2.新天地は博物館
いくら異動に不満があるとしても、初日の遅刻は社会人として論外である。
ミツルはいつもと変わらぬ時間に起き、常のように一人の朝食を取り、クリーニングから届いたシャツを着てネクタイを締める。
「行ってくる」
『行ってらっしゃいませ』
エージェントに見送られて部屋を出たのも、普段通りの時刻だった。
ミツルがここに住んでもう半年になる。彼がこの街で特に気に入った点が、どこだろうとエージェントがいることだ。ここに越してくる以前、彼は社員研修でエージェントのいない生活を生まれて初めて体験した。そして鍵をかけ忘れ、空き巣に思い出の腕時計を盗られた。
その一件から、彼は腕時計をしていない。時間が知りたいなら着用端末で、鍵をかけるのはエージェントが、それが現代の暮らし。だからこのイスルギという街は、ミツルにとっては安心できる世界だった。
単身用の職員寮から、アーケード街を抜けて地下鉄の駅へ。危うく元の職場に向かいかけ、彼は慌てて反対側のホームへ走る。走りながら気分はどんどん沈んでいく。反対側とは、つまりイスルギ外縁方向であり、元の職場は中核方向だ。もう立地の時点からして島流し感に溢れていた。
滑り込んできた地下鉄に乗り込めば、壁面のプラスチックいっぱいに広告が広がる。うるさくも静かでもない絶妙な音量で、明るい男声ナレーションが流れていた。
『イスルギ・グループは今年で創立三十周年。暮らしを支える確かなネットワークを、今日もあなたと作っていきたい。皆様のイスルギ・グループです』
車窓代わりに並んだ広告面が、つり革を握ったミツルの前だけ常夏の島の景色にすり替わった。
『仕事で朝からお疲れの、とにかく癒されたい貴方に送る東南アジアバカンス特集です。イスルギ・ツアーズではお客さまに100パーセント安心いただけるよう、イスルギ民警とタイアップした警備員付きツアーを紹介しております』
彼の視線と表情から、エージェントが気を利かせたのだろう。だが、今は余計なお世話だ。ミツルが手で払えば広告は消え、代わりにプラスチックはミラー表示へ。
――これはこれで……ありがたくないな。
無言で頭を抱えるミツル。彼はルックスにあまり自信を持っていない。元がインドア派で体格は貧相だし、税金を取られるほど太ってはないが、生まれつきの丸アゴがどうにも気になる。印象たるや人畜無害を通り越し、人がよさそうだと言われることもしばしば。内面が伴っていないのだから、それを喜べるはずもない。
これ以上自信を失う前にと、ミツルは着用端末を操作して、車内の〈広告エージェント〉の調査対象から自分を外した。鏡面にはお詫びの文が流れ、今度は化粧品の宣伝が始まる。
〈エージェント〉
それは特定の実体を持たない知能ロボットの総称だ。かつては人工知能と呼ばれていたもので、今やインフラにすら組み込まれている。ロボットと聞くと手足のついた人型機械を想像するかもしれない。だがエージェントに手足の制限はない。あらゆる機器が彼らの手足であり、その頭脳はネットワークにクラウドウェアの形で存在する。
代理人という呼称は、彼らの機能をよく表している。彼らは人に代わって様々な、そして煩雑な仕事をこなす。人に合わせて広告を変えるなどは、ほんの一例に過ぎない。
『ご乗車ありがとうございます。まもなく交通博物館前です』
ミツルが下を向いている間に、リニア車両は駅に静かに滑り込んでいった。
***
「広ッ」
新天地を前に、ミツルの言葉は簡潔だった。
イスルギの海ぎわに広がる、防風壁を遠くに望む敷地。飛行場の格納庫めいた建物が二つあり、それ以外に空を狭めるものはない。公園として整備されており、野外展示の乗り物がいくつも見えた。一番手前は定番中の定番である蒸気機関車。その奥には軽飛行機だったり路線バスだったりが並ぶが、いずれも彼が生まれるずっと以前に作られたものばかり。
「イスルギ民警ってこんな施設を持ってたんだな」
会社の知らない一面に驚きはしたが、さりとて観光に来たわけでもない。これから嫌でも見ることになる展示物はさておいて、彼は格納庫然とした博物館本体へと向かう。
そして裏手の通用口をくぐったミツルは、表より数段凄まじい光景に思わぬ歓声を上げた。
「すっ、げぇ……」
レンガ敷きに鉄骨むき出しのレトロ調で統一された館内は、見わたす限りクラシックカーに占領されていた。何かしらの燃料を使うものばかり、三十台はあるだろうか。エンジン爺さんに見せられた写真そのままに、全てが大窓からの朝日を浴びて輝いていた。
「あっちはマツダRX‐8だろ。ホンダMSXに、そっちのはまさかフォードGT40か? 交通ってほとんどレースとかスピード関係じゃないか」
ミツルはしばし足を止め、端から端までを眺め渡す。と、一角に白い車を見つけて眉をひそめた。
レクサス・LFA。色から何から二週間前の車と瓜二つ。
――初日から縁起が悪い。
そう考え、目を背けようとした彼は、しかし車の横に立つ人影に気づいて首を止める。鮮やかな空色の制服を着た女性が二人。ワンピースの裾は短く、そこから覗くストッキングは白。
