追憶の女
日は沈み夜の帳が落ちた空に人々の声が響き渡る。空では無数の猟犬の姿が描かれた旗が風にたなびいて揺れている。
ガロスの死から数時間が経過していたが、人々の熱気は未だに留まるところを知らなかった。残った国王軍はガロスの死が分かってもなお戦う意思を崩さなかったものの、それはあくまで一部の話であり、全体的な士気の低下に加えて降伏を望む兵士達と戦闘継続を望む兵士達の間で内部分裂まで始まった結果、『クルーガ』の軍勢の『リーザ・トランシバ』への侵入を待たずに、国王軍は呆気なく瓦解した。その結果、城に避難していた貴族や大臣、一部の富裕層等も逃げる間もなく民衆によって捕縛され、『スチェイシカ』政府はその機能を完全に停止し、『リーザ・トランシバ』及び『ウートポス』における戦闘は終結した。残るは地方の都市に対する対処だが、現時点では戦闘が起こっているのはごく少数であり、残りの殆どはガロスが死んだ事実を受け止め、降伏と統治権の放棄を宣言していた。この調子ならば恐らく、国内での戦闘が完全に終結するまで大した日数は掛からないだろう。
そして革命の現場となった『リーザ・トランシバ』では、勝利を手にしたレジスタンスと民衆達が戦勝祭を行っていた。といっても、未だに戦闘行為が終了して数時間しか経っていないので、怪我人の手当等をしつつ酒を飲んだり食べ物を食べたりする程度のことなのだが。ただ、それだけでも人々の活気は凄まじく、いくら大して離れていないとはいえ隣町である『ウートポス』にいるヴィショップにもその喧騒が聞こえてくるほどだった。
そして、大きな盛り上がりを見せている『リーザ・トランシバ』とは裏腹に『ウートポス』の雰囲気は静まり返っていた。聞こえる声といえば精々が、民衆に食料を配給する『グランロッソ』の騎士の声ぐらいだった。それも当然と言えば当然の話で、『リーザ・トランシバ』のようにレジスタンス主導の民衆による戦いによって制圧された訳ではなく、唐突に姿を現した『グランロッソ』の軍勢によって瞬く間に制圧された『ウートポス』の民にとっては、今の状況は不安の真っただ中にいる以外の何物ではなかった。何せ、町長は倒され街の全権を握っているのは外国の軍勢。そして肝心の政府は打ち倒されてしまっているのだから。
ヴィショップはそんな『ウートポス』の街並みを一人で歩いていた。その姿は傍目からはいつも通りだったが、どこかくたびれた雰囲気を纏っていた。恐らく彼のことを良く知る人間が見たならば、何歳か老け込んだようだ、という感想を抱くだろう。
そんなヴィショップの足は『ウートポス』の町長が住んでいた屋敷の前で止まった。門の前には二人の騎士が槍を構えて見張りをしていたが、ヴィショップの姿を見ると丁寧に挨拶をしてから門を開いた。ヴィショップはその門を抜けて屋敷の中に入る。玄関を潜ると、歳の若い端正な顔つきの騎士が声を掛けてきた。
「お待ちしておりました、ヴィショップ殿。団長閣下は二階でお待ちです」
若い騎士はそう告げると、付いてくるように身振りで示して屋敷の置くへと歩き出す。ヴィショップは彼の後について歩いていく。
若い騎士の足は階段を上がり、少し歩いたところにある扉の前で止まった。若い騎士は扉を二度ノックすると、中に居る人物に聞こえるように声を張ってヴィショップの来訪を告げる。
「団長閣下。ヴィショップ殿がお見えになられました」
「通してくれ」
船の上で聞いたことのある声が返事として返ってくる。若い騎士が扉を開くと、町長のものと思しき書斎の机に腰を下ろしたジードの姿が視界に入ってきた。恰好は船で会った時と違い、鎧を身に着けていないラフな恰好に変わっていたが。
「邪魔するぜ」
「適当にかけてくれ」
ヴィショップは書斎に足を踏み入れると、ジードに勧められた通り部屋の左に設置された暖炉の前に置かれた二人掛けの椅子に腰を下ろした。ジードはヴィショップが座ったのを確認すると、ヴィショップをここまで連れてきた若い騎士に視線を向ける。ジードの視線を受けた若い騎士は恭しく頭を下げるて、扉を閉めた。
