うそをつく。
空をふたつに割く山々の裾にはもうひとつ森がある。
『王の森』
この国の王やその祖先と関わりがあるのでもなければ、建国の逸話があるでもない。
それでもこの地の民からは王の御座す森として畏怖の対象になっていた。
気軽に行けない奥深さ、広さもそうだが、踏み入った瞬間から空気が変わり緊張が走るような感覚に襲われる。
背筋が伸び、不敬は許されない、そんな気持ちが生まれる。
その名の由来を肌身で感じる。
『精霊の森』その奥の『王の森』
御座すのは人の王ではなく、精霊を統べる王。
精霊などこの世界にはいないが、それでも居ると思わせるだけの何かがあり、姿の無い存在を感じてもおかしくない、そう思えるような場所。
人が入らない訳ではない。
当然、生活に必要な恵みはいただいているし、探索や収集も行われているが、まだまだ未踏の場所はある。
「ひだりは大きな水たまり、みぎはおおかみがいる」
森に入ってしばらく。
振り返ってももう森の端が見えなくなった頃、クロノに抱えられた姫様は行く先を指しながら言った。ハイランダーズの地図にも確かにその情報はある。
「……そう、左側は大きな湿地帯だ……姫様はここに来た事が?」
「狼は前の森にもいた?」
質問に答える気はないのか、ユウヤは別の質問をクロノに投げかける。
「ああ、相当いるが、姿を見なかったのか?」
「声も聞かなかった……右に」
確かに湿地帯を抜けるのは体力的にきつい。
不確かな足元や急に深みに嵌る危険、休む場所も無いことを考えれば、右に進路をとる方が無難だと思える。危険なことに変わりはなくても。
すでに足元はぬかるんで、草と地面が一緒になって音を立てている。真っ直ぐにも進めそうにないので、右に大きく迂回するとユウヤは即決した。
「姫様、自分で歩いて下さい」
ユウヤは左手を差し出して、姫様に降りるようにと促した。
「私は別にこのままでも」
「そういう問題じゃない」
姫様はユウヤの手を握り、降りようと体の向きを変える。そっと下ろすと地面の感触を確かめるように何度か足踏みをする。
「ありがと、クロノ……わたしの道だからわたしはあるくの」
姫様はにっこりと笑って歩きだす。
ユウヤの方が手を引かれているようにぐいぐいと進む。
さすがに先頭を姫様に行かせるわけにはいかない。クロノが先頭になって下草を刈り、獣道も無いような場所を踏み分け、時には迂回しながら進む。
後ろからの姫様の指示に従った。
精霊の森とは違い、大きな岩や急な起伏はない。
上がり下がりもほとんどなく、山登りというよりは平地を行く感覚に近かった。
太陽は中天を少し過ぎた。
休憩に丁度良さそうな場所に出て、クロノは振り返る。
「ここで休憩にしよう」
大人が両腕を伸ばしたほどの広さにぽかりと空間が空いていて、地面は慣らされ周囲に大きな石が除けられていた。以前に誰かが居心地良く整えた、人の手が加わった場所に見える。
草が地面を覆っていても休むだけなら差し支えない。
姫様は一番に特等席を見つけて、座り心地の良さそうな石にちょこんと腰かけた。
場所を確保しようと草を折り踏み固めているユウヤ、それをしばらく見つめていた姫様は立ち上がる。
広さを無視した速さでユウヤの腰に体当たりしていった。
急なことに踏ん張りが効かず、倒れそうになる背中を片腕でクロノが支える。
よく分からないうちに狭い場所の真ん中で三人が抱き合うような形になっていた。
「ひ? 姫様?!」
「ユウヤはダメ!」
「え? なに? 何がですか?」
「やくそくしたのに!」
「約束……?」
「わらうんでしょ!」
それは旅に出かける前、ふたりで交わした約束。
嫌なことがあっても、辛くても、怒っても泣いてもいいけど、次の日には笑いましょう。
笑っていれば楽しくなるから。
きっと良いことがあるから。
大泣きをしてもその後は笑おうとしていた。
森に入ってからも、気に掛けて見ると口元は上がっていたし、目が合えばにっこりと笑い返していた。ふたりの約束を、姫様だけが守ろうとしている。
昨日の自分は、今までの態度はどうだっただろう。ユウヤは喉の奥にせり上がる大きな塊を飲み込む。
胸が熱くて、痛い。
「……そうでした。ごめんなさい、姫様」
どうにか頑張って両方の口の端を持ち上げる。
膝をついて姫様を抱きしめた。
「ごめんなさい」
「いいよ」
お互いの頬に口付けする。
額を寄せて笑い合う。
これがふたりの仲直りの儀式。
姫様はちょいちょいとクロノを手招いた。
クロノとも同じ事をさせようとしているのに気が付いて、ユウヤは後ろからばっさり斬られた気分になる。
寄りかけた眉間から力を抜いてなんとか笑顔を保たせた。
クロノがその場に跪く。
まともに顔を見るのは腹が立つ。
あれほど嫌だと態度にも言葉にもしたのに、自分を押し通すクロノを殴り倒してやりたい。
姫様との約束は大事でも、それはこの男と交わしたものではない。
けれど、でも、でもと繰り返す。
姫様の心、それ以外は無い。
