ななつの世界。
外庭から少し離れた丘の上は、午後になると涼しい風が吹き抜ける。
「ユウヤ! 時間!」
木陰に入って腕を枕に昼寝している男に声をかけた。
びしびしと剣先でユウヤの太腿を叩く。唸ってごろりと寝相を変えるので、今度は尻をびしびしと叩いた。しつこく続く尻叩きに、夢の世界から強制的に連れ戻されたユウヤは、勢いよく体を反らせて戻る反動で起きてそのまま立ち上がる。
両腕を上げ、吠えながら尻叩き魔を追いかけ始めた。笑い声を上げて逃げ、丘を駆けおりる尻叩き魔は、外庭から石造りのアーチをくぐって、白い石の敷き詰められた中庭に入る。
中央まで来ると走っていた向きをくるりと変えて剣を構えた。
呼吸は激しく大きく肩を上下させているが、剣先は少しもぶれていない。
見事な構えにユウヤの口角が片方だけ持ち上がる。
「俺に立ち向かうとは良い度胸だな……アメリ」
「素手で私に勝てると思ってんの?……ユウヤ」
じりじりと間合いを測りながら足を滑らせていく。ユウヤがぴくりと動いた瞬間、アメリは一歩踏み込んで突きを繰り出した。気持ちが良いほど陽動に引っかかった事にユウヤは声を上げる。
体を捻って剣先を避けるとそのまま左手を伸ばして、剣を持つアメリの手首を掴んで引き上げた。
「この、アメっ子ちゃんめ!!」
ユウヤはわしわしとアメリの脇腹をくすぐって、アメリは中途半端な宙吊りの状態で、ケンカ中のネコみたいな声を上げている。ひとしきり叫んで笑って、参りましたと言うまでくすぐりの刑は続いた。
手を離すとアメリはぐてっと石床に寝転ぶ。
「……卑怯……ユウヤのバーカ……」
「ふはは何を甘ったれた事を。俺は強い、お前は弱い……思い知るんだな」
「ぐ……ムカつく」
わざとらしく大きな咳払いに、アメリとユウヤの背筋が急に伸びた。
ユウヤが手を貸してアメリを立たせる。
中庭の四隅にある石の柱、そのひとつ、午後になると影になる所に椅子が設えてある。
椅子には右手に矍鑠、左手に威厳を携えた老年の男性が姿勢よく座っていた。
ふたりは揃っていたずらがバレた子どものように苦笑いを浮かべ、その男性の前に進み出る。
「アメリッサ……なんだその言葉遣いは」
「はい……ごめんなさい」
「ユウヤ……お前はいくつになったんだ」
「え……先代、もう、やだなぁ知ってるくせに」
「その軽口を止めろ」
「はい、すみません」
「何だお前たちは揃いも揃って子どものように」
「アメリはまだ子ども……」
「何歳だ! アメリッサ!」
「はい 、十三歳です!」
「ユウヤ!!」
「三十二歳でぇす!!」
石造りの建物に声は響いて、消えた後には今度は静寂が耳に痛い。
先代と呼ばれた老年の男性が吸い込んだ息の音さえ聞こえる。
「充分……立派な歳だと私は思うが?」
先代はもういいと手を振って、素振りをと命じる。壁に掛けてあった模造刀を取ると庭の中央付近で並んで剣を振る。
「アメリッサ……ネルはどうした」
「朝から熱があって辛そうでした。稽古は休んだ方がいいって、サヤが」
「そうか」
「でも、勉強はずっとしています」
「無理をするなと伝えなさい」
「はい!」
厳しいくせに、体を労わって心配してくれる先代に、アメリは表情を崩す。すぐさま甘い部分を指摘されて、指先にまで神経を行き渡らせると、眉間にくっと力を入れた。
素振りをしてから型の稽古。その後ユウヤとアメリが真剣で試合をし、それは日が暮れる前まで続いた。
頃合いを見計らって先代は声を掛ける。
アメリは途中で稽古を抜けて、夕食の手伝いにサヤの元へ行くことになっている。
中庭でまだ続けているユウヤを羨まし気に見ながら、台所のある棟に歩いて行った。
「……アレは、どうしてああまで稽古がしたいんだ?」
男でも根を上げるような練習量に、必死で喰らい付くように頑張った結果、今では易々とこなして、何ならまだ物足りないと顔に書いてある。そもそも大前提としてアメリは女の子だからここまで稽古をする必要はない。
