Snake Hunt
空間全体にその巨体が見た目からは想像もつかないような速度で地を這いずり回る音が満ちる。空間の所々に投げられた小石から発せられる光が黒に近い緑色の鱗がびっしりと生えた身体を映し出す。この空間の主であり今やこの山の生態系の頂点に立つ大蛇の魔獣が生んだいくつもの卵が乱立する暗闇の空間の中を、黄色い二つの瞳が光を発しながら複雑な軌跡を描く。
彼女は今、全ての器官を総動員してある三つの命の存在を捉えていた。それは自らがけしかけた様々な魔獣の猛攻を振り切り、こうして自分の巣まで辿り着いた三つの矮小な存在。それらがこの山に脚を踏み入れた瞬間からそれらを敵だと認識していた。理由は分からないしそもそも考えたことすらないが、それでも漠然と敵だと認識していた。だが、今はもう違う。今やその三つの命を敵と認識するには充分過ぎる程の理由がある。自らの巣にまで辿り着き自分の子供達の命を危険に晒そうとしているという事実は、彼女の母性本能に劫火を灯していた。
故に、彼女は自身の肉体と牙をもっていしてその三つの命に襲い掛かる。例え何者の力をもってしても犯すことの出来ない本能に命じられるがままに。
「上だ、来るぞ!」
ヴィショップが真上を見上げてそう叫んだ時には、既にレズノフはその場から走り出していた。
ヴィショップの視線の先では大蛇の魔獣が首を擡げて大口を空け、今まさに眼下の獲物を一飲みにしようとしているところだった。
一瞬の躊躇もなく大蛇の魔獣が頭を眼下に向けて突っ込ませる。魔獣の頭が地面に接触すると同時に土煙が立ち込める。土煙の向こうではゆっくりと頭を持ち上げていく大蛇の魔獣のシルエット、そして瞳が放つ黄色い光を見て取るころが出来た。
ヴィショップは両手の魔弓の矛先を土煙の方へと向けて立て続けに引き金を弾く。轟音と共に真紅の魔力弾が、土煙の中で光る魔獣の眼球目掛けて撃ち出される。しかしヴィショップが引き金を弾くや否や、魔獣の頭は今までゆっくりと頭を持ち上げていたのが嘘のような素早さで動き初めてしまう。
「チッ!」
魔力弾は大蛇の魔獣に瞳を捉えることなくその身体を追おう深緑の鱗へ命中する。命中した魔力弾はその身の巨大さに似合った分厚さと堅牢さを誇る鱗の前を貫けずに、弾けるような音を立てて霧散した。
「米国人! ロシア人はどうした!?」
暗闇の中へと消えていく大蛇の魔獣の姿を追いながらヴィショップが舌打ちを打っていると、少し離れたところからヤハドの声が飛んでくる。
声を上げたヤハドは矢筒から新たな矢を取り出して弓に番えていた。どうやら彼も大蛇の魔獣目掛けて攻撃を敢行し、そして失敗していたようだった。
ヴィショップは今しがた大蛇の魔獣が頭を突っ込ませた地点に視線を向ける。大蛇が突っ込んだ際に上がった土煙は大分収まっており、そこは再び元の暗闇の姿を取り戻そうとしていた。ヴィショップはその暗闇の中から、自分が魔法で光を灯してやったレズノフの長剣が発している光を求めて視線を巡らす。
「おい、無事か!」
その光は数秒と経たずに見つけることが出来た。ヴィショップは魔獣が這いずり回る音に負けないように声を上げてレズノフの安否を確かめようとする。
「ッ、ヒャハハハ! あのマーマ、完ッ全にトサカにきてやがるぜ! 蛇にトサカなんて無ェがよ! ヒャハハハハハッ!」
間を置かずして真っ当な返事の代わりに楽しげなレズノフの馬鹿笑いが返ってきた。一歩間違えれば獣の雄叫びにすら聞こえかねない、そんな笑い声を聞きながら、ヴィショップは肩を竦めてヤハドの方に視線を向ける。ヴィショップは視線を向けた先ではヤハドが「ついて行けん」とでも言いたげな表情を浮かべて軽く手を振っていた。
そんなヤハドの素振りを見たヴィショップの顔に苦笑が浮かぶ。しかしそれもつかの間の話で、自分の斜め後ろで何やら巨大な物体が蠢く気配を感じ取った時には、苦笑は顔かれ消え去り身体は真横に向けて投げ出されていた。
