Love At First Look
「はぁ、王都の方からわざわざ……それは御足労なことで。ここまでの道のりは長かったでしょう」
「いえいえ、これが仕事ですから」
ミヒャエルが一人駆けて行ったレズノフを追っていった頃、ヴィショップとヤハドは『フレハライヤ』の村長宅を訪れていた。
村長は六十歳程の年齢の、肩にかかるぐらいの長さの白髪を後頭部で一束に纏め、背筋をしっかりと伸ばした若々しい印象を与える男性だった。ヴィショップとヤハドは彼の後ろに続いて応接間に通される。応接間の広さは、ヴィショップ達の世界の一般的な家庭のリビング程で、中央に木製の机が置かれていた。
二人は村長に勧められるままに、彼と向かい合う様に椅子に腰かける。二人が椅子に腰を下ろすと、村長夫人と思しき女性が出てきて二人の前にハーブティーの注がれたカップを置いた。
「近くの森で採れる薬草を使っております。一応、この村の特産品の一つでして、身体に良いともっぱらの評判です」
「では、有難く…」
ヴィショップは笑みを浮かべてカップに向かって手を伸ばす。途中、ヤハドに目配せして後の対応は彼に引き継がせると、カップに口を付けてハーブティーを飲んだ。村長の言葉通り、健康そのものには良さそうな癖の強い味がヴィショップの下の上に広がった。
「しかし、こうして来てもらっていきなりこんなことを聞くのはお心苦しいのですが、お礼の方はどのぐらいになりそうですか?」
ヴィショップがハーブティーを啜っていると、村長がバツの悪そうな顔を浮かべて訊ねてきた。
一口目で万人受けしないとはっきり分かる様なハーブティーが特産品なぐらいなのだから、恐らく村の財政状況は決して潤っているという訳ではないのだろう。そこに国の中心である『クルーガ』からギルドが来たのだから、依頼料の心配をするのはある意味では当然のことといえた。
「問題ない。今回の依頼主は政府だ。報酬は政府の方から出ることになっている」
村長の不安に対してヤハドは回答を与えてやる。
今回の調査はロッソ・マルキュスという個人、つまりは国からの依頼となっている為、報酬自体はそこから出ることになっている。そしてその報酬の量も、何だかんだ言って国の方も厄介毎を押し付けている自覚はあるらしく、割安ではあるもののある程度まとまった額が払われることになっていた。その為、今回の一見で『フレハライヤ』が払う金銭的な対価はないということになる。
「あぁ、すいません、こんなことを訊いて。ただ、私達の村はご覧の通り田舎でして、報酬の次第によってはすぐにはお支払出来ない場合がありましたので…」
「いや、それは上に立つ人間として当然の配慮だ。気にすることはない。それより、事件の詳細について訊いても?」
安堵の表情を浮かべて非礼を詫びる村長を制すると、ヤハドは話しを本題へと移す。村長は真剣な面持ちに顔付きを変化させて、ヤハドの求めに応じた。
「はい。事の始まりは二週間と少し前でした。最初に失踪したのは村の子供の中でも特にやんちゃなグループのリーダー格の男の子でした。この男の子は探検に行くと言って、村の近くの森に数人の仲間達と共に向かったのです」
「このハーブティーの材料が取れる森か?」
「えぇ、そうです。しかし森を進んでいく途中で他の子供達が疲れて座り込んでしまったところ、彼一人が仲間を森の奥に入っていってしまったのです。仲間の子供達は彼が戻ってくるのを待っていましたが、日が暮れる間際になってもその男の子は帰ってきませんでした。それで怖くなった他の子友達が村に戻ってきて大人に助けを求め、我々は総出で森を捜索したのですが、結局その男の子は見つかりませんでした」
「魔獣か何かに襲われたという可能性はないのか?」
ヤハドの言葉を村長は首を横に振って否定した。
「いえ、とある理由があってあの森には魔獣は生息しておりません。それに、これは魔獣には到底出来ぬことなのです」
「何故だ? 話を聞く限り、そうとは思えないが?」
