死線
扉が開かれた瞬間、礼拝堂の空気は凍りついた。
無残に転がるプルート達の躯。青白い顔で床に座り込んでいるサラと、その腕を掴むハーニバル。それらの光景だけでヤハドは、何が起こって何が起ころうとしているのか充分に理解出来た。
「て、てめぇか、プルートさんを殺したのはァ!」
凍りついた空気を打ち砕いたのは、ヤハドと共に来ていた『コルーチェ』のメンバーだった。彼は腰に差していたロングソードを引き抜くと、ハーニバルに突っ込もうと一歩踏み出した。
直後、ヤハドとハーニバルが彼よりも遥かに素早い動作で動き出す。
ハーニバルの手に握られた異形の魔弓が即座に頭に狙いを付け、指が引き金を弾く。それと同時にヤハドの蹴りが『コルーチェ』のメンバーの脚に向かって突き出された。
「うおっ!?」
脚を蹴りつけられた『コールチェ』のメンバーがバランスを崩して跪く。ハーニバルが放った魔力弾は『コルーチェ』のメンバーの頭の数センチ上を掠めて壁に命中した。
「チッ」
ハーニバルの口から舌打ちが漏れる。彼の右手に握られた魔弓は次の得物をヤハドに定めようとしていた。
「隠れてろ!」
何が起こったのか分からず茫然としている『コルーチェ』のメンバーに声を飛ばしながら、ヤハドは近くの長椅子の影に転がり込む。ハーニバルは二発立て続けに引き金を弾くが、一発は交わされもう一発は長椅子に防がれてヤハドには届かなかった。
二発目の魔力弾を放ったところで、ガキンという金属音と共に魔弓の上部が後退する。ハーニバルサラの腕を離して魔弾が纏められたクリップを取り出すと、上部に空いている使用済みの魔弾を排出する穴に押し当てて一気に装填しようとする。
「なっ!?」
だが、それは彼目掛けて飛来した一本の矢によって妨げられた。
ハーニバルは咄嗟に身体を投げ出して矢を躱す。その際、彼が見たのは長椅子から身体を除かせて弓を握るヤハドの姿だった。
「弓使いか…」
身体を投げ出したハーニバルはそのまま身体を転がして手近な長椅子の影に逃げ込んだ。続けて矢を放とうとしていたヤハドは背中の矢筒へと伸ばしていた手を引っ込めると、長椅子の影に身体を隠した。
(あの武器…まるでモーゼルだな…)
長椅子の身体を隠したヤハドは、ハーニバルが持っていた魔弓の形状を思い返す。それは彼が元々生きていた世界で使われていた拳銃に酷似していた。
(紺色の軍服…あれがヤーゴの言っていた近衛部隊という奴か…。となると、やはりヴィショップの予想は正しかったという訳だな)
そしてハーニバルの身に付けていた近衛部隊を意味する軍服。それを見たヤハドは、国王にサラという人質は有効だ、というヴィショップの考えが正しかったことを実感した。
「おい」
「な、何だ!?」
ヤハドは視線を横へと向けた。そして反対側の長椅子に隠れている『コルーチェ』のメンバーを見つけると、彼に声を掛ける。
「奴はそっち側の長椅子に隠れている。俺が気を引くから、お前は奴に近づけ。いいな?」
「わ、分かった」
ヤハドは声を落として、彼に指示を送る。『コルーチェ』のメンバーはどこか頼りなさそうな表情を浮かべながらも、ヤハドの案に乗ることを決めたようだった。
「始める前に聞いとこう。名前は?」
動き出そうとした『コルーチェ』のメンバーを引き留めて、ヤハドは名前を訊ねる。『コルーチェ』のメンバーは一瞬呆気に取られた表情を浮かべた後、自身の名前をヤハドに告げた。
「ラギだ。苗字はねぇ」
「そうか、ラギか。良い名だ」
名を聞いたヤハドは、微笑を浮かべて呟く。そして矢筒から矢を一本引き抜いて弓に番えると、ラギに告げた。
「では、先に行かせてもらうとする。しくじるなよ」
そう言い終わるや否や、ヤハドは身体を起こして長椅子の影から姿を現す。奇しくもそれはハーニバルの方も同じで、彼もまた立ち上がって、ヤハドへと魔弓を向けていた。
魔力弾と矢が同時に放たれた。両者の放った一撃はどちらも僅かに逸れ、互いの頬を掠めた。
頬に痛みを感じたハーニバルが咄嗟に身体を屈める。それは生物が持つ防衛本能に則っての行動であり、反射的にとられた行動だった。
