ユウヤという役目。
頬に当たる温かい感触に目を開いた。
目を開いて周りのものが目に入って、その時初めて、自分が目を閉じていたんだと気が付いた。
顔を覗き込むクロノの苦しげな表情で、自分の状態を思い出す。
「……クロノ?……どうして」
なぜここに、そう言いたいけど、思った事をそのまま口に出す余裕すら無さそうだ。
そう、
そうか。
こんな場所まで、どうして姫様はクロノの同行を許したのか。
今もまた、なぜ目の前にクロノが現れたのか。
こうなることを、姫様は知っていたのかもしれない。
気付いてしまった。
行くのは、ふたり。
姫様と、姫様を託された者。
「……いい……もういい、クロノ……お願い」
それは自分ではなかったのだと、気付いてしまった。
自分の身体がもう思うように動かせない。
行くのは、自分ではない。
「お願い……姫様を」
「ユウヤ……」
「違う」
姫様を託された者の名が、ユウヤ。
右側に在るべき者の呼び名。
自分にその役割は果たせない。
「ユウヤは」
もう自分の役割ではない。
「クロノ」
その役割を
「……あなたに」
渡さなくてはいけない。
「……姫様は……この先の、大きな木の……洞の中に」
隠してきたけど『ユウヤ』なら見える、分かるから。
「姫様の行きたい方に……行きたいところまで」
「ユウヤ……」
「違う……ユウヤは」
あなた。
あなたが姫様を、導く翼に。
どうか姫様を、世界の瀑布まで。
もうわかるでしょう?
頬に当たる柔らかい感触に、やめてと言う力も無くなった自分に可笑しくなってくる。
笑えているかは微妙。
「行って……お願い」
取り敢えずちくちくするからひげを剃ってくれと嫌味のひとつも言えなくてムカつく。
私の話聞いてた?
いつまでこんなトコでぼやぼやしてるの?
このままここで見てる気なんだろうか。
もういいから
「……行って」
自分の側からクロノの気配が遠ざかり、代わりの気配が近付いてくる。
頭の真横に立つ人を見上げた。
喉に上がってくるものに息を止められて、それは血の味がした。
存在が希薄なその人は、音もなくふわりと覆いかぶさって顔を覗き込んでくる。
『ねぇ僕、あいつキライなんだけど?』
サヤ、だって見てよ、このザマを
『……よくがんばったね』
あれだけ任せとけって大口叩いたのに、ごめん。
『ここからは僕の番だよ、任せといて?』
咳き込んで口から出てきたのは、やっぱり血だった。
悔しいなぁ、情けないし、自分に腹が立つ。
悔しい……
『そんなことない、充分だよ……もう、いいんだよ』
ああ、サヤ。
サヤの気持ちが今になってよく分かった……。
『またしばらく会えないね……でもやってみせるから』
姫様を、お願いします。
『心配しないで?』
うん、大丈夫だって、知ってる。
ああ。
ああ…………姫様…………サヤ。
『疲れたね、ゆっくりおやすみ……またね、僕の君』
ついさっきまでユウヤと呼ばれ、役目を負っていた人が、最後の息を吐き出した。
クロノは今にも力の抜けそうになる膝に、傾きそうになる体に、まだだと言い聞かせる。
ユウヤと姫様が辿ったであろう道を、進んでいく。
側を離れないで手を握り、命の火が消えてゆくのを見届けて、冷たくなるまで抱きかかえ、それは、多分そんな事はユウヤは望まない。
もう何に動かされているのか分からない。
これがユウヤの望みを叶える為なのか、誰かの意思なのか、少なくともあの場を離れたのは自分の意思ではなかった。
と、思いたい。
現実から目を逸らしたのだと、また置いて逃げたのだと、思いたくない。
苔むして深い緑に覆われた地面の上に、星のような光がぽつりぽつりと落ちている。
真っ直ぐ一本の道を示すように続いていた。
同じような小さな白い光の粒が、ゆっくりと尾を引きながら宙を飛んでいる。
その光を目で追えば、景色が幾重にも重なって見える。薄い布一枚一枚にそれぞれ別の景色が映って、布越しにここではないどこかが何重にも見える。
