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Bad Guys  作者: ブッチ
Bring On Revolution
82/146

決着

 その声が発せられた瞬間、ヤハドとサラの間にあった空気が一瞬で凍りついた。

 弾かれたようにヤハドが振り向き、部屋の入口に顔を向ける。入り口を塞ぐように立つヴィショップは振り向いたヤハドを冷淡な目付きで見下ろしていた。


「ヴィショップ…さん…? どうして、貴方が……?」


 部屋の奥で呆気に取られた表情を浮かべていたサラが口を開く。記憶に残る人物とはあまりにもかけ離れた雰囲気のせいか、ヴィショップの名を発するサラの声はどこか不安気だった。

 ヴィショップはヤハドに向けていた視線をサラへと向けると、笑みを浮かべて彼女に声を掛けた。


「どうせそこのターバン野郎から一通り聞いてるんだろ? なら分かる筈だ。“そういうことさ”」


 しかしその笑みはかつて教会でサラに向けていたものとは異なり、あまりにも薄っぺらいものだった。そして彼女に向けていた視線も、サラという存在に対する興味を塵ほども含んでいない、あまりにも冷たい視線だった。

 サラの双眸が、大きく見開かれる。ヴィショップはそんな彼女から視線を逸らして、ヤハドへと戻すす。

 いや、戻すいうのは正確ではなかった。正確には立ち上がったヤハドが、まるでサラをヴィショップから守るかのように、二人の間に割って入ったのだ。


「何の用だ、米国人? お前は今頃あの城に居なければならない筈だが?」

「何、色々あってヒーロー役から脱落してな。それより、お前こそ何してるんだ?」


 ヴィショップを見るヤハドの視線は、敵意が宿っていたとしても何らおかしくはないものだった。しかしヴィショップは依然として薄ら笑いを浮かべたまま、会話を続けようとする。


「俺は言った筈だぜ? こいつには何も知らせず、ただ適当に高い所に引っ張ってって喉元にナイフを突きつけておけ、とな。だが、実際には俺の言い付けとは全く違うことになってきている。お前の手にはナイフが握られていないし、そいつは高い所どころかこんな辛気臭い部屋に居て、その上お前は呑気にお喋りを楽しんでる」


 そこまで話したところで、ヴィショップの表情から笑みが消えた。


「なぁ、ヤハド。俺は何も、そこのガキをエンパイヤ・ステート・ビルのてっぺんに括りつけろとも、ナチ野郎も真青の拷問に掛けろとも、ましてやミレニアム・プライズ・プロブレムスの答えを語って聞かせてやれとも言ってない。俺の要求は全部、コカインで脳味噌が蕩け切った馬鹿でも出来ることだ。なのに、それをどうしてお前はやってないんだ?」


 軽妙な口調でそう問いかけるヴィショップだったが、今の彼の前で下手な誤魔化しなどしようものなら、間違いなく自分の行いを後悔するレベルでの不幸に見舞われるのは明確だった。

 ヴィショップとヤハドの間に沈黙が流れる。その沈黙の最中、ヤハドの右手は彼自身ですら気付かない内に、いつでも腰に下げた曲刀に触れることが出来る位置に動いていた。


「……この娘には、知る権利がある筈だ。本当の親のことを…」

「権利? 権利だと!? ハッ! 馬鹿馬鹿しい!」


 右手が動きを止めたところで、ようやくヤハドが口を開く。しかし彼の発した言葉は、最後まで言い切られるのを待たずにヴィショップの嘲笑によって遮られる。


「今更権利だのどうとか、御託をならべるな。お前や俺がどうやって生きてきたのかを、よくよく考えてみろ。この世に生れついた全ての人間は生きる権利を持っている。それは間違いない。俺達はその権利を否定し、踏みにじることで、今ここに立っているんだ、違うか? だというのに、今更権利云々を嘯いてみたところで、滑稽なだけだ。くだらねぇ。全くもってくだらねぇ理屈だぜ、ヤハド。そんな理屈じゃそこのガキは納得させられても、俺は無理だ」


