Scramble
いつもならば使用人や警備の兵士の物音ぐらいしかない早朝のトランシバ城は喧騒に包まれていた。城の中を兵士はもちろんのこと、文官や使用人などが慌ただしく駆け抜けていく。その行き先は多種多様で、ある者は厨房に兵士たちの食糧を用意しにいき、ある者は避難場所に向かい、またある者は情報の伝達の為に駆けずり回っていた。
そんな昨日とは一変した状況の中、城の中心に設けられた大会議室に『スチェイシカ』現国王、ガロス・オブリージュはいた。
「『ウートポス』の治安維持部隊から連絡です! 上陸した『グランロッソ』の軍は続々と市街に展開しているとのことです!」
「第三番兵団、出撃準備完了しました。後は閣下の号令で『ウートポス』に向けての移動を開始します!」
「諸侯の城内への避難、完了いたしました!」
次々と会議室内に飛び込んでくる兵士達。ガロスは彼らが発する伝令を一番扉に近い席に座る将軍に任せると、左目が捉えている光景に意識を集中させる。
今、ガロスの左目には目の前に広がる会議室とはまるで違う光景が見えていた。その光景は高高度から捉えた、一時間程前に突如現れた『グランロッソ』の軍勢の侵攻によって混迷の極みへと陥っている『ウートポス』の全体図だった。
その光景は無論、神導魔法の恩恵によるものである。ガロスは甲冑姿の兵士達が砂に水を流し込むかのように『ウートポス』中に広がっていくのを眺める一方で、目の前で繰り広げられている言葉の応酬にも意識を向ける。
「第三番兵団は首都の防衛に当たらせる。『ウートポス』には向かわず、市民区に移動させて『グランロッソ』の軍勢を迎え撃つ準備をさせろ」
「ハッ! 了解しました!」
伝令の兵に視線を向けることなく、ガロスは出撃を許可する旨の言葉を掛けてやる。兵士は律儀に敬礼を返してから、それを伝えるべく駆けて行った。
「閣下、『ウートポス』は捨て置く置くつもりですか?」
兵士が会議室を後にすると、文官の一人がガロスに問いかけた。
「この状況では『ウートポス』の陥落は免れない。兵を送り込んだところで戦力をどぶに捨ててやるようなものだ。それより、首都の守りを固めて長期戦に持ち込む。…そこの」
「ハッ!」
ガロスは文官の問い掛けに返答するや否や、扉の近くで直立不動の姿勢を取っていた兵士を呼びつける。呼びつけられた兵士はその場で膝を突き、ガロスの言葉を待った。
「神道具を使って、『ウートポス』の生き残りに食料を片っ端から処分するように伝えろ。『グランロッソ』の連中が『ウートポス』陥落で得る恩恵を出来る限り減らすんだ」
「ハッ! 了解いたしました!」
「それと、『ゼンシュル』に一報を入れて、兵力をボルチェフ湾に向かわせるように伝えろ」
「ハッ! 仰せのままに!」
ガロスの命を受けた兵士が、慌ただしく会議室から出ていく。
「成る程。物資の補給を絶たせた上で、長期戦に持ち込ませる気ですな。慣れない土地での長期間の戦闘となれば連中は圧倒的に不利ですからなぁ」
『リーザ・トランシバ』に常駐する兵団の内の一つ、第二番兵団の団長が納得した素振りで頷く。ガロスはそれに対して返事を返そうとはせずに、その横に座る第三番兵団の団長に向けて声を上げた。
「貴殿は第三番兵団と合流し、直接指揮を執ってくれ。兵士の殆どが初めて体験する首都防衛戦だ。恐らくは浮足立っている筈だからな」
「畏まりました、閣下」
ガロスがそう指示すると、第三番兵団の団長はお辞儀を一つしてから会議室を後にする。
そうしている最中でも、『ウートポス』に上陸した『グランロッソ』の軍勢が、甲斐甲斐しい抵抗を見せる『ウートポス』の治安維持部隊、そして本来は船の上を戦場とする海兵達を蹴散らしながら『ウートポス』を覆い尽くしていく光景を、ガロスの左目は捉えていた。
ガロスの額に、微かに汗が浮かぶ。大半の人間が、この状況に対しての緊張で出たものだと判断するであろうその微かな変化の本質を、彼の傍らに立つハーニバルだけは的確に見抜いていた。
「閣下」
顔をガロスの耳元に近づけ、囁くようにハーニバルが声を掛ける。ガロスは右目を動かしてハーニバルの姿を確認すると、諦めたように口を動かした。
「頼む」
