B5 帰れない夜
午後からも現地語の教科書を作った。
出来は「一人歩きの指差し会話集」みたいな感じになったが、ここにラプラーさんが知っている言語を書き足していってくれれば日本人以外の『迷い人』がやってきても使えそうだ。
「日本語以外はラプラーさんがフォローしてください」
「アメリカ人が来たら英語、フィリピン人が来たらタガログ語を、といった具合で書き足してもらえばいいんですね」
「・・・いえ、そういった言語しか分からない人のための教科書ですからラプラーさんが書き足してください」
「ワタシはそういった言語の文字は書けません」
「会話ができるのに文字は教えてもらわなかったんですか?」
「はい」
「・・・」
そういえばこれだけ日本語が堪能なのに俺が作ったチェックポイント集も読めないと言っていた。
ん?もしかして・・・
「こちらの世界の文字も書けないのですか?」
「はい、それが何か?」
「いえいえ、失礼しました」
確かに俺が作っている教科書もこちらの世界の文字はチェンマーさんが書いていた。
長く生きているんだから文字くらい覚えればいいのに。
ラプラーさんはもしかしたらディスレクシアなのかな? 異言語の習得は得意そうだけど全て聞いて覚えたのか。
今日も2個目の太陽が稜線に差し掛かったのは18時33分だった。
3日連続で同じ時間、だ。
俺の腕時計は太陽電池で動く電波時計だが標準電波を受信しなくったって水晶振動子が働いているから月に±15秒以内の誤差しかない。
この世界には季節がない? 1年間はどうやって区切っているんだろう?
いろいろな疑問は夕食のときに聞くことにしよう。それよりも大事なことがある。
「すいません、私のキャンピングトレーラーの給水と排水、それと洗濯をお願いしたいのですが・・・」
「もうこんな時間なのでボンは夕食作りがあるので、明日にしませんか?」
明日だと今晩シャワーが浴びられない。仕方がない、無理を言おう。
「今、給排水をお願いしたいんです。夕食作りなら私がします」
「ゴーシさんが夕食を!? ・・・わかりました」
暗くなってきたが何とかなるだろう。LEDランタンも持ってきているし、ラプラーさんの魔石で光るランタンもある。
キャンピングトレーラーに戻るとアンに夕食を出した。まだドッグフードには余裕がある。なくなったら肉と小麦、野菜で手作りフードだな。
下着の着替えも残り少ないので洗濯してもらわないと困るのだが、この世界に洗濯石鹸はあるのだろうか?
とりあえずランドリーバッグに汚れ物を入れて「木造平屋の分校」に戻った。
「洗濯物はこれだけです」
「もう暗いので洗濯は明日の朝にしますが、いいですよね?」
「えぇ、構いません」
「ではお水を補給しましょう」
ラプラーさんは鞄を持って、ボンさんは甕を抱えて俺のキャンピングトレーラーについてきた。俺は予備を含めほとんど空になった給水タンクを並べた。
「ここの給水口から水を入れてください」
「わかりました」
ラプラーさんは鞄の中から魔石と折りたたまれた紙を取り出した。地図のような紙をボンさんの持ってきた甕の底に広げた。紙に何かが書いてあるのだが暗くてよく判らないので玄関灯を点けた。
「これは何ですか?」
「水が出る魔方陣です」
「はぁ?」
ラプラーさんが魔石を甕の底に置いた。しばらくすると甕に水が溜まってきた。
「・・・不思議ですね」
「川から引いているお水もあるのですが、ゴーシさんはお腹が弱いということなので魔方陣でお水を作っています。このお水なら大丈夫だと思います」
水がいっぱいになるとボンさんが給水タンクの給水口まで甕を持ち上げて注いでくれる。水を満たした甕はボンさんには重そうだ。自分で使う水なので手伝ってあげた。俺は身体も大きいし、何と言っても超体力があるので力も強い。
給水タンクが満たされると排水だ。排水タンクとカセット式トイレの汚水タンクをキャンピングトレーラーから取り外した。
「汚水は何処に流せば良いですか?」
「家の裏に汚水槽があるので、そちらに流してください」