「米国…!」
ヤハドが呼ぶ声がしたが、それは直後に上がった地響きで掻き消された。もっとも地響きが無かったところで、ほぼ同タイミングでヴィショップの身体を襲った衝撃のせいでまともに聞き取ることは出来なかったが。
ヴィショップの身体が地面を二転三転と転がっていく。それが終って仰向けに倒れ込んだヴィショップは、上体を起こして自分が数秒前まで立っていた場所に視線を向けた。そこにはいくつもの瘤が生えたような歪な形をした大蛇の魔獣の尻尾があった。先程の衝撃はヴィショップを狙ってこれを地面に打ち付けた際の余波と見て間違いないだろう。
その光景を見たヴィショップの左手が魔弓を手放して外套の懐へと伸びる。そして懐に一枚だけ残っていた札のような紙切れを取り出すと、起こしていた上体を勢いよく地面へと倒れ込ませつつ地面に叩き付けた。
紙切れが叩き付けられた刹那、一枚の岩石の壁が紙切れから現れる。真直ぐ真上へと向かってせり出した岩石の壁は、上方からヴィショップ目掛けて迫っていた大蛇の魔獣の下顎を強かに打ち上げた。
大きく開かれていた大蛇の魔獣の口が無理矢理に閉じられる。予想もしない反撃を受けた大蛇の魔獣はアッパーカットよろしく下顎を打ち上げられた体勢のまま、僅かにその動きを止めた。
岩石の壁に打ち上げられる大蛇の魔獣の頭、衝撃で飛び散っていく血液混じりの唾液、そして薄明りの中で動く黄色い目玉。それら全てがヤハドにはスローモーションのように緩慢とした動作で映っていた。
全てがゆるやかに動く世界の中でヤハドは弓を引き絞り呼吸を止めた。薄ら寒さすら感じる洞窟の中にも関わらず、額から流れ落ちヤハドの顔に一つの道を描いて垂れていく汗。矢を掴み白く染まっている指先。弦を引き絞ることで怒張し血管が浮かび上がった浅黒い肌に覆われた筋肉。ヤハドが呼吸を止めた瞬間、それらもまたそのままの状態で動きを止めた。矢を構え大蛇の魔獣の眼球を射抜かんとするこの時のヤハドの姿は、まるで英雄を象った彫刻を彷彿とさせる振る舞いであった。
しかしそれはほんの一瞬のことだった。瞬き一つ終えた次の瞬間には矢を構える英雄の彫像の姿は消え去り、ヤハドの指の戒めから解かれた矢が薄暗闇を切り裂いて大蛇の魔獣の眼球へと猛進する。
放たれたヤハドの矢は果たして、大蛇の魔獣の右目を捉えていた。鉄製の矢じりは魔獣の眼球の中心、縦に細長い瞳孔のど真ん中に突き刺さる。
矢が受けた大蛇の魔獣が弾かれたように頭を振り上げ、痛みにのたうち回る。そしてそのすぐ下で慌てて立ち上がろうとしているヴィショップには目にもくれずに再び光の届かない暗闇の中へと逃げ込んでいった。ヤハドは新たに矢筒から一本矢を取り出しつつ、大蛇の魔獣が卵の群れの間を泳ぐように抜けながら逃げるのを静かに見送った。
「イイ腕だったぜ。これなら中東のウィリアム・テルを名乗れるな」
大蛇の魔獣の姿が完全に暗闇の中に消えた辺りでヴィショップが軽口を叩きながらヤハドに近づいてくる。ヤハドは近づいてきたヴィショップを一瞥すると、ゆっくりと構えていた弓を下ろした。
「今更ウィリアム・テルになったところで、小銃に撃ち殺されるのがオチだ」
「褒めてんだよ、素直に受け取っとけ」
ヤハドの返事に苦笑を浮かべつつヴィショップは手汗で湿った右手でヤハドの肩を軽く叩く。そして大蛇の魔獣が姿を消した方角へと視線を向けた。
「これで片目を潰したな」
「あぁ。だが、蛇の片目を潰したところで大して自体は好転しない。ここが奴の巣である以上、逃げ出すということもないだろう。むしろ怒らせただけじゃないのか?」
耳を澄ませて大蛇の魔獣が這いずり回る音に注意しつつヤハドは答えた。ヴィショップは鼻を鳴らすと微笑を浮かべてヤハドに向かって口を動かす。