ガロスが発したのはたったそれだけだったが、ハーニバルが行動を起こすにはそれで充分だった。
ハーニバルは顔をガロスの耳元から離すと、会議室の扉に向かって確かな足取りで歩いていく。
「閣下、彼はどこに?」
「少し所用を頼んだだけだ気にしなくていい」
会議室を後にしたハーニバルの姿を目で追っていた文官が、ガロスに問いかける。ガロスは訊ねてきた文官に適当に返事を嘉返し、視線を会議の席に着くこの国の重鎮達へと向けた。
「これからの動きだが、ここの防衛は第一番兵団に任せる。第二番兵団は軍事区に移動し、第三番兵団の援護を即座に行えるよう、戦闘準備を整えよ。その他地方の兵団については、こちらから指示が出るまでは現地での反乱に備えつつ、戦闘準備を整えておくように」
ガロスが口を開くや否や、外から聞こえてくる喧騒意外の一切の音が消え失せた会議室の中で、ガロスが発した各兵団の動きに全員が真剣な面持ちで耳を傾ける。
その直後、会議室に満ちた沈黙は荒々しく開かれた扉の音によって終わりを告げることとなった。
「何事だ! 場を弁えろ!」
「も、申し訳ありません! しかし、緊急事態でして…!」
転がり込むようにして会議室に入ってきた兵士に、第二番兵団の団長が怒声を飛ばす。会議室に現れた兵士は慌てて敬礼をすると、何とか呼吸を落ち着かせて報告を始めようとする。
ガロスは手で第二番兵団の団長を制すと、兵士がまともに喋れる状態になるのを静かに待ってから、兵士に報告を促した。兵士は背筋を伸ばし、まだ微かに荒い息遣いのままガロスに報告する。
「市民区で暴動です! 現在治安維持部隊が鎮圧に当たっていますが、規模はどんどん拡大していく一方で…!」
ガロスによって一度は落ち着きを取り戻した会議室に、再び動揺が奔る。傷口に塩を塗り込むかの様なタイミングでの暴動に会議室の面々が騒ぎ立てる中、ガロスは憎々しげに舌打ちを打った。
「全員、一歩も退くなぁ! 何としてもこの場を守り抜くんだ!」
『スチェイシカ』首都『リーザ・トランシバ』の外周に位置する市民区、その一角にそびえる『ウートポス』方面の大門では、この街の治安維持部隊とレジスタンスを筆頭とした市民達が激しく衝突していた。
衝突したといっても、戦況は完全に市民側に傾いていた。『グランロッソ』の軍勢の奇襲により、未だ戦火が及んでいないとはいえ『リーザ・トランシバ』にも相応の混乱がもたらされて兵士達が本来のポテンシャルを発揮できないのに加え、市民の対応等に追われて戦力をかなり分断せざるを得なくなった結果、門の警備についている人数は常時よりは多いとはいえど明らかに人数が足りていなかった。
それに加え、対するレジスタンスの戦力は、市民達がどんどんと加勢していくせいで際限なく増え続けており、完全に治安維持時部隊が倒していくスピードを凌駕していた。
『皆さん、今こそ立ち上がる時です! 長年に渡り我々を支配してきた王族の楔を打ち破る為に手を取り合って戦うい、真の自由を取り戻しましょう』
神導魔法によって増幅されたレジスタンスの演説が、街中に響き渡る。それの呼応するように街のあちこちから、翼に食らいつく猟犬が描かれた旗が掲げられていく。一目で素人が作ったと分かる程に、それらの旗は王家が掲げるものと比べて格段に粗末な出来であったが、その旗が一本掲げられる度にレジスタンスと市民達の対処にあたっている治安維持部隊の戦意は着実に削られて言っていた。
大門の上で弓兵の指揮を執っている治安維持部隊の隊長の任を任せられた四十代の男は、その旗を憎々しげに睨みつけていた。その眼下では、急ごしらえで作り上げたバリケードを最後の防衛線として彼の部下達が夥しい数の市民達と戦っていた。
「隊長、もう無理ですよ。援軍も来ないし、他の仲間達とも連絡が付かないし、その上『グランロッソ』の奴等だってもうそこまで来てるって話じゃないですかぁ……もう降伏しましょうよぉ」
「馬鹿者! 貴様は栄えある『スチェイシカ』の軍人なのだぞ! 敵に背を見せて逃げるなど、そんなことが許されると思っているのか!」
隊長の横で通信用の神道具に語りかけていた兵士がへなへなと床に崩れ落ちたかと思うと、眦に涙を浮かべて隊長に訴えかける。隊長は唾を飛ばしながら、周りの兵に聞こえるように声を張り上げると、腰に差していた長剣を引き抜き、泣き言を上げた兵士目掛けて振り下ろす。
