神、或いは悪魔の悪戯
「魔女…ねぇ…」
『蒼い月』の室内に置かれた丸テーブルの内の一つを囲んで、ミヒャエルが不審げな表情を浮かべて呟く。
彼の視線の先にあるのは先程ヴィショップ達が受付で貰ってきた、『グランロッソ』政府が偽名を用いて発注した一枚の依頼書。そこに書かれている内容は『フレハライヤ』なる土地で起こっている魔女の仕業と噂される子供の失踪事件の調査だった。
「これ、本当に大丈夫なんですか? せい…“協力者”があまりにも眉唾過ぎて調べるのが面倒臭いから、いいように使おうとしているだけなんじゃないんですか?」
机の上に広げられた依頼者から目を離してミヒャエルはそう発する。それを聞いていたヤハドは口元に手を当てて考え込み始めた。
「しかし考えてみれば、この世界には魔法という外法が普通に存在している。なら、魔女の存在も全く有り得ないということではないのかもしれないぞ」
「だが、女だからって魔法が強力になるなんて話も聞かねぇしな。となるとこの魔女とかいう奴は、この世界におけるイレギュラーを指してるとみて間違いないだろう。それに…」
サカガミは依頼書に書かれた一文を右の人差し指でコツコツと叩く。
「ガキの集団失踪…カタギリの仕業だと睨んでる訳かァ?」
「まぁな。どうやらこれの事件が起こったのは最近…それも『スチェイシカ』で革命を起こすほんの少し前だ。となると『コルーチェ』が絡んでるってこともなさそうだしな」
レズノフの言葉をヴィショップが肯定する。するとミヒャエルが納得がいかなさそうにヴィショップに問いかけた。
「でも、この頃にヴィショップさんはそのカタギリって人の仲間らしき仮面の人と会ってる訳ですよね。てことは、その人たちがこの事件に関わるのは無理なんじゃないんですか? だって『フレハライヤ』って『スチェイシカ』の真逆ですよ?」
ミヒャエルは依頼書の隣に広げられた『グランロッソ』の地図の一点を指差してそう反論する。
彼の言葉通り、『フレハライヤ』は『スチェイシカ』の真逆、『グランロッソ』の南に位置しており、『クルーガ』からもかなり距離が離れている。ここから子供達を攫って『スチェイシカ』に運び込もうとした場合、『グランロッソ』を突っ切らなければいけなくなってしまう。
「確かにマジシャンとか名乗る仮面野郎が関与してる可能性は低い。だが、俺があいつと『スチェイシカ』で出会った時、あいつはカタギリとは別行動を取っているようだった」
「カタギリという日本人が単独で動き、『フレハライヤ』で子供を攫っているということか?」
「そういう可能性もあるってことさ」
そう言って、ヴィショップは煙草を咥えマッチで火を灯す。その含みのある言い方にヤハドは怪訝そうな表情を浮かべていたが、一方でカタギリという男を少しなりとも知っているレズノフはヴィショップの言いたいことに気付いたらしかった。
「人数か、ジイサン?」
「そうだ。奴のやり口にしては多い」
ヴィショップの視線は依頼書に備考として書かれた失踪者の人数の欄に向けられていた。
その人数は実に九人。この事件が始まってからまだ二十日と経っていないことを考えるとその数は常軌を逸しており、日数を抜きにしても尋常ではなかった。
「確かに多いが…少年兵を作っているようなものだろう? なら、人数は多い方がいいのではないか?」
「いや、そいつは違うぜ。奴が作ってんのは捨て駒としての少年兵じゃなく、子供の殺し屋だ」
怪訝そうな表情を浮かべるヤハドの言葉をヴィショップは首を横に振って否定する。
「殺し屋の生業は戦争じゃなくて暗殺だ。となると、軍隊みたいに質より量の精神は通用しない。単独でも充分に結果を出せる能力が必要になってくる。そうなると、一気に何人も同時に技術を仕込むなんてのは無理だ。大体は一人、多くても二か三が最大だろうな」