 ヴィショップの発したその言葉には、本気の嘲りと否定が込められていた。彼は本心から、ヤハドの信念を侮辱し、否定していたのだ。

 だがヴィショップがそうした理由は、決してヤハドの行った行為に対する怒りからでも、彼の掲げる信念に本気で嫌悪感を抱いているからでもなかった。

 ヴィショップのヤハドに対する発言の真意、それはただ単にヤハドから冷静さを削ぎ落とし、向こうから最初の一撃を放たさせるためだった。


(悪いな。今はお前と無駄話してるだけの余裕は無いんだよ)


 発した言葉とは裏腹に、非常に冷静な思考でヴィショップは考える。

 ヤハドがこういった行動に出る事自体は薄々予想がついていた出来事であったし、彼がそのまま感情に流されてサラを逃してしまう程甘い人間ではないことも分かっていた。よって、ヴィショップの彼の取った行動に対する感情は怒りよりも、呆れの方が強く、到底わざわざ喧嘩腰の口調でヤハドの考えを否定する程ではなかった。

 むしろ今の状況でヴィショップを悩ませている問題は、こうしてヤハドとサラが揃い、そして自身が現在経っている『ウートポス』ではなく、『リーザ・トランシバ』におけるガロスとヤーゴ達の方にあった。

 今現在城で何が起こっているのかはヴィショップは把握していないが、いくら人員が薄くなったからといって敵の本陣であるトランシバ城にいつまでも潜んでいることなど出来る訳がなく、こうして会話を交わしている間にもヤーゴ達が見つかって戦闘が始まっている可能性は高い。そしてそうした場合、可及的速やかにサラという切り札を切らなければ、ヤーゴ達が全滅してしまうのは目に見えていた。

 既にこの部屋に足を踏み入れ、予想が当たっていたことを痛感した時からヴィショップはヤハドの説得を諦めていたのだ。そして彼が状況の打開の為に選んだ方法は、速やかにヤハドを無力化してその隙にサラを連れ出すことだった。


(もうこの革命自体に意味は無いんだが……失敗したら生きてこの国を出るのも難しいだろうし、失敗はしたくねぇんだよ。それに、どうにもほっとけない奴も居るしな)


 目の前に立つヤハドは、険しい表情をヴィショップに向けたまま一言も発さない。相対するヴィショップも、心中では雄弁に詞を漏らしつつも口は一切動かしてはいなかった。

 ヴィショップが話し合いを放棄してたように、ヤハドも話し合ったところで妥協点など見つけ出せないのは自覚し始めていた。そしてこの状況を打破する為の手段としてヤハドの頭を過ぎりつつある考えも、またヴィショップど同一のものだった。

 もっとも、その考えに行きついたこと自体、ヴィショップの望んだ通りの展開だったのだが。

 視線を交錯させたまま、一秒、二秒と時間が過ぎていく。既にヤハドは長剣を引き抜くことの出来る体勢をとっていたが、彼の右手は中々動こうとはしなかった。

 ヤハドに動くことを思いとどまらせたのは、恐らくは彼の戦士としての本能だろう。女神を名乗る女の現れた、天国と地獄の狭間と仮称された世界で初めてヴィショップと顔を突き合わせた彼に、当然ヴィショップの未来予知に片足を踏み込んだ見切りの技術など知る訳がない。だがそれでも、この状況で先に動けば確実に負けるということをヤハドは直感で理解しており、そしてその何の根拠も無い考えに従っていた。


(……どうした? 早く仕掛けて来い)