彼が何気なく近寄っても、その二人はレクサスを見たまま気づくそぶりすら見せなかった。片方は長髪をポニーテールに結び、もう片方は肩までのミドルボブに揃えている。ミツルから見れば、二人ともまだ少女と言っていい。
――でも、制服を着ているなら職員だろう。
ミツルはちょっとためらってから、思い切って二人に声をかける。
「やあ、おはよう」
いま初めてミツルに気づいた。そんなふうに少女たちが彼をふり返る。
「おはようございます」「おはようございますぅ」
彼女たちの挨拶は屈託のないものだが、印象は一人ずつまるで違う。ポニーテールの少女はどこか取っつきにくく、ミドルボブの方は逆に馴れ馴れしい。
「えっと、ここの職員?」
「はい」「そうですぅ」
ミツルを不信がることもなく、ただ平然と答える少女たち。彼は言葉に詰まってしまう。何を話してよいのか、誰ですかぐらい聞いてもらえると助かるのだが、二人とも妙に落ちついていて会話が繋がらない。
「……君たち、車が好きなの?」
軽く二秒ほど考えて口にした言葉に、しかしミツル自身が首を傾げる。
――俺は何を聞いた? これじゃあからさまに不審者……というかナンパか、とにかく気の利かないことナマコのごとしだ。実物を見たことはないが。
しかし帰ってきた答えは、彼に輪をかけて不思議なものであった。
「判断はつきかねます」
「独特なものですよねぇ」
「…………はい?」
好きかと問われて「判断できない」と「独特だ」と答える。微妙に会話が噛み合ってない。
――いや、このやり取りどこかで……いつだったか似たような会話を……
引っかかる記憶を探ろうとしたミツルを、明るいチャイムが邪魔する。慌てて着用端末を見ると、いつの間にか時刻は始業十分前。制服へ着替える時間を考えれば、今すぐオフィスへ駆け込まないと間に合わない計算だ。
「ごめん、ここのオフィスはどこ?」
「あそこです。そちらのエレベータを使ってください」
ポニーテールの娘が指差す先に、職員用のエレベータとおぼしき無機質なドア。視線を上げると、レンガ壁の天井近くに磨りガラスの窓が覗く。それがオフィスなのだろう。
「サンキュー、ありがとな」
「いえ、どういたしまして」「またお会いしましょう大幸さん」
少女たちに構う余裕もなく、彼はエレベータに大あわてで飛び込んだ。彼は一息つき、そこでまた引っかかりを感じる。
――あの二人に名前教えたっけ? ネームカード……はまだ付けてないし、それに自慢じゃないが俺の名字は誤読率高いし。「大幸さん」って聞こえた気が……
そんな彼を乗せてエレベーターは四階へ。
そしてドアが開いた途端、ぱん、ぼぱぱん! と突然の破裂音が響く。
思わず身をすくめるミツルの前で、色とりどりのテープが解け落ち、ひらひらとカラフルな紙片が舞う。その向こうでは空色の制服を着た女性職員が三名、手首の着用端末をこちらに向け、レンズで彼を狙って声を揃える。
「「「ようこそ広報三課へ!」」」
彼女たちはあっけにとられたミツルをエレベーターから引っぱり出すと、互いの着用端末をのぞき込んでは表情をばらけさせた。
「げ、こっち顔隠れてるし、そっち撮れたユカリ?」
「バッチリよミヤビ! 我が人生有数のショットね!」
「新人はビビリ……カワラバンより」
エレベータの右脇から隠れていた男性職員が、ミツルと同年代の軽そうな男がその輪に加わる。
「マジッスか? ちょっとそりゃヤベえッスねヒロさん。あと自分イワオなんで」
やぶからぼうに、目を丸くしたミツルの肩を誰かが後ろから掴む。そして彼が驚く隙もなく、手の主は太く張りのある声で笑った。
「ようこそ広報三課へ。いやぁサプライズって奴だよ、サプラーイズ」
遠慮のない態度で肩をバンバン叩く中年男性。彼の手に握られた小さなメガホンのようなものを見て、ようやくミツルは何が鳴ったかを知る。
「クラッカー……俺を脅かしたんですか!?」
「そうそう、これが課の伝統、初出勤のサプライズだよ。写真は出て行くときに額に入れて渡すからね」
「出て……行くとき?」
「うん。うちの課は入れ替わり激しいからね。なにか記録を作っておくとほら、あとで思い出話のネタになるからさ。どうせなら変顔のアルバムにしようって、みんなで決めたんだよね」
背が低いわりに全てが豪快なその男は、クラッカーをゴミ箱に放り込んで憎めない笑顔をミツルに向ける。その胸に下がったネームカードを、ミツルは気付いた瞬間きれいに二度見した。
「じゅうきゅうがわ課長……課長!?」
「十九川、十九川譲治だ。僕が広報三課の課長だよ、よろしくね大幸充くん。いやいやそれにしてもラッキーそうな名前してるねキミ」
「あ、いや大幸です。珍しい読みですけど」
ミツルの訂正に、トクガワはたちまち丸い目を輝かせる。
「君も難読名字か!? これは嬉しいねえ、カワラバンもそう思わない?」
「いや課長、自分カワラバンじゃないッスからね? 難読でも無いッスからね?」
じゃれ合う課長と男性職員。離れて騒ぐ女性職員たち。
ミツルは彼らに何を言っていいのかわからず、いやそもそも、今がどういう状況なのかも理解できないまま、あっけにとられるばかりであった。