「確かに、この一件だけではそう思われても無理はありません。しかし、その次の子供達からは大分事情が違ってきているのです」
村長はそう言って自分の前に置かれていたハーブティーで喉を潤わせてから、改めて説明に戻った。
「その一件が起きた後、子供のみと単独での森への立ち入りを禁止しました。ですが、それにも関わらずその二日後には新たに子供が失踪したのです」
「まぁ、禁じられればそれを破りたくなるのが子供というものだ。」
「えぇ、そうです。しかし、今回は森に入って姿を消したのではありません。両親が子供を寝かせ、朝起きてみたら子供の姿がなかったのです」
ヤハドと村長のやりとりを黙って眺めていたヴィショップの眉が微かに動く。ヤハドの方もこの事件の異常さを嗅ぎ取り始めたらしく、幾分か剣呑さの増した表情を浮かべて村長に聞き返した。
「家の中で姿を消したのか? 森に入ってではなく?」
「そうです。その消えた子供は、両親の手によって確かに寝かしつけられた後に姿を消したのです」
「…それで? 探してはみたのか?」
村長はゆっくりと頷いてヤハドの言葉を肯定した。
「最初は単に早起きしたのだろうと思って、村の中を両親が探していました。しかし、どこを探してもその子供の姿は見つからず、ことは次第に大きくなっていきました。そして結局は村の人間総出で村の周囲…無論、例の男の子が消えた森の中まで探しましたが、結局その子供は見つかりませんでした」
「…確かに、それは異常だな」
村長の話を聞いたヤハドが納得した様子で頷く。その素振りを見た村長は続けてヤハドに事件の詳細を話していく。
「そのようなことが、今に至るまでずっと続いているのです。消えた子供はもう九人。しかもいつ次の失踪者が出てきてもおかしくありません」
「……鍵はどうなっていたんだ? ちゃんと寝る前にかけていたのか?」
少しの間ヤハドは考え込むと、村長にそう訊ねた。村長うつむきがちになっていた顔を上げてその質問に答える。
「二人目の子供の時は分かりません。ですが、それ以降は村の全員に呼びかけて鍵を掛けるようにさせていました」
「窓や何かが割られていたり、何かでこじ開けたような痕はなかったのか? 誰かが侵入したような痕跡とかは?」
「いえ、ありませんでした。どの家も、朝起きた時には子供はおらず、玄関の鍵だけが開いていました。荒らされたような痕も一切ありませんでしたし、誰かが侵入してきたのなら親が気付く筈ですが、それもありませんでした」
「となると…子供が自分で家を出た可能性が一番考えられるが…」
口元に手を当ててヤハドが呟く。すると村長がそれに続くかのように言葉を放った。
「ですが、子供が連続して独りでに家を出て、そのまま行方を暗ませるなど考えられません。やはり、これは魔女の…」
「そういえば、ここに来る前もその話を耳にしたな。何でも今回の失踪に魔女が関わっているとか」
村長が発した魔女という言葉にヤハドが食いつく。村長は微かに身体を震わせると、一瞬逡巡した後、ヤハドに説明することを決心した。
「この村の住人の間では、そういう噂が流れています。正直な所、私も魔女の仕業なんじゃないかと思いたいぐらいです…」
「まるで魔女という存在が実在しているかの様に話すが、そんな存在がこの村には居るのか?」
「えぇ…。もっとも、村ではなく森の奥…例の最初の子供が消えた森です。その森の奥の沼地に住んでる一人の女性を、我々は魔女と呼んでいます」
その村長の言葉を聞いたヴィショップとヤハドが顔を見合わせる。ヤハドはヴィショップがこの村長の言葉をどう受け取るか確認しようと思ったのだが、感じんのヴィショップは肩を竦めてすぐに視線を逸らしてしまったので、結局村長の言葉をどこまで信用するかはヤハドの物差しのみで測ることになった。
「その魔女について、詳しく聞かせてもらえるか?」
