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第6話 道草


「感じますか?」

青年はなぜか少し不安そうに波子に訊いた。

その表情はさっきまでの謎めいた印象からはかけ離れて幼く見え、波子は笑ってしまった。

そしてハッキリ首を横に振る。

「私には何も見えないし、なにも感じない。でも、あなたの言ってることはちっとも妙じゃないし、ちゃんと分かる。私ね、大事な人を山小屋に置いて来たのよ」

波子が言うと、青年は小さく頷いた。


「さよならして、また私は私の日常に戻ろうとしてたんだけど、やっぱりもう、そんな気力、残ってないのよね。一歩一歩あの人から遠ざかるたびに、不安で寂しくて・・・。でも、ここにいるのね。あの人。ありがとうって言ってくれたのよね?」

今度はすがるようにその薄い色の目を見つめると、青年は優しげに微笑んでくれた。

「2年間、楽しかったって」

「楽しかったって言ってるの? だって、楽しい話なんか、少しもしなかったのに。ただ黙って傍にいただけなのに。おかしな人」

笑ったはずなのに、涙が出た。

あれ? と声に出して指先で拭うと、もうそれは止まらなくなり、同時に笑い声に似た嗚咽が喉元から溢れ出した。

両手で顔を覆い、ほんの少しの間、涙が流れるに任せた。

青年がそっと視線を湖に反らしてくれた気配がする。

木炭が紙の上を滑る柔らかな音が、溢れ出してしまった感情を撫で、和らげてくれた気がした。

落ち着くまで、待つよ。そう言っている。


「もう、逃げるのやめた」

波子は独り言のように言い、手に持ったバッグをじっと見つめた。

「ちゃんとあの人を弔って、警察に行く。全部綺麗にして、ちゃんと自由になる」

「そう」

青年が、木炭を持った左手を下ろして振り向いた。

「それがいいです」

いったい、何をどこまで理解しているのか分からなかったが、強く頷いてくれたのが、やけに嬉しかった。

波子は「急がなきゃ」と、まるで買い物を急ぐ主婦のようにバッグを肩に担ぎ上げた。

すぐさま「あ」と、振り返って青年を見る。

大事なことを聞き忘れるところだった。一番大事なことだ。


「彼、しばらく、傍に居てくれるかしら」

青年はこくんと頷き、「ずっと傍にいるそうです」と言ってくれた。


波子は青年に軽く手を振り、来た道を戻った。

不思議と下山する道は、はっきりと分かった。

きっと2年前、男に出会った時から用意されていた道なのだ。

長い道草だった。けれど、大切な大切な道草だったと波子は思う。


「ちゃんとついて来てね。これからもずっと、一緒だよ」

声に出してそう言うと、白く凍った息の先で、男が不器用に笑ってくれたような気がした。



            ◇



女が立ち去ってしまったその後も、相変わらずその犬は湖の手前で行儀良く座り、リクを見つめていた。

気を抜くと、辺りの冷気に溶けて消えてしまいそうになるが、気にかけて目を凝らすと、艶やかな白い毛を光らせてじっとこちらを見つめて来る。

「お前は、さっきの男の人の犬じゃなかったんだね。いったいどこから来た?」


リクがそう問いかけても犬は微動だにしない。

「描いて欲しい?」

そう訊くと、今度は興味なさそうに横を向く。愛想は余り良くない犬だ。

リクはほんの少し笑った。


重い色の空は、やがてまた思い出したようにふわふわと粉雪を振り落としはじめた。

もうあまり時間がない。

さっきの女の人は、雪に遭わずに降りれるといいけど。

リクはほんの束の間言葉を交わした女性のことをチラリと思い出したあと、再び紙面に木炭を走らせた。



             ◇


「ほらお姉ちゃん、特賞だよ。やっぱお姉ちゃん、すげえや。5、4、3、2、ときて、まさかの特賞だよ。こんなことってあるのかねえ。俺なんかもう、痺れまくりだよ」

商店会長の鉢巻きおやじはかなり興奮気味に、いつまでもハンドベルを降り続けた。

足を止めた買い物客が、物珍しそうに眺めていく。

金物屋の婆さんが鐘の音に半狂乱で乗り込んで来たりはしないのか。

長谷川はあからさまに困ったと言う顔も出来ず、「恐縮です」と、取り敢えず礼を言った。


けれどやはり青ざめる。

特賞はチケットらしいので荷物にはならないが、目の前に並んだ電気ポット、ペアティーカップ、2色組ブランケット、りんご5個詰め合わせの重量感はものすごい。

いったいどこの新婚家庭の買い物だろうというラインナップだ。

満足そうに笑う鉢巻き親父の手前、要りませんとも言えなくなった。

ギャラリーもそんなことを許さないだろう。

調和だ。調和はどんな局面においても必要だ。

長谷川はそれらすべてを両手に提げると、取り敢えず笑顔で一礼してその場を立ち去ろうとした。

「あ、お姉ちゃん」

まだ何かあるのか。


「はい」

「2泊3日の草津の旅。彼氏とゆっくり楽しんでおいでよ」

そう言ってウインクをよこした。


ああ、そうか。特賞は草津温泉高級旅館2泊3日、ペア宿泊券だったか。

長谷川はカバンに落とし込んだ特賞の封筒をチラリと覗き込んだ後、「そうですね」と笑い返し、今度こそ振り向くことなく、駅へ向かった。

あんなに目をキラキラさせて喜んでくれた会長の気持ちはとても有り難かったが、多分自分はこのチケットを使うことは無いだろう。申し訳なさがこみ上げてくる

自分にはのんびり日本の温泉を旅する時間もないし、一緒に行く彼氏とやらもいない。


ああ、いったいこの状況は何なのだろうと長谷川は、改めて考えた。

両手には生活用品一式をぶら下げ、商店会長への申し訳なさばかりを募らせ、そしてあと2時間でシンガポール行きの便に乗らねばならぬ自分。


いったい誰のせいだ。

いや分かっている。あいつだ。全部あいつのせいだ。ミサキ・リク。

思えば出会って2年。自分を苛立たせたのは、ことごとくあいつだった。

今日だって、すんなり携帯に出てくれてさえいれば、こんな面倒なことにならずに済んだのだ。

さて、どうしてくれよう。

いったい、どうしてくれよう。


長谷川は、ようやくエンジンがかかった体を奮い立たせ、全ての荷物をむんずと抱え直すと、駅めがけて足早に歩き始めた。



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