第1話 ある冬の日
車のドアを強めに閉めた後、玉城はキンとした寒さに身を震わせた。
自分の吐いた息の白さに少しばかり驚きながら、目の前のログハウス調の家を見上げる。
やはりここは少し標高が高いのだろう。街よりもかなり冷える。
この冬は暖冬だろうかと思っていたが、1月も半ばを過ぎたあたりから、急に寒波が訪れた。
関係があるとは思えなかったが、それに合わせるようにフリーライターである玉城のスケジュール帳も、寒々しい空欄が目立ってきた。
さすがに、今度こそ干されるのではないかと、少しばかり焦る。
『もうフリーなんかじゃなく、ちゃんとどこかの出版社の専属になりなさいよ』と、大東和出版シンガポール支社の長谷川から電話で言われたことがあったが、その度に、
「長谷川さんが東京本社に戻って『グリッド』の編集長に返り咲くまで清い体でいるんです」と、突っぱねた。
長谷川は苦笑しながら、『よし、そん時はもらってやるよ』と返してくれたが、〈長谷川さん、あんたが貰い受けるのは、俺じゃなくてリクですよ〉と、喉元まで出かかった言葉を呑み込むのにいつも苦労する。
長谷川が美術誌グリッドを率いていたあの頃に戻りたいという、子供じみた感傷は無かったが、確かにあれは苦く、甘く、忘れられぬ日々だったと、今も玉城は思う。
お陰で自分はミサキ・リクという、風変わりだが面白い人物と出会うことが出来た。
そんなことを思いながら、目の前に佇むリクの家を見つめた。
スッポリと時間が空くと、なぜかここに来てしうまう自分が未だに不思議だった。
温かく迎えられたことはないのに、なぜかほっとできる場所なのだ。
もしかしたら、玉城にとってのパワースポットなのかもしれない、と、冗談抜きで思ってしまう。
彼は自分と同じ26歳でありながら、隠居のように里山に近い寂しい住宅地の外れに籠もり、1人気ままに絵を描く、現代芸術家の新星だ。
そして、玉城が今まで出会った人間の中で、一番の変わり者だといっていいだろう。
ドアホンを押し、勝手知ったる我が家のようにログハウス調のシンプルな家に入ると、家主は出かける用意をしていた。
相変わらず、男の自分でも見惚れるほどの涼やかな視線をこちらに向け、「ああ、玉ちゃん」とだけ反応する。
土産のワインやチーズをテーブルに置きながら行き先を尋ねると、「スケッチ」と言う。
「この先の山の中腹で昨年、小さな自然湖を見つけたんだ。あんまり綺麗で見とれてたら偶然に鹿も現れてさ。ちょうど今くらいの時期だったから、また出会えるんじゃないかと思って」
「こんな寒い日にか? 雪なんか降ったら遭難するぞ? 鹿ならほら、動物園にたくさん居る」
「湖が描きたいんだ」
玉城の冗談を軽く流し、リクはせっせと大きな布袋にスケッチブックや画材を左手で詰め込んでいる。
1年前に負傷したリクの右手は、結局握力が戻ってこず、今も物をうまく掴むことができないらしい。
自分のせいでもあるその右手を貫く大きな傷跡を見るたび、玉城は胸が痛んだ。
この友人の精神だけは、一度失いかけたものの、何とか取り戻せた。
けれどその傷跡と、この青年の厄介な能力は、消えることなく残ってしまったのだ。
「連れて行ってやろうか?」
ポロリとそんな言葉を呟くとリクは手を止め、パッと笑顔になって振り返った。
「玉ちゃんが?」
「今日は車で来てるし」
8年落ちの軽だが、2カ月前にやっと購入した。
デート用には見劣りするが、幸か不幸か、相変わらず玉城に彼女はいなかった。
「助かるよ。山道の入り口まででいいから。あとは自分で行ける」
「遠慮すんなって。車道があるところまで送ってやるよ」
そう言ってやると、リクは子供のように嬉しそうな笑顔になった。
ほんの1年前までは野生の獣のように人を警戒し、心の内側を見せなかった人物とは少しも思えない。
こんなふうに、他人の行為に素直に甘えるようになったリクを、シンガポールの長谷川が見たら何と言うだろうかと想像すると、玉城は少しばかり楽しくなった。
しかしながら、2人が家を出て車に乗り込む頃には、本当にチラチラ小雪が舞い降り始めた。
雲行きも妖しい。
「雪だね」
白い息を弾ませながら、リクがどこか嬉しそうに言った。
「雪だな。・・・ところで、やっぱり行くか?」
「もちろん」
リクはニコリと微笑んだ。約束でしょ? とばかりに。
天使との口約束は、悪魔との契約よりも実は厄介なものなのかもしれない。
玉城は少々不安を飲み込みながら、車のエンジンをかけた。
◇
「まだ昼過ぎか。意外に早く終わったな」
長谷川は大東和出版、東京本社の会議室を出たところで時計を見た。
1年ぶりの日本、そして本社だったが、あと半日でまたとんぼ返りの身としては、なんの感慨もない。
発足して1年のシンガポール支社の現況報告のためだけに、日帰りで日本に帰るように言われた長谷川は、「日帰りって何ですか。遠足ですか」と支社長に食ってかかったが、無駄な抵抗だった。
たぶん報告会議は夕方までかかり、夜の便にギリギリ間に合うかどうかの出国になるだろうと踏んで、玉城にもリクにも帰国のことは言わずに置いた。
けれどたいした質疑応答もなく、あっけなく会議は終わってしまった。
これならば自分でなくても、たとえば部下の多恵ちゃんを会議に送り込んでも良かったのだ。
笑顔で「いってらっしゃーい。お土産は東京ばな奈でいいです」と長谷川を見送った、多恵の笑顔を思い出して、長谷川は嘆息する。
この件はシンガポールに帰ってから支社長に噛みつくとして、問題は取り敢えず4時間以上もフリーの時間が出来てしまったことだ。
「さて、どうするかな」
長谷川は少し逡巡した後、先ずは何となく気にかかっていたリクの携帯に電話を掛けてみた。
もう半年も声を聞いていないが、奴は少しは人間らしくなっただろうか。
今までのデータから、繋がる確率は僅か10パーセント。リクは電話が嫌いなのだ。
3回、4回、5回。コールは案の定、電源が入ってない云々のメッセージに変わった。
「だろうね。いつものことだ」
長谷川は誰に言うでもなく呟くと、今度は玉城に掛けてみた。
しかし、こちらも繋がらない。仕事中なのだろうか。
さて、どうしたものか。
4階のグリッド編集室でも覗いてみようかとエレベーターに乗り込んでは見たが、新編集長を迎えてやっと軌道に乗り始めた所に行くのもどうかと思い直し、そのまま1階のエントランスに降りた。
足りないと思っていた時間を逆に持て余してしまい、長谷川は大きな肩を少しばかりすくめ、本社ビルをあとにした。
小一時間ほど駅前で時間を潰し、そのあともう一度だけリクに電話を掛けてみよう。
それで出なかったら、そのまま羽田に直行だ。
ラウンジで時間を潰せばいい。東京ばな奈でも探そう。
長谷川は「うん」とひとり頷き、寒さを増した空の下を、駅に向かって歩き出した。