はしりだす。
※この12話には流血シーンがあります※
戦闘、及び流血表現をしております。
さらっと抑えめですが、苦手な方はご注意と心の準備をお願いします。
よろしいでしょうか。
では、どうぞ。
森に入り丸二日は過ぎようかという頃。
地形は変わり、ゆるやかに上り下りを繰り返し、少しずつ高地に上がっていくような体感になった。
周りを囲む木々がひと回りふた回り立派になり、陽の光が充分ではないのか、払って歩くような下草はほとんどない。
代わりに羊歯や苔のような、日陰と水分を好むものが繁茂している。
景色が変わりゆく中、姫様の様子も変わり始めた。
時に立ち止まり、一方向をぼんやりと見ていたり、何かを目で追うように視線を向ける。
その度に歩みは止まり、格段と進む速度は遅くなった。
ユウヤの希望で休憩の回数は増え、時間は長くなる。
体調が悪いのかと問えば、違うと言う。
疲れているんだと小さな背中を抱えてユウヤは言った。
姫様はユウヤの腕の中でうとうとしかけて、ひと時でも眠れば楽になりそうなものを、ふと目を覚まして立ち上がろうとする。
クロノが抱えて運ぼうかと提案しても、それはいやだと姫様は聞き入れなかった。
姫様が歩みを止めるたび、ユウヤは跪いて姫様を見上げている。
どこか遠くを見ている姫様が、しばらくしてユウヤに気が付き目線を合わせ、にっこりと微笑むまで。
何も言わずにユウヤはただ見上げている。
それは一枚の絵のように美しい光景。
胸を掻き毟られるような。
思わぬ闇に気付き、その底を見たくなるような美しい光景。
明らかに様子はおかしいのに、何を問うのも許さないとユウヤは無言で物語る。
今にも姫様の口から、ここまでだから引き返せと、そう言われそうなのに。
そう言われて、それも当然だと納得してしまいそうな自分がいる。
普通に考えれば、そんなことは有り得ない。
こんな森の深い場所に、不慣れな、しかも女性と子どもを置いてひとり引き返すなど。
ユウヤの話が、嘘か本当か、そんな事はどうでもいい。
迎えが来るとか、隣国に行くのというのも関係ない。
ここからふたりとも連れ去って、自分の元で幸せにしてみせるぐらいの覚悟でいたのに、その考えもきれいに無くなっていると気が付いた。
深く濃く、緑のむせるような中にはちみつ色の瞳と髪を持つ小さな女の子。
ひらひらと装飾が付いた真っ白な服は、とても異質なはずなのに、その逆に感じる。
異質なのはこの森の方。
動きやすく旅姿も万全な、武器を帯びた自分達の方。
姫様だけが正しくこの世に有って、それ以外すべてが異質に感じる。
何度目かの休憩の後、数度目に歩みを止めた姫様。
また遠く、ここではないどこかに心を飛ばしている。
しばらく後に、それを黙って見上げているユウヤに気が付いた。
何かを耳打ちすると、姫様はクロノを見てにっこりと微笑んだ。
ああ、と思う。
その時が来たんだと、目を閉じる。
攫って行けなかった。
その力も想いも、充分過ぎるほどあるというのに。
「今から走れば、クロノなら朝出た野営地に戻れるでしょ?」
「……そうだな」
「約束」
「……ああ」
「ここまで、だから。……姫様?」
「クロノ……ここまできてくれて、ありがとう。うれしかった」
「姫様……こちらこそ、楽しかった」
跪くと姫様はクロノの首に腕を回す。
小さな背中を撫でて、頭を抱える。
「きをつけてかえってね、おおかみがいる」
「お元気で、姫様……」
頬をそっと撫でるといつものようにはにかんで、ユウヤの横で恥ずかしそうに服に顔を埋めた。
「ユウヤ……」
「うん……あー……あなたも、元気で」
「……ああ」