扉の閉まる音が静かに二人の鼓膜を揺らした。扉が閉まるとジードは立ち上がり、棚に飾られていた二つのグラスとワインを持ってきて机の上に置く。机の上に置いてあった短剣で栓を抜いて、二つのグラスにボトルを傾ける。血を連想させる赤色の液体がグラスに注がれると、ジードはグラスを二つとも持ってヴィショップの許にやってきて、片方のグラスをヴィショップに差し出した。
「此度はご協力に感謝する。私の部下が世話になった」
「……あいつ等をこの国に送り込んだのはあんたか?」
差し出されたグラスを受け取りながら、ヴィショップは訊ねた。
「ロッソ…ヴィクトルヴィアの方は違う。私の前任の判断だ。だが、ヤーゴの方は私だ」
「そうか。まっ、結局どっちもこの国に骨を埋める破目になったんだから、誰が送り込んだか何かは些細な問題か」
そう言ってヴィショップはグラスに口を付ける。
トランシバ城になだれ込んだ民衆の一人の曰く、ヤーゴはガロスの死体に重なり合うようにして死んでいたらしい。全身傷だらけの血塗れで右手が千切れていたにも関わらず、左手はガロスの首に深々と突き刺さったナイフの柄をしっかりと握っていたとのことだった。
「ヴィクトルヴィアの方は既に処分されてしまっているから無理だが、ヤーゴの方は引き取って国で埋葬するつもりだ」
「おいおい、そいつは余計なお世話ってやつだろ。奴も、自分の主と一緒の土地に眠りたいに決まってるさ」
ジードの言葉をヴィショップが苦笑を浮かべて否定する。するとジードは意外そうな表情を浮かべて、ヴィショップを見た。
「驚いたな。ヴィクトルヴィアの報告からだと、そんな気遣いは出来ない人間だと思ってたが」
「…あの、エセ貴族が」
ジードの言葉を受けて、ヴィショップは天国に居るのだか地獄に居るのだか分からない故人に向けて悪態を吐いた。ジードはそんなヴィショップの姿を見てつまらなそうに鼻を鳴らすと、机へと帰っていく。
「さて、ではそろそろ本題に入ろうか、ヴィショップ・ラングレン。そしてアブラム・ヤハド。今回の一件、お前達はどういう形で絡んでいるんだ?」
真剣な面持ちでジードが訊ねる。
その問いに対して答えを返すこと。それこそが、ヴィショップがジードの許を訪れた理由だった。
「お前達は『クルーガ』にて、ウラジーミル・レズノフ、ミヒャエル・エーカーと共にローマン・バレンシア侯爵のご息女、フレス・バレンシアの依頼を受けている。そしてその数日後、お前達二人の消息は途絶え、次に判明した時は『スチェイシカ』の犯罪組織『コルーチェ』を経由して、『リーザ・トランシバ』のレジスタンス組織と接触し、更には我々のスパイとも接触した上でその正体を暴いている。かと思えば、ウラジーミル・レズノフとミヒャエル・エーカーが『パラヒリア』でドーマ・ルィーズカァントが『コルーチェ』と繋がって行っていたと思われる犯罪行為を暴いてたという事実が明らかになった。しかもこの事件、何者かが発覚直前に『コルーチェ』とドーマ・ルィーズカァントの繋がりを断ち切るような動きしていた可能性がある」
「…それで?」
一端言葉を切ってジードはヴィショップの顔を睨みつけた。しかしヴィショップは特に緊張している素振りを見せずに、グラスを傾けている。その素振りを見てジードは現時点で自分の望む答えが引き出せないことを悟ると、話を続けた。
「私の考えは、こうだ。理由は不明だが、お前は『クルーガ』を出た時点で『スチェイシカ』での革命に狙いを定めていた。そして『コルーチェ』とドーマ・ルィーズカァントが繋がっていることを知ったお前は、レジスタンスとの接触の為に『コルーチェ』との繋がりを得る為に、二手に分かれて片方に『コルーチェ』を追いつめさせ、一方で片方が『コルーチェ』を助けて信用を得ようとした」
「いい勘してるな。大体、そんなところだぜ」
グラスを持ったままヴィショップが拍手代わりに軽く手首を叩く。
「世辞は要らない。それよりも、私が聞きたいことはそこじゃない」
