1.肩ポンと理由
西暦二〇六二年四月二十二日、昼前。
室長のデスク、その天面を覆うマホガニープリントのプラスチックに、ミツルの目は釘付けになっていた。より正確に言えば、室長の正面に表示された一枚の書類に。今日の日付で発行され、三日後に効力を発揮するその書類は、いわゆるところの辞令というものである。
「いやあ、向こうさんが是非とも君を欲しいって、そういうことだからさ」
室長――交通二課、第四機動管制室長は、ダークブラウンの制服のポケットからハンカチを取りだし、オフィスが暑いわけでもないのに汗をぬぐってみせた。
いや、もちろんミツルにもわかっていた。四十がらみの頭髪が寂しい、面倒見がよく部下思いの管理職が、何をそんなに緊張しているのかぐらいは。
「これも部署間の人事交流の一環ってことでね、大幸君」
人間は何かを取り繕うときほど多弁になるという。延々と喋り通してノドもカラカラの室長を見れば、どんなに鈍い人間だって気づくだろう。
「つまり俺は……さ」
「待ってくれ! それ以上は何も言うな! ここの会話は記録に残るんだ頼むよお願いだ」
やにわに立ち上がってミツルの肩をポンと叩いた室長は、哀れなほどに現代の中間管理職であった。パワハラが社会問題になったのはもう四十年も昔の話。今やオフィスに監視カメラは当たり前、下手な発言があれば即コンプライアンス会議行きである。正直、今のやり取りすら危ないのだ。
「すまん。だが君にとっても悪い話じゃないんだ。頼むからその言葉は使ってくれるな」
「室長、すんません」
ミツルも彼をこれ以上困らせたいとは思わない。辞令も室長が発行させたものではないし、例え原因が何であっても、どうひいき目に見ても左遷であろうとも、彼に非難されるべき点や追及されるべき部分はない。
――単に運が悪かっただけさ。それもお互いに。
「君は四月二十六日を以て配置変更になる。部署は……広報部、広報三課だ」
改めて部署名を聞き、ミツルは肩に掛かる手の重さにうめいた。今の職場とは課どころか部の単位で違うとは。
「受け取ってくれるね?」
「…………お世話になりました」
辞令の捺印欄に人差し指を置き、指紋と認証チップが読み込まれた時点で手続きは完了した。ミツルこと大幸充が、自分の意思で古巣を離れたという形で。
安堵の息をこぼす管理職に背を向け、彼は自分の不幸を呪った。
***
同日夜。ミツルは友人と酒を酌み交わす。
場所は行きつけの居酒屋チェーン。の、職場から離れた店。今さら職場の同僚たちと顔を合わせる気など無かった。
「で、ミッチが何をやらかしたって?」
短髪を明るい茶に染めた友人は、ミツルを差し置いて半ば出来上がっている。
――俺のグチに付き合ってくれるんじゃなかったか?
ミツルは人選ミスを激しく悔やみつつ、首に手を回してくる悪友にボソッとつぶやく。
「認可切れのガソリン車をちょっと突っついた。……それだけだ」
「ばーか、ミッチお前それだけで飛ばされるわけないし。おら隠すな、正直に話しやがれ」
「…………相手が事故った。同乗者つきで」
「んー? ちょい待ち、事故っていうとアレか、代議士と秘書が街灯にぶつかった一件?」
「なんだよ知ってるのかよ」
「そりゃこの街で事故なんて珍しいし。なんだ、追っかけてた職員ってミッチだったのか。そりゃまぁ、ツイてないねえ」
「まったくだよ」
ミツルはため息を殺してグラスを取る。
ステア不足のカンパリオレンジは飲めば飲むほど苦くなる。ミツルの心も同じだ。悔やんで怒っても、二週間前の一件が苦く、思い返すほどに度合いを増して彼を苛つかせた。
彼が所属していた機動管制室は、自動運転システムの監視と、違反者の取り締まりが主な業務である。二〇二〇年代に自動車の自動運転が完全実用化され、三〇年代に交通管制ネットワークとの連係が普及。それに伴い自動車事故や速度違反は激減した。今や自動車は平面を動くエレベーターと同じだ。ハンドルがオプション装備になってもう二十年は経つ。
それでも無くならないのが「走る喜び」と交通違反だ。古き良き手動のガソリン車を持ち出してくる道楽者は、このイスルギにだって掃いて捨てるほどいるし、自動管制システムが彼らの面倒を見きれるわけでもない。
ミツルの日常とは、大半がそういうマニアとのお付き合いだった。インシデントを起こした車両に追いついて路肩に寄せさせる。違反切符を切ってドライバーにお説教。それで一件落着だ。相手だって慣れたもの、彼が「エンジン爺さん」と呼ぶ常習犯の老人など、捕まえられるたびに注意そっちのけでクラシックカーのうんちくを語るのだから。