「……もう行って?」
「……そ、うか。……では」
背を向けてクロノは歩き出す。
背中にはいつまでも視線を感じる。
振り返らずに行くには勇気がいる。でも振り返るにはさらに勇気と覚悟がいる。
そのまま足は早まって走り出し、完全に陽が暮れる前には今朝発った野営地に戻っていた。
遠くで獣の遠吠えが聞こえている。
クロノはそこで眠れぬまま一夜を過ごした。
朝が訪れて、重たい体を引きずって野営地の近くの小川に向かう。
夕べ遠吠えが聞こえたのは下流の方だったと目をやると、朝の空気が濃いような気がして、何の考えも無しに下流の方へ足を向けた。
少し歩けば森が切れ、そこには道があった。
木こり達が作った真っ直ぐな道とは違い、どちらに目をやっても曲がりくねっている。
少しだけ太い道は土の地面で、ぬかるみを行った足跡が残っている。
「馬と人……犬?ーー」
ーーきをつけてかえってね、おおかみがいるーー
北に向かう道と足跡。
クロノは野営地に戻ると、荷の横に置いてあった長剣を手に取って戻り、足跡を追って走り出した。
「姫様?……姫様、少し……走れますか?」
起き抜けのようにぼんやりと、焦点の合わない目をしている顔を、両手で挟んでこちらに向ける。
「ユウヤ……?」
「姫様は走って、先に……」
「ユウヤも、一緒に……」
「もちろんです。後から追いかけますから、心配しないで行って下さい」
すでに荷は下ろして、手には弓を握っている。
そこに落ちた姫様の視線に気が付いて、ユウヤは努めて優しい声を出し、姫様の背に手を回した。
「大丈夫……すぐに追い付きます。さあ、行って」
姫様の小さな背中をそっと押す。
「ユウヤ?」
「走って下さい」
小さく頷くと、不安そうな顔をしながらも前を向いて姫様は走り出した。
その背中をしばし見送るとユウヤは反対方向に駆けていく。
手の届く枝に飛びついて、腕の力と勢いでその枝の上に登る。
幹の反対側の枝に足をかけもう一歩分高い場所に登った。
身を屈めて息を潜める。
馬の蹄が土を蹴る音、人の気配が近付いてくる。
息を整えて弓を構える。
狙うのは馬上の人物、その後に馬。
握った二本の矢の先の鈍い光に魂を込める。
弦を引き絞ると同時に息を吸って止めた。
間髪置かず続けざまに二射。
持っていた矢は狙い通りどちらも頭部に当たり、どちらもたいして大きな声を上げる間も無く地に伏した気配がする。
が、奇襲は上手くいったとはいえなかった。
後ろを走るもうひとりは木を盾に陰に隠れ、犬が異常事態にけたたましく吠えている。
持っていた矢をすべて放ち、最後が犬に当たって、一度悲鳴を上げた後は静かになった。
甲高い鳥の声のような音が一度、すぐに返事が離れた場所から二度。
仲間を呼んだのかと舌打ちをして、ユウヤは木から降りて姫様の元へ走り出す。
背後から犬の声が追いかけてきている。
もう邪魔にしかならない矢筒と弓を捨てた。
荷のある場所まで戻ると、紐を引き中身を、特に食料をばら撒いてまた走り出す。
しばらくして姫様の背中を見付けると、追い付いてその右手をぎゅっと握った。
「お待たせしました、姫様。行きましょう……」
「……ユウヤ?」
「もう少しだけ頑張って下さい」
ぼんやりした様子で立ちすくんでいた姫様の手を引いて、少し進んだ先、足場の良さそうな場所で姫様を下がらせて相手を待ち構えた。
今朝、身支度を整えている途中に、遠くで人の気配がした。
その時男はひとりだったが、追いかける間も無くその男は姿を消した。
森の中で男と会うと碌なことがない。
ユウヤは乾いた笑いをこぼして、腰の後ろの掛け金を外すと、柄を右手で、鞘の先を左手で握った。
