Penalty of Revenge
エリザの胸元に視線を向けるまでもなく、飽きる程感じてきた生温かさと匂いで自分の顔に付着したものが何なのかをヴィショップは理解出来ていた。
普段ならば、自身な顔に付着したものが血であったことに気付いた時点で、すぐさまヴィショップは生き残る為の行動を開始していただろう。ただ、この時だけは別だった。この瞬間、目の前に立っているのが彼の愛している女性に良く似た女性である今回は。
ヴィショップの顔だけがゆっくりと動いて、エリザの胸元に向けられる。そこで目に飛び込んできたのは、既に血で真っ赤に染まったエリザの胸元、そしてその中心から突き出ている一本の腕だった。
ヴィショップの顔がゆっくり持ち上がる。同じように自分の胸元を見つめていたエリザの顔も持ち上がる。二人の視線が交錯する。ヴィショップの目に映ったエリザの顔は、何が起こったのか理解出来ないといった表情を浮かべていた。
「うっ…!」
二人の視線が交錯した直後、エリザの胸元から突き出ていた腕が引き抜かれ、小さな呻き声を漏らしたエリザの身体が崩れる。
ヴィショップは彼女の胸元から噴き出す夥しい量の血を浴びながら、左手で彼女の身体を支えた。その視線は今までエリザの姿があった所へと向けられる。
しかし、そこに既に彼女の姿は無い。今、微笑みを浮かべるエリザが居た位置にあるのは、
「あああああああああぁ、うううううううううううぅ…」
片方が根本近くで折れた一対の角を生やし、濡れた黒髪はその深い青色の肌に張り付かせ、黄色と黒の瞳を有らん限りに見開いてヴィショップのことを見つめている、不死の女の姿だった。
両者の視線が絡み合ったのは、たった一瞬のことだった。その一瞬は青肌の女性の上げた地の底から響いてくるかのような声を除けば、顔を血で真っ赤に染め毛先から鮮血を滴らせているヴィショップの姿が浮いて見える程に静かだった。
「あっ…!」
あくまでも最初に動いたのは青肌の女性だった。今の彼女に生や死の観念があるのかは定かでないにしても、幾度となく本来なら致命傷であろう傷を負わせ、挙句の果てに海の底に沈めた存在が前に居るのだ。そのような存在を前にした上体で数コンマ程でも我慢することは青肌の女性には不可能だった。故に、彼女はヴィショップの姿を認知すりゃ否や、すぐさま動いた。その頭を粉々にする為に。心臓を貪り喰らう為に。
にも関わらず、大気を轟かす一発の轟音の後、青肌の女性はヴィショップに触れることすら出来ずに頭から血と脳漿を撒き散らして吹き飛んでいた。
「あ……うぐるぅあ!」
頭を撃ち抜かれた青肌の女性は三メートル程吹き飛ばされ、派手な音を立てて地面に沈む。だが二秒と経たない間に頭の修復を終えて立ち上がると、青肌の女性は勢いよく身体を起こして再びヴィショップの姿を捉えようとする。
刹那、更に三度の轟音が青肌の女性の耳を劈いた。撃ち出された三発の魔力弾はそれぞれ、青肌の女性の額、喉、心臓を的確に撃ち抜いて、再び青肌の女性の身体を地面に沈める。
その隙にヴィショップは左手で支えているエリザの身体を地面に横たわらせた。彼女の乱れた呼吸は耳を澄ませてようやく聞こえる程度の微かなもので、止めどなく血を流し続ける胸元の動きは注視しなければ分からない程に小さかった。
ヴィショップはエリザを地面に寝かせると、彼女の血で真っ赤に染まった左手でホルスターに収められたもう一挺の魔弓を引き抜く。左手から滴る血が白銀のボディに刻み込まれた装飾に浸透していき、美しさとはかけ離れた一転しておどろおどろしい姿へと魔弓を作り変える。
「ぐるああああああああああああああああ!」
全ての傷を癒した青肌の女性が、髪を振り乱しながらヴィショップ目掛けて迫る。ヴィショップは無言で右手の魔弓を向け、引き金を弾いた。