ジードは冷淡にヴィショップの軽口を切り捨てると、いくらか凄味を増した声音でヴィショップに問いかけた。
「ヴィクトルヴィアがスパイだと見抜かれた件に関しては奴自身から理由の報告を受けたから構わない。ドーマ・ルィーズカァントと『コルーチェ』の関係についても、それを知っている元騎士団の人間が関わっていたことが掴めたから問題はない。私が気に掛けているのはそこではなく、この仮説が本当だった場合、お前達は明確に『スチェイシカ』の政府を打倒することを目的として行動していたという点だ。一体、何が目的なんだ?」
ヴィショップから微塵も視線を動かすことなく、ジードは答えを待った。個人が一国の転覆を目的として行動するなど、到底正気の沙汰とは思えない。しかもそれが『スチェイシカ』を訪れてからならばともかく、訪れる前から計画していたとなれば尚更である。
ヴィクトルヴィアからの報告や、『パラヒリア』で起こった事件の報告。それら必要なピースが全て揃って、ヴィショップ達四人の行動の目的が分かった時以降、ぽっかりと抜け落ちた動機の存在がずっとジードの心を悩まし続けていた。故に、ジードは何としても聞きださなければならなかった。『スチェイシカ』の転覆を目論んだ理由を。
そして同時に、決断も迫られていた。その理由を聞いた時、目の前に居る男が果たして自国にとってどういう存在なのか、生かすべきか殺すべきかという判断を。
室内に沈黙が広がる。グラスを手にしたヴィショップの顔は俯き気味で、ジードにはその表情を窺い知ることは出来なかった。
「目的、か。まぁ、いいだろう。というか、元よりこれに関しては話すつもりだったからな」
不意にヴィショップが顔を上げ、沈黙が途切れる。顔を上げたヴィショップの表情から、ジードは何も読み取ることが出来なかった。
「俺がこの国を目標に定めた理由はな、追っている人物がこの国の政府と繋がっていたからだ」
「追っている人物…だと?」
訝しげな表情でジードが聞き返す。
「あぁ。といっても、分かってることは殆ど無いんだがな。紅いローブに鳥の仮面を着けた、恐らくは男だ。本名は不明だが、マジシャンと名乗っている。その名の通り魔法士で、この国で何やら暗躍してたらしい。ほら、あの不死身の化け物女が居ただろ? あれもあいつが作ったものらしい」
首を縦に振って、ヴィショップは地下通路、そして南大門の上で出会った人物について語る。無論、その人物を追ってこの国にやってきたというのは出任せだが、女神に命じられてこの世界に起こるらしい異変を解決する為にやってきた、など言うよりは遥かに信憑性のある話であるし、何よりマジシャンなる人物を追うことはヴィショップ達の新たな目標となっていた為、完全に嘘偽りしかないという訳でもなかった。
「成る程。たった一人の人間の為に国を堕とそうとするのは不可解だが、あのような存在を生み出す人間が相手となれば、納得出来なくはない。だが、どうしてそんな人物をお前達は追おうとしているんだ?」
完全にといった風ではなかったものの、いくらか得心のいった表情でジードが次の質問をぶつける。
「ちょっとした因縁があってな。極個人的なものだ」
「復讐といったところか?」
「まぁ、概ねそんなとこだ」
ヴィショップはジードの考えを曖昧な受け方で肯定する。実際には、あのマジシャンに対して復讐心など四人の内、誰一人として抱いてはいないのだが。
「…いいだろう。お前達の行動に関しては大体は納得出来た」
「そりゃ、どうも」
微笑を浮かべて、ヴィショップはグラスを口元へと運ぶ。その様を見ながらジードは、彼に今後の行動について訊ねる。
「それで、この後はどうするつもりだ? 『グランロッソ』に戻るか? それとも、ここに滞在するのか?」
「取り敢えずは『グランロッソ』に戻るさ。向こうに残してきてる奴等も居るしな。んで、そのことについて何だが、二、三あんた等に頼みたいことがある」