「俺が生き残ったぞ」
「やっぱり大して好転してないな。それより、ロシア人は何をしてるんだ?」
「レズノフか? さっきまではそこら辺に居たと思うんだが…」
ヤハドはヴィショップの軽口に応じると、姿が見えないレズノフの行方を訊ねる。それで思い出したようにヴィショップが周囲に視線を向けると、丁度自分達の方に向けて駆けてくるレズノフの姿が視界に入った。
「こっちは死にかけてたっていうのに、てめぇは何してやがったんだ? 出る前にヤッてた女のことでも思い出してマスでもかいてやがったのか?」
「そういうなよ、ジイサン。それよりあの異常成長した蛇についてだがよォ、何か上手いこと片付ける手は浮かんだかァ?」
気楽そうにヘラヘラと笑みを浮かべながら近づいてきたレズノフがそう訊ねる。ヴィショップは思わずこめかみを引きつらせながらその問いかけに答えた。
「馬鹿でかい蛇に丸呑みにされかかってる際に、目の前の野郎の糞にならずに済む方法以外のことを考えられる人間がいるんなら、是非とも一目会ってみたいもんだな」
「つまりゼロ、かァ」
「常識ゼロよりはマシだ。で、そういうお前は何か思いついたのか?」
ヴィショップはそう答えると、逆にレズノフに何かアイディアがあるのかどうか問いかけた。
「まァ、気付いたことが一つと、やってみたら面白いんじゃねェかってことが一つだな」
「なら、気付いたことから先に聴こうか。そうした方が無駄な時間をとらずに済む」
ヤハドがそう告げて気付いたこととやらを話すように促すと、レズノフは有りもしない蝶ネクタイを締め直すような動きを見せてから話し始めた。
「気付いたことってのは、あの蛇が卵を避けて動いてるってことだ」
「それなら俺も気付いている。もっとも確信したのは今しがただが」
そんなことか、とでも言いたげな表情を浮かべて言葉を返したヤハドの脳裏では、先程の光景がフラッシュバックしていた。右目を矢で射抜かれた直後、痛みにのたうち回りながらもするすると見事なまでに卵の隙間を縫って暗闇の中へと逃げ込んだ大蛇の魔獣の姿が。
「何だよ、もう気付いてたのか」
「まぁな。ついでに補足すると、奴は片目を射抜かれてもキチンと避けていた。恐らく卵を避けて動くことは最早習慣として身体に染みついているのだろう。まず、意識的に行っていることではない筈だ。となれば、奴の動きを予測して待ち伏せ攻撃を仕掛けられるかもしれない」
蛇に見立てた左手の人差し指を手刀の形にした右手で軽く叩きながらヤハドが提案する。しかしヴィショップは首を横に振ってそれを否定した。
「この場所の広さや卵の配置なんていう諸々の情報が出揃はなければ、あの蛇に待ち伏せを仕掛けるのは無理だ。不確定要素が多すぎて成り立たない。かといってそれらの情報を集めるだけの時間も無い。他の手を考えた方が良さそうだ」
「チッ…」
ヴィショップの言葉を受けたヤハドは小さく舌打ちを打った。もっともそれがヴィショップに自分の提案を否定されたから、などという子供染みた理由によるものではないことはヴィショップも承知の上なので特に顔色を変えることもなく、大蛇の魔獣への警戒をヤハドに任せて考えに耽っていた。
「なァ、ところでジイサンよォ、『スチェイシカ』とやらに行ってた間に仕入れた切り札とやら、あれはどうなんだァ?」
考えに耽るヴィショップにレズノフが問いかける。彼の言っている切り札とは、『スチェイシカ』での滞在時に使えることが発覚した四元魔導の四属性の力を付与して放つ強化魔力弾のことであり、それらの能力は一応レズノフにもヴィショップの口から聞かされていた。
「そうだな……あの蛇相手にも通用しそうなのは一つあるが、魔力が問題だ。ここまで魔力による弾丸の強化も何回かやってきたし、小粒の魔法もいくらか使ってきている。一発はまず確実に撃てるだろうが、二発目は分からない。いや、出口が無くて引き返す可能性があることも考えると二発目は無理だと考えた方がいいな」