取り敢えずヤハドは、魔女とやらの存在についての話を聞いてからその女性とこの一件の関係の有無を決めることにした。
村長は小さく頷いて見せると、魔女と呼ばれる女性について語り始める。
「先程、ある理由があって森には魔獣が住み着いていないと話ましたよね?」
「あぁ、聞いた」
「実はその理由が魔女と呼ばれるその女性にあるのです」
「ほう。続けてくれ」
ヤハドは興味深そうに呟いて話を先に進めるように促した。
「はい…。その女性は数年前にこの村に突然やってきたのです。そしてこの村に代々伝わる、魔女の家系と呼ばれてきた一族の家紋を見せ、森の奥の沼にある家に住む許可をくれといいました」
「魔女の家系? そんなものがこの村にはあったのか?」
村長の話を一端遮ってヤハドが問いかける。その隣ではヴィショップが呆れ混じりの視線を向けていたが、それにヤハドが気付くことは無さそうだった。
「はい、この村にはかなり昔から伝わる魔女と呼ばれる人物達の家系がありました。記録自体は残っていないので分かりませんが、昔はこの村を実質的に支配していたようです。しかし、この村にも少しづつ外界との接触が増えるようになってくると支配者の地位から降り、森の奥の沼の畔の家で必要最低限の交流だけをして生活するようになったようです。少なくとも、私が生まれた時からそのような生活を送っていました」
「ふむ。では、その女性の前にも先代の魔女が居たという訳か」
「その通りです。そして彼女達は様々な薬品を村に売りに来る他、彼女達の住まいがある森に魔獣が生息しないようにもしていました」
その言葉を聞いたヴィショップが無言で視線を窓の方へと向ける。窓からは鬱蒼と茂る森の姿を遠目に見ることが出来た。窓から見ただけでもその森は一日や二日で踏破出来るような類のものではないことは充分に理解出来た。
(あの森から魔獣を追い出す、か)
ヴィショップが心中で呟く。
神導魔法の中にはそのような効力を持つものが存在する。実際、『パラヒリア』郊外の森に潜んだ時にヴィショップはその手の魔法を使用していた。しかしその魔法は特定の実力の魔獣にしか効果が無い上に、その範囲も極限定的なもので森一つを覆うどころか家一つすら覆えない程度しかなかった。ヴィショップ自身、まだ神導魔法を殆ど習得していないので何とも言えないものの、窓から見える森全体に効果の及ぶような魔法があるのだとしたら、それこそガロス・オブリージュに匹敵する神導魔法の使い手じゃなければ不可能だと思われた。ましてやそれを維持し続けるとなれば、ガロスですら為し得ることは不可能であろう。
「どうやったらそんなことが? 神導魔法とやらを使っているのか?」
「いや……それは本人達を除いて誰も知らないのです。ただ、森全体に一日中魔法をかけ続け、それを何年にも渡って維持し続けるのは人間業ではありません。恐らく、彼女達が作っていた薬品が関係しているのでしょうが…」
ヴィショップが考え込んでいる間にも話は進み、丁度村長がヴィショップの疑問に答えるような言葉を告げていたところだった。
「…まぁ、からくりのタネは置いておくとして、その森に魔獣が生息していない理由は分かった。それでこの村に訊ねてきた女とやらはその魔女の家系の一人だった、ということで間違いないんだな?」
「えぇ、彼女が訪れてからもちゃんと今まで通り魔獣は森に現れていませんし、それに彼女自身薬を売りに村に訪れてますが、その効能も確かなものです」
「最初に消えた子供は魔獣のいない森で消え、その森に唯一住んでいるのが魔女と呼ばれる女、か…。まぁ、疑うのも道理というものか」
村長の話を聞いたヤハドが納得したように頷く。すると村長は不安気な口調でヤハドに問いかけた。
「となると、やはり彼女が…」
「いや、それはまだ分からない。もしその魔女とやらが犯人だとしたら、手口が雑過ぎる」
「雑、と言いますと?」
村長が怪訝そうな表情で訊ねる。
