せて、頭をそっと抱える。


「今すぐじゃなくていい……ゆっくり覚悟を決めよう……みんなで」


頷いてサヤは顔を上げる。

もう見えなくなったふたりの向かった先を、いつまでも見送った。




七つの世界の錘たる姫様は、災禍の中に生まれる。

この世界に起こる災いをまず鎮めるために、姫様は必ずその直中にいる。

自然災害、戦禍、人の起こした災害。それは時代によって様々で、誕生して間もなく姫様は自分で最小限に食い止めた災禍の中心で命の危険に晒される。

逆に言えばネルとアメリは災禍の中心に突っ込んで行くことになる。

どちらにも命の危険が伴い、特に生まれたばかりの赤子にとってはこの上なく過酷な状況に置かれることになる。

ネルとアメリはほとんど休むことなく、姫様のいるであろう方向に馬を走らせ続けた。

姫様と『姫様付き』の進む道は玉で、つまり宝石で飾ったような良い道でできていると教えられていた。己の勘に従えば事が上手く運ぶ、この世界がそう仕向けているとしか思えない運に恵まれる。

休憩で立ち寄った村の牧場主はふたりの疲れ切った馬を理由も聞かず訳知り顔で預かってくれる。代わりに彼の所有する別の立派な馬を破格の値段で貸してくれた。

また雨宿りをした別の集落では、年若いふたり旅は大変だろうと、食事を振舞ってくれた。

馬を乗り潰す勢いの急ぎの旅でも、幸運な出会いは何度となく訪れる。


姫様がいると思える方向、強い光を感じる方へ昼夜を問わず進む。


馬を何頭も乗り継いで五日も経つと、次第に災禍の内容は噂めいたものからはっきりとした話に姿を変えていく。

難を逃れた旅の商人や、遠くその光景を目にした人々は避けようのない災いに、自分は出遇わなくて済んだ幸運と、出遇ってしまった人々を想い、胸を痛めていた。


いつもと変わらない長閑な午後は、急に厚い雲に覆われたかと思うと夜のように暗くなった。

人々は空を見上げ、身の内に湧く不安に恐怖を抱く。どこかへ逃げなくてはと思いつく頃には、雷鳴轟く嵐の中に放り込まれていた。

何もかもが吹き飛ぶ大風に人も家も空へ奪われていき、通り道には何も残らず、地面に大きな爪痕を残した。

大きな竜巻がその地を襲ったと、逃げ果せた人からそう聞いた。

この時期には珍しく雨が多く、増水した川が氾濫し、加えて流行り病も蔓延していると話す。

今ではその集落への出入りも制限がされているらしい。領主から届けられた食料を運ぶ荷馬車は、すぐ隣の集落で足踏みしていた。馭者は流行り病の噂に怯えてその集落を出ることすら渋っている。ネルとアメリがその役を買って出ると、あっさりと手綱を渡した。


ふたりで数台の荷馬車を引いて、姫様の待つ小さな村へと進む。


話で聞いていた通り、出入り口に続く道に人の影があった。

首に下がる証でハイランダーズだと分かる。

近隣からも大勢の応援が派遣されているのは聞いていた。ネルとアメリに訝しげな視線を寄越してきたものの、荷の中身を確認すると助かるよと笑顔を見せた。集落の中心まで運ぶように、指揮をとる人物の名を教えられる。

本当はすぐにでも荷馬車を放り出して、姫様の元に走り出しそうだった。

逸る気持ちをぐっと堪えて、ふたりは村の中央を目指す。


聞いて想像していたよりも状況は酷いものだった。

無傷で残っている家屋はほとんどない。数少なく残った小さな家には病人やけが人が寄り集まり、運よくどちらも免れた者は、崩れた建物の下にあるものを、または誰かを、救い出そうと力を合わせていた。