グラスへと伸ばしかけていたジードの手が動きを止めた。ジードは視線をヴィショップへと向ける。その視線には、隠そうともしない不信感が現れていた。
「何だ?」
「おいおい、そんなに警戒しなくてもいいだろ? あんた等がこの国を落とすお膳立てをしてやったんだ、いわば俺は恩人みたいなもんじゃねぇか」
そんなジードの視線を受けて、ヴィショップは苦笑を浮かべながら軽口を叩く。だが、それに対するジードの反応は冷ややかだった。
「これまでの情報から導き出されるお前の行動を鑑みれば、ここで殺してないだけでも充分過ぎる程に温情をかけている。はっきり言おう。目的の為なら犯罪者とも容易く手を結び、年端もいかない子供を供物に捧げ、あまつさせ戦争すら引き起こそうとする人間は、危険人物以外の何者でもない」
「こりゃあ、手厳しい…」
ヴィショップに向けられた冷酷な眼差しが、ジードの発した言葉の全てが彼の本心であることを語っていた。恐らくここで変な真似をすれば、ジードは何の躊躇いも無くヴィショップに切ってかかるだろう。
だが、それを知ってもなお、ヴィショップは苦笑を浮かべたまま、話を続けていた。
「まぁ、金が欲しいとか地位が欲しいとかじゃないから安心して聞いてくれ。まず最初は、今回俺とヤハドがこの革命に関わっていたことを隠匿して欲しいってとこからだ」
「…理由を言え」
少しの間考え込んだ後、ジードがそう訊ねる。
「ただ単に、革命の英雄なんて称号が邪魔くさいだけさ。そこまでデカい称号だとフットワークの軽さが完全に殺されかねない。あの手品師を追う為にもこれから色々動くつもりだし、自由に動き回れなくなるのは勘弁したい。それに、俺が革命に関わってたことが知れると、もしかしたらあんたみたいに『パラヒリア』での事件との繋がりに気付く人間が出てくるかもしれないしな」
何てことはなさそうにヴィショップは答えていく。ジードはそんなヴィショップの姿を見定めるようにじっと眺めた後、次の要求に移るように促す。
「いいだろう。確約は出来ないが善処してみる。次は?」
「次のはあんたも薄々予想が付いてる要求だ。ズバリ、マジシャンとかいう奴の行方の捜索に関して、あんた等の協力が欲しい」
その要求の意味することはすなわち、『グランロッソ』という国の総力を挙げてマジシャンの行方を追え、ということだった。もっとも、その要求が出てくるのはヴィショップの言葉通り、ジードからしてみれば予想の範疇内だった訳だが。
「分かった。そちらも確約は出来ないが受け負おう」
故に、一々その理由に関して問い質す真似はしなかった。返事を訊いたヴィショップは満足そうに頷くと、最後の要求を告げた。
「後は単純な好奇心なんだが、これからこの国をあんた等はどうするつもりなのか聞いておきたい」
その言葉を聞いたジードの表情は、ヴィショップがヤーゴの死体をこの国で埋葬してやるように言い出した時以上に、意外そうだった。
「まぁ、理由はどうあれこうして関わってる訳だからな。少しぐらいは行く末が気になっても別におかしくはねぇだろ?」
その表情で全てを悟ったヴィショップが、ジードが何かを言い出す前に質問の真意を語った。ジードはそれを黙って聞くと、少しの思案の後に口を開いた。
「今回の作戦は完全に予期していないものだった。故に、まだ国王を初めとした大臣達もこれからどう動くかは決めかねている。だから俺が今ここで言ったことの通りになるとは限らないが…」
ジードはそう言うと、左の拳で軽く机の表面を小突いた。
「恐らくこの街を『グランロッソ』の実質的な植民地にするのが関の山だろう。良くても、新生『スチェイシカ』政府にアドバイザーの名目で何人か人間を送り込む程度だろうな」
「ほう、えらく消極的だな」
そう答えたジードの表情はどこかくたびれていた。ヴィショップが意外そうな表情を作って彼のその表情を眺めていると、ジードは不機嫌そうに鼻を鳴らして答えを返した。