 それは得てして、ヴィショップにプレッシャーをかける結果を生んだ。

 ヴィショップがヤハドに先に仕掛けるように促したのは、先に動いた彼の動きを読んで攻撃を捌いた上でのカウンター以外に、ヤハドを倒す術が無いことを自覚していたからだ。事実、ヴィショップの身体はここに辿り着くまでの多くの戦いで疲弊しており、到底十全にポテンシャルを引き出せる状態ではない。そして何より、まだ使い道のあるヤハドを殺さずに無力化するにはどうしても近接戦闘に持ち込む必要があるのだが、そうなった場合最初の一撃でケリを付けなければヤハドに勝つのは不可能だったからだ。もしも最初の一撃を仕損じて単純な殴り合いになれば、傭兵などを使って軍事訓練を積んだヤハドと単なるマフィアのヴィショップではヴィショップが勝つ可能性は低い。その上ヴィショップの方が疲労が蓄積しているとなれば、もはや勝てる可能性はゼロに等しいだろう。

 だからこそ、ヴィショップはヤハドを挑発し最初の一撃を仕掛けてくるように誘導した。だが、実際にはヤハドはヴィショップの動きを警戒して仕掛けてくることはなく、彼の読みは最も肝心な部分で外れることになってしまった。


(マズイな…このままだと…。チッ、こっちから仕掛けるしかないか…?)


 必要以上に長く感じられる時間の中、ヴィショップの中に蓄積していく焦りが新たな選択肢を彼の脳裏に浮かび上がらせる。しかしそれをその選択肢を選べば、まず間違いなく最悪の展開になることが分かっている以上、ヴィショップにはそれを選ぶことは出来なかった。

 焦りと迷い、疑惑と覚悟が渦巻く沈黙が場を支配する中、徒に時間だけが過ぎていく。

 しかしその沈黙の時間は突如として破られることになる。ヴィショップの、ましてやヤハドのものでもない別の人物の手で。


「……もう、いいです」


 ヤハドの背後から不意に声が発せられる。

 その声を聞いた瞬間、ヤハドがハッとした表情を浮かべて振り返り、ヤハドの視界からヴィショップの姿が消える。それはまさに、ヴィショップの待ち侘びた決定的な隙だったが、その隙を突いてヴィショップが動き出すことはなかった。

 声を発した主であるサラが、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がった彼女の浮かべる表情が、ヴィショップにヤハドと争う必要が無くなったことを告げていた。


「ヴィショップさん、一つ条件があります」

「何だ?」


 ヤハドの背後のサラにヴィショップが問いかける。


「国王様を倒す前に…どうか、話をさせて下さい。少しだけでいいんです」

「……分かった」


 ヴィショップに顔を向けて話す彼女の顔には、無理矢理作り出したような笑みが張り付いていた。そんな表情を浮かべる彼女を、ヤハドは後悔や罪悪感等が混ざり合った表情を浮かべて見つめ、ヴィショップは微かに笑みを浮かべながら彼女の要求を承諾した。


「ありがとうございます…」


 小さく感謝の言葉を発して、サラが歩き出す。ヴィショップは彼女が歩き出したのを見ると、ヤハドに背を向けて部屋を後にした。

 小さく靴音を奏でながらサラは扉に向かって歩く。彼女が歩き出した時点で、ヤハドの顔は俯いていて彼女に向けられていなかった。


「……そんな顔、しないで下さい」


 ヤハドの隣でサラの靴音が止まる。

 彼女の掛けた声に反応して、ヤハドの顔がゆっくりと上がる。サラはヤハドの顔が自分に向けられるのを待ってから、彼に告げた。


「貴方のおかげで、向き合おうと思えたんです。例え貴方の言ったことが、ヴィショップさんの言う通りだったとしても…貴方の言葉のおかげなんです。それに…」


 その一言を吐く寸前、彼女の顔に笑みが浮かぶ。それは先程までの作り物とは違う、正真正銘の笑顔だった。


「もし何も知らなかったら、きっと私、全てが終わった後に絶対に後悔していたでしょうから」


 そして彼女の目から流れ落ちた一筋の涙もまた、嘘偽りの無い彼女自身の感情の産物であった。

 再びサラが歩き出し、足音が段々と遠のいていく。その足音を訊きながら、ただ一人部屋に残ったヤハドは爪を掌にきつくくいこませながら呟いた。


「畜生…!」







 階下から発せられる人々の闘争の雄叫びが這い上がってくる。周囲の地面を紅く染める血液がむせ返るようなな死臭を周囲にばら撒く。だがそのどちらをも、今のヤーゴに認知するだけの余裕は無かった。