「えー?……まぁいいじゃないですか、剣の稽古だけじゃなくて、きちんと他のこともしてますからね! っと……」
ユウヤは型通り忠実に剣を振る。とても戦うためと思えないような、優美な舞にも見える動きで、散った汗は石畳に丸い模様をいくつも作った。
「この前、弓もやらせてみたんですけど、ヤバいですね、ネルよりも上手いとか……落ち込んで鬱陶しかったんですから、ネル坊主のやつ」
「……お前はいつになったらその態度を改めるんだ」
「あれ?! 矛先がこっちに?!」
先代は素振りを追加するように指示すると、反論の声を背中で受け流しながら自室のある方へ足を向けた。
ーーーこの世界は七枚の薄布が重なったように出来ている。
そのうちの一枚に、人の暮らすこの世界があり、他の布にもそれぞれ別の世界が存在する。
すぐ隣り合った布の向こうに行くことは出来ない、向こうもこちらに来ることは出来ない。
それでもすぐ隣り合い重なり合って、薄布を透かすようにあちらはこちらを覗き、こちらもまたあちらを垣間見る。人と人とが複雑に絡まり合ってこの世界という布を作り、その布が七枚合わさってそれを真理とするーーー
サヤを前にして本を読み上げるネル。
その隣に座っているアメリの目は半分閉じかけている。少し離れた長椅子に寝転んで様子を見ていたユウヤが、笑いを噛み殺してサヤにひらひらと手を振る。何と首を傾げるサヤに、アメリを指差した。
無言で会話をしている両親に気が付いて、ネルは隣にいるアメリに声をかける。
「……眠いの?」
「んー……ねむい。でも大丈夫」
「腹が膨れてじっと座ってりゃ眠くもなるよな……アメリ、体を動かしながら聞け!」
「うん……そうしよう……」
椅子から立ち上がると少し広い場所に移動して、何も持たずに型を始める。同じように席を立とうとするネルに、ユウヤはちょいちょい、と声を漏らした。
「お前は調子が悪いんだから座っとけよ」
「……だって」
「そうね、きちんと熱が下がるまでは大人しくして」
ネルは唸りながら肩に掛かった毛布を引っ張り上げ、座りなおす。
本当なら寝ていなくてはいけないのに、無理をしようとする息子にユウヤの眉は八の字になる。
ここ最近の遅れ、というよりもアメリの伸び方と、先日 弓で敵わなかったのが相当堪えている。
年上としても、男としても、確かに面白くはないだろう。零れそうになる笑いを、ユウヤはなんとか口の中に押し留める。
「まぁ、明日には良くなってるさ……いい子にしてたらな、ネル坊主」
ネルは不服そうに眉をしかめると、膝を抱えて顎を乗せた。
サヤが机の向かいからネルの頬を撫でる。アメリが後ろからネルの頭を撫でると、分かったよと小さな声で笑って答えた。
「さあ……それじゃあ続きから。世界は布が重なったようなものだと本にはあるけど、本当はもう少し違います。どう違うか覚えている? ネル?」
「布っていうのは例え話で、本当は七つの世界が同じ場所にある」
「……そうね、私たちには私たちの居る世界しか見えていないけど、今ここにも他の世界が存在している」
「……よく分かんないけど」
ネルが頭を傾ける。
「見えないし、触れないし、何も、感じないのに」
アメリが動きに合わせて短く声を乗せる。
「そんな分からないものなのに、どうしてあるって言えるの?」
本の表紙をめくったり閉じたり、ネルは熱のせいもあって子どものように屈託な顔をしている。
「まぁ確かに見えないものや分からないものを信じるのは難しいよな」
「ちょっと、ユウヤ……」
まあまあと両手を上げると、ユウヤは寝転がっていた長椅子から身を起こして座りなおした。
「でも不思議な話はいくらでもある。走ってる馬から落ちたのに無傷だったとか、夜中に子どもがいつの間にか居なくなったとか、誰も居ないのに後ろから何かが付いて来るような感じがするとか……」
「え……なに怖いよ、その話」
「年寄り連中がよく言ってるだろ、悪い事をしたら砂の蛇が来るぞとか、夜中に水を撒いたら手を持っていかれるぞ……とか」