「元々、我が国は最近景気が傾いていたんだ。そこにルィーズカァントの馬鹿のスキャンダル、そして今回の遠征がきて、国民の不満も国の出費も一気に膨れ上がった。もしこれでこれ以上この国ともめていたら今度はこっちで革命が起こりかねないし、この国の再建に手を貸して恩を売るだけの金も無い。となれば、後は適当に両者が納得出来る妥当な成果を手に入れてこの国からは手を引くしかないだろう」
物憂げな口調で話すジードの話を聞きながら、ヴィショップの脳裏には使用人が一人しか居なくなったバレンシア家の風景が蘇っていた。あの時は単純に、延命用の薬が高すぎるせいであのザマになったのだと考えていたが、もしかしたらバレンシア家があそこまで追い込まれたのは『グランロッソ』の財政難の余波もあったのかもしれない。そう考えてみれば、バウンモルコスの討伐をギルドに丸投げする等、所々で国力の衰退を感じさせる点は存在していた。
「なら、少なくともこの国の連中が必至こいて王族のケツを蹴り上げた意味はあったってことか」
「そういうことになるな。まぁ、『スチェイシカ』も『グランロッソ』も利用していたお前に言われたくはない台詞だが」
ジードの憎まれ口に苦笑を浮かべつつ、ヴィショップは立ち上がった。そして残っていたグラスの中身を飲み干すと、空になったグラスをジードの前の机に置いた。
「ごちそうさん。これ以上話が無いなら、返ってもかまわないか? どっかの馬鹿が酒の飲み過ぎでくたばらないか見張らないといけないしな」
「…そうだな。では、もう行くといい」
ジードは一瞬黙り込んでから、話が終わった旨を伝えてヴィショップに帰るように促す。ヴィショップは軽く頭を下げるとジードに背を向け、書斎を後にした。
「帰国の日程は決まり次第伝えるそうです。では」
「あぁ」
書斎のすぐ外で待っていた若い騎士に見送られてヴィショップは町長の屋敷の外に出る。屋敷を出たヴィショップは隣町と違って陰気な雰囲気の充満した街並みを歩きながら、どこで飲んでいるとも知れないヤハドの姿を求めて歩き始める。
「よう。居ないと思ったら、一人寂しく何歩いてるんだ?」
だが、歩き始めてから数分と経たない内に声を掛けられ、ヴィショップの足はその歩みを止めた。
「何、いい歳こいて酒の加減間違えて死ぬかもしれない奴のお守りをしようとしてるだけさ」
左手の路地から行く手を遮る様にして伸びてきた手に握られた酒瓶を受け取りつつ、ヴィショップは声の主であるエリザへと視線を向ける。酒を受け取ったのを確認したエリザは腕を下げると、ヴィショップの目の前に出てきた。
「あの男がそこまで歳を取っているかはともかく、それについては問題ないと思うけどな」
「何でだ?」
「お前よりよっぽど心の癒しになりそうな子たちが、お目当ての男を探し回ってるからさ」
エリザは微笑を浮かべながらそう告げると、ヴィショップの右隣に並んだ。
「あのガキ共か。確かに、俺が近くに居ても話がこじれるだけだろうな」
エリザの返してきた答えに、ヴィショップは苦笑を浮かべて返事を返す。
そして二人は殆ど同じタイミングで歩き始めた。
「だろうな。あの子を使うことを決めたのはお前だし、その当の本人があんなことになればな…」
目を細め、どこか沈痛な面持ちでエリザが呟くよう言葉を発する。彼女の言葉を黙って聞き入るヴィショップの脳裏では、革命が決した瞬間の光景が鮮明に蘇っていた。
ごめんなさい。それがガロスが耳にすることが叶わなかった、彼の娘であるサラ・ノウブリスが最期に発した言葉だった。その子言葉を発した後、彼女は目に涙を浮かべたまま物見櫓のてっぺんから身を投げた。そしてそれを、その場に居たヴィショップは止めることが出来なかった。
予想することが出来なかったのだ。まさか、一度しか会ったことのない、触れ合いの殆どが手紙の中だけの、数時間前まで父親とすら思っててなかった人間の命を助ける為に、サラが自らを犠牲にするなど。そしてヤハドが彼女に告げた言葉が、その選択肢を彼女に与える程に強く心を揺さぶっていたことを。