そして恐らくハーニバル自身も予想だにしなかっただろう。今しがた自分が反射的にとった行動がどういう結果をもたらすのかなど。
「っ!?」
すぐさま顔を上げたハーニバルがヤハドに向かって魔弓を向ける。だが、彼が向けた先にヤハドは居なかった。
彼の思考が疑問に支配される。奴は再び物陰に姿を隠したのか? そう考えた瞬間、ハーニバルの耳朶を何者かの足音が打った。
ハーニバルの視線が咄嗟にそちらへと向けられる。そして瞳がその光景を捉えた瞬間、彼の両目は大きく見開かれた。
ハーニバルの双眸が捉えたのは、長椅子の背もたれに足を掛けて飛び移りながらこちらへと迫ってくるヤハドの姿だった。その手には既に弓矢は持っておらず、代わりに腰に差していた曲刀が引き抜かれて右手に握られている。
もしこの直前に、ハーニバルが身体を屈めていなければヤハドの姿を見失うことはなかっただろう。実際、両者の動きに大きな差は無いのだから。そしてそうなった場合、遮蔽物の一切存在しないところに身体を曝け出したヤハドは、すぐさまハーニバルに撃ち殺されていただろう。
だが、ヤハドはハーニバルには無いものを持っていた。咄嗟に攻撃を回避しようとする本能を押し殺し、逆に危機的状況へと自身を全身させられるものを。熟練された戦士から強引に隙を生み出させるのに必要なものを。
それは、ヤハドが元の世界で培ってきた経験。乱れ飛ぶ弾雨を掻い潜り、その身に無数の傷を刻み込んでなお生き残ってきた、戦いの記憶。ハーニバルが生きるこの世界では到底培えることの出来ないその経験が、意思で本能を押し殺すことを可能にせしめたのだ。
ハーニバルの握る魔弓が長椅子を飛び移るヤハドを追う。だがその矛先がヤハドを捉える前に、ヤハドは前方に身体を投げ出しつつ手に持った曲刀をハーニバルに向かって投擲した。
ヤハドの手から離れた曲刀が縦に回転しながらハーニバルへと迫る。ハーニバルは咄嗟に魔弓を盾にして曲刀を防ぐが、勢いを殺し切れずにそのまま背中から床に倒れ込んだ。
弾かれた曲刀はあらぬ方向へと飛んでいき、近くにあった柱に突き刺さった。ハーニバルはすぐさま上体だけを起こしてヤハドへと魔弓を向ける。床に着地したヤハドとの距離は数歩程開いており、彼を撃ち殺すには充分な余裕があった。
「うおおおお!」
横から飛び込んでくる乱入者の存在さえなければ。
「何だっ…!」
咄嗟に声の上がった方向に魔弓を向けようとするが、遅かった。ハーニバルがヤハドへと意識を割いている間に近づいたラギはハーニバルに組み付き、彼の上半身を再び床に引き倒す。そして両手で彼の右手を掴むと、床に叩き付けた。
「くそっ…離せっ…!」
三回床に叩き付けたところでハーニバルの手から魔弓が離れた。ハーニバルは悪態を吐きつつ、自分にのしかかっているラギの顔に左の拳を叩き込む。魔弓を手放させるのに必死になっていたラギはまともに防御すら出来ずに顔を殴りつけられる。その拍子にハーニバルの右手を掴んでいた力が緩み、振り解かれて自由になった右手の裏拳でラギは殴り飛ばされ、ついでとばかりに横っ腹に左の膝をねじ込まれ、ラギはハーニバルの上から払い落とされる。
ラギの拘束から逃れたハーニバルが再び魔弓を掴もうと手を伸ばす。しかし今度は横からヤハドの蹴りが伸びてきて魔弓を蹴り飛ばす。
音を立てて魔弓が礼拝堂の隅に転がる。ハーニバルは顔を上げてヤハドの姿を確認しようとしたが、顔を上げた瞬間、彼の顔面をヤハドの爪先が蹴り上げた。
「ぐあ…っ!」
嗚咽を漏らして、ハーニバルの身体が仰向けになる。ヤハドは右太腿に差していたナイフを逆手で引き抜くと、屈みこみながらハーニバルの首元目掛けて振り下ろした。ハーニバルは両腕を交差させてそれを防ぐ。勢いよく振り下ろされたナイフの切っ先はハーニバルの首元まで後数センチというところでピタリと止まる。ハーニバルの喉元に触れるか触れないかのところで小刻みに震えるナイフの刃が、両者の力が拮抗していることを表していた。
「くそっ…やりやがったな、てめぇ…!」
鼻から血を垂らしながら、長椅子を支えにラギが立ち上がった。
ヤハドに加勢しようとラギが一歩踏み出す。その瞬間、ハーニバルの両脚が跳ね上がってヤハドの腰に絡みついた。
