開門
「退却! 第二次防衛拠点まで退却せよ!」
人々の怒声と雄叫びで溢れ返る『リーザ・トランシバ』軍事区南大通り。南大門から王城に向けて一直線に引かれたその通りには、先程までの張りつめていながらも余裕が滲んだ空気はその残滓すら残っていなかった。今、この場に充ちているのは、一瞬にして限界まで高ぶり剥き出しにされた敵意に支配された闘争の空気だった。
まるで肉で出来た津波の如くなだれ込んできた民衆が兵士達に襲い掛かる。やはり流石と言うべきか、兵士達は圧倒的に数で勝る民衆を相手に怯むことなく立ち向かおうとしていた。だが、全く予期していなかったタイミングでの開門、そして戦闘の開始に加え、民衆がなだれ込んでくるまで繰り広げられていた異形の女性との戦闘という要素が加わり、まともに戦闘隊形を組むこともままならぬまま門に近い位置に居た兵士達は民衆の波の中に飲み込まれて消えていった。
そして一つの意思を抱いて躍動する肉の津波の中に、エリザもまたそれを構成する一つのパーツとして潜んでいた。
「重装兵は前に並べ! 奴等の進軍を押し止めろ! 急げ!」
瞬く間に呑み込まれ、数多の足に踏み潰されて物言わぬ躯と化した兵士達の仲間入りをしないよう、絶えず両脚を動かし続けながらエリザは魔弓を構える。狙いは先程よりここら一体に響いている声、つまりは軍事区の防衛を任された第三兵団の団長その人であった。
「弓兵は直ちに位置に付け! 付いたら号令を待つ必要な無い、好きに射かけろ!」
他の兵士と比べて一段と豪華な鎧を身に纏い、二本の鎌を持つ鷲の姿が描かれた真紅のマントをはためかせて馬に乗っている男が声を上げる。その男の後ろには軍事区の街並みに上手く溶け合わせた小規模な砦があった。その砦は今しがた抜けてきた南大門とは比べようがないものの、恐らくはまともな指揮者が使えばこの民衆の波を数時間は押しとどめて置けるだけの効果は発揮してくれそうであった。
「奴をあそこに辿り着かせるわけにはいかないな…!」
エリザは民衆の波に沿って走りながら馬に乗りながら指示を飛ばす第三兵団団長の頭へと狙いを定める。もし外せばほぼ間違いなく彼は警戒し、射線に姿を晒そうとはしなくなるであろう。そして同様に砦の中へと逃げ込み頭が冷静さを取り戻せばやはり姿を現さなくなる筈である。第三兵団団長を殺すには、圧倒的な物量による不意打ちの対処に精一杯で冷静さを欠いている今をおいてなかった。
一歩地面を蹴りつける度に魔弓が揺れる。既に第三兵団団長は射程圏内に入っていたが、狙いは一向に定まらなかった。
「クソッ…!」
エリザの口から悪態が吐いて出る。そうしている内にも、第三兵団団長との距離は段々と狭まっていった。
「これ以上近づくと流石に見つかるか…!?」
第三兵団団長が自分の方を向いていないことを確認しつつ、エリザは呟く。かといってここで足を止めれば、後ろからくる民衆の波に飲み込まれてしまうだろう。天から降り注いだ一撃の前に萎縮していた彼等の精神は、南大門の開門という事象の前に極限まで高ぶっており踏み殺した人間が敵か味方かなどと区別出来る状況ではなかった。