「ハァ…ハァ…ハァ…!」


 荒い息遣いで、ヤーゴは剣を支えに自分の身体を起こす。ついさっきまでは自由に動いていた筈の身体が、今となってはまるで内臓の代わりに鉛が詰まっているのではないかと思える程に重かった。


「ッ!」


 その最中、何かが物凄い速度で風を切る音をヤーゴの鼓膜が捉える。その音を認知するや否や、ヤーゴは一切の思考を放棄して身体を真横に向かって投げ出した。

 刹那、握り拳大の光球が空に一本の軌跡を描きながら飛んでくる。そのスピードたるや凄まじく、最早傍目からには一条の光の線がヤーゴに向かって突っ込んでいったようにしか見えないことだっただろう。


「ぐっ!」


 地面を転がるヤーゴの口から苦悶の声が漏れる。それと同時に新たな鮮血が地面に飛び散る。

 だが、今度はそれだけでは済まなかった。血の他にも黒い影が宙を舞って飛んでいき、そして地面に倒れ込むヤーゴから少し離れた所に音を立てて落下した。


「ァ…! ぎ…ぐうっ…!」


 倒れていたヤーゴが芋虫の様にもぞもぞと動きながら身体を起こす。彼の両目は有らん限りに見開かれ、口元は歯を剥き出しにしてきつく噛みしめられている。

 左手を地面に突き、両脚を踏ん張ってヤーゴは無理矢理に身体を起こす。だが、立ち上がった彼からは数瞬前まで持っていたものが失われていた。

 それは長剣を握る右手だった。ヤーゴの右腕は肘から先が完全に消失しており、残った右腕の先端からは真っ赤な血が止めどなく溢れていた。

 脳を焼き尽くさんばかりの痛みの奔流に必死で抗いながら、ヤーゴが視線を右腕へと向ける。その出血量からして、恐らくはすぐにでも適切な処置を施さなければ命は危ういだろう。そして何より、彼の身体にある傷はそれだけではない。左腕、頬、腹、脚、身体中の至る所に光球による傷があり、そこからは少しづつ、そして着実に血液が流れ出ていた。


「無様だな。とうとう剣も握れなくなったか」


 前方から投げかけられた言葉は、その言い振りとは裏腹に一切の感情が籠っていない様にヤーゴには聞こえた。

 ヤーゴの視線が声の主へと向く。微かに歪み始めた視界の先で光球を従えるガロスの姿は、この空中庭園に足を火みいれた時と同じく傷一つ無いままだった。

 正確には、傷一つ付けられなかったのだ。率いて生きた仲間を失い、彼を警護する近衛兵を全滅させて一騎打ちに持ち込んでもなお傷一つ、汚れ一つヤーゴはガロスに付けることが出来なかった。彼が魔法を発動させて以降、彼に出来たのはただただ逃げ続けることだけであり、手にした長剣を振るうこともましてやガロスに近づくことすら出来ずにいた。