一発目が、右によじった青肌の女性の頬を掠めて虚空へと消える。二発目が青肌の女性が盾のように掲げた左腕の中に消える。
右手の持っていた魔弓を投げ捨て、左手の魔弓を右手に投げ渡す。魔弓をキャッチするや否や、ヴィショップは瞬時に狙いを定めて引き金を弾く。
一発目が、青肌の女性の右太腿に突き刺さる。二発目がバランスを崩した青肌の女性の左目を撃ち抜く。三発目がそれでも倒れない青肌の女性の心臓を射抜く。残る魔力を込めて放たれた四発目が、勢いよく跳躍した青肌の女性の眼下を通り過ぎて地面に穴を穿つ。そして、満月をバックに飛びかかってきた青肌の女性の頭目掛けて放たれた五発目は、彼女の残るもう一本の角を圧し折って掻き消えるようにして姿を消した。
「ッ!」
重く圧し掛かるような音と衝撃。気付けばヴィショップの身体は浮遊感と共に宙を舞っていた。
その時間が終わると待っていたのは二転三転する視界、そして全身を万遍なく襲う鈍痛と呼吸する度に胸元にもたらされる刺されるような痛みだった。
その痛みで、胸を殴りつけられたか蹴りつけられたかしたのだと、ぼんやりとした思考の中でヴィショップは考える。いつの間にか地面に倒れているエリザの姿も青肌の女性の姿もすっかり小さくなっていた。
「がるぅあっ!」
青肌の女性が声を上げてヴィショップに迫る。疑う余地の無い殺意の前に、一瞬でヴィショップの意識が覚醒する。それを為し得たのは、彼が積み重ねてきた暗く穢れた人生の恩恵によるところであることは間違いないだろう。そして右手が未だに魔弓のグリップを握りしめていたことも。
ヴィショップの右手が持ち上がり、魔弓を青肌の女性へと向ける。親指がゆっくりと魔力弁を持ち上げる。一々イメージを頭の中に浮かべることなど出来ずに、ただ闇雲にヴィショップは魔力を魔弓へと送り込む。だが、例えそれを行ったところで魔弓は何も起こらない筈だった。何故なら、この瞬間に至るまでの戦闘の中で既にヴィショップの魔力は枯渇寸前まで消耗しており、その残った魔力さえ先程の一発に使ってしまったのだから。そのことは、他ならぬヴィショップ自身も気付いていることだった。
故にヴィショップはその光景に驚愕することとなる。自分の予想とは全く違う。その光景に。
それは魔力弁を押し上げ、最後に残ったカスのような魔力を魔弓に流し込んだ瞬間だった。
到底その程度の魔力では何も起こり得ない筈にも関わらず、ヴィショップの手の中で魔弓に彫り込まれた装飾が光を放ち始める。しかしそれだけでもヴィショップの度胆を抜くには充分だったが、それだけではなかった。魔弓の放つ光は通常の魔力を込めた時のような青色でも、属性を付加させた時の水色や赤色、黄土色でもなかった。
魔弓の装飾から放たれている色、それは彼の持つ魔弓とよく似た純白の光だった。
「……!」
純白の光を放つ魔弓の姿は、ヴィショップが見てきたこの魔弓の姿の中で最も美しかった。何故そうなのかをヴィショップには説明することは出来ない。ただこの純白の光を魔弓が放った瞬間、彼はまるでパズルの最後の一ピースが填まったかの様な錯覚に見舞われていた。そう、この光と合わせて初めてこの魔弓が完成する、とでも言わんばかりに。
だが、その美しさに見とれていることが出来るのは一瞬だけだった。目の前から迫る青肌の女性の咆哮で我を取り戻したヴィショップはグリップをしっかりと両手で握りしめ、青肌の女性へと狙いを定める。
駆けてくる青肌の女性と白い光を放つ魔弓の姿が重なる。初めて目にした時は充分に美しいと思えた青肌の女性だったが、この状態の魔弓の姿を見た今のヴィショップにとっては醜悪な獣以外の何物にも見えなかった。
(何故だ…相手は不死の化け物だというのに…俺にはこの魔弓がどうなっていて、次に放つ弾がどんな力を持っているかも分からないというのに…)
そしてヴィショップは、
(どうして俺は、アレに負ける気がしない…?)
