第5話 コンタクト
先ほどの商店街のほうへ戻ってみると、福引き会場の前にはもう、1人も並んでいなかった。
特にやりたいわけでは無かったが、外れのポケットティッシュを2、3個貰うつもりで、長谷川はおなじみのガラガラ抽選箱の前に立った。
「はい、5回分ね。お姉ちゃんがんばって」
気のよさそうな、ねじり鉢巻きの親父が、大きな声で応援してくれた。
商店会の名の入った真っ赤なハッピが妙に鮮やかで、目にしみる。
その隣りに座ったメガネの男が「会長、どうですか?」、と温めたワンカップ酒を勧めていることから、この鉢巻き親父が商店会会長なのに違いない。
それにしても懐かしい。
小さな頃、家の近くの商店街の催しがある度、兄弟たちと一緒にこの福引を引きに行ったものだ。
商品はたいがい日用品で、子供には興味のないものだったが、回すたびに出てくる玉が、ただ楽しかった。
長谷川はちょっと愉快な気持ちになり、小さなつまみを手に取ってジャラリと回した。
コロンと赤い玉が、転がり落ちた。
「おおー」と、捻り鉢巻きは唸る。良い玉なのだろうか。
構わずにそのまま回し続けると、次にコロンと緑の玉。その次は青だ。
その度に鉢巻き男は「おおー」と唸る。
もう一度回してオレンジの玉が出たところで、また「おお・・・」、と言いそうになった鉢巻き男を正面からじっと見据え、長谷川は言った。
「かさばるものは、要らないです」
「えっ。でもお姉ちゃん、今あんた、2等、3等、4等、5等、総尽くしだよ?」
「・・・」
「そこの金物屋の婆さんが、あんまりうるさく鐘を鳴らしてくれるなって言うもんだから2等以下は我慢してたんだけどさ。しかし驚いたね。こんな事もあるもんだねえ、長い人生にゃ」
鉢巻き男が興奮気味に指さした紙を見て、長谷川は気が重くなった。
2等・電気ポット、3等・マイセンペアティーカップ、4等・ブランケット2色組、5等・青森りんご詰め合わせ。
「ハズレのティッシュ1個あればいいんです」
長谷川がそう言うと、いつの間にか後ろに並んでいたおばちゃん達ギャラリーが、静かなブーイングの声を上げ、鉢巻き男は豪快に笑った。
「お姉ちゃん、欲がないなあ。まあ俺はそういう欲のない人間好きだよ。なあ、とにかくあともう1回やってみなよ。ティッシュ取るためにさあ」
長谷川は面倒なことになったと思いながらも、渋々つまみを回した。
何事にも調和は大切だ。それは分かっていた。
再びジャラジャラと音を立てて回った抽選箱は、コロンともう一粒軽快に玉をひとつ吐き出した。
・・・金色だ。
やばいと思った時には遅かった。
耳を覆いたくなるような大音量を響かせて、鉢巻き親父が手に持っていたハンドベルを鳴らした。
「大当たりーーー! なんと1等飛び越して、特賞が出たよーーー!」
ああ・・・。
長谷川は大きな肩を小さくすぼめ、困惑のため息をついた。
◇
「どうして?」
波子はまじまじと、青年の瞳を凝視した。
なぜ自分がスイカズラを好きなことを知っているのかを尋ねようとしたのだが、青年は違うふうに取ったらしい。
「どうしてでしょうね。5月くらいに咲く花の匂いがするなんて」、と言いながらスケッチブックをめくり、新たなラインを書き始めた。
変わった人。
やはり自分は奇妙な空間に迷い込んでしまったのだろうかと、波子は不安になった。
確かに波子は、あの香水の原料にもなると言われるほどの濃厚なスイカズラの匂いが好きだった。
2年前、何かの切っ掛けで男にそう言うと次の春、小屋の前の柵に驚くほどたくさんのスイカズラが一斉に咲いた。
男は冬の間に苗木を見つけ、こっそり柵まで作って育ててくれていたのだった。
一斉に咲き始めたスイカズラの花を前にして、波子は何となく気恥ずかしくなり、「こんなにたくさん咲くと、匂いに酔っちゃうわね」と、それだけ言ってはぐらかしたのを覚えている。
男は少し笑って、「そうか」と言った。
なぜちゃんと素直にありがとうと言わなかったのだろう。
あの花は、その次の年の春にも、ちゃんと咲いて私を楽しませてくれたというのに。
目の奥がジンと痛み、寂しさが込み上げてきた。
青年のスケッチブックに、新たに浮かび上がった美しい湖が、溶けそうに揺れる。
もうその中に、犬はいない。
「ちゃんと言葉に出して言わないと、こんなに後悔するのね。今頃気付いたって遅いんだけど」
今度こそ、何のこと? と、訊いてくるかと思ったが、やはり青年は波子をちょっと振り返り、「そうですね」と言っただけだった。
何も訊いてこない。けれど、ちゃんと自分のことを分かってくれている。
この青年は、あの男にどこか似ていると波子は感じた。
「でももう遅いよね。もう伝えることは出来なくなったし。やっぱり私は後悔していくだけなんだよね。1人でずっと」
「どこへ行くの?」
「え?」
青年は、最初の質問をもう一度繰り返した。空と同じ問い。
「町へ降りる」
「それから?」
「逃げる」
「寂しくはないですか?」
「なんで?」
「あなたはとても、寂しがりやだから」
「・・・なんで? なんでそんなことがあんたに分かるの?」
「僕じゃない。男の人が、心配してるんです」
波子はハッとして辺りを見回した。けれど男がそこに居るはずもない。
体をさっきまでよりも強い冷気が包み込んだだけだった。
「・・・からかってるの?」
声が震えた。青年はゆっくり首を横に振る。
けれど波子にはなんとなく分かっていた。
この青年は、からかってるわけでも、嘘をついているわけでもないのだ。
「寂しくなんかないよ。ずっと1人だったし、慣れてる」
「逃げるのは、辛くない?」
「辛くなんかない。・・・ちゃんと逃げてみせる」
波子は挑むように青年の目をキッと見つめた。
自分の中で凝結して大きな塊になった辛さが、増してくる。
青年の瞳の色は少しばかり人よりも薄く、何か別の次元を見つめているように、時折揺れた。
そして、今度は口元をほんの少し緩め、優しく笑う。
「そう。分かった・・・って。そう言ってる」
「・・・え?」
「気をつけてって。それから・・・」
「何?」
「セーターをありがとうって。こんな嬉しい贈り物は、初めてだって。本当にありがとうって」
吸い込んだ空気がヒクリと喉元で止まり、一瞬呼吸が出来なくなった。
思考が混乱した状態のまま、波子は再び後ろを振り返った。
愛おしい男が、ここにいる。この山に。私のそばに。ちゃんとまだ居てくれる。
堰き止めていたものが溢れ出し、この2年間、無理やり感情を押し殺していた自分を、波子は改めて感じた。