「それでも、一回はあの化け物を殺せる攻撃を放てるんだな?」
「確実に、とは言い切れないがな」
念を押すようなヤハドの問いにヴィショップが答える。その答えはあくまで確実性があるとはいえないことを強調していたが、それでもヤハドはその一撃に懸けることに決めたらしく、ヴィショップに向けて一言返事を返した。
「ならば、それで行くぞ」
「いいだろう。だが、それにしたって問題はあるぜ」
ヴィショップはヤハドの言葉を受け入れると、右の親指を魔弓の魔力弁へと移動させた。しかしまだ魔力弁を押し上げようとはしなかった。何故なら、彼等にはまだ解決すべき問題が残っていたからだ。
「蛇野郎を殺せそうな一撃はあるにはあるが、そいつは貫通力はともかく破壊力に欠ける。あの図体だと脳なり心臓なりの急所に当てないと一撃で殺すのは無理だ」
「んじゃァ、こん中で蛇の心臓の位置が分かる奴は?」
レズノフがそう問いかけるが、それに答える者は誰も居なかった。
「となると、狙うは頭か」
「あぁ。この暗闇の中、上下左右自由に猛スピードで動き回る爬虫類特有のちっこい脳味噌を一撃で撃ち抜かなくちゃいけない訳だ」
ヴィショップはそう軽く告げたが、それが並ならぬ行為であるのは間違いなかった。
先程放ったいくつかの小石と三人の得物から放たれる光は意外の一切光源が存在しない空間の中、無数の障害物を自在に避け、更には瞬く間に天井近くまで移動する大蛇の魔獣の脳味噌を一発で撃ち抜く。しかも精密射撃用の調整などされていない西部開拓時代にカウボーイ達がぶら下げていた拳銃相当の武器で。
そこにはどれだけ楽観的に考えたとしても、普通にやってそれが成功する可能性は命を懸けるには心細すぎる程度のものしかなかった。
「ならどうする? お前は待ち伏せは分が悪いと踏んでいるんだろう?」
「あぁ。どこにどれだけ卵があるか分からないから完全には蛇の動きを把握出来ないし、何よりあの卵の集団の中に突っ込んでって唯でさえ悪い視界をもっと悪くするのはご免だ」
ヤハドの意見を再びヴィショップが突っぱねたところで会話が途切れる。
周囲に利用出来るものは殆ど無く、出来そうに見えたものもその見込みはあまりにも薄い。周囲の暗闇も人間であるヴィショップ達の足枷となって苦しめることはあっても、ピット器官の存在で熱を感じ取る大蛇の魔獣の動きを縛ることはない。そして対抗し得る切り札は一回切りの上に、要求されるのは例え太陽の光の降り注ぐ開けた場所だったとしても難しいであろう精密射撃。
今のヴィショップ達はまさしく、死地のど真ん中に立っていた。
だがただ一人。死地の真っただ中に立っている今の状態においてなお、ウラジーミル・レズノフの顔には余裕のある笑みが浮かんでいた。まるで飛びっきりの悪戯を思い付いた少年の様な笑みが。
「何笑ってやがる。帰ってあのプッシーともう一ラウンドと洒落込みたきゃ、アホ面晒してないで頭動かせ」
そんなレズノフの笑顔を見たヴィショップが呆れた様な声音を上げる。しかしレズノフはその笑みを取り払うことなくヴィショップの顔を見、そして彼に告げた。
「なァ、ジイサン。あの蛇の動きを予測することは出来ねェが、おびき出す方法ならあるぜ」
「何?」
怪訝な表情を浮かべてヴィショップが聞き返す。レズノフはヴィショップとヤハドに耳を貸すように合図すると、二人の耳元に大蛇の魔獣をおびき寄せる一つの策を話した。
「…確かに、それならあの化け物も避けることもせずに真直ぐ突っ込んでくるだろうが……」
「間違いなく、本気で殺しに掛かるだろうぜ。それこそ、自分の命を懸けて」
レズノフの策を聞いた二人は顔を離し、ヤハドは神妙な顔つきで、ヴィショップは引きつった笑いを浮かべてそう返した。