「…素質の有無を見極める為に、多く攫っているという可能性は?」
少し考えてヤハドがそう問いかける。するとヴィショップは困ったように頭を掻きながら返事を返した。
「その可能性が捨てきれないってのが問題なんだよなぁ…。どうやらこの『フレハライヤ』とかいう場所は田舎みてぇだしな。“そういうこと”するには都合も良さそうだ」
「つまり、可能性は半々ってことですか?」
ヴィショップの言葉を聞いて無駄骨を折る可能性が高いことを察したミヒャエルが、潔く面倒臭そうな雰囲気を出して訊ねた。
「むしろ3:7か、2:8ってとこだな」
「えぇ~…。じゃあ、止めましょうよ。何だかんだいって、ここまで狙いを付けたのは全部外れてるんですから。今度はもっと丁寧に、それが本当に僕達が動くべきことかを考えて…」
「まぁ、それでも行くんだがな」
ペラペラと喋り始めたミヒャエルを遮って、ヴィショップははっきりと断言した。
「何でですか!? 可能性が低いなら別にいいじゃないですか!」
「確かに可能性は低いが、せっかく向こうがもってきた情報だ。こちらから協力を頼み込んどいて、初っ端から当たりじゃなさそうだから動かない、なんてやってるとこっちの印象も悪くなる。それに、お前がさっき言った通りのこともあるだろうしな」
「僕がさっき言ったこと?」
ミヒャエルの言葉に合わせてヴィショップは首を縦に振った。
「連中が俺達を体よく使おうとしてるって話だよ。魔女の噂云々は抜きにしても、『スチェイシカ』のことで連中は北に力を注ぎたい筈だからな。南の田舎町なんぞにかかりきりになりたくないだろうよ。だが、被害がそれなりにデカいから無視も出来ない。で、俺達に押し付けようっていう魂胆もあるだろうさ」
「そこまで分かってるんなら、やっぱり行くの止めましょうよ。いいように使われるなんて、ヴィショップさんも嫌でしょう?」
身を乗り出し期待に目を輝かせてミヒャエルがこの依頼の放棄をヴィショップに提案する。しかし当然の如く返ってきた答えはノーだった。
「完全に奴等の犬になる気はないが、ある程度ならお互いのより良い関係の為に大人しく尻尾も振るさ。まぁ、今回は連中に恩が売れるってことで妥協だな」
「僕はそれで妥協したくありません! だってどうせまた無駄働きなんでしょう?」
「じゃあ、仕方が無い多数決で決めるか。…ヤハド」
不満そうな表情を浮かべるミヒャエルにそう告げると、ヴィショップはミヒャエルの返事を待たずにヤハドに向けて顎をしゃくって意見を出すように促す。
「俺はやる。誰が関わっているにしろ、子供を狙うという下衆な行為を見逃したくない。但し、条件はあるがな」
「オーケー、その条件って奴は行くかどうかが決まったら聞いてやる。で、お前は?」
迷うことなくヤハドは『フレハライヤ』行きを受け入れる。ヴィショップは続けて喋ろうとしたヤハドを遮ると、今度はレズノフに向けて顎をしゃくって見せた。
「俺は暇が潰せるんなら別に何でも構わねぇぜ? それに、あの仮面野郎の面は俺ももう一度拝みてぇしなァ」
「これで三対一、賛成多数で決まりだな」
「はいっ! はいはいっ! これで二人! 二人分です!」
レズノフの答えを受けてヴィショップはミヒャエルに顔を向けて、言わなくても分かっている結果を教えてやる。すると悔しそうな表情を浮かべていたミヒャエルが急に両腕を突きあげて騒ぎ始めた。
「それでも賛成の方が多いだろうが…で、条件ってのは何だ、ヤハド?」
そんなミヒャエルの奇行をヴィショップは呆れながら流すと、ヤハドに彼の言った条件とやらの詳細を訊ねた。質問を受けたヤハドは真剣な面持ちでヴィショップの顔を見据え、その質問に答える。