引き金を弾いた。
発射されたのは、拍子抜けする程普通の魔力弾だった。色が赤ではなく魔弓の放つ光と同じ白であるという点を除けば、速さも大きさも何もかもが普通の魔力弾と変わらなかった。
にも関わらず、純白の魔力弾を青肌の女性が受けた瞬間、
「……う、が…?」
彼女の身体は崩れ落ち、そして倒れたままピクリとも動かなかった。
「……?」
ヴィショップはその光景を不思議そうな表情を浮かべて黙って見ていた。青肌の女性が倒れてからも少しの間、そうして固まっていたが、やがて痛む身体を無理矢理起こして青肌の女性へと近づいた。
爪先が後少しで身体に触れる距離まで近づいても、青肌の女性は動かなかった。地面に横たわる彼女の双眸は瞼の裏に消え、完全に動きを停止した胸元が呼吸が止まっていることを示していた。
「…死んでる…らしいな」
軽く爪先で小突いてみるも、結局反応は無かった。その姿はヴィショップが幾度となく見てきたものと同じだった。ヴィショップは横たわったまま動かない青肌の女性を見下ろして呟くと、彼女に背を向けて歩き出す。
まだ青肌の女性が生きているかもしれないなどということは頭に無かった。ヴィショップは魔弓を左手に持ち変えてエリザの許に歩いていく。それは全く根拠の無い自身が半分、残りはこれ以上青肌の女に関わるよりも優先するべきことの為だった。
「まだ生きてるか…エリザ」
地面に転がる魔弓を拾い上げてホルスターに戻し、声を掛けながら地面に寝かせておいたエリザの許までヴィショップはやってくる。
「怪…しいな…」
返ってきたのはエリザの物とは思えない程の弱々しい声だった。そしてその力無き声もまた、ヴィショップが幾度となく聞いてきた声だった。
ヴィショップはエリザの隣に腰を下ろす。エリザは首だけを動かしてヴィショップの方を向いた。
「あの…化け物、は…?」
「…死んだ。死んだよ」
腰を下ろしたヴィショップはエリザの発した問いに答えた。彼の右手が懐にしまってある煙草に伸びる気配は無い。
「そうか…。良かったよ。お前が…死ななくて…」
「そうか」
「あぁ」
「……俺もそんな言葉が吐ければ良かったんだけどな」
魔弓のシリンダーが開かれ、使用済みの魔弾が地面に落ちる。
そう発したヴィショップの視線は青肌の女性へと向けられていた。かといって、何かを見ている訳でもない。ただ、向けられているだけだった。見たくないものから目を背ける為に。
「こういう…時は、もっと……励ましの言葉とか…かけるんじゃない、のか?」
「悪かったな」
「ふ、ふふっ…。どうし…た? いつもなら、もう少し…捻くれた言葉を……返す…ゴホッ! ゴホッ!」
激しく咳き込んだのに混じって血が零れる。自分の口から零れ落ちたその血を見て、エリザの顔に自嘲気な笑いが浮かんだ。
「お前の言った通りになったな…。憶えてる…か?」
「…復讐が終わった時、まともに残りの人生を謳歌出来ると思わない方がいい」
静かに、感情を押し殺した声でヴィショップが答えた。
「結局、私も…お前の言っていた男と同じ穴の貉だったってことだ…」
自分の方へは向けられていないヴィショップの横顔を眺めながら、エリザは言葉を紡ぐ。
「南大門が開いたすぐ後……私は、防衛にあたっていた部隊の隊長を撃ち殺した…。そうしたら、その男の息子らしき人物が出てきて……死体に泣き縋りながら…私を睨みつけた。私と同じ…復讐に憑りつかれた者の目で…。だから、これはきっと当然の報いなんだ…。私もこうし…て、復讐される側に…回ったから…。でも…私は満足だ…。復讐は果たせたし……それに、それに…あいつがあの世で…」
そう発するエリザの姿は一件潔く見えただろう。だがヴィショップは彼女に視線を合わせることはなかった。彼女の姿を直視することが出来なかった。