江戸時代相当の文化レベルというだけあって、川から引いた水道と汚水を流す汚水槽が別れているようだ。衛生環境にはある程度、気を使っているのだな。
ボンさんにトイレの汚水カセットを持ってもらい、俺は80リットル近くある排水タンクとLEDランタンを持って「木造平屋の分校」の裏まで歩いた。
木桶を地面に埋め込んだような汚水槽は家畜小屋の隣にあった。家畜の排泄物も汚水槽に流しているのだろう。汚水槽という名の「肥溜め」だな。
木でできた簡易な蓋を開け汚水を流した。本当はあまり見たくはなかったがLEDランタンが明るくて、奥にある排水口も見えた。家の中からの排水はここに流されてくるのだろう。屋外に風呂やトイレがない分だけ一応「文化的な構造をした家」なのだな。
「それ、明るいですね」
ラプラーさんはLEDランタンに興味津々だった。
「乾電池を入れて電気を半導体に流して灯しているのです」
「乾電池と半導体は判らないですが、電気は判ります」
「電気があるのですか?」
「雷を起こす魔法があります、ワタシは使えませんが・・・」
なるほど。魔法で雷と言うことは「電撃魔法」だな。
電撃魔法を使える人がいたら電流と電圧の調整ができないか聞いてみよう。上手くすればキャンピングトレーラーのバッテリーが充電できる。今はソーラーパネルだけで充電しているので、今晩は電圧不足で電気温水器が使えない。だから今日は水シャワーだ。
トイレの汚水カセットを近くにあった水場の水を使って簡単に濯いでからキャンピングトレーラーに戻った。
ギャレーの棚から塩、胡椒、ナツメグ、赤いパンダの絵が描かれた旨み調味料を、冷蔵庫から醤油、鰹出汁、コンソメ、マヨネーズ等々、料理に使う調味料や固形スープの素をクーラーボックスに詰め込んだ。
手に入りそうもないから使わないでは傷んでいくだけなので、ありったけ使ってしまおう。ラプラーさんやチェンマーさんに味をみてもらえばこの世界にある同じ、もしくは似たような調味料を教えてもらえる。
「この荷車の中はこうなっているんですか・・・」
ラプラーさんとボンさんはちゃっかりキャンピングトレーラーに上がり込んでいた。
ダイネットはベッドにしたままなのでちょっと恥ずかしい。
「トイレ兼シャワールームに簡単な食事が作れるギャレーもあります」
「ゴーシさんは元の世界でもここで暮らしていたんですか?」
「いえいえ、これは出先で使うんです。私の家は別にあります」
「移動式の別荘・・・ですか」
「まぁ、そんな感じです」
この世界ではキャンピングトレーラーなんて概念がないのだろう。ましてや異世界からこんな設備を牽いた自動車がやってくることもなかったと思う。
「それではお宅のキッチンに案内してください」
「あぁ・・・、わかりました」
ラプラーさんはキャンピングトレーラーに興味津々だ。きっと俺が持ってきた異世界の道具全般に興味があるのだろう。
「木造平屋の分校」に戻るとボンさんに案内されてキッチンへ向かった。通訳のためラプラーさんも一緒だ。ふだんは料理をボンさんに任せているので滅多にキッチンには入らないのだろうな。
「こちらが調理場になります」
キッチンにはシンクがわりに使っているであろう石造りの水場に竈、調理台がある。
母親の実家が昔、こんな台所だった。今で言うならキャンプ場の水場が家の中にある感じだ。冷蔵庫は見当たらない。
「お水はこの甕の水を使ってください。食材は此方にあるものを使ってください」
パントリーらしき小部屋を開けて案内してくれた。げげ!鹿や兎がそのまま吊されている!
「あれは・・・」
「タームが山で獲ってきたものです。此方はライ麦で其方は小麦、野菜はこの棚に・・・」
「はぁ」
「この部屋の床には魔方陣が敷かれていますから、食材が腐りにくくなっています。そんなに傷んではいないので安心してください」
「はぁ」
魔方陣で保存されているこのパントリーはある意味「冷蔵庫」なのだ。この世界では魔石=電源と考えればいいのかもしれない。
・・・というか、獲物は捌いて肉だけにしておいてほしかった。あ、また鹿と目が合った!