一刀のもとに切り捨てられた兵士の返り血が、隊長の軍服を汚す。周りの兵士達は怯えた様な目付きで今しがた切り殺された同僚の姿を見ていたが、隊長が鞘に長剣を納める音を境に、その周りの数人が叫び声を上げながら弓を眼下の群集に向けて引き絞り始めた。それは次々と回りの人間にも伝播していき、最終的に隊長を除く全ての兵士が思い思いの声を上げながら矢を弓に番えた。
「……クソッ」
真下から聞こえてくる熱狂の声と周囲から聞こえてくる絶望に染まった叫び声に鼓膜を蹂躙されながら、隊長は小さく悪態を吐いた。
恐怖で縛り付けなければ戦闘を維持できなくなった時点で、もはや勝ち目など無いことは彼自身が一番よく分かっていた。本来ならば、切り殺した部下の言葉通り白旗を振って降伏するべきであることも。
だが、それは出来ない相談だった。何故ならそれは彼の主君であり、この国の当事者であるガロス・オブリージュに対する重大な背信行為に他ならないからだ。
彼にとってガロス・オブリージュは英雄そのものだった。四十を過ぎた歳の彼は長年に渡って続いた諸部族との内戦にも参加していた。無論、ただの一兵卒としてだったが、それでも多くの仲間を失い数多くの修羅場を潜り抜けてきた。気まぐれ同然の短い平和を挟んでいつ終わるともしれぬ戦いの中で、彼は様々なものを失った。共に戦場を駆け抜けた仲間はもちろんのこと、母親の死に目を看取ることが出来なければ、妹が貴族の次男坊に弄ばれて身を投げたことを知ることすら出来なかった。傍にいてやれたからといって母親が死なないわけでもなければ、知ることが出来たからといって妹の身投げを防げたとも限らない。それでも彼が内戦と、自分達を戦場に駆り出しておいてぬくぬくとしている貴族連中を恨むにはそれで充分過ぎた。
そこに現れたのが、ガロスだった。彼は類まれなる才能を存分に振るい、自ら戦場に立って各地で起こっていた内戦で次々と勝利を収めたばかりか、地位に胡坐をかいているだけの無能貴族達を根こそぎ粛清していった。
その瞬間、彼にとってガロスは英雄となった。そして誓ったのだった。自分からあらゆるものを奪っていった存在を悉く打ち滅ぼした男に、自分の人生を懸けて忠誠を誓うことを。
故に、彼はここで部下共々討ち果てる覚悟を決めていた。例えそれが、理に適わない愚か者の所業と蔑まれることになろうとも。
(そうだ…俺はただ忠義を貫く、それだけだ…)
深く息を吐き出すと、彼は今為すべきことへと意識を向ける。
「サーリュ! ヘイソクと一緒に中に戻って、油を熱して持って…」
そして近くに居た部下に指示を飛ばそうと振り返った瞬間、彼の眼にその女の姿は映った。
彼が捉えたのは、左右を引き裂きいて無理矢理にスリットを入れることで機動性を確保した脚をすっぽりと覆う丈の長さの質素なスカートに薄汚れたシャツを身に纏い、民家の屋根から彼に向けて魔弓で狙いを定める褐色の肌に綺麗な緑色の瞳の女性だった。
「ッ!?」
咄嗟に隊長が身体を屈めたのと、その女性が引き金を弾いたのはほぼ同時だった。
女性の手に握られた魔弓の射出口から飛び出た魔力弾は、隊長の被っていた帽子を吹き飛ばして虚空へと消えていく。外したことを悟った女性の口からは、女らしからぬ舌打ちが漏れていた。
「隊長、御無事ですか!」
撃たれる前に声を掛けていた二人だけが女性の存在に気付いて、弓を民家の屋根の上で魔弓を構える女性へと向ける。しかし向けるや否や、轟音が二度空に轟き、二人の兵士は鮮血を撒き散らしながら仰け反り、そのまま地面に背中から倒れ込んだ。
「……畜生ッ!」
身体を屈めていた隊長は、二人の部下の死体を前に大声で悪態を吐く。そして倒れた部下の手から零れ落ちた弓矢を手に取り、身体を起こすと同時に女性に向けて矢を放った。
女性の緑色の目が隊長の姿を捉える。魔弓の射出口が微かに動き、轟音と共に真紅の魔力弾が撃ち出される。
果たして、撃ち出された魔力弾の狙いは実に正確だった。女性の握る魔弓から放たれた魔力弾はその使い手の思い描いた通り、彼女の首を射抜かんと飛来した鋼鉄の鏃を粉砕した。