草も木も無い灰色の砂だけの景色。
水の中にいるような、ゆらりと白いものが漂う青い景色。
足元は何もなくて、遥か下の方に深い深い谷とその底を川が流れる景色。その上を魚の大群が横切っていく。
見上げれば空には、雲の向こうに石造りの町が逆さまにある。
クロノは頭を振って瞬きを繰り返した。
手で顔を撫でて息を整え、気を入れ替えると、見慣れた森の景色の中に戻ってくる。
姫様が足を止め、目を奪われていたものが自分にも見えている。
きっと同じように『ユウヤ』と名の付く者にも見える光景。
地面に続く星の道の先に、ぼんやり見える白い光の塊が、姿はまだ見えていないが姫様だと分かる。
今置かれている状況を、誰か他人に説明できるだろうか。
言葉で伝えて、この光景を理解してくれる人が居るだろうか。
果たして信じてもらえるだろうか。
姫様とユウヤがどこへ向かおうとしていたのかは分からなくても、隣国から迎えが来て、そこで幸せに暮らすのだと、そう言いたくなる気持ちは充分に分かった。
肌は乾いて冷え切っているのに、体の内側の熱は外に出ずどんどん熱くなる。
指一本動かすのにも注意を怠れないほどの畏怖を感じたのはいつぶりだろう。
クロノは知らず胸に置いていた手を握りしめて、大きく強く、一度だけそこを叩いた。
大きな木の根元、洞の中で姫様は横になっていた。
「姫様……」
薄く目を開いた姫様に手を差し出して、気が付いて逆の手に変える。
右手ではなく、左手。
ユウヤがそうしていたように、自分も右側に立つために。
「クロノ……? ユウヤは?」
「……交代 しました」
クロノの服に染み込んだ赤茶色の模様に目をやると、そこから姫様は何もかもを感じ取ったのか、声もなくころころといくつもの涙の粒を落とす。
クロノの腰にしがみついて顔を埋め、めいいっぱい息を吸った姫様の大きな声は、そのほとんどが服に吸い込まれていった。
姫様が顔を上げて歩き出せるようになるまで、小さな背中に手を置いて、クロノはその時を静かに待った。
星の道は行く先には無い。
姫様の歩いた後にぼつぽつと光が落とされていくのだと、歩き始めてすぐに分かった。
「姫様……このまま真っ直ぐ行きますか?」
「たきまで」
真っ直ぐ前を指差した。
「……滝?」
水音はひとつも聞こえない。
「あそこ……」
指差した先に見えるのは、今までと変わらない森の景色。
「みて……」
言われて見ているものが、見ている風景が違うのだと気が付いた。今、目に映るものより向こう、もっと遠くを見る感覚で目を細めると、幾重にも重なり合う紗の布。
一枚一枚、別々の景色を映した布。
どこかでひとところに纏まった何枚もの布が幕のように垂れ下がっている。
その布が風を受けて孕み、波打ってそれは流れ落ちる滝のように見えた。
水音など聞こえるはずもない、ずっと聞こえていたのは、風にたなびく旗のような、風を受けた帆布のような、低く響く柔らかな音。
落ちて弾けた水を感じるように、見た事もない景色が目の前を過ぎる。
考えられない大きさのトカゲと並んで歩き、羽の生えたムカデが空を飛んでいたかと思うと、小さな人がふたり掛かりでひとつの銀のスプーンを担いで走っていく。
この世界にはない別の世界の景色は、触れようと手を伸ばしてもすり抜ける。
湯気にあたった時に感じる水分と温かさのような、それでも決して無いものでもない、ほのかな感覚が手の中に残る。
遠いのか近いのか、距離感の掴めない布の瀑布の横には断崖に城があった。
断崖に城が建っているのではなく、断崖自体が城になっている。
白く輝く美しい城には青々と蔦が絡まり、様々な花が咲き乱れ、赤や黄の葉がはらはらと落ち、雪と花びらが舞いもしている。
高く聳える塔の先端は雲の遥か上。
陽の当たる部分には鳥が群れを成して飛び、反対の影の部分は夜の闇を纏って月明かりに輝く。
ひどく遠くに見えていたのに、数歩進んだだけで城の全景が視界に入りきらない程近くに来ていた。