「肉は血抜きしてありますからそのまま使えますが、あの・・・その・・・毎日、獲れる訳ではないので少しずつ使ってください・・・」
「わかりました」
「パンを焼くときには小麦粉を使っても構いませんが、ライ麦も混ぜてもらえると助かります」
「わかりました」
「今日はゴーシさんとワタシ、チェンマーの分だけ作ってもらえればいいですから」
「え、ボンさん、ムオイちゃん、タームの分は?」
「ボンたちの夕食は自分で作ります。タームは今は出かけていて、この家にいません」
「・・・自分で作るって、何か訳があるのですか?」
「ボンたちはこの家の使用人ですから」
「はぁ?」
昔々の使用人は、主人と同じものを食べさせてもらえなかったと聞いたことがあるが別々の料理を作るなんて非効率じゃないのか?
「今晩は私がこの世界で初めての夕食を作りますから、みんな一緒に食べませんか?」
「え!?」
「私のいた国では主人も使用人もいませんでしたし、人に上も下もなかったんです。みんな平等で『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』だったので・・・」
一万円札の肖像に描かれている偉人の書物の冒頭文を引用してみた。
ボンさんとムオイちゃんは「人」ではないのかもしれないけど、今晩だけは「人」として接してあげよう。
「しかし・・・」
「今晩だけはいいじゃないですか。『彼も人なり、我も人なり』ですよ」
「・・・わかりました。でもゴーシさんもこの世界の習慣に早く慣れてください」
「あぁ、慣れたらそうします。何てったってまだ来たばかりですから」
「・・・そうですね」
ラプラーさんは渋々ながら了解してくれた。
この世界では人種差別があるのだろう。俺の世界でもついこの前までアパルトヘイトやカーストがあったし、日本でも部落差別が残っているところもあるらしいし。
「さてと・・・」
今からパンを焼くのも大変だし、うどんを捏ねてもいいがしばらく寝かせないと小麦粉から出たグルテンが切れてしまう。
オーブンがあるからピッツァでも作ろう。ベーキングパウダーやイースト菌は手持ちがないから卵白を泡立てて代用するか。
甕の水を柄杓で掬って手を洗い、小麦粉を捏ねた。ボンさんに卵白を泡立ててもらい、塩と俺が持ってきたグラニュー糖を加え、ピッツァ生地を作った。
放り投げて広げるのは難しいので、手のひらで丸く広げた。鹿の肉をナイフで削いでピッツァ生地にばら撒く。トマトと茄子があったので刻んでばら撒いた。山羊の乳で作ったと思われるチーズもあったので使った。ボンさんたちは犬っぽいので念のためネギ類は使わないでおこう。こいつを2~3枚焼けばいいかな?
ピッツァだけじゃ少し寂しいからスープも作ろうか。
「竃に鍋を掛けてください」
「はい」
竃には魔方陣が敷かれていて、薪や炭じゃなくて魔方陣から炎を出して鍋を温めている。
卵黄があまっているので持参した中華スープの素を使ってたまごスープを作った。
レンガ作りのオーブンも魔方陣が敷かれていた。火加減は魔石を置く位置で調整する。
出来上がったピッツァとたまごスープをワゴンに乗せて昼間、教科書を作っていた部屋に運んだ。
ボンさんとムオイちゃんは部屋の隅に立ったままで、ちょっと緊張しているようだ。
お皿やナイフ、フォークなどをテーブルに並べ、スープをボウルに注いだ。
俺がピッツァを切り分けてあげた。塩も胡椒も十分に使ったから昼食よりも美味しいはずだ。
「ボンさんもムオイちゃんも座ってよ」
ボンさんはチラッとラプラーさんを見た。ラプラーさんは小さく頷いた。それを確認してから席に座った。
「では、いただきまーすっ!」
食事前に手を合わせて一礼するのは小さい頃からの習慣だ。
「日本から来た方はみなさん、食事前にそう言いますね」
「調理してくれた人、配膳してくれた人に感謝し、肉や野菜等にも命があり、その命を自分の命にさせていただくという食材への感謝の意を口にしているのです」
「・・・そうなのですか」
「小さい頃からの習慣になっているので気にしないでください」
適当に食材を乗せた「オレ流ピッツァ」だったが、美味しかった。たまごスープも美味しかった。ついでにデザートも作っておけばよかったと少し後悔した。