ところが二週間前、彼は日常を逸脱してしまった。
十二年製の白いレクサス・LFAが軽いインシデントを引き起こしたとき、彼のパトカーはすぐ後方にいた。直ちに追跡を開始し、ほどなく相手を停車させる。だが切符を切ろうとドアを開けた瞬間、レクサスは前ぶれもなく急発進した。後でわかったことだが、対象車両は数日前に走行認可を切らしていたのだ。摘発を恐れての悪あがきだったのだろうが、顛末はあっけない。管制が敷いた一般車による進路封鎖を避けようとして街路灯に激突。晴れて事故は注意案件ではなく、事故案件に昇格した。
これがミツルにとって苦い記憶となった理由。それは乗っていたのが若手代議士と美人秘書であったことでも、半世紀越しの名車が一台廃車になったとことでもなく、発進防止措置を怠たるというミスを犯したからだ。あまりにも些細なその一点を以て、事故後のコンプライアンス公聴会は相手の急発進を棚上げし、彼一人の責任だけを追及した。相手が有力者の息子だったのが運の尽きだ。
なんのことはない。彼は詰め腹を切らされたのだった。
「だいだい、逃げ切れないのを承知で急発進とか当てつけ以外あるかよ。腹いせに決まってる。ガキのカンシャクで、なんで俺だけ責任取る必要があるんだ?」
「まあ〈イスルギ民警〉の辛いところさ。オレも外回りで苦情もらったことあるし。相手が悪いと責任の行き先なんて一方的。ミッチはよくやったさ」
「その結果が左遷だ。いまどきどんな暗黒企業だよ」
「首飛ばなかっただけマシだって。それにほら、悪いことばかりじゃないよ。広報三課っていうと…………なんだっけ、思い浮かばねえぞ」
――本気で人選を間違えたな。
ミツルは友人にサーバの氷をぶちまけてやりたい欲求をこらえ、移動先の詳細を、手首の着用端末から机の上に展開する。
「広報三課。広報部の下部組織で略号は〈PRM〉だ。イベントの企画運営とか、交通博物館の管理とかやってるところ――らしいな」
「ふぅん」
机に表示された詳細を見て、なおも友人の目は据わったまま。だが、それも仕方のない話だ。ミツルだってそんな部署があること自体、こうして詳細を取るまで綺麗さっぱり忘れていた。目立つところが一つもないとくれば、イスルギ民警ぶっちぎりの日陰部署と断言してもいい。
「〈こっち〉に来てまだ半年だけど…………俺、〈内地〉に転属願い出そうかな」
「もったいねえよ。イスルギの夏は過ごしやすいよ? エルだかラーだかの異常気象で、列島丸ごと電子レンジの内地に戻るよりこっちの方が百倍マシ。騙されたと思って夏まで残ろうよ」
「ついでに日陰部署だから、今年の夏はさぞ涼しいだろうな」
「うまい、ミッチそれ最高ぉ――…………くぅ」
友人はケタケタと笑ってひっくり返り、そのまま畳の上でダイレクト就寝を決める。ミツルはとうとう抑えきれなくなり、呆れと諦めのため息を吐いた。
「おい勘弁してくれよ。お前を送ってくなんて御免だぞ。おい、起きろって」
しなやかな身体を大の字に伸ばした友人には、もう彼の抗議は届かない。あらぬ噂を立てられる事を恐れ、ミツルはテーブルを叩いて勘定を呼ぶと、現れた〈店員〉にタクシーを頼む。
「台数は二台でよろしいでしょうか?」
「有人タクシー一台で頼む。……ああそれと、これを作ったのは誰?」
デザインに大漁旗をあしらった半被姿で、店員はミツルの手にあるグラスを数秒眺める。と、愛くるしい顔に気遣わしげな表情を作った。青い髪をかき上げる仕草は色っぽくすらある。
「私です。なにか問題がありましたか?」
「ステアの回数をあと十回上げると、もっと客に喜ばれると思うよ」
「ご意見ありがとうございます。参考にさせていただきますね」
途端に、無表情にも似た明るい笑顔に戻り、店員はミツルにくるりと背を向ける。その短すぎる半被の下からふんどし一丁の尻がもろに見えても、ミツルも店員も特に気には留めない。
厨房へ戻りざまに、彼女は別の酔客から罵声を浴びせられた。
「この酒ぁ冷えすぎだ馬鹿!」
「ではお取り替えいたします。どの程度の温度にいたしましょうか?」
「自分で考えろや!」
ミツルは怒鳴る酔客の背中に据わった目を向け、半ば反射的に考える。
――そんな曖昧な指示でどうする。何を望んでいるのか不明瞭、おそらく自分自身もわかってない。要求は明確かつ簡潔が基本――
急に酔いが覚めるのを感じ、彼は自分自身をに冷めた笑いを送った。就職するときにスッパリ諦めたはずなのに、こんな日ばかりは学生時代が無性に懐かしい。
だが、彼はまだ知らない。自分が再び『諦めたはずの世界』に戻るという、そう遠くない未来の出来事を。