「今回の件、もし目標の人物が関わっていないようなら、俺に指揮を預けて欲しい」
騒いでいたミヒャエルが動きを止めて不思議そうな表情を浮かべ、レズノフが面白そうにヤハドとヴィショップを交互に見る。そしてその条件を突き付けられた張本人であるヴィショップは、静かにヤハドの顔を見返していた。
(……流石にそろそろ、お前の顔も立てとくべきか)
ヴィショップの脳裏に浮かぶのは、レズノフとミヒャエルと別れて以降のヤハドとの行動だった。その最中でヴィショップは、子供の命を救おうとする彼の意見を握り潰してここまで来ていた。その結果、『スチェイシカ』の革命の時にヤハドは独断に走り、それはヴィショップにとってもヤハドにとっても思いがけない結末をもたらした。
(あのシスターの件である程度心が折れてれば楽だったんだが……そこまで軟じゃなかったか。それとも、心の支えになるような人間が居たからか…)
そう心中で呟いたヴィショップは、ドーマの許からヤハドが救い出し、その後の『スチェイシカ』での行動の最中も面倒を見続けていた二人の少女の存在を思い出す。サラが自ら命を絶った後、ヴィショップ自身もエリザとの関係の踏ん切りをつけるべく苦心していたため、彼女達がヤハドにどのように接していたのかは知らないが、今は『スチェイシカ』に残って元凶である『コルーチェ』の手を借りて元の親の許に帰る支度を整えているであろう彼女達が、ヤハドが彼の信念を貫き続けることを選んだことに貢献しているのは疑いようがなかった。
そしてヤハドが彼の信念を捨てていない以上、返すべき答えは決まり切っていた。
「あぁ、いいだろう。もしサカガミも仮面野郎も関わってなかったなら、この件はお前の指示に従う」
「ハァ……一応礼だけは言っておく」
ヴィショップはヤハドの条件を受け入れることを選ぶ。
自分の条件が受け入れられたヤハドは安堵するかのように息を吐くと、小さな声で感謝の言葉らしきものを発した。
「気にすんな。前に言っただろ? それが絶対に俺ならやらないようなことでも、仲間割れの予防と思って受け入れるってな」
「……ふん。好きにほざけ。そうやって下劣な本性を剥き出しにた方が、こっちも余計な気を遣わずに済むというものだ」
しかしヴィショップが返事を返すと、途端に引きつったような笑みを浮かべ、コップに入った水を一気に飲み干してそっぽを向いてしまった。それを見たヴィショップの顔に苦笑が浮かぶ。
「じゃあ、この依頼は受けるということで問題ないな?」
「大アリです!」
「却下だ、レイプ野郎」
「まぁ、それはいいとしてよォ。いつその『フレハライヤ』とやらには行くんだァ?」
酒の注がれたジョッキを傾けながらレズノフはヴィショップに訊ねる。ヴィショップは少し考えてから返事を返した。
「適当に準備を整えたらフレスから馬車でも借りて向かうとして……二日後ぐらいじゃねぇか? 大体そのぐらいを目処に出発したい」
「ふぅん。俺はそれで構わねェ」
「俺もだ」
「僕は…」
「お前の意見は聞くだけ無駄だ。黙って付いて来い」
レズノフとヤハドが首を縦に振ったのを見ると、ヴィショップは最後にミヒャエルの言葉を無視してこの話を纏めた。そして最後の最後まで不満そうな眼差しを向けていたミヒャエルを引きつれて、ギルドマスターが厄介な仕事を押し付けようとする前に『蒼い月』を後にすると、適当に買い物をするなりして時間を潰してから、バレンシア家の屋敷へと戻った。
「ねぇ、もう着きますかぁ?」
「知るか」
『蒼い月』で『フレイハライヤ』で起こっている子供の連続失踪事件の調査の依頼を引き受けてから四日後の昼、ヴィショップ達四人はフレスから借りた馬車に乗って『フレハライヤ』へと続く道を進んでいた。