何故なら、全てが物語っていたからだ。エリザが町長の屋敷から出てきたヴィショップと出会ってから、交わした会話の内容が、彼女のとった行動が、彼女の顔に浮かんだ様々な表情が。
「……………………あぁ、駄目だ。……無理だ」
彼女が復讐が終わった後の人生を歩むことを、第二の人生を歩むことを心の底から望んでいたことを。
「嫌だ…ゴフッ、死にた…くない…! やりたい…ことが…あるのに…! 過ごしたい……時間が…ゲホッ! ゴホッ! あ、る…!」
涙混じりにエリザは慟哭する。例えそれが、許されぬ願いだったとしても。例えその様がどれだけみっともなかったとしても。それでも彼女は、残りの力を振り絞って声を上げ続ける。まるで姿すら見えぬ女神に縋りつくかのように。
「頼む…! まだ、私をっ…! 連れて…いか…ないでっ…! 私は…死にたくない…! 生き続けたいっ…! お願いだから…! 生きる理由が…見つかった…んだっ…! 一緒に…生きていきたいと…思える奴がっ…!」
だが、無情にも彼女を迫りくる運命から救い出すことの出来る存在はこの場に居なかった。
居たのはただ一人。
「助け…! ヴィ…ショッ…」
過去という名の楔を全身に打ち込まれた一人の老人だけだった。
「……眠れ。もう充分だ」
そう呟いたヴィショップの右手は、空に向かって伸ばされていたエリザの右手を掴んでいた。そして左手は白銀の魔弓のグリップを握りしめ、射出口をエリザの身体へと押し付けていた。
轟音の余韻が空気に溶けいるようにして消えていく。魔弓のバレルを伝って流れてきたエリザの血がヴィショップの左手を濡らす。
この瞬間においても、ヴィショップの培ってきた技術は余すとこなく振るわれていた。撃ち出された魔力弾は瞬時にエリザの心臓を撃ち抜いてその命を奪っていた。苦しむどころか、何をされたのかすら分からなかっただろう。
ヴィショップは左手を魔弓から離すと、開いたままの彼女の瞳を閉じてやった。まだその顔にも、ヴィショップの右手の中の手にも温もりが宿っている。だが、それはもう幾ばくも無い間に消え去り、氷のような冷たさだけが身体に残ることだろう。
地面に置いた魔弓をホルスターに戻すと、エリザの右手を彼女の胸の上に乗せ、ヴィショップは両手をエリザの首と脚の後ろにもっていって彼女の身体を抱えて立ち上がった。
不意に視界に飛び込んできた眩しさに顔をしかめる。顔を動かすと、丁度太陽がゆっくりと地平線の向こうから昇ってくるところであった。
ヴィショップは視線を落としてエリザの顔を覗きこむ。昇りつつある朝日の光を受けた彼女の顔は、筆舌にし難い程に美しかった。それ程までに美しく、また本気でヴィショップが美しいと思った女性を、彼はエリザの他には一人しかしらない。
「これが俺だ、エリザ。本気で綺麗だと思った女を誰一人として守れない、男の風上にも置けない人間。それが俺だ」
指を動かして、そっとエリザ瞳から流れ落ちた涙を拭いながら、ヴィショップは二度と返事を返さない女性に向かって語りかける。
「お前の本当の間違いは、復讐を望んだことじゃない。俺と関わり、俺に生きる意味を見出したことだ。お前は…俺に会うべきじゃなかった。俺を拒絶し続けるべきだった。そうすれば、こんな酷い死に方なんぞしないで済んだんだ」
ヴィショップはそう語りかけると、顔を上げて天を仰いだ。
「まったく…本当にその通りだぜ…! 復讐なんぞに入れ込んだ奴は、まっとうな人生など送れない…! 本当に…! 本当に…!」
そしてヴィショップは呟いた。誰に向かって言うでもなく、ただただ自分の感情に任せて。
「最ッ低のクソだぜ、復讐ってやつはよ…!」
「……やっぱり、ここに居たか」
真っ青な空に浮かぶ太陽の日差しを受ける背中にヤハドの声が投げかけられたのは、ヴィショップがそこに腰を下ろしてから十数分が過ぎてからのことだった。
