第4話 願うこと
時間を潰すのは、どこでも良かった。
けれど気が付くと長谷川は、中央線に乗っていた。
このまま拝島まで行き、JR線に何となく乗り換えてしまう自分を想像して呆れ果て、長谷川は取り敢えずその途中の駅で下車した。無意識とは怖い。
JR線の最果ての、そのまた先にリクの家があるのだ。
リクの留守宅へ行って、どうするつもりだったのか。自分自身が馬鹿らしかった。
理由もなく、下車する人々の流れに沿って降りてみた駅の北口を出ると、昔ながらの賑やかな商店街が遙か向こうまで続いていた。
ここなら時間も潰しやすい。
時計を見ると、本社ビルを出てから小一時間が経過していた。
もしかしたらそろそろあいつは、携帯の電源を入れただろうか、と淡い期待をかけながらリクにコールしてみた。
やはり出ない。
玉城にも掛けたが、同じく留守電に切り替わるばかりだった。
残り時間はあと3時間半。なんとも中途半端な持ち時間だ。
長谷川は嘆息すると、ふらりと商店街のドラッグストアに入っていった。どうしてもというわけでもなかったが、買い物でもしていないと間が持たない。
シンガポールでは手に入りにくい消耗品や医薬品をカゴに放り込み、レジに並ぶ。
「今ちょうど、商店街の福引抽選会をやってるんです。お客様は5回分、チャンスがありますよ。抽選会場は商店街の東の端にあるので、ぜひ寄ってらしてください」
レジの女の子がそう言って抽選券を5枚、手渡してくれた。
少しばかり邪魔くさいと思ったが、時間はたっぷりある。長谷川は案内された方向へ、のんびりと歩いていった。
とにかく時間を潰さねばならない。それが今の課題だ。
しかしながらその福引き会場にはすでに10数人の列が出来ており、なかなか進まないようだ。
先頭を見ると、商店会の男たちと馴染み客の老人が、親しげに話をしている。
列を成している客たちは、といえば、特に急かせもせずに従順におっとりと並んでいる。
いかにも長閑で微笑ましいが、そこに混ざって並んで待つ気にもなれず、長谷川はその横を通り過ぎて少々寂しげな道をあてもなく進んだ。
不意に商業ビルが途切れ、その一角に目をやると、天然石のアプローチの先に、小振りだが歴史を感じさせる鳥居が姿を現した。
その向こう側にはお馴染みの狛犬と灯篭。
そして神社のお手本のように右近の橘と左近の桜が、行儀よくきちんと左右に植えられて、参拝客を待ちわびている。
奥の方には小さなお社があり、その横に、これまたこぢんまりとした社務所があった。
あまり信心深くはないほうだったが、これといって行く当てもなかった長谷川は、ふらりと鳥居をくぐり、奥のお社の前に立った。
賽銭を投げ入れ、大きな音を響かせて柏手を打つ。
あの馬鹿が携帯を充電しますように。
あの馬鹿が携帯の電源を入れますように。
あの馬鹿が、今日は大人しく、家にいますように。
社務所横の色褪せた立札には、この神社の由緒が長々と流麗な筆文字で書いてあったが、読むのも面倒でスルーした。
所在なくふらりと歩いていると、販売所の小さな木枠の窓から、これまた小さな顔を覗かせていた巫女と目が合ってしまった。長谷川は何となく財布を取りだして、御守りを2つ買った。
可愛らしい絵が刺繍された、朱色の御守りだ。
長谷川は巫女に「ありがとね」と言うと、その御守りをコートのポケットに突っ込み、大きな右手で柔らかく握った。
あの馬鹿が心も体も、無事でいますように。
手の怪我が、少しでも良くなっていますように。
あの馬鹿が、もう何者にも、惑わされませんように。
ついでに玉城も、そこそこ元気でいますように。
◇
「びっくりしちゃった。こんな所に、こんな綺麗な湖があるなんて知らなかったな」
青年の横までゆっくり歩きながら波子は言った。
自分の指名手配犯としての知名度は如何ほどのものか知らなかったが、この青年は少なくとも心配はいらないと直感で思った。
自分を見ているその目には、犯罪者を見るような、そんな色は伺えない。
「そんなに古くない自然湖だと思いますよ。昨年偶然見つけたんです。名前もまだないかもしれない」
青年は澄んだ綺麗な声でそう言い、再び手を布で拭った。
本当に綺麗な顔立ちをしている。
そう思うのは2年間、あの男の無骨な顔しか見て来なかったせいだろうか。
そんなことをふと思い、泣きたいような、笑いたいような気持ちになった。
慌てて視線を、イーゼルに乗ったままのスケッチブックに移した。
「わあ・・・」
思わず声が漏れた。
四角い紙面に、目の前の湖がそっくりそのまま映し込まれていた。
「きれい。黒一色なのに、こんなにも素敵な絵になるのね」
「下絵のつもりだったんですが・・・。それはそれで残しておこうかと思って、描き込んでたんです」
「あれ?」
波子はぐっとスケッチブックに顔を近づけた。
途端にフワリとなんとも切なく懐かしい、花の匂いが鼻孔をくすぐった。
「これ、犬?」
濃厚な匂いにクラリとしながら波子が絵の一点を指さすと、青年は笑った。
「ああ、ほんの少し前にその辺に座ってたんですよ。下絵だし、遊び心でちょっと描き込んでみました。本当は鹿が見たかったんですが」
「あなたの犬じゃないの? 私もさっき見たのよ。こんな感じの犬。追いかけたら、ここに来たの」
「へえ。同じ山犬かも知れませんね」
「何色だった?」
「白っぽかったです」
波子は改めてその絵の中の犬を見つめた。
そう言えば、私と出会う少し前まで、あの男は犬を飼っていたと言っていた。
小屋の横に盛り土がしてあり、大きな石が乗せられていた。
17歳まで生きたんだと言いながら、時々水を石に掛けてやっていたのを見たことがある。
犬になど興味がなかったので、男の話も適当に聞いていたように思う。
どんな種類だったのかも知らない。
あの犬の墓の周りには頑丈な柵が作ってあって、フワフワと年中つる草が茂っていた。
さっき小屋を出てくる時にも、この寒さの中、緑の葉を揺らしていた。
最後くらい、犬の墓に手を合わせてやれば良かった。
男が唯一大事にしていたものなのに。
再びふわりと花の匂いがした。
ああ、そうだ。これはそのつる草の花の匂いだ。
「なぜ花の匂いがするのかしら」
唐突だとは思ったが、波子はそう口に出して訊いていた。
どうしても不思議だったのだ。あの花は確か、春にしか咲かないのに。
「花の匂いがしますか?」
青年は少しも訝らずに、優しげに返してくれた。
今波子が何に動揺しているのか、すべて知っているような落ち着いた声だった。
「この匂い・・・」
「ええ。スイカズラです。あなたの大好きな花ですよね」
波子は小さく口を開けたまま、呆けたように青年を見た。
「なぜ、・・・そんなことを?」