「年寄りになったら別の世界が見えるってこと?」
「……じゃなくて、不思議なことは昔からずっとあって、何かを感じている人はたくさんいたって話だ」
それに、とユウヤは笑いながら付け加える。
「想像したら面白いと思わないか? 今みんなでいるこの部屋は、他の世界ではどうなっているんだろうって……もしかしたら水の中かも……空の上かもって」
「そんなことがあるの?」
「無いとはいえないだろ?」
「誰かの家で、そこにも家族が住んでるとか?」
うえ、とアメリの方から声が聞こえる。
「それ……なんか気持ち悪い」
ネルも自分で言っておきながら、誰か知らない人と同じ空間を共有している想像をして、気分が悪くなる。
「ま、実際は見えないんだからどうかなんて分かんないけど……そうやって考えたり、感じようとしてみたりってのは、俺は大事だと思うけどね」
穏やかで温かい時間が家族を作っていく。
ひとりとして血縁のない、他人同士の集まりが故に余計に繋がりを強くする。
国の西端スミス、サザラテラ地区。
一年を通して温暖なこの地域は物質的な文化をやんわりと拒み、排他的で素朴なものを好む土地柄。住民はみな信心深く、地区の最奥にひとつの家族を秘し隠すようにしている。
その血の繋がらない家族こそがこの世界に及ばず、七つの世界の調整役であること。
役目を持ち、そのためだけに長い長い間 絆と知恵を繋いできたことを、サザラテラの人々は知っている。
「世界は七つでひとつ。どれかひとつでも欠けてしまえばたちまち均衡を崩して、例えばそれが別の世界だったとしても、全部の世界に影響を及ぼしてしまう……そこで七枚の布を鎮めておさえる役割を果たすのが……アメリ?」
「おもり、姫、です!」
眠くならない程度に流しているのではなく、アメリは先代の稽古の時と同様、手を抜くことなく、惚れ惚れするお手本通りの型を披露している。
「その通り……そして世界の錘たる姫様を導きお世話をするのが、サヤとユウヤ……私たちの役目ね」
アメリが一連の動きを終えたところで、サヤはここまでにしましょうと本を閉じた。
寝床を整えるとネルがその上に毛布を羽織ったまま、蹲るように横になる。
アメリはその上からもう一枚毛布を掛けた。
「大丈夫? 寒くない?」
「うん……ありがと」
額と首元に触れると、ネルはぶるりと体を震わせた。決して低くはないアメリの体温ですら寒気を呼んでいる。布を濡らして汗ばんだネルの額に乗せると、毛布の隙間から手を出してアメリの手を握る。ネルはほうと、ため息を吐いた。
「……今日は一緒に寝て?」
アメリが頷くとネルは毛布を持ち上げてアメリを抱え込む。ふたりが大きくなってからというもの、さすがに寝床は別々になったが、ずっと同じ部屋で寝起きを共にしていた。
こうしてどちらかが病気の時や、落ち込んだ時、寂しい時は同じ寝床に潜り込む夜がある。
「アメリあったかい……」
「ネルはあったか過ぎるね」
「……暑い?」
「ううん、でも私 毛布いらないかも」
アメリは自分の上にある毛布を一枚折りたたんでネルの方に掛けた。
「……ずっとこのままでいられたらな」
「熱が出っぱなし?」
意地悪そうにふふふと笑うアメリの頬を摘んで引っ張った。
「ユウヤとサヤと、アメリと……あと先代もね……一緒にいられたらなって思うよ」
「いられるよ?……弱気? 熱があるから?」
そうかもねと薄く笑って、ネルはお休みと目を閉じた。
全部を言わなくても長い付き合いだ、ネルの言いたい事はアメリに伝わっていた。
先代がユウヤの名を、今のユウヤに引き継いだように。いつかは自分もサヤの名を引き継いで、そうして次の子どもに渡していく。
世界の錘たる姫様を導き、お世話をするのは、悪いけど自分とは直接関わりのない他の代に譲りたい。
温かい人の存在を近くで感じながら、おやすみとおはようを言って笑い合う。
私もずっとこのままが良いと、そう思いながらアメリも目を閉じた。