「自分の住処である森で事を起こせば真っ先に疑われると分かっているのに、わざわざそこで子供を攫ってやるなんていうのは、最早疑ってくれと言ってるようなものだろう? そも魔女とやらがどれだけの事が出来るのかしらないが、何も特殊な力を持たない人間ですら場所を移して子供を攫おうとぐらいはするだろうさ」
「それもそうですね…。ですが、だとしたら一体誰が…」
ヤハドの説明を聞いた村長は安心した様子で息を吐き出した。それを見たヤハドは不思議そうに村長に訊ねる。
「その魔女とやらが犯人でない可能性が出てきて嬉しそうだな。てっきりこの村の人間は魔女とやらが犯人だと信じ切ってるものだと思っていたが、違うのか?」
「いえ、それは……残念ながら違います。村の人間の大半は今回の事件は魔女の仕業だと信じ切っています。元々、村人達の彼女への態度は良いものではありませんでしたし…」
どこか残念そうに村長は答えた。その態度を見たヤハドの顔に増々怪訝そうな表情が浮かぶ。
「その様子だと、お前は違うように見えるが…」
「私は…昔、彼女の母親に助けてもらったことがありますので…」
そう答えた村長の声音には微かな躊躇いがあった。それを傍から見ていたヴィショップは、あえて村長にも聞こえるような声で呟いた。
「母親、ね」
「…何か?」
「いや、別に何もありません。どうぞ、話を続けて下さい」
ヴィショップに向けられた村長の声には少しだけ刺々しい響きがあった。ヴィショップは人当りの良さそうな笑みを作ってそれを受け流すと、再び話の主導権をヤハドへと与えた。
「気にしないでくれ、少し捻くれた性格の奴なんだ。それより、助けられたというのは?」
「えぇ、私がまだ子供の頃、森で迷ってしまったことがありまして。その時、彼女の母親に…」
村長は視線をヴィショップから逸らすと、ヤハドとの会話に戻っていった。ヴィショップはそれを聞き流しながら一人ごちる。
(成る程、これはクールダウンには丁度良い仕事になりそうだな。もっとも、予想通りに事が運べばだが…)
彼が心中で呟いた言葉は、どこか皮肉気で自嘲的であった。
「……誰、ですか?」
どれぐらいの間そうしていたのか分からなかった。ただ、先程までヒステリックな声で喚いていた女が再び姿を現さなかったことを考えると、時間は余り立っていないのかもしれなかった。
地面に跪いて落ちている小物を拾う、薄汚れた外套に身を包む青い長髪の女性の紫色の瞳がじっとミヒャエルを見据えている。その眼差しを受けたミヒャエルは蛇に睨まれた変えるのように動くことも喋ることも、それどころか何かを考えることも出来ずに固まっていたが、女性の発した弱々しい、されど落ち着いた感じの透き通った声を受けた瞬間、瞬時に凍り付いていた思考が解凍される。
「あ、あの…!」
「…………?」
咄嗟に絞り抱いたミヒャエルの声はどもっている上に上擦っていた。女性は笑い一つ漏らさずにミヒャエルの言葉を首を傾げて待っていた。
「て、手伝いますっ!」
先の質問も忘れてミヒャエルはそう発すると、女性の近くまでやってきて屈みこみ、落ちている小物を拾り始めた。
女性は、名前も告げずにいきなり手伝いだしたミヒャエルを驚いたような表情で見ていたが、やがて先程同じく蚊の鳴くようなか細い声でミヒャエルに声を掛ける。
「あの…大丈夫です…。私一人で出来ますから…」
「い、いや、あの…でもっ」
「私と話していたら村の人に何を言われるか分かりません。お気持ちだけ頂いておきます」
食い下がろうとしたミヒャエルに女性はそう告げると、先程までより明らかに速いペースで残りの小物を拾い集めて籠に放り込む。それが終わると、ミヒャエルに向かって籠を突き出して手にしている小物を入れるように求めた。
「お気づかいさせてしまい、申し訳ありませんでした。今は無理ですが、このお礼は今度させて頂きます」
そう言って、女性は籠を突き出したままミヒャエルが小物を入れるのを無言で待つ。ミヒャエルは手の中の小物と女性の顔を交互に見ていたが、やがて意を決した表情を浮かべて女性の持つ籠の中に小物を入れた。