「もう、着きますよね?」
「知らねェよ」
狭い馬車の中で四人が思い思いの行動で暇を潰す中、ミヒャエルは退屈そうに窓から外を眺めながら虚ろな声で問いを発し続ける。彼が口から吐き出す問いはどれも細かな部分こそ違えど、ミヒャエルが眺めている外の景色と同じように同じものばかりだった。
「いい加減、着きましたよね?」
「……少し黙ってろ、ドイツ人」
そして他の三人が交代でその質問に答えていた。彼等の返す答えもまた、ミヒャエルの質問と同じく細かな部分こそ違えど本質は同じものばかりで、まともにミヒャエルの質問に取り合っていないことを理解することは難しくはなさそうだった。
だが、そうだと分かっていてもミヒャエルは何か質問を発することを止めなかった。それ以外にやることはないし、何より次こそは自分が待ち侘びた答えが返ってくるのではないかという淡い期待を抱かずにはいれらなかったからだ。
「流石に見えてきはしましたよね?」
最早何回目なのかすら分からない質問。それに向かって返される返事も、何回使われたのか分からない返答。しかしこの時のミヒャエルの問いに対して返ってきた答えは、馬車の中でうんざりする程使い回されたものではなく、ミヒャエルが求め続けた答えだった。
「もう、着きますよ」
「マジっすか!?」
馬車の外、御者台に座る男がそう答えた瞬間、ミヒャエルの顔が勢いよく持ち上げられて窓枠にぶつかる。窓枠に頭頂部をぶつけて苦悶の表情を浮かべるミヒャエル以外の三人も行っていたことを止めて御者台に座る男の方に視線を向けた。
「あと、もう少しですよ。そこにもう見えてますし。着いたら、村長の家の前で降ろせばいいんですよね?」
「そうだ。帰る日程が決まったら連絡を送るから、迎えに来てくれ」
四人全員が訊ねようとしていた質問に対して男は先んじて答え、そして目的地の確認を行う。ヴィショップが頷いて彼の言葉を肯定すると、男は「かしこまりました」とだけ言って手綱へと意識を戻した。
果たして男の言葉通り、『フレハライヤ』にはそれからものの三十分程で到着した。馬車が止まると四人は馬車から荷物を持って降りる。降りた先に広がっていた光景は、木造建築の建物がぽつぽつと並び、舗装されているとは言い難い道のようなものが申し訳程度に引かれている、彼等が『ヴァヘド』に訪れてから見てきた街並みとは比べ物にならない程に質素な、それでいてどこか見覚えのある光景だった。
「田舎だなァ」
「絵に描いたような、な」
その言葉を発した時には、何故目の前の光景に見覚えがあるのかはっきりしていた。それはヴィショップ達がこの光景の帯びる雰囲気を知っていたからだ。アメリカの片田舎だったり、十人に訊けば運が良ければ一人ぐらいなら名前を知っているような部族の村だったり、移り変わる時代の波に取り残されて錆びついて行ったかつての一大都市だったりといった、ヴィショップ達がかつて訪れたりしたことのある場所に充満しているのと同じ雰囲気がこの場所にも流れていたからだ。同じ言葉が通じ、同じ人種の人間が生活しているのに、異世界に紛れ込んだかのような錯覚を覚えさせる独特の雰囲気が。
「案外、静かそうでいいところですね。還暦を迎えたら地方に引っ込む人の気持ちが分かった気がしますよ。僕、こういう所ってあまり来たことがないんですよねぇ…皆さんはこういう所に来たことは多いんですか?」
例えそれが異世界だろうと、似た様なコミュニティならば似た様な雰囲気を帯びることを実感している一方で、ミヒャエルだけが物珍しそうに視線を動かしていたが、やがて視線を動かすのを止めるとヴィショップ達に質問する。
「俺はそこそこだな。地方の、町に一つだけの小学校がマディソン・スクエア・ガーデンみてぇに有難がられているようなところに、外国から運び込んできた諸々の商売品を隠しといたりしてたからな」