結局間一髪のところで、ヤーゴの文字通り死力を尽くした働きによりガロスを殺すことが出来たものの、もしそれがなかったら間違いなくヴィショップ達はこうして話などしていられないだろう。しかもそれが戦う力を持たない少女と自身の仲間の存在を軽視した、他でもないヴィショップ自身の責任なのだから増々笑えなかった。
「まぁ、策略家を気取るのもほどほどにしておけ、っていう女神様のお達しだったってことだろう」
黙りこくるヴィショップの姿から何を読み取ったのか、エリザは途端に砕けた表情で軽口を叩く。それが自分を励まそうとしていることにヴィショップが気付くのに時間は掛からず、ヴィショップは苦笑を浮かべて返事を返した。
「もしそうだったとしたら、こう言ってやりたいね。俺みたいな男に一々眉をしかめてる暇があったら、もっと別のことに精を出せってな」
「ほう? 例えば?」
「俺の真横の女が行き遅れにならないようにとかさ」
「少しは紳士らしく振る舞えないのか?」
軽くヴィショップの脇腹を小突きながら、エリザが楽しげに笑みを零す。その後も二人はぽつりぽつりと他愛の無い会話を続けながら歩き続け、気付けば港に辿り着いていた。
「なぁ、ヴィショップ。お前、この後はどうするつもりなんだ?」
桟橋を歩きながら、エリザがヴィショップに訊ねる。
「数日したらこの国を出て『グランロッソ』に渡る」
「『グランロッソ』にか?」
「あぁ。向こうでやることが出来たんでな。お前は確か、店の再興だったな?」
ヴィショップがそう問いかけると、エリザは空に広がる漆黒の天蓋を映した真っ黒な水面を見つめながら答える。
「…そうだ。こうして終わってみて、やっぱり自分は復讐がしたいだけだったんだって気付かされたよ。政治にとんと興味が湧かない」
「ただ単にお前が馬鹿なだけじゃなくてか?」
「言ってろ、悪党」
互いに軽口を交わしながら会話が進む。二人の姿を見守るのは停泊している何隻もの船と、ただ一隻だけ港を離れて停泊している『グランロッソ』の軍用船だけだった。
「冗談だよ、冗談。まっ、いいんじゃないか? お前の店は食堂だろ? それなら少しは女らしさも学べるだろうし、あの世でヴィクトルヴィアの野郎も胸を撫で下ろしてるだろうし」
「かも、な…。だが、その前に私もやることが出来たんだ。お前と同じで」
そう言ってエリザはヴィショップの前に出てくると、海に背を向けてヴィショップの方に振り向いた。ヴィショップは訝しげな表情で足を止める。エリザは視線を動かし、どこか気恥ずかしげな素振りで口を動かした。
「先に、世界を回ってみたいと思う」
一瞬驚いたような表情を浮かべた後、ヴィショップの脳裏に青肌の女性を沈めた後の船でのエリザとの会話がフラッシュバックする。
その瞬間、彼女の言葉が何を指しているのかをヴィショップは理解した。
「おいおい、ついさっき人を悪党呼ばわりした人間の台詞とは思えないぜ」
「あれは冗談だ。そのぐらい察しろ」
少しムッとした表情でエリザが答える。ヴィショップはガリガリと頭を掻くと、小さく溜息を吐いてエリザに質問を投げかける。
「二つ確認しときたいことがある。一つ目、まさかとは思うが、俺に惚れたなんてことはないよな?」
「…お前、結構自意識過剰だろ?」
「ほっとけ。いいから答えろよ」
小馬鹿にした笑みを浮かべたエリザの言葉を流して、ヴィショップは自分の質問に答えるように促す。エリザは小馬鹿にした笑みを引っ込めて彼の質問に答えた。
「お望み通り、そういう感情じゃない。というか、復讐が終わったりヴィクトルヴィアのことだったり色々あり過ぎて、そんなこと考えられもしないしな。私はただ単に……お前と居ると退屈しない、そう思っただけだ」
最後の方はやはり羞恥心の方が勝ったのか、段々と声が尻すぼみになっていっていた。そして全て言い切るとエリザは手に持っていた酒瓶の中身を全て流し込んで、今しがたの発言を吹き飛ばそうとするかのように声を上げた。
「さぁ、これで満足だろ? 次は何だ、次は?」
「その程度のことを言うのに、何でガキの告白みてぇになって…分かった! 分かったから止めろ、クソッ、酔ってんのか!?」