「何…!」
「四元魔導、嵐風が…」
ヤハドの顔に驚き浮かんだのと同時に、ハーニバルが魔法の詠唱を始める。
一瞬でハーニバルが何をしようとしているのかを悟ったヤハドは、ラギへと視線を向ける。一方のラギもそれで全てを察したらしく、急いでヤハドへと駆け寄った。
「第百三十七奏、タービ・ソーディル!」
ラギが力任せにヤハドの身体を引き倒すのとほぼ同時に魔法の詠唱が終了する。ハーニバルの顔の前で生成され撃ち出された三日月状の風の塊は、ヤハドの鼻先を掠めて天井に命中する。
ラギによって無理矢理ハーニバルから引き剥がされたヤハドはラギを巻き込んで仰向けに倒れ込む。一方でハーニバルはその隙に立ち上がると、左手で太腿に差してあったナイフを引き抜き、逆手で構えてヤハドに襲い掛かった。
「退いてろ!」
ヤハドはラギに向かって声を飛ばすと、後ろに転がってハーニバルの振り下ろしたナイフを躱す。
「あ、あぁ!」
何とか返事を返してラギが床を這いながらヤハドから遠ざかる。ヤハドは転がった勢いを利用して立ち上がり、次いで放たれた顔狙いの横薙ぎを頭をスウェーバックさせて避け、切っ先を上に向けての斜めへの切り上げをナイフを持っていない方の手で手首を抑えて止め、逆手に構えたナイフをハーニバルの頭へと振り下ろす。ハーニバルは振り下ろされるヤハドの右腕に自身の右腕を割り込ませてそれを防いだ。
互いに互いの攻撃を止めたまま、睨み合う。しかしそれも一瞬のことだった。
ヤハドの右脚がハーニバルの左脚に伸びて引っかける。バランスを崩したハーニバルの身体は、そのままヤハドに押し切られて背中から床に倒れ込んだ。ヤハドは馬乗りの体勢になると、ナイフを口に咥え、右手でナイフを握るハーニバルの左手を抑えつつ右手でハーニバルの首を締め上げた。
呪文を唱えることすら出来ずにハーニバルが喘ぐ。ヤハドは苦しげに歪む彼の顔を見下ろしながら、彼の首を絞め続けた。
だがハーニバルは、ただされるがままでいることを良しとしなかった。
「ッ!」
ハーニバルの右手が自身の首を絞めるヤハドの右手を掴む。と、同時にハーニバル左脚が蛇の如く動いてヤハドの首に絡みつく。ヤハドは咄嗟に抵抗しようとするが、間に合わずに彼の身体は床に引きずり倒されて仰向けに転がる。次いでハーニバルの右脚がヤハドの身体に伸びて抑え付け、ハーニバルの両手がヤハドの右腕を捕らえて、圧し折ろうと力を込める。
ヤハドは関節を極められた激痛に表情を歪めながら、口に咥えていたナイフを左手で掴んで首を抑え付けているハーニバルの脚に突き立てようとする。しかし直前で気付いたハーニバルは足を引っ込めてそれを躱し、そのまま後転でヤハドから距離を取った。
拘束から逃れたヤハドはナイフを右手に持ち変えると、ハーニバルとは逆の方向に向かって転がり、その勢いを利用して立ち上がろうとする。だが、それを悠長に待ってくれる筈もなく。何とか立ち上がって上体を起こそうとした時には、近づいてきたハーニバルの蹴りがヤハドの顔を蹴り上げるように放たれていた。ヤハドはそれを左手で受けるが、勢いを殺し切れずに身体を無理矢理起こされ二、三歩後退する。それを追って順手に構え直したナイフをハーニバルが突き出してくる。ヤハドはそれを右手で受け長しつつ、ナイフを手放す。そして落下したナイフをすぐに左手でキャッチし、ハーニバルの腹に向かって真一文字に振り抜く。
咄嗟に後ろに飛びのいてハーニバルはその一撃を躱す。今度はヤハドが攻勢に転じる番だった。
後ろに飛びのいたハーニバルを追ってヤハドが踏み込む。それを迎撃するべくハーニバルがナイフを突き出す。それを左手に握ったナイフで弾き、右の拳をハーニバルの顔面に目掛けて放つ。
「ぐっ…!」
避けそこなったハーニバルが後退する。ヤハドはさらにもう一歩踏み込むと、突きを放つべく左手を引き付ける。
殴られながらも、その動きをハーニバルは見逃さなかった。ハーニバルは何とか踏みとどまると、意識をヤハドの左手と自身の右腕に集中させた。
(突きを右腕で受け、左のナイフで奴の喉を抉る…!)