 それが全てであり、答えだった。そして今、右腕と長剣、そして大量の血液を失ったヤーゴは最早、次の一撃を躱すことすら不可能といえる状態になりつつあった。


「その血では長く持つまい。これで、元々無いようなものだったお前の勝機が更に減ったな」


 ヤーゴの足元に溜まる血溜まり眺めながらガロスが呟く。彼の許には既に先程放ったばかりの光球が戻ってきていた。

 ヤーゴは重い瞼をこじ開けてガロスの姿を視界に納め続けると、無言で腰に吊るしていたナイフを引き抜いた。


「まだ戦意を失わない、か。大した気概だな。だが、そんなナイフ一本でどうするつもりだ?」


 ガロスの問い掛けにヤーゴは行動で答えた。

 ヤーゴの右脚が血溜まりの中から引きあげられて、前に一歩踏み出される。続いて左脚も。そうして一歩一歩、ゆっくりとガロスに向かってヤーゴは近づいていった。


「分からんな」


 ガロスが一言呟くと、五つの光球の内の一つがヤーゴに向けて飛んでいく。撃ち出された光球は目にもとまらぬ速度でヤーゴの左脚を射抜き、苦悶の声を漏らしながら再びヤーゴが地面に倒れる。


「何故そこまで戦い続ける? 俺とて全く慈悲の心が無い訳でも敵に敬意を払わない訳でもない。ここまで辿り着いた褒美として、楽に死なせてやるぞ?」


 左脚を貫かれてもなお、ヤーゴはナイフを離さずに地面を這いずってガロスに近づこうとしていた。ガロスはそんな彼の背中を見下ろしながら質問する。

 すると、地面を這っていたヤーゴの顔がゆっくりと持ち上げられる。


「託されたからだ…」

「何だと?」


 ヤーゴは未だに消えぬ闘志を宿した瞳をガロスへと向ける。いや、むしろその双眸に宿る闘志は弱まりつつある生命の鼓動とは裏腹に、先程よりも勢いを増していた。

 それはまるで、ヤーゴの生気を槇として燃え盛る炎のようだった。


「主が積み重ねてきた行いを、意思を、願いを、主がこの世に生きた証しの全てを託されたからだ。 だから、私はお前に刃を向け、お前を殺す。私には主に仕えたものとして主の行いを完結させ、そして何より主が生きた“証し”を守る義務がある。それ以外の理由など無い。それだけで充分だ」


 自らを見下すガロスの顔をはっきりと睨みつけながら、ヤーゴはそう言い放った。

 ガロスは自分の問い掛けに対する返事を返す最中であろうと前身を止めようとしないヤーゴの姿をじっと眺めていたが、やがて小さく笑みを漏らした。


「一応は、俺がお前の主なんだがな?」

「悪いが、私の主は七年前からあのお方と決めている」

「そうか。全く、自分の手元に居ないのが惜しくなるぐらいの忠義心の持ち主だな、貴様は」


 今までと違って幾分か穏やかになったガロスの言葉に合わせるかのように、ガロスの周囲に浮いている光球の内の一つがヤーゴの真上へと移動していく。

 ヤーゴにもその光球が自身に止めを指すべき動き出している姿は捉えることが出来ていた。しかしそれでもなお、ヤーゴはガロスから視線を反らそうとはしなかった。

 光球がヤーゴの真上でピタリと動きを止める。ガロスはなおも前身を続けるヤーゴの姿を一秒程見つめてから、口を動かした。


「さらば…」


 だが、動かかけた唇は途中でまるで凍りついたかの様に動きを止めた。

 何故なら、声が聞こえたからだ。まるで脳内に直接語りかけてくるかの様に。聞こえる筈の無い、そして絶対にその声で発せられる筈の無い言葉が。


『お…父さん…? 聞こえ…ますか…?』


 次の瞬間には、目の前に居る男の存在も周囲の死体も眼下の争いの存在も、ガロスの頭から消え去っていた。代わりに彼の頭に残ったのは、この戦いの当初から発動させ続けてきた神導魔法を使用して、自分の脳内に直接語りかけてきている人物の姿を探そうとする意思と、自分の予想が頼むから外れていてくれという願望の二つだけだった。