「ぐあっ」
「ぎゃっ!」
「きゃあ!」
その時前方から何人もの人々の悲鳴が聞こえてきたかと思うと、前を行く民達が一斉に動きを止めた。数百という民衆の壁は最早煉瓦などよりも遥かに固く、エリザの前に立ちはだかる。エリザは前の男の背中に思いっきりぶつかって動きを止め、動きを止めた彼女に後ろに続く民衆が殺到した。
「がっ…あっ、ああっ…!」
一歩でも前に進もうと後方の民衆が力任せに前方で立ち止まっている民衆を押し退けようと力を込める。しかし数百人からなる民衆をそう易々と押し退けることなど出来る筈がなく、民衆の動きは一端そこで完全に停止した。
その真っただ中で、エリザは前後の人の壁によって身体を押しつぶされそうになりながら苦悶の声を漏らしていた。
血と汗の匂いが彼女の鼻孔を貫く。呻き声を上げているのは何も彼女一人だけでなく、四方八方から彼女と同じように身体を押しつぶされそうになっている人々の苦痛に満ちた声が上がっていた。だが、それでも民衆は前に進むのを止めようとはしない。血と汗の匂いに嘔吐物の匂いがほんのりと混ざり始め、仲間の中から助けを求める声が上がり始めても、一向に彼等は前進を諦めようとはしなかった。いくら士気が高かろうと、いくら他の人間が策を授けようと、所詮この場で王城へと進軍する彼等の大半は何の訓練も受けて居ない素人に過ぎない。そんな彼等が勝利と闘争のもたらす脳の陶酔に耐えられるわけがなく、彼等はただひたすら目に見える勝利に向かって殺到するだけの暴徒へと成り下がっていた。
「く…そっ…!」
肋骨が圧し折れるんじゃないかという圧力の中、エリザは決して手放すまいと右手に握る魔弓をきつく握りしめながら視線を前方へと向ける。そしたその視線の向けた先、あまたの人々の頭を抜けた先に彼等の進軍を押し止めた存在が居た。
「重装兵…!」
この膨大な数の暴力を押しとどめている存在の正体、それは分厚い鎧を身に纏い、前面に凶悪なスパイクが取り付けられた人の身長程の大きさの盾を構えて一列に並ぶ重装兵達だった。人数こそ民衆より少ないものの、鍛え抜かれた彼等自身の膂力と身に付けている走ることすらままならなくなる程の重量の装備の数々が、民衆の波を押し止めることを可能にしていた。
しかし、すでに狂乱の渦中へと落ちた民衆に後退という考えは生まれない。例え先頭に立つ者達の身体がスパイクの付いた盾によって押し潰されていたとしても、彼等は一向に進むことを諦めようとはしなかった。
圧倒的に物量で勝っている。だが、統率という戦闘行動において重要な要素が抜け落ちている民衆達には、その物量差を生かすことが出来ず、逆にそれを逆手に取られて形成は一刻と悪化し始めていた。
「四元…魔導…」
そんな中でエリザは、必死に唇を震わせて言葉を紡ぐ。既に満足に呼吸出来ているかどうかすら怪しく、これ以上の停滞は彼女にとって死を意味していた。
(死ねるか…! こんな場所で…奴の死すら確かずに…!)