犬は茂みを飛び越えユウヤを見付けると、必要以上に近付かず主人を呼んで鳴く。落ち着きなく動き回っては急き立てるように吠え、黙る様子はなさそうだった。
このまま追われる訳にもいかない。
ここでまとめて振り払うに越したことはない。
程なく現れた男はふたり。
手足のどこかに犬のものらしき毛皮が巻いてある。狼がいる、姫様はこの事を言っていたのか。
今となってはどうでもいいことに、喉の奥でくくと笑う。
「見ろ……本当に女だ、しかもとんでもない別嬪だ」
「たまんねー。……俺が先だ……」
一声で犬を黙らせると、仲間に位置を知らせに、来た道を戻るように犬を放った。
大柄な方の男は、ユウヤを舐め回すように上から下までを見て、笑いながらおいでと両腕を広げる。
顔を合わせて最初のひと言目でその人間の底なんて知れるものだと、ユウヤは心中に闇が差す。
ユウヤをどちらがどのように扱うか、言い合いを始めた男ふたりに、よくもそれだけ低劣で卑陋な会話ができるものだと感心する。
溜息を勢い良く吐き出すと、まともな会話ができるのかと心配しながらも一応質問を投げかけてみる。
「……で? 仲間はあと何人いるの?」
「心配しなくてもあいつらよりもイイ思いさせてやるからよ」
「……見た目通りのバカみたい。数も数えられないなんて」
いくら凄んで声を荒げようが、ユウヤの眉はひとつとして動かない。
動揺するどころか、薄く笑みを浮かべているユウヤに、男は苛立ちを募らせて腰に佩いた剣を抜いた。
この場所に十以上の大所帯でいる理由を思いつかない。何かを奪って糧にしているような連中がこんな場所にいるのは、何かを追っているからか、何かから追われているから。
それなら少人数で動いているはず。
十以下と仮定しても、一度に相手にするは面倒だから、今この場所でふたりを片付けるのが得策だとユウヤは考えた。
握っていた両端を持ち上げて長剣を抜く。
背後でしゃりん、と鈴のような音が鳴る。
雑音は消え、心は鋭く細く研ぎ澄まされる。
左足を引いて半身になり、顔の前で柄を握り直し、切っ先を相手に向ける。
相手からは攻撃範囲の分かりにくい独特の構え。
鞘は別れて回り込んだ、もうひとりの方へ向けた。
「そんな細っこい腕と剣じゃ、俺の指も落とせないぞ?」
脂下がった顔でじりじりと近付いてくる男に、下手な陽動を仕掛けてくるもうひとりに、短く息を漏らす。
「落とす必要はない。穴を空けるだけ、ほんの少しね」
大振りで斬りかかろうと男は二歩 三歩と寄ってくる。ユウヤの勢力範囲内に入った男の胸に、踏み込んで捻りながら右腕を伸ばした。
手応えの無い手応え。
肋骨の隙間をすり抜けて剣先は背中まで到達する。すぐに腕を引き戻し、次に左の鞘の先でもうひとりの鳩尾と喉を突いて、そのまま鞘で押し倒す。
拍動に合わせて細長く血を吹き出させていた男は、勢いが弱まってくるとその場で崩れ落ちた。
そちらには目もくれずユウヤは喉を潰した男のすぐ横に立った。
「ねえ、仲間は何人?」
首を掻き毟って、男は血泡を吹いている。
「ああ、しゃべれないか……」
十人以下で犬を連れて二人組で行動していると仮定すると、さっき逃したひとりと合わせ、残りは五人、多くて七人。
足元の男に刃を突き立てて、鞘に剣を戻す。
「さあ、姫様。もう少し頑張って下さい」
ぼんやり立っている姫様の手を取ると、森の奥へ向けて足を早める。
心ここに在らず、足を縺れさせながら歩く姫様を見下ろす。
すぐそこまで近付いている、もう少しだと先を見据えた。
二重、三重に見える景色に、ユウヤは頭を振って意識を集中する。