右腕を捨てる覚悟を決め、ヤハドの放つであろう一撃を待ち受ける。引き付けられたヤハドの左手は彼の読み通り、ハーニバルに向かって伸びようとしていた。ハーニバルの唇が微かに吊り上る。
だが、その笑みは一瞬で霧散した。
「なっ…!」
ハーニバルに向かって突き出されようとした左手が途中でぶれる。その瞬間、ハーニバルの左手から鈍い銀色に輝く物体が右に向かって飛んだ。
それがヤハドが握っていたナイフだと気付いた時には、すでにヤハドの右手がその柄を握っていた。ハーニバルは咄嗟に左腕を振るおうとするも、ヤハドの突きの方が速かった。
ヤハドの突き出したナイフが、深々とハーニバルの左肩に突き刺さる。激痛がハーニバルの脳を蹂躙し、手からナイフが零れ落ちた。
だが、それでもハーニバルは動きを止めなかった。右脚を振り上げ、ヤハドの側頭部に向かってハイキックを放つ。しかし直前でヤハドの身体が沈み込み、ハーニバルの蹴りは空を掻く。そして脚を戻す間すら与えずに、ヤハドの拳がハーニバルの鳩尾にねじ込まれる。
嗚咽を漏らしながらハーニバルが身体を曲げて数歩後退する。鳩尾に入れられた強烈な一撃に意識を持って行かれそうになりつつも、何とか顔を上げるが、それに合わせるかのようにヤハドの後ろ回し蹴りがハーニバルの胸に叩き込まれた。
満足に防御も取れずに胸を蹴り抜かれたハーニバルが更に後退して、背後にあって柱に当たってようやく動きを止めた。頭を左右に振って意識を持ち直させつつ、ハーニバルが視線を前方へと向けるとこちらに向かって駆け寄ってくるヤハドの姿が飛び込んでくる。ハーニバルは顔目掛けて放たれた掌底を顔を捩って躱し、同時にボディブローをヤハドの下腹部へとねじ込む。そして一切の躊躇いなく右手を左肩に伸ばして突き刺さっていたナイフの柄を握ると、一気に引き抜き、ヤハド目掛けて振り抜いた。
「チッ…!」
咄嗟に後ろに飛びのいてヤハドはナイフの一撃を躱す。続く横薙ぎの攻撃を左手で受け止めると、ナイフを手放させるべくハーニバルの右腕に向かって右手を伸ばすが、指先が触れる前にハーニバルが前蹴りを放つ。ヤハドはそれを膝で防御するも、勢いを殺し切れずに後ろに下がる。
二人の間に僅かながらも距離が空く。ヤハドはハーニバルの追撃に備えて構えたが、予想に反してハーニバルは攻撃を仕掛けてくることはなかった。
互いに睨み合ったまま、沈黙が場を支配する。静かに時間だけが過ぎ去る中、ヤハドは現在の状況を頭の中で整理していく。
ヤハドに残されたカードは他に身に付けている数本のスローイングダガーと、今は戦いから遠ざけているラギの存在。対するハーニバルは、左腕こそ使い物にされなくなったが、まだ魔法というカード強力なカードが残されている。
(そして…)
ヤハドの脳裏に、この場所い訪れた目的であるサラの姿が浮かぶ。最後に見かけた時は説教台の後ろに隠れようとしていたが、それ以降彼女の姿をヤハドは見ていない。かといって、教会から出たとも考えられない以上、彼女は近くに潜んでいる筈だった。まだ説教台の後ろに隠れているのか、それとも他の場所へと移ったのか。それは定かではないにしても、彼女の存在がこの戦いに何らかの影響を及ぼす可能性は捨てきれなかった。
(不確定要素込みで、こちらが若干有利、といったところか…)
それがヤハドが最終的に下した決断だった。そう判断したのは、ハーニバルの左肩の傷と彼の得物である魔弓が手元に無いこともあるが、それらと並列してサラの存在があった。
教会に入った時の二人の状態から考えて、ハーニバルはまず間違いなくサラを生かしてどこかに連れて行こうとしていた。一方、ヤハド達もサラを生きた状態で確保したいのは同じだが、ある一点でハーニバルに差を付けている。
それは、ハーニバルにこちらの目的がサラの確保だと気付かれていないことだ。これが意味するところはつまり、ハーニバルはヤハド達がサラを殺す可能性があると考えるということであり、それは即ちサラを人質に取ることでハーニバルの動きを封じることが出来る可能性がある、ということだった。
