第9話 願い
「亡くなった・・・んですか?」
思わず強ばってしまった玉城の声に、男は小さく頷いた。
「ニュースで何度も流れたよ。最初は、自分の目と耳を疑ったがね。間違いなくあの子だった。一緒に住んでた父親に殺されたんだ。母親の再婚相手って奴さ。言うことを聞かず反抗するんで、躾のつもりでベランダに出してたんだと。氷点下の夜に、下着一枚で。何時間もだ。・・・信じられるか? 俺はさ、自分が外道だと思ってたけど、あんな素直そうな子供にさ、どうやったらそんなこと出来るんだって。・・・なんかもう、信じらんなくてよ」
玉城は喉を震わせて当時の感情を再燃させる男の言葉を、体を緊張させてじっと聞いていた。
ピンと張った冷気が振動し、その男の悲しみが、怒りが、余すことなく波動のように伝わって来る。
胸が苦しくて堪らなかった。
「俺はさ、あの子に言っちまったんだよ。3日以内に犬を迎えに来ないと、保健所に放り込んで殺しちまうぞって。あの子は、どんな気持ちで居たんだろうと思ってさ。
自分も凍えてる時に、犬にも〈ごめんね〉って、謝ってたんじゃないかと思うと・・・。俺はさ・・・」
男の声はどんどんか細くなり、ついに聞こえなくなった。
辺りには風の音も鳥の声も無く、ただ耳の痛くなる静寂に満たされていた。
胸が張り裂けそうな悲しみ、後悔、自分への憤り。
けれど玉城には分かる。
それはこの男がとてつもなく優しい魂の持ち主だという証拠なのだ。
「でも、あなたはその犬を大事に可愛がってあげたんでしょ? 19年間も、大事に育てた。最高のその子への供養ですよ。男の子はちゃんと分かってます。きっとあなたに、とても感謝しています」
玉城の言葉に、男は泣き濡れた顔をゆっくり上げた。
「そんなことが、あんたに分かるのか?」
「ええ、分かるんですよ、それが。俺ね、ちゃんと分かるんです。そういう力があるんです」
半分嘘で、半分本当だった。
男の子の霊を見ることは出来なかったが、26年間、人として生きてきて、この男がもうこれ以上苦しむべきではないということを、玉城は確信していた。
『玉ちゃんらしい嘘だね』とリクなら言いそうだ。
『そんなの、霊感関係ないじゃん』と、長谷川は呆れるだろう。
「そうか? あんた、本当にそう思うか?」
男はすがるように玉城を見た。
「もちろんです。俺、亡くなった人の声とか、聞けちゃうから。男の子の魂はちゃんと安心して天上に帰りましたよ。犬を大事にしてくれて有難うって、あなたに感謝してます」
「そっか。・・・そっか」
男は俯いたまま、何度もそう呟いた。
そして、再び小箱から取りだした細いマッチを、また同じようにシュッと擦る。
激しい白い光を放ち、初めて炎の花が咲いた。
いや、咲いたように見えた。
けれど、それはただの白昼の幻であり、2人の間に積まれた枯れ枝を燃やすことも、2人を温めることもなく、一瞬の閃光を放っただけで消えてしまった。
男と共に。
玉城はただ静かに正面を向き、男が座っていた木の幹の下を、ぼんやり見つめていた。
男が何本も何本も落としたはずのマッチの残骸が、一本も無いことに気付いたのは、ほんの少し前だ。
男こそが、悲しい魂の具現化された幻だった。
優しい人間の、優しいが故の、後悔の残像だった。
優しい魂は、幸せであって欲しい。
どうしても悲しみを抱え込んでしまう清らかな魂こそ、最後は穏やかな眠りのうちに、天上へ還って行って欲しい。
幼くして消えてしまった少年も。さっきの男も。
視線をふっと空に向けると、白く眩しい冬の空から再び粉雪が舞い落ちてきて、玉城の頬を濡らした。
今まで忘れていた寒さが、その途端ぶり返し、玉城を震え上がらせた。
「・・・さぶっ!」
勢いよく立ち上がり、そしてブルッと頭を振った。
大事な事を忘れていた。
自分は、相変わらず、山を抜けられずに遭難し掛かってる可哀想な迷子なのだ。
状況はまるで好転していない。
玉城はぐるりと360度あたりを見回した。
さて、どちらへ行けばいいのか。来た道か。反対側か、両脇の小径か。
さっきまで穏やかに自分を包んでくれていた森が、急にまた意地悪く、玉城を取り囲んでニヤニヤ笑いを始めた気がした。
「何だよ何だよ何だよ! 俺なんか食ったって美味くないぞ。いい加減出してくれよ。俺はもう寒いのダメなんだよ。ほんと、ダメなの! この上、雪なんか降ったら死んじゃうって。マジ頼むよーーー」
情けない声を出してぼやいた後、ついでにダメ元でもう一度リクの名を叫んだ。
「リクーーーーー!」
パキリと左方向で小枝の折れる音がした。
白いものが蠢く。 犬だ。
玉城の目が今度こそはっきりと白い犬を捕らえた。
どうやらさっきの男の犬の霊では無かったらしい。
「おい、犬!」
最後の命綱だという思いで玉城はその犬をじっと見据えた。
犬も四肢を踏ん張り、玉城をじっと見つめて来る。
ピンと尖った三角の耳、しっかりと巻いたしっぽ、つやつやとした毛並み、太い手足。いい犬だ。
白犬は、しばらくその姿勢のまま玉城を見つめ、そしてふっと向きを変えて右側の獣道を歩き始めた。
「ついて来い」
そんな声が、聞こえた気がした。