そんな二人に対し、レズノフは笑いながらこう告げた。
「尚良しじゃねェか、そうだろ?」
二人は犬歯を覗かせてそう告げたレズノフの顔を呆気に取られたような表情で見つめると、苦笑を浮かべて己の右の拳を突き出した。
「イカれてるな」
「全くだ」
突き出された拳を見てレズノフの笑みが増々楽しげなものへと変わる。そしてレズノフは、己の右の拳を突き出しヤハドとヴィショップの拳を軽く小突いた。
「三人纏めて、な」
このちっぽけな山の頂点に立つ存在にしてこの空間の支配者たる彼女は冷たく重い暗闇の中で痛みに耐えながら、静かに機会を窺っていた。
彼女にとって予想もしなかった敵の抵抗…本来ならば自ら手を下す必要すらなかった筈のちっぽけな存在の抵抗は今や彼女から右目を奪い取り、脳髄を止むことのない焼けつく様な痛みで焦していた。幸いだったのは彼女は片目を失ったところで戦えなくなるような存在ではなかったことだけで、それ以外は何もかもが彼女にとっては最悪の展開以外の何物でもなかった。
自らの巣を荒らす敵を殺すことも出来ずに手を拱いていることも、他の魔獣共をけしかければけしかける程連中が自分の巣へと近づいてきたことも、そして数時間前に自分の思考にあの三人の人間を殺さねばという考えが唐突に湧いてきたことも。
痛みに耐え、それでも敵の体温だけはしっかりと感じ取りながら彼女は考える。今日の出来事の全ての切っ掛けとなったあの考え、それはどうして自分の頭の中に浮かんできたのかと。今までの長い齢の中、他の生物を先導する力も巣を守ることにしか使ってこなかった自分が、何故山の全ての生物を操ってまであの三人の人間を殺さなければと思ったのか。しかし、それは考えても考えても分からなかった。どれだけその考えが浮かんできた瞬間を思い出そうとしても思い出せなかった。どんなに必死になってみても、出る答えは同じだった。
そうしなければならないと思ったから。それ以外の答えがどうやっても彼女の頭には浮かんでこなかった。
すると、そんなことを考え続けている内に彼女はふと思い出した。その考えが浮かぶ直前だったか直後だったか定かではないものの、何かを聞いた憶えがあることを。それが何かまでは思い出せない。ただ少なくとも、この山の住む生物のどの鳴き声とも異なっていた。それだけは確かだった。となれば、今度は彼女の思考はその音が何だったのかを思い出す方向へと傾いて行った。その音が自分の今置かれている境遇の発端となったであることは間違いなかったのだから。
しかし、彼女にそれを思い出せさせまいとするかの如く、鋭敏なる彼女の感覚が敵である三人の人間が動き出したことを感じ取った。
彼女は止む無く記憶の霞を取り払う作業を中断して己の敵へと意識を戻す。しかし、先程までのようにすぐさま動き出すような真似はしない。あの三人の人間が自分にただ殺されるだけの存在とは一線を画しているのは今までの戦いで痛感していたからだ。
しかし、彼女はすぐにその選択を後悔することとなった。
何故ならその三人の人間は、その手に握られた武器を、その周囲にある、他らなぬ彼女が産み落とした彼女の子供達へと向け始めたからだ。
「……来るぞ」
今までこの山の中で聞いてきた、いやそれよりも遥かに獰猛で悲壮な轟音が魔獣の巣の中に鳴り響いた。
その音が鳴り響いくと、曲刀を有らん限りの力で周囲の卵へと叩き付けていたヤハドは腕を動かすのを止めて、ヴィショップに振り向いた。その足元では破壊された卵から零れ落ちた、生き物になる筈だった存在が粘液と共に広がって異臭を放っていた。
「分かってるさ」
ヴィショップは短く答えて轟音と地響きのする方向へと身体の向きを変える。卵の中身と粘液はヴィショップの足元まで広がっており、脚を動かす度に音を立てた。
「まァ、安心しろよ。ジイサンがしくじったら、こっちで仇を討ってやるからよォ」