ヴィショップの言葉を遮るかのようにエリザがヴィショップの脛を狙って蹴りつけてくる。ヴィショップは悪態を吐きながらそれを躱すと、もう一つの質問をエリザへと投げかけた。
「二つ目。俺と一緒に行けば、俺のやり方に嫌が応にも従うことになる。お前はそれでいいのか?」
エリザの顔をしっかりと見据えて、ヴィショップはそう問いかけた。
彼女の言葉に偽りはないだろう。実際、国の行く末云々は建前で復讐だけが彼女の望みだったのかもしれない。だが、それと同時に初めて会った時にヴィショップに対して向けた嫌悪感も彼女の本当の感情だった。
もしも彼女が復讐の為なら手段を択ばない程に正気を失くしていたのだとしたら、ヴィショップの言葉もヴィクトルヴィアの死も彼女の心には響かなかっただろうし、そしていくらそれ以外に手段が無かったとしても自分の手でケリを付けられない結末などに納得しなかっただろう。エリザの血筋に刻み込まれた戦士の遺伝子は確かに彼女にも受け継がれており、それはヴィショップの生き方に彼女が従い続けることが決してないことを意味していた。
そしてそれはヴィショップ自身も理解していた。故に彼はこの質問をエリザの投げかけたのだった。
もっとも、それだけが理由の全てという訳ではなかったが。
「……確かにお前のやり口は気に食わないな。卑怯だし、残酷だし、下劣だ」
ヴィショップの問い掛けに答えずに黙っていたエリザが不意に口を開く。今度はヴィショップが黙って彼女の言葉に聞き入った。
「でも、お前はそれしか出来ないって訳じゃない筈だ。ただ単に、お前は勝つためにそうしなければならないってだけでな。だからそんな手段を取らなくても済むだけの力があれば、人の愛情を理解したり善意を逆手にとって都合の良いように動かしたりなんかする必要は無い筈だ。現に…」
エリザの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。そこには先程のような恥ずかしそうな素振りは無かった。
「あの怪物相手に一緒に戦った時、私はとても楽しかった」
この時、いつも口を突いて出ている他愛の無い軽口はヴィショップの口から出てこなかった。彼はただ、両目を大きく見開いてエリザを見つめ、そして彼女の言葉に耳を貸していた。
「だから、私が力を貸して証明してやる。お前でも、絵本の勇者みたいな誰からも貶められることのない生き方が出来ることをな」
笑顔でそう告げたエリザの姿が、ヴィショップの記憶の中の全くの別人と重なる。
その人物もまた、今の彼女のような表情を浮かべ、そして今のエリザのようにヴィショップに向かって手を差し伸べていた。
それは彼がまだ唾棄されるべき悪漢へと堕ちる前の光景。彼が人生で最も愛した女性に、永遠の愛を誓った日の光景。
「……絶対に後悔するぞ。それに、世界にはお前程度の力じゃ太刀打ち出来ない問題など腐る程ある」
久しく思い返していなかった記憶。それに今すぐにでも全てを預けたい衝動を抑えながら、ヴィショップはエリザの覚悟を問う。
エリザはヴィショップの最愛の人物に似ている。姿形ではなく雰囲気が、での話ではあるものの、逆に容姿さえ棚に上げれば瓜二つと言える程に。そしてだからこそ、ヴィショップは彼女を自分の仲間にしたくなかった。彼女を自分と同類まで貶めたくなかった。出来る事ならこの国で真っ当に暮らし、二度と出会うことが無ければいいとすら思っていた。
「そんな問題に直面したら、精一杯足掻いて、それでも無理ならお前に従うさ。それでお前を道ずれに命一杯後悔してやる。それが終わったら、次はお前がそんなことをしなくても済むように力を尽くすだけさ」
だが、そのエリザの言葉を聞いた瞬間。
ヴィショップの右手はかつての光景をなぞるかのように、ゆっくりとエリザが差しのべた手に向かって伸びていた。
そしてヴィショップの右手の指先がエリザの指先に触れた瞬間、
「………ぁ?」
彼の顔を、生温かい真紅の液体が濡らした。