「…本当に…」
小物が入ったのを確認すると、女性は蓋を閉めて立ち上がろうとする。しかしその前にミヒャエルの手が素早く女性の持つ籠へと伸び、女性から籠をひったくっていた。
「あの…返してください。まだ寄るところが…」
「手伝いますっ!」
特に困ったような表情も浮かべず淡々とした表情を浮かべて、女性は籠をひったくって立ち上がったミヒャエルを見上げて籠を返すように頼む。しかしミヒャエルは彼女の言葉を遮ってそう発すると、未だ地面に跪いている彼女に向けて籠を持っていない方の手を差し出した。
「ですが…」
「お礼をするといいましたよね? なら、僕に手伝わせてくださいっ! 僕は貴女の手伝いがしたいんですっ!」
表情を困惑へと変化させる女性にミヒャエルは力強くそう告げる。
「しかし、それでは貴方が…」
「いいんですよ、別に。僕、どうせよそ者ですし、何言われても問題はありません!」
「でも、貴方は既に荷物が…」
「別に、こんなものはここに置いておいても大丈夫です! 後で他の連中が回収に来ますから!」
何とか女性は断ろうとするものの、ミヒャエルは一歩も退こうとはしなかった。女性は少しの間どうにかして目の前の僧衣を纏った男を諦めさせようと頭を捻っていたが、やがて諦めたのか差し出されたミヒャエルの手に自分の手を重ねた。
ミヒャエルの顔が目に見えて輝く。ミヒャエルは女性を引き起こすと、背負っていた荷物を全て地面に落とし、最後に杖だけを拾い上げた。
「あの…本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですって! それより、他に寄ることろがあると言ってましたよね? なら、早速そこに向かいましょう!」
ミヒャエルが地面に投げ出した荷物を眺めて女性が念を押すように訊ねるも、ミヒャエルはこの世界に来てから一番の笑みを浮かべて彼女の懸念を跳ね除ける。女性はどうしたものか困った表情を浮かべつつも、仕方なさそうにミヒャエルの質問に答えた。
「少し歩いた先にあるスローターさんのお宅に…」
「スローターさんですね!? じゃあ向かうとしましょう!」
ミヒャエルは女性の指差した先に視線を向けると先導を切って歩き始める。女性は戸惑いながらもミヒャエルの背中を追って歩き始めた。
「ところで、互いに自己紹介がまだでしたよね? 僕はミヒャエルです! ミヒャエル・エーカー」
「…シューレといいます」
「シューレ、シューレ、シューレ! うん、良い名前ですね! ファミリーネームとかはないんですか?」
「ヴィレロ、です…」
「シューレ・ヴィレロ! あぁ、素晴らしい! とっても美しい響きだ! とても似合ってると思いますよ!」
「あ、有難うございます…」
異様なテンションの高さを見せるミヒャエル。当然、シューレと名乗った女性が彼に向ける視線には困惑の色が浮かんでいた。
しかし、当の本人はそんなことは全くお構いなしに歩き続ける。今やミヒャエルの心は、ガソリンの海の中に投じられたマッチの火の如く、瞬く間にして強大に膨れ上がり広がっていった一つの感情によって囚われていた。それは、ミヒャエルがこの世界に飛ばされてからは一度として感じたことのない、されど、この世界を訪れる前は何回か経験したことのある感情だった。
その感情が心を満たすにつれ、ミヒャエルは懐かしさと充足感を感じていた。その感情がミヒャエルにもしっかりと分かるように次第にはっきりと形を為していくにつれ、まるで今まで失っていた身体の一部を取り戻したような感覚をミヒャエルは味わっていたのだ。
その感情は、かつてヴィショップが、ミヒャエルが抱くことを危惧した感情。そして、ミヒャエルをヴィショップやレズノフ、ヤハド等の夥しい数の死に関わってきた人間と同じ運命を辿らせた原因となった感情。
その感情を人々はこう呼ぶ。愛と。