だがそれでも、彼女に中で明々と燃え上がる復讐の炎が意識を手放させなかった。
「大地が第三十二奏…“ウォール・イレクト”!」
まるで彼女の心臓の鼓動を掻き消そうとするかのような周囲の喧騒を打ち払うように、彼女は天を仰いで叫んだ。
直後、エリザの足元から岩の壁が突如としてせり上がる。
「な、何だ!」
周囲の人間を宙に巻き上げながら、二階建ての建物と同じ高さまで一気にそびえ立った岩の壁を見て、第三兵団団長が驚いた表情を浮かべる。
だがその表情は、岩の壁の頂点に立つ一人の女を見た瞬間に、一気に氷点下まで凍りついた。
第三兵団団長の右手が腰の剣に伸び、左手が手綱を引っ張る。彼の乗る馬が嘶いて前足を振り上げ、反転しようと試みる。岩の壁の上でそれを見下ろすエリザには、その行動全てがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
圧迫から解放され一気に肺に、そして脳に酸素が回る。彼女の全身を駆け巡る得も言われぬ快感を感じながらエリザは左手を魔弓のグリップへと伸ばし、そして引き金を弾いた。
轟音が大気を轟かせ、それに一呼吸遅れて甲冑を身に纏った第三兵団団長が地面へと落ちた。その瞬間、国王側の兵士達がまるで時間が止まったかのように一気に静まり返る。兵士一同の視線はその悉くが地面に倒れた第三兵団団長へと向けられていた。頭から血を流し、素人目に見ても一目で死んでいるとしか思えない第三兵団団長へと。
「やった…」
エリザの口から大きな溜息が漏れると同時に、掲げられていた魔弓の射出口が下がった。本来ならばここで、自分が第三兵団団長を討ち取ったことを声高に叫び、眼下の民衆の士気を上げてやらなければいけないのだが、今の彼女にそこまでするだけの元気は残っていなかった。彼女に出来るのはただ、下に落ちないように気を配りつつ視線を下へと向けることだった。
「嘘…! う…だ…! と……ん!」
民衆を押し止めるのに精一杯で後ろの状況にまで気を配る余裕の無い重装兵を除いたすべての兵士達が、唐突な指揮官の死に思考を停止させる中、兵士達の中から一人の副官らしき男が進み出てきて第三兵団団長の死体へと跪いた。
その副官は十代後半といった年頃だった。腰にはサーベルの他、一挺の魔弓がぶら下げられている。茫然とした表情を浮かべて第三兵団団長の死体の傍らに跪いた彼は、その幼さの残る顔を歪めて死体の胸に顔を埋めた。その周囲では諦めたような表情の兵士達がその光景を見守っている。
エリザはその光景から目が離せなかった。今こそ兵士の殆どが何も考えられない状況にあるが、いつ正気を取り戻して矢を射かけてきてもおかしくはない。今のエリザは第三兵団団長を殺した上、狙ってくれとでも言いたげな場所に立っているのだから、一刻も早くこの場を移動して一端身を隠す必要があった。
だが、それでもエリザは動くことが出来なかった。何故なら、
「なみ…だ…?」
第三兵団団長の胸に顔を埋める間際、副官の頬を伝った一筋の涙を彼女は見てしまったからだ。
『うおおおおおおおおおおおおおおおお!!!』
彼女を、そして兵士達を正気に引き戻したのは、数多の民衆が上げた咆哮だった。
恐らく、指示が出ないことを不振がって後方に意識を割いた結果、指揮官が死亡してしまったことを知ってしまったのだろう。今の今まで完全に拮抗していた重装兵の戦列は今や民衆によって蹂躙されつつあり、殆ど崩壊状態に等しかった。
「ひ、退くぞ! 全員、第二防衛拠点まで後退するんだ!」
上擦った声で兵士の誰かが叫んだのを切っ掛けに、兵士達は目立つ場所に居るエリザに弓を射かけることすらせずに、背中を見せて後方に見える砦へと下がっていく。その中には年若き副官の姿もあった。彼は二人の兵士に無理矢理第三兵団団長の死体から引き剥がされると、引きずられるようにして砦へと下がっていった。
「ッ…!」
その際、彼とエリザの視線が一瞬だけ交錯した。その副官の目を見た瞬間、エリザは息を呑む。