「馬鹿言え、死ぬときはてめぇ等も道づれに決まってんだろうが」
ヤハドと同じように卵を破壊していたレズノフが軽口を投げかける。ヴィショップは微笑を浮かべて返事を返すと、右手の親指でゆっくりと魔弓の魔力弁を引き起こした。
途端に身体から力が抜けていくような感覚がヴィショップは襲った。ヴィショップは言い様の無い気持ち悪さを味わいつつ、脳内に一つの映像を築き上げていく。
それは吹き荒ぶ猛風のイメージ。それは鉛玉の如き豪雨の姿。それは眩しき雷の輝き。
それらが脳裏の中で構築された瞬間、魔力弁を引き起こしたから今まで味わってきた脱力感などとは比類することの出来ない程の脱力感が全身を襲うと共に、引き起こされた魔力弁の隙間から、魔弓に彫り込まれた細緻な彫刻から明るい緑色の光が放たれた。
「これは…」
薄暗闇の中、緑色の光を放つ白銀の魔弓の美しさに目を奪われたヤハドの口から思わず言葉が漏れる。レズノフの方は言葉こそ漏らさなかったものの、その視線はヤハドと同じようにヴィショップの手に握られている魔弓へと注がれていた。
充分な魔力が注がれ発射の準備が整ったのを待って、ヴィショップは魔弓の矛先を正面へと向ける。そして左手をゆっくりと魔弓のグリップへと伸ばして両手でしっかりと構えると、暗闇の中から深緑の鱗に身を包んだ女王が姿を現すのを静かに待った。
そしてヴィショップが構えをとってから数瞬後に暗闇の中から、その身を覆う鱗とは対照的に真っ赤な口内を剥き出しにした大蛇の魔弓が姿を現した瞬間、ヴィショップは魔弓の引き金を弾いた。
引き金が弾かれた瞬間、何かが爆発したかの様な音と共にヴィショップの髪が後方へと靡く。その現象、撃ち出された魔力弾が一瞬にして音速を超えたが故に生じた現象であることは大蛇の魔獣には知る由が無かった。
それは相手が大蛇の魔獣が人間の知恵を理解し得ないからでも、ソニックブームなどという概念がこの世界ではまだ確立されていないからでもない。ただ単に大蛇の魔獣がその音を聞いた時には、既に大蛇の魔獣の脳髄は魔力弾によって撃ち抜かれていたからだった。
脳を撃ち抜かれた大蛇の魔獣の全身から一瞬にして力が抜け、頭から地面に倒れ込む。倒れ込んだ大蛇の魔獣はそのまま慣性に従って少しの距離を進み、やがてヴィショップの爪先の数センチ手前で動きを止めた。
大蛇の魔獣の動きが完全に止まってからも声を上げる者は誰一人としていなかった。主を失った巣に沈黙が満ちていく。その沈黙がかき消されたのは、大蛇の魔獣の頭から流れ出した血がヴィショップの足元を超えて広がり始めた辺りのことだった。
「やったのか?」
「……あぁ」
地に伏してピクリとも動かない大蛇の魔獣の亡骸を見てヤハドがヴィショップに問いかける。ヴィショップはそれに答えると、地面にゆっくりと広がっていく大蛇の魔獣の血を踏みしめつつ踵を返した。
「それでェ? お次はどうするんだァ?」
「そうだな…とりあえず、この奥まで行ってみるか。それで何も見つからなかったら、一先ず帰るぞ。正直疲れた」
長剣の切っ先で大蛇の魔獣の頭を突っつきながら問いかけてきたレズノフに、ヴィショップは首の骨を鳴らしながら返事を返して歩き始める。それにヤハドが続き、そして一瞬何か言い掛けた後レズノフが続いた。
「…今頃外は夕暮れ時か」
取り出した懐中時計の盤面を見たヴィショップが小さく呟く。
盤面の三つの針が指し示す時刻を見た時、今日という日が結局化け物共相手の殺し合いに一日を費やしただけであったことを痛感して小さく溜息を吐いた。
しかしそれが間違いであったことをヴィショップは、この洞窟を出て『ヴァライサール』の町に戻った時に思い知らされることとなる。魔獣との殺し合いに気を取られてすっかり失念していた、特大の頭痛の種が一人のびのびと育っていることを彼は知ることとなるのだった。