(…恐らく米国人なら俺よりもっと早く気付き、そして実行していただろうな)
しかし、それであってもヤハドは完全にハーニバルに対して有利な状態にあるとは言い難かった。インコンプリーターであるハーニバルには魔法が有り、なおかつ今は手元から離れているとはいえ魔弓の存在がある。そして何より、
(だが、それは最後の手段だ。そう、本当に最後の…)
ヤハドは自身の性格を熟知していた。
最後に見たサラの表情に浮かんでいたのは強い混乱、そしてそれを上回る恐怖だった。恐らくは、殺し合いの場に立ち会ったことなど無いのだろう。そもそも、この教会に逃げ込んだ時も子供を連れていたとラギからの報告にあったことから、他者を慈しむ心を持った少女であることは充分に考えられた。
ヤハドにはそんな少女を、自身の盾にすることなど出来なかった。それも他人に説得された末での行動ならまだしも、自ら進んでそのような行為を行うなどというのは言語道断といっても良いだろう。
それが例え、陳腐な自己満足に過ぎなかったとしても。
(……動くか)
対面するハーニバルの視線が僅かに動く。ヤハドはそれで、この沈黙に終止符が打たれることを悟った。
「シッ!」
ハーニバルの右手がしなり、持っていたナイフをヤハドの顔に向けて投げつける。ヤハドはそれを顔を捩って躱すと同時に、身体に斜めに巻きつけたベルトから一本スローイングダガーを引き抜いて投げつけた。
ハーニバルが身体を回転させ、左の肩口でスローイングダガーを受ける。ヤハドは舌打ちを打つと、右手でもう一本スローイングダガーを引き抜き、逆手で構えてハーニバルへと突っ込んだ。ハーニバルは動かず、ヤハドが近づくのを待ち受ける。彼の口元は血に濡れた左肩に隠れて見ることは出来なかった。
ヤハドが右手を振るった直後、ハーニバルの身体が沈み込み、ヤハドの一撃を躱す。身体を沈み込ませたハーニバルはそのまま前方に向けて一歩踏み出し、ヤハドの脇を抜けようと試みた。
(狙いは魔弓か…!)
ハーニバルの狙いを悟ったヤハドは、脇をすり抜けようとするハーニバルの頭に向けて右脚を振り上げた。だがハーニバルはそれを右腕で受け、身体を回転させていなす。
「ラギッ!」
ハーニバルがヤハドの脇を抜けて飛び出す。ヤハドはハーニバルを止めることにしくじったことを悟ると、ラギの名前を呼びながら身体を翻した。
「おうっ!」
長椅子の影からラギが飛び出す。ヤハドはハーニバルを追おうとはせずに、右手に持ったスローイングナイフをいつでも投擲出来るように構えた。
狙いは、ハーニバルがラギを躱した直後。そこを外せば、次の一撃を放つ前にハーニバルは魔弓の許へと辿り着くだろう。そうなれば、戦況は一気に逆転する。外すことは許されず、それ故にヤハドの意識もハーニバルの姿を捉え、然るべき瞬間にスローイングダガーを投擲することだけに集中させられた。
そして、それが仇になった。
「な…に…?」
刹那、ハーニバルの身体が翻される。そしてその勢いに任せてハーニバルの右腕が鞭の様に振るわれる。そして宙を掻くハーニバルの右腕からは、微かに光を放つ漆黒の鎖が伸びていた。
それが神導魔法で生み出された存在であることに気付いた瞬間、ヤハドの頭を衝撃と痛みが襲う。このような形での反撃を予想出来なかったヤハドは、避けることも攻撃を防ぐことも出来ずに殴り飛ばされ、長椅子に叩き付けられた。
「うっ…」
頭を抑えながら、ヤハドは何とか立ち上がろうとする。頭から流れる血の温かさが右手を通じて伝わってくる。眼前では、同じように頭を殴りつけられたラギが床に崩れ落ちていた。
血に濡れた右手で、ベルトからスローイングダガーを引き抜く。ハーニバルが床に転がる魔弓に飛び付き、グリップを右手で握りしめる。スローイングダガーを持つヤハドの右手が振り上げられる。魔弓を手にしたハーニバルが身体を反転させ、魔弓をヤハドへと向ける。
(間に…合わん…!)
そしてスローイングダガーがヤハドの手を離れるのを待たずに、ハーニバルが構えた魔弓が重厚な咆哮を上げた。