「もう船が出る。そろそろ向かわなければ置いていかれる」
黒い外套にカウボーイハット。ガンベルトに吊るしたホルスターからは、すっかり血を拭い去られて元の輝きを取り戻した白銀の魔弓が収めらている。エリザの名が刻まれた墓石の前に腰を下ろしたヴィショップの姿は、この土地に訪れた時とほぼ同じだった。
エリザの死から四日が経っていた。エリザの死後、ヴィショップは普段と何ら変わらぬ態度でやるべきことをこなしていた。この国を出る準備や『グランロッソ』に戻ってからの行動の為の準備などといったことを。ただエリザの墓が作られて以降、彼は毎日欠かさずにエリザの墓に訪れていた。そして煙草を吹かすことも酒で喉を潤すこともせず黙って墓石を眺めたまま時間を過ごし、やがて立ち去る。それをヴィショップは毎日行っていた。
「あぁ、今行く」
短い返事を返して、ヴィショップは立ち上がる。それでもすぐには動き出さずに、じっとエリザの名が刻まれた墓石を眺めていた。
「…お前が気に病むことはない。彼女は復讐を望み、そして復讐を果たした。それは紛れも無く、彼女にとっての救いの筈だ」
ヤハドは知らない。エリザの最期がどのようなものだったのかを。そもそもヴィショップが誰にも話していないのだから、ヴィショップを除いてエリザがどのような言葉を吐きながら死んでいったのかを知る人間はいなかった。
「そうじゃないさ。ただ、やっぱり少し難しいだけだ。一度入れ込んだ女を忘れるっていうのはな」
灰色の墓石を見下ろしながらヴィショップは言葉を返す。ヴィショップの背後に立つヤハドが、彼の背中に視線を向けたまま訊ねる。
「無理に忘れようとしなくても構わないんじゃないか?」
「いや、忘れなくちゃならないんだよ」
ヤハドの質問に対して、ヴィショップは殆ど悩むことなく返事を返した。
「俺はな、ヤハド。結局こいつに、惚れてる女の姿を見出していただけにすぎないんだ。とどのつまり、俺はこいつ自身の姿なんぞまともに見ちゃいなかった。ただこいつの中にある、愛した女の姿だけを追い求めていただけなんだよ、俺は。だが、そんなことは侮辱以外の何物でもない。こいつと…俺が愛する女に対しての、最大のな。だから、ここで終わりにするべきなんだ。こいつも、死んでまで俺みたいな人間に囚われ続けない方が良いに決まってる」
そう言うと、ヴィショップは墓石に背中を向けて歩き出す。
「それに、まだ何も終わってない。まだ、何一つな」
すれ違いざまにヤハドの肩を軽く叩いて、ヴィショップはヤハドの横をすり抜ける。ヤハドはヴィショップが自分の視界から消えた後も、じっと彼が座っていた場所に視線を向けていたが、やがてゆっくりと自分から遠ざかっていくヴィショップに向けて言葉を発した。
「お前は、彼女の最大の不幸は自分のような人間と関わったことだと言ったな」
「…あぁ」
脚を止め、ヤハドの問い掛けに答える。返事を受けたヤハドは振り返ってヴィショップの方に向き直り、彼に訊ねた。
「なら、今の自分と決別したいと…まともに彼女と過ごすことが許される人間になりたいと思ったか?」
ヴィショップはヤハドに背を向けていた。だから、ヤハドには彼がこの言葉を発した時ヴィショップの顔に浮かんだ表情を知ることは出来なかった。
「……愚問だな、ヤハド」
ヤハドの言葉を受けた瞬間にヴィショップの顔に浮かんだ表情、それは紛れも無く、不意を突かれ意表を突かれた人間が浮かべる、驚きの表情だった
「そんな考えが一瞬たりとも頭を過ぎらないような人間だからこそ、俺はここに立ってるんだぜ?」
ヤハドに向かって振り返った時には、その表情は消えていた。代わりに浮かんでいたのは薄っぺらい笑み。見る者の怖気と寒気と不快感とを掻き立てる薄ら笑いだった。
そしてヴィショップは再び歩き出した。自らが暴力と死と悲しみを振りまいた、この地に別れを告げて。