荷馬車はすぐに引き渡された。

それでも急に走り出したりして変に思われないように、ネルとアメリはお互いの手を握り合って気持ちを抑える。

ふたりは迷うことなく同じ方向に歩き出す。

恐々といった様子で寄り添い歩き出したふたりの姿を、長く気に留めるような人はどこにも居なかった。



心臓が耳元にあるのかと思うほどうるさく鳴っている。握り合った手の先は血の気が引いて冷たい。光はどんどん強く輝いて見える。

瞬きを繰り返し、気を入れ直すと目に入る光景は酷い有様の家々だったが、光に気を取られるとまた全てが白く霞んで心の中に喜びが溢れ満たされる。


光の元は崩れかけた小さな家だった。

片側は完全に壁が崩れて、残った片側でなんとか屋根が落ちないように支え、その残りの壁さえも斜めに傾いている。

ぐるりと一周回って表側に戻ってくると、アメリは外套を脱いでネルに差し出した。

ネルにはきつそうな小さな隙間、そこしか中に行けそうな場所は無い。


「気を付けて……何も触ったり動かしたりしないようにね?」


絶妙な均衡を辛うじて保っているようにしか見えない。何かひとつでもうっかり力を加えてしまえば屋根が落ちそうだ。ネルは渋々と外套を受け取った。


「挟まれたら、人を呼んできて?」


にやりと笑って持ち上がったアメリの頬をネルは両手で挟んでぐりぐりと揉んだ。


「そんな事にはならないように気を付けてって言ってんだけど?」


アメリは自分の肩の高さにある隙間に両腕を差し入れると、身体を捻りながら蛇のようにするりと隙間の中に滑り込んでいった。

ネルは駆け寄って中を覗き込むが、暗くて何も見えない。


「……アメリ?」

「なに?」


思ったよりもすぐ近くて聞こえる声に驚いて、強か頭をぶつける。


「……大丈夫?」

「うん……ごめん、こんなにすぐ返事があると思わなくて」

「暗いから慣れるまで待とうかなって」

「そうだね、その方がいいよ……焦らなくていいから、でも早くね」

「……無茶言うなぁ……」


くすくす笑い声が聞こえた後、しばらくして行ってくると声がしてからは、時々人の動くかすかな音と気配しか感じない。



待っている時間は長く感じるものだ、心配して焦っていると特にそうだ、落ち着いて、冷静に。大丈夫、大丈夫と呪文のように繰り返し、少し離れた場所で落ち着きなくうろうろ歩き回っていた。


何かが弾けるような音の後に強い力で木の擦れ合うかん高い嫌な音が続く。

間を置かずくぐもった音、耐え切れなかったような今度は完全に木が折れる音、がらがらと何がが崩れる音まで聞こえた。

ネルから見える場所には何も変化が無い。


「アメリ?!」


建物の中ではなく、音が聞こえたのは裏手の方だった。ネルは音の方に走る。


地面すれすれの隙間から、アメリが這い出そうとしていた。


手元には白い布に包まれた小さなものがある。

ネルは駆け寄ってアメリを引きずり出す。そのまま抱えて地面に寝転がった。


「あー……もう……脅かさないでよ」


埃まみれの粉っぽい頭を撫でると、その下にある口が子どものようにとんがっているのが見える。


「だってこっちの方が外に近かったし」

「ケガしてない? 痛いところは?」


ネルの胸に頬を押し付けて、小さく無いとつぶやいたアメリの声は、とても大丈夫なようには聞こえない。体を起こしてアメリの顔を覗き込む。

アメリも起き上がると、側にあった白い包みを持ち上げて両腕に抱え込んだ。

そっと布を除けると、小さな顔が見える。


「……すごく小さいね……」

「しわしわ……猿みたい」


ネルは自分の足に跨ったままのアメリの腰をそっと抱き寄せる。間にある小さな命を潰してしまわないように。


「……姫様だ……僕たちの、お姫様」

「うん」


微笑み合い口付けを交わして、自分たちの間にいる姫様にも順番に口付けを落とす。



焦る思いは大荒れの海にいる小舟のように翻弄され揺さぶられて、目の前には絶望的で残酷な結末しかないような気がしていた。

姫様の小さな体と、安らかな寝顔は、嵐だった海を静める。

今は波も立たぬほど穏やかに凪ぎ、柔らかな追い風さえ運んでくるように感じる。


大事なものが、家族との温かく穏やかな時間が無くなってしまうんだと思っていたのに、もう今はそんなことはひとつも思わなかった。

増えたと、大事で温かなものが増えたんだと、そう思える。


改めてネルが視線を落とすと姫様を包む白い布には、赤茶色く変色した血が所々に付いていた。


「ケガをしてるの?」

「……違う、多分これは、姫様の……お母さんのだと思う」


所々にしか付着してないから、ネルは気が付かないだろう。それを目の当たりにしたアメリは知っている。血の跡はよく見ると手のひらの形をしている。

掴んで握られていたのではなく、そっと添えられるように、女性の腕だけが、そこにはあった。

隙間からわずかに光が差し込んだその場所で、その腕の元の、太い柱と崩れた壁とのその下を、確認する勇気がアメリには無かった。


愛を形にしたような冷たい手にそっと触れて、任せてほしい、必ず大事にすると誓うのが精一杯だった。


「暗くて、よく見えなかったけど、近くに居たんだと思う」

「……そう……お父さんを探そうか?」

「……もう、早く帰りたい」

「……だね……ここの人達はこれからが大変だろうし、誰かに姫様を渡してしまったら僕たちの元に来るまでに時間がかかりそうだ……その間に病気でももらったら大変だし」

「ネルは女の子を攫うのが得意でしょ?」

「は、は、は。可愛いなぁ、アメリは!!」


頬をつまむネルの手を笑って払いのけると、アメリは姫様をネルの腕の中にそっと置いた。

立ち上がって自分の体の埃を丁寧に払い落とす。


姫様が包まっている布を取り外して広げると、自分の体に巻いて端を縛る。布の中に姫様を寝かし入れた。


「アメリ……それなに?」


アメリのベルトに挟まった小さな布を引っ張り出して目の前に持っていく。


「靴下?」

「ちがう、これ……手に被せるやつだよ、顔を引っかいたりしないようにする……」

「ああ……見たことある」

「片っぽしか見付けられなかった」

「そう……シェリル……姫様の名前かな」


小さな布の端には赤い糸で丁寧に縫い取りがしてあった。同じような刺繍が姫様の身に付けていたもの全部にあるのを、後になってふたりは見付けることになる。


「姫様……ここを出るまでは静かに寝てて下さいね」


アメリは上から外套を着て姫様を覆い隠すと、ふたりは何食わぬ顔で元来た道を戻っていった。







帰りはゆっくり、大事を取りながらサザラテラを目指す。



いつの間にか姫様はふたりの中心に。

か弱く小さな命は当然、最優先になっていた。













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