 だが、その望みは脆くも崩れ去ることとなった。


「そんな…有り得ない…」


 ガロスの口から、彼とは思えない程茫然とした声が零れる。

 彼の左目には、ある光景が映っていた。それは『ウートポス』で最も高い物見櫓に立つ、二人の人間の姿。一人は修道服を身に纏った少女。ガロス自身が最後にあったのはもうずっと前だったが、それが誰なのかは脳が思考を開始するよりも早く理解出来ていた。そしてもう一人は、黒い外套を身に着け、無造作に伸ばした黒髪を風にたなびかせながら、手に持った細緻な装飾の施された白銀の魔弓を、よりにもよってその少女のこめかみに突き付けている、無精髭を生やした男だった。

 その光景の持つ意味を正しく理解した時、もはやガロスからはつい先程までその全身に満ち溢れていた威厳や覇気は消え失せていた。その姿は一瞬にして何年もの歳をとったようであり、思わずヤーゴまでもが動きを止めて驚愕の表情を浮かべてガロスの姿を見てしまう程であった。


『どうせ、この光景は見えてるんだろう。なら、俺が何を望んでいるかはわかるよな?』


 次にガロスの脳裏に響いた声は、彼の最愛の存在のものではなく、聞いたこともない男の声だった。


「や、止めろ…。娘から…離れろっ…」


 最早正常に働いているとは到底言えないガロスの頭でも、その声が自分の娘のこめかみに魔弓を突き付けている人間の声だということは理解出来た。

 震えた声がガロスの口から漏れる。だが、それに対して左目に映る光景の中の男が返した答えは、ただ薄ら笑いを浮かべることだけだった。

 その笑みが、ガロスを更なる絶望へと導く。まともに働かない思考の裏で、ガロスは正しく事実を認識していた。娘と自分の関係がばれたこと。その娘の命が今風前の灯となっていること。そして、自身の右腕とも言うべき存在の男が死んだこと。それら全てを、次に取るべき行動すらまともに判断出来ないガロスの脳は理解していた。


『…ついさっきです。国王様が、私のお父さんだと聞かされたのは』


 混乱と絶望の極致にいるガロスの頭に、娘の声だけが響く。


『お父さんとお母さんの間にあったこと、お父さんが私をどれだけ愛してくれていたのかも、聞きました。…最初は信じられなかったです。だって、商人だと思ってた自分の父親がこの国の王様で、母親はその叔父に殺された、なんて言われても信じるのは無理ですよ。それに…正直なところ、こうしてここに立っている今でも信じられません』


 物見櫓に立つ娘の目から涙が零れ落ちる。ガロスはそれが自身の命が他人に握られていることへの恐怖からきたものだと判断した。

 それが、父と娘、二人の間にある溝の深さを物語っていた。


『でも、ある人に言われて気付いたんです。確かに私はお父さんと直接話したことはない。でも、その代わりに何年に渡って交わしてきた何枚もの手紙がある。そしてそこには、確かに私に対する愛情が込められていたことを』


 最早、ガロスの頭は思考することをも周囲の世界を認識することも放棄して、ただ娘の語る言葉のみに全ての神経を向けていた。


『だから、私は言えます。例え、顔を合わせたことが一回しかなくても。例え、会話を交わしたことが一度も無くても』


 故に、ガロスは気付くことが出来なかった。


『私を愛してくれて、有難う。そして…』


 自分の周囲に展開させていた五つの光球が、既に消え失せていることに。

 地に伏していたヤーゴが、己の全ての力を使って立ち上がっていたことに。

 そして、そのヤーゴが手にしたナイフをガロスの喉元目掛けて振り下ろしていたことに。


「…ァッ」


 喉から全身へと激痛と不快感が広がっていく。喉元に生温かいものが込み上げてくる。鼻孔を鉄臭い匂いが刺激する。左目に映る光景が途端にゆっくりとしたものに感じられ、身体が急激に重みを増していき、すぐに立つことが出来なくなる。次第に震える程の寒さしか感じられなくなってくる。

 娘が最後に最後に発した言葉。それが何だったのかを理解することなく、ガロスの意識は深い闇の中へと落ちていった。

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