「ばっ、馬鹿な…」
放たれた矢を空中で撃ち落とす。それこそ酒場の与太話でしか聞いたことのない光景が、隊長の目の前で繰り広げられた。その妙技の前に彼は、鏃を粉砕して軌道が微かに逸れた魔力弾によって抉られた肩の痛みに気付くことが出来なかった。
大きく見開かれた彼の瞳が魔弓を構える女性の姿を捉える。瞳に映った褐色の肌の女性が引き金を弾くと、轟音が彼の耳を、衝撃が彼の胸元を襲った。
刹那、彼の目の前に広がる光景は本来見上げなければ見ることが出来ない筈の曇り空へと変わっていた。遅れてやってきた浮遊感と合わせて、彼が大門の上から落ちたのだと気付いた時には、彼の身体はもう地面に接触しようとしていた。
「た、隊長がやられたぞっ!?」
「ふ、ふざけんな! あんたが真っ先に死んでどうすんだよ、おいっ!?」
隊長が大門から落ちたことに気付いた周りの兵士達が、弓矢を放り出して街の外側へと視線を落とす。そして視線を落とした先で、有り得ない方向に手足を向けた状態で倒れている隊長の姿を見ると、大声で喚き散らし始めた。
「これでもう、ここのケリは付いたな…」
自分や下の群集に尻を向け、落ちかねない程に身体を乗り出して真下を見つつ喚き散らす兵士達の姿を見た女性……エリザは小さく呟くと、静かに屋根から降りて二階からせり出したベランダに降り立った。
エリザはシリンダーを開いて使用済みの魔弾を床に落としながら、大門へと視線を向ける。
隊長の死を発端に一気に表面化した戦意の喪失は、あっという間に下でバリケードを張って応戦している兵士にも感染していた。辛うじて保たれていた統制は完全に瓦解し、兵士達は我先にと大門の中に逃げ込んでいく。
その光景を見てこれ以上は戦闘になり得ないと判断したエリザは、魔弾の装填が終わったシリンダーを閉じつつ、この場の指揮を執っているテメウスへと視線を向けた。テメウスもすぐにエリザの意図を理解したようで、エリザに向けて小さく頷いてみせると、左手に持った音声拡張用の神道具を口元に持って行って声を張り上げた。
『諸君、我々の勝ちだ! 『リーザ・トランシバ』正面大門は我らの手に堕ちた!』
テメウスの宣言を受け、眼下の群集から歓声が上がる。空を割らんばかりの数多の人々の叫びを前に、大門の上に居る兵士達はこの世の終わりの様な表情を浮かべて群集を見下ろしていた。
エリザは、大門へと押し寄せる群集をかき分けてテメウスの許まで行くのは不可能と判断して、大人しくベランダの手すりに肘を突いて大門の陥落していく様を眺める。
『門を開くのだ、諸君! 共通の敵に立ち向かう同胞を迎え入れる為に!』
テメウスに扇動されるままに、大門がゆっくりと開かれている。
今や、市民達は熱病に浮かされるかの様に酔いしれていた。溜まりに溜まった大小様々な政府への不満、そして実態を伴って目の前にぶら下げられた勝利の存在は、彼等からまともな思考回路を奪っていたのだ。故に、彼等は何の躊躇いも無く自身等を扇動する声に身を任せ、大門を開いた。もはや手を借りようとしている存在が、長年仲の悪かった隣国である、などといった些細なことでは彼等の侵攻を阻むことなど出来なかった。
「おーい、エリザぁ!」
遂に開け放たれた大門を前にして、腕を振り上げて歓声を上げる群集を見ていると不意に下方から声を掛けられる。エリザが首だけを覗かせて下に視線を向けると、そこには周囲の市民達と似た様な表情を浮かべたテメウスがこちらを見上げていた。
「ははっ! 凄いぞこれは! 市民区の三割どころか、七割近くが俺達と共に戦う意思を見せている! これは勝てるかもしれないぞ!」
「…そうか。とにかく、ここはもう済んだだろう? 次はどこに動くんだ?」
それとは対照的に、エリザの顔に浮かぶ表情はどこか冷めていた。しかしテメウスはそれに気付いた様子はなく、彼女に求められた通り次に向かう場所を教える。
「次はシャムリッセン大広場だ! そこで、軍事区から出てくる奴等に対抗する準備を整える!」
「なら、私は先に行っている。ここはあんたに任せた」
エリザはそう返事を返して、手すりを足場に再び屋上へとよじ登る。そして立ち並ぶ民家の屋上を飛び越えて、目的のシャムリッセン大広場に向かって