そう思えば後ろからばっさりも気にならない。
笑顔を忘れずに、そう腹を括ってしっかりと呼吸した。
「クロノ……態度が悪かった……ごめんなさい」
ちゃんと目を見て謝るものだと言ってきた。
それを守らない訳にもいかないので、かろうじて最後のところで目を合わせる。
「……いや、私は……」
「いいよっていうの!」
姫様は仕様がない子を見るような顔で、ぺちぺちとクロノの頬を叩いている。
「……いいよ」
ユウヤがクロノの頬に先に口付けをし、クロノもそれを返した。口角だけは気合で上げていた。
薄っすら顔を赤くしているクロノに一瞬で殺意が芽生えたが、それもきれいに押し隠した。
姫様はふたりの頭を押してごちっと合わせる。
それで気が済んだらしく、満足気な顔で特等席に戻ってちょこんと座りなおした。
痛む額を押さえて、そのまま座り込むとユウヤはため息を吐いた。
先に立ち上がったクロノを見上げて、差し出された手に視線を移す。
疲れた。
本当に。
意地を張るのも怒り続けるのも、姫様に気を遣わせるだけでそれは本意ではない。
私の心はどうでもいい、姫様さえ笑っていてくれれば。
そのためのひとつと思って、クロノの手を取って立ち上がる。
午後からも草木を分けて進んでいると、やがて獣道に毛が生えたような、人の踏み通った道に行き当たった。ハイランダーズの道に似ているが、この道をクロノは知らない。
細いながらもほぼ真っ直ぐに木々の合間を縫って続いている。
下草も落ち葉も枯れ枝もほとんどない、久しぶりに見る土の地面に所々木の根が顔をのぞかせている。こんな頼りない道でも、快適さと安心感は充分に得られた。
姫様はここを通ると手を引き、そしてその道はしばらく進んだところで終わっていた。
突き当たりは広場。
丸太を横にして加工した腰掛けが円状に置かれ、中央には火が使えるように石で組まれた囲いがあった。周囲の木がまばらに切り倒された痕跡がある。
草の伸び具合や、休憩のためのこの場所の寂れた様子から、もう使われていないのが窺い知れる。
ひと所で木を倒し過ぎないように、木こり達は転々と場所を変え、この森でいくつもこんな場所を作っていた。
三人はそのうちのひとつにたどり着いた。
移動できる時間にもそろそろ限りが見えていた。
誰からともなく自然とここが本日の野営地だと準備を始める。
姫様は辺りを見回して、水はあっちと指をさす。
知っている事を不思議に思いながらもクロノはその方向を疑う気持ちが湧かなかった。
「探して来よう」
荷を下ろして用意を始めたクロノに、ユウヤが手を出して入れ物を催促する。
「私が探したほうが早い……クロノは火をおこして」
「……分かった、頼む」
余計なことは言うなと顔に貼り付けたユウヤが、鍋を抱えて姫様の指した方向に歩いて行った。
姫様は、ぱきっと折れる茶色いの、と呪文を唱えながら枯れ枝を探している。
少しずつ集まっていた枯れ枝の供給が止まってしばらく。
どうしたのかと様子を見ると、姫様はご機嫌な顔で別のことに精を出していた。
両手で抱えられるだけの枝や木の葉を集めて、一か所に積んでいる。
何をしているのかと観察しているうちにクロノは思い出す。
そういえば初めて会った野営地にも、同じように大きな鳥の巣のようなものがあった。
出来栄えがいまいちなのか、困った顔の姫様。
誰があれを作ったのか、謎が解けたクロノは顔を綻ばせる。立ち上がるとクロノもひと抱えほど枯葉を集めて鳥の巣の作りに参加した。
姫様は声を上げて笑いながら、何度も寝心地を試す。
水を汲んで戻ったユウヤは静かに微笑んでそれを眺めていた。
陽は落ち、食事を終えて万全の構えで夜を迎えた。
ゆっくり進む時間にいよいよ姫様は眠そうにしている。
せっかく作った鳥の巣で眠るのかと思えば、ユウヤの膝に枕を乗せて頭を置いた。
すぐに体が丸まってくる。
昔から決められた当然の事のように、姫様が泣き出す夜半まではユウヤが火の番をし、その後は交代でクロノが起き上がる。
泣き止んで寝入った姫様を抱えたまま、ゆっくりとユウヤは地面に敷いた毛布の上に腰を下ろす。
代わりにクロノが立ち上がり、被っていた布を手にしてユウヤの横に腰を下ろした。
「今夜は冷えるからこれを……」
姫様を覆うようにかけた布を、ユウヤは手で押さえる。
「……ありがとう」
「少し話をしても?」
「なに?」
「詮索はしない約束だが、どこで何をするのか、話せる範囲でいい、教えてくれないか」
ユウヤは中央の火を見るでもなく見ている。
瞳の中の明かりはそのままユウヤの心を移して揺れている。
時間をかけてユウヤはぽつりぽつりと話し始めた。
話を終えたユウヤの手を取って、その甲に口付けをし、話してくれた礼を言って目元にも口付けをした。
ひと言お休みと言って抱えた姫様を腹の上に乗せたまま、ユウヤは寝転んで目を閉じる。
クロノは今聞いた話を反芻しながら、心のように揺れる火に、音を立てないように枝を投げ入れる。