「俺ァ、戦争の途中で何回も来たことあるぜェ。もっとも、どこも燃えてるか死体の匂いが充満してるか、そうでなけりゃ一万を超える弾薬と赤の広場を吹き飛ばせるような爆薬を持ち込んで籠城している奴等が居たから、長居は出来なかったけどよォ」
「…普通に訪れたこともあれば、訓練キャンプとして使っていたこともある」
「うわっ…、情緒とかそういう観念が無いんですか、皆さんは?」
ヴィショップ、レズノフ、ヤハドの答えを聞いたミヒャエルが信じられないようなものを見る様な目付きで三人を眺めつつ、そう告げる。ヴィショップ達三人はミヒャエルに視線を向けると、声を揃えて言い返した。
『お前が言うな、強姦魔』
三人がそう発したのと同時に、ヴィショップ達の背後で彼等を乗せた馬車が動き出す。四人は振り返って自分達が乗ってきた馬車が小さくなっていくのを眺めていた。
「さて、取り敢えずここで二手に分かれるか」
馬車を見送るとヴィショップがそう切り出した。
「二手に?」
「あぁ。市長に話を付けにいく組と、宿屋を探して寝床を確保する組だ」
怪訝そうな表情を浮かべてヤハドが聞き返す。それにヴィショップは答えると持っている荷物をミヒャエルに投げ渡した。
「ということで、レズノフとミヒャエルの社会不適合者コンビは宿屋を探せ。俺とヤハドは村長にギルドの依頼でやってきたってことを伝える」
「はぁ!? 何で僕達が面倒臭い方をやらなきゃいけないんですか? この依頼を受けるのを決めたのはヴィショップさんなんだから、そういうことはヴィショップさんが…」
「宿屋見つけて荷物置いたら、適当に寛いでろ。どうせこういう所は宿屋と酒場が一緒になってるから、酒を飲んでても構わねぇ」
「オーライ、カピターン殿。それじゃあ、早速宿屋を探して参りますっとォ」
ヴィショップの言葉を聞いたレズノフはミヒャエルとの相談など一切せずに宿屋を探して去っていった。ミヒャエルは暴走特急よろしくどんどんと遠ざかっていくレズノフの背中を茫然と眺めていた。その隙にヤハドは自分の荷物をミヒャエルの足元へと置いた。
「では、頼んだぞ、ドイツ人」
「え? ちょ、まっ、えぇ!?」
ヤハドの声で正気に戻ったミヒャエルが振り向いた時には、ヴィショップとヤハドは前方に見える村長のものと思しき他の建物よりも若干豪華な建物へと歩き出していた。
ミヒャエルの頭に追って言って引き留めるといった考えが浮かんだのは最初の一瞬だけだった。その次の瞬間には、そんなことをしたところで少しの間問答が繰り広げられるだけで結果が変わらないことに気付いて、溜息を吐きながらヤハドの残していった荷物へとてを伸ばしていた。
「ってか、これ体良くレズノフさん逃げてますよねぇ…」
ヤハドの荷物を持って歩き出したところで、不自然に素早くこの場をさったレズノフの真意に気付き、溜息を吐く。幸か不幸か得物はヴィショップもヤハドも身に着けていた為二人の荷物の重量は大したことはなく、ミヒャエルが荷物の重さで潰れて動けなくなるという事態は起こり得なかった。
だがそれでも、それがミヒャエルにとっては疲れる仕事であることには間違いなかった。それに加えて『グランロッソ』の中でも南に位置するこの土地の日差しは『クルーガ』よりも厳しく、フードの付いた僧衣を身に纏うミヒャエルの身体からは少し歩いただけで汗が噴き出ていた。
「暑っつ…。どうして僕がこんな目に…」
杖にしがみ付く様にして歩きながらミヒャエルは愚痴を漏らす。しかし歩けども歩けども宿屋らしき建物は見つからないどころか、道を尋ねられそうな人とすら出会わなかった。