悲しみと怒りで歪んだ表情を浮かべる副官の瞳、そこには彼女自身よく知る光が宿っていた。そう、例え己の人生全てを投げ打ってでも討つべき仇を見出した人間のみが宿す、星一つ無い闇夜を彷彿とさせるどす黒い光が。
『おい、大丈夫か? 返事しろよ、なぁ』
とうとう、エリザは副官の姿が見えなくなるまで動くことも視線を引きはがすことも出来なかった。副官の姿が消えたところで、ようやく彼女は頭の中に直接響いてくる声によって我に返ることが出来た。
「あぁ、大丈夫だ。それより、お前は今どこに居るんだ?」
頭の中で響くその声はヴィショップのものだった。正気を取り戻したエリザは今どこに居るのかをヴィショップに訊ねながら近くの民家の屋根へと飛び移る。
『デカい門のところだ。門を開いたはいいが、もう一つの厄介事が片付いて無くてな。少し手を貸してくれると助かる』
「厄介事だと? どんな類のものだ?」
民家の屋根へと飛び移ったエリザはそこで一端動きを止め、後方へと視線を向けた。
『何、お頭の弱い性悪女が駄々をこねててな。さっきまでは兵士達が相手してくれてたんだが、今は門の所で市民相手に暴れてんだよ』
「性悪女…お前が地下で戦ってたという奴か? てっきり片付けてから来たものだとばかり思ってたんだが?」
ヴィショップの返してきた答えに、エリザは顔を訝しそうに歪めた。彼女はてっきり、ヴィショップはその“性悪女”とやらを何とかする術に目途を付けたから自分の要求を受け入れたのだと考えていたのだ。
『まぁ…あれだ、来れば分かる。とにかく並大抵のやり方じゃ止められねぇような相手とだけは言っとくぜ。で、どうするんだ?』
苦笑を交えてヴィショップが答える。エリザは王城の方を振り向くと、しばしの時間思考の耽った。
「…分かった。今からそっちに向かう。何が起こっているかは分からないが、それが原因で王城を守っている連中を引き出せなくなったら面倒だからな」
『そうか。助かる』
そして、小さく溜息を吐いてヴィショップに返事を返した。
そもそも民衆を巻き込んでの大規模戦闘を狙った目的は、ガロスが陣取る王城から出来る限り人を引き出して守りを手薄にさせる為である。エリザにはヴィショップの語る存在がどれだけの脅威なのかは分からなかったが、それでも東西南北の門の中で現状唯一開門している南大門にそれが陣取っているとなれば、不足の事態が起きないとも限らなかった。
それに何より、ヴィショップがわざわざ助けを乞う程の相手、というのがエリザにはどうしても引っかかるものがあった。
無論、今までヴィショップが関わってきた行為はどれもが彼一人の力で為し得たものではなかった。だが、それでもそれらの行為において頭脳の役割を果たしていたのは往々にしてヴィショップだった。そんな彼が今回のように、はっきりと助けを乞うてくるのは初めてのことだった。
「にしても、お前が自分でケリを付けられない相手とはな。強いのか?」
『ん? あぁ、強いというよりは文字通り厄介って感じだな。ただ、近づくのは止めといたほうがいいと思うが』
エリザの質問にヴィショップが答えた。その声の調子からして、どうやら魔法による通信を切断しようとしていたようだった。
(答えを聞いたらさっさと魔法を解除しようとするとは…どうやら随分と魔力を消費したらしいな)
インコンプリーターがいくら生まれつきの魔力に乏しいからといって、最初級の魔法を少し唱えたくらいで卒倒する程ではない。にも関わらず出来る限り魔力の消費を抑えようとするヴィショップの行動は、自身の魔力の残りが少ないことを表していた。
「分かった、後は合流してから話すとするか」
『そうだな。男引っかけずにさっさと来いよ。じゃないとどっかの色男が土の中で泣く破目になるからな』
「不謹慎で最低な冗談だな」
苦笑を浮かべてエリザは言葉を返す。もしその“色男”と自分の立場が逆だったとしても、同じ言葉を返したであろうことは彼女には容易に想像出来た。まがりなりにも、レジスタンスと“色男”との橋渡し役として長くない時間を共に過ごしたのだから。
そしてその冗談を最後に、頭の中に響いていた声はぷっつりと途絶えた。エリザは二、三度深呼吸をしてから、ヴィショップの待つ南大門に向けて動き出した。
「か、閣下…! こ、これは…!」
トランシバ城の中で最も高い位置である、空中庭園。さまざまな植物が植えられている他、石造りの道が複雑な模様を描くその場所の一角で、微かに震えたような声が上がる。
声を上げたのは、『リーザ・トランシバ』で最も大きな教会の大司教だった。その表情には焦りと恐怖が浮かび、身に付けている法衣にじっとりと嫌な汗が染み込んでいる。だが、そのような表情を浮かべているのは何も彼一人ではなかった。護衛の為に連れてきた数人の近衛兵達の中にも、大司教程ではないにしろ焦りや恐怖、不安が少しずつ表情に表れてきている者は居た。
しかし、声を掛けられた張本人、『スチェイシカ』現国王ガロス・オブリージュは何も答えない。ただ黙って視線を下へと向けてじっと地上で繰り広げられる戦闘を眺めていた。
「閣下! 今すぐ、神導魔法をお使いなされ! あそこにいる不届き者共に天罰を下すのです!」
大司教はガロスに一歩近づくと、すぐにでも神導魔法を発動させるように進言する。ガロスはそこでようやく大司教に視線を向けたが、必死にガロスに神導魔法を使わせようとする大司教の姿はまるで自分に縋っているようにガロスの目には移った。
「いや、ここで使えば第二、第三兵団の兵士にかなりの巻き添えが出る。暴徒どもの後ろに火事場泥棒共が控えている以上、それは得策ではない」
神でも何でもない自分に縋りつく大司教の姿に思わず笑いを零しそうになるのを堪えつつ、ガロスは大司教の進言を退ける。
「何をおっしゃいます! あの不届き者どもを打ち倒した後、『ウートポス』に居る連中にも魔法をお見舞いしてやればいいだけの話ではありませんか!」
しかし大司教は中々引き下がろうとはしなかった。ガロスはあえて聞こえるように舌打ちをしてから大司教の言葉に返事を返した。
「何を期待しているかしらないが、俺にこの国の大半の民衆を殺した上で『グランロッソ』の軍隊を皆殺しにするまで神導魔法を撃ち続けるだけの魔力があると、本気で思っているのか?」
「そ、それは…」
流石にそれについては返す言葉が無いのか、大司教の口が動きを止める。ガロスは口を噤んだ大司教に憐憫の眼差しを向けると、近くでそのやりとりを茫然と眺めていた近衛兵の一人に声を掛ける。
「城の警備をしている第一兵団の連中に第二、第三兵団の加勢にいくように伝えろ」
「しかし、それでは城の警備は…」
ガロスに声を掛けられた近衛兵が困惑した様子でガロスに訊ねる。
「必要最低限は残す。そこに近衛兵をあてて足らない部分は補うようにしろ。大司教殿の策にのる訳ではないが、ある程度部隊と暴徒を引きはがせれば魔法でまとめて排除出来る。そうなるまでの応急策だ」
「は、はっ! 了解しました!」
呆れ混じりの口調でガロスがそう告げると、近衛兵は慌てて敬礼をしてからガロスに背を向け、階下の会議室に向かって走り去っていった。
(地上の奴等はこれで凌げるだろう…。だが問題は、地下の秘密通路か)
近衛兵が走り去っていくのを見たガロスは再び地上へと視線を向けると、この都市の地下に広がる秘密通路の存在へと考えを巡らせる。
(あの男に対処を任せたはいいが、全く音沙汰が無い…。ドルメロイが本当に生きているかも分からない以上、念を押して向かわせたが、まさか本当に…)
次いでガロスの頭を過ぎったのは、今しがたの南大門の陥落だった。少なくとも陥落の直前まで、南大門の警備を担当していた第三兵団を中心とした舞台からは異常事態が起きたような報告は無かった。にも関わらず、南大門は唐突に陥落した。この事実がガロスに、レジスタンスが地下の秘密通路を使用しているかもしれない、という憶測を無視出来ないものへと変えていた。