「何でこんなに人が…まだ昼なのに……って、あぁ、そういや子供が何人も行方不明になってるんでしたっけ、ここ…」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、亀の様な歩みでミヒャエルは歩き続ける。まだこの土地に訪れて一時間と経っていなかったが、既にミヒャエルは失踪してでもこの街に訪れるのを避けなかったことを後悔し始めていた。
「あ~、喉が渇いた…。あ~、脚が疲れた…。あ~、肩が痛い……ん?」
「………ん……! とっ……と、で……!」
誰に向けたものでもない不平不満を漏らしながら歩くミヒャエルの耳に、不意に人の声が聞こえてきた。ミヒャエルは一度脚を止めると、その声のする方向に向かって歩き始める。
「この家の……裏ですかねぇ?」
一軒の家に近づいたミヒャエルは声の出所を求めて家の裏手へと回った。彼の判断は正しかったらしく、近づいていく内に言い争いらしきものがはっきりと聞き取れるようになっていった。
「いいかい! 次からは誰にも見られないように、裏口から入ってくるんだよ! いいね!」
「……はい」
聞こえてくる声はどちらも女のもので、片方がヒステリックな金切声、もう片方は半ば金切声に吹き飛ばされている覇気というものの感じられない弱々しい声だった。そして聞いていく内にそれは言い争いなどではなく片方が片方を一方的に責め立てているのだということが分かった。
ミヒャエルは家の影に隠れ、顔を少しだけ覗かせてその会話の主を確かめようとする。しかしミヒャエルが顔を覗かせた時には、既に家の裏口らしきものが荒々しく閉められ、二人の内片方が家の中に引っ込んでしまっていた。残ったのは、地面に座り込み周囲に落ちている小瓶や紙包みなどを手にした籠の中へと戻している、一人の女性のみだった。
(あの人は…)
その女性にミヒャエルの視線が集中する。
彼女はフードの付いた灰色の薄汚れた外套を身に纏っていた。年齢は恐らく三十台程。しかし、地面に落ちた小物へと伸びるその手と、外套の下の地味で飾り気の無いロングスカートから覗く足首は、二十台どころか十台後半と言われても疑う余地すら与えない程に美しかった。髪は青で長さは座り込んだ状態で地面に毛先が付くほどに長い。紫色の目はアメジストの輝きをミヒャエルに連想させた。そして顔立ちは若々しい肌とは対照的に、あどけなさの完全に抜けきった妙齢の美しさを纏っていた。スタイルも良く、出るべき所は出てへこむべき所はきちんとへこんでおり、特に胸などは外套越しでも平均以上と分かる程度には大きかった。
だが、それ程美貌にも関わらずその女性には妖艶さといったものは一切無かった。そしてまるでその穴埋めをするかのように、どこか神秘的でかつ退廃的な雰囲気を女性が包んでいた。
ミヒャエルはそんな彼女の姿をじっと見つめていた。彼女が地面に散らばった小物を全て籠の中に収めて立ち上がるまで、彼は一心不乱にその女性の姿を見つめていた。
「おい、少し言い過ぎじゃないか? 彼女は…」
そんなミヒャエルに我を取り戻させたのは、少し後ろの開いた窓から聞こえてくる家の中の会話だった。
最初に聞こえてきたのはおどおどした男の声。しかしそれはすぐに、先程ミヒャエルが聞いたヒステリックな女の声に遮られる。
「いいんだよ、何たってあいつは魔女なんだからね! ヘタに下手に出たり、用事が終わったのにいつまでも家に入れといたら何されるか分かったもんじゃないよ! 大体、今この村で起こってる…」
ギャアギャアと喚く女の声は最後までミヒャエルの耳に入らなかった。ただ彼は、金切声の中に含まれていた一つの単語をぽつりと呟いた。
「魔女…」
その単語を呟いた直後、ミヒャエルは気付いた。二つの紫色の目が、他ならぬ彼へと向けられていることを。