(しかし、こうなった以上そちらに回せるだけの戦力も無い…。あいつが戻ってくれば、話もまた別なのだろうが…)
ガロスは小さく溜息を吐くと、『ウートポス』へと向かわせた自身の右腕へと思いを馳せた。ガロスにとって最も大切とも言える存在の確保の為に向かわせたが、彼もまた地下通路に向かわせた男と同様に全く音沙汰が無かった。
(あいつに限って殺されたなどということはないだろうが…。しかしこのままいつまでも戻ってこないとなると、他の近衛兵達の士気にも関わる…)
ガロスの中で彼が死ぬなどということは、自身が死ぬこと以上に考えられないことだった。
ガロスが彼を初めて知ったのは、最愛の女性がドルメロイの手によって謀殺されてからだった。正確にはそれ以前にも二人は出会っていたのだが、その時の彼は腐臭ち死臭にまみれた乞食の身であり、ガロスの記憶に止まることなどなかった。
彼は最愛の女性を失い悲しみに暮れるガロスの前にいきなり姿を現し、あらゆることを語った。ドルメロイに依頼されてガロスの最愛の女性を殺したこと。しかし殺した後で自分の仕出かしたことに愕然とし、こうしてガロスに全てを打ち明けに来たこと。そして、最愛の女性とガロスの間に出来た子供は殺さずに、安全な場所に隠してあること。
それらを聞いたガロスの心は一瞬にしてドルメロイに対する復讐に囚われた。そしてその矛先は真っ先に目の前に居る最愛の女性に直接手を下した彼に振るわれる筈だった。だが、ガロスは彼を殺さなかった。それは自分に全てを打ち明けに来た潔さに惚れ込んだからでも、娘を殺さなかったことに酌量の余地を感じたからでもない。彼の瞳の中に、ガロスになら殺されてもいい、むしろ殺されることへの渇望を見出したからだ。
故に、ガロスは彼を殺さなかった。最愛の女性を殺した男に、望み通りの死をくれてやることなどまっぴらご免だったのだ。かといって、何もさせずに逃してやる訳にもいかない。その結果ガロスが選んだのは彼を復讐の道具として使うことだった。
当時の国王であるドルメロイに対抗するのは現在のガロスの地位が無くては為し得ない。だがその一方で、表舞台の裏側で暗躍する必要性もある。ガロスはその裏での暗躍を彼を使ってこなすことにしたのだ。ガロスがその旨を彼に伝えると、彼は涙を流しながら首を垂れた。もっとも、ガロスは彼が最後まで生き残るとは微塵も思っておらず、自分が信頼出来て自由に動かせる人材を揃えるまでの間に使い潰す気でいた。所詮、彼もまた最愛の人間を殺した人間の内の一人に過ぎないのだから。
しかし現実はそうはならなかった。彼はガロスの命を忠実にこなし続け、ドルメロイを打倒するのに必要な様々な仕事を成功させ続けた。恐喝、脅し、誘拐、窃盗、暗殺。ありとあらゆる仕事をこなし続け、いつしか彼はガロスが動かし得る最強の駒になっていた。もはや、彼を殺すことはガロスにとって大きすぎる損失へと変わってしまっていたのだ。
(全く、人生何があるか分からないものだ…。まさか彼女を殺した人間を右腕として使うことになるとはな…)
自ら手を下す訳にもいかないまま時は過ぎる。そしてドルメロイを倒し、復讐を終えてみればガロスの彼に対する憎しみは消えていた。それがドルメロイを倒して復讐を終えたからなのか、それとも共に戦う内に彼に対してガロスが信頼を抱いたからなのかはガロス自身にも分からなかった。だが、その時には既にガロスにとってはそんなことは些細なことになっていた。
そして以後四年間、彼はガロスの右腕として有り続けていた。まるでそれが当たり前であるかのように彼は仕え、そしてガロスもまたそれが当たり前であるかのように彼を使い続けてきたのだった。
(最初は憎くてたまらなかった筈なのにな…。今では、最も信用出来る人間にお前はなってしまった。だから……だからさっさと帰ってこい)
ガロスは視線を『ウートポス』の方へと向けて、その名を呟いた。
「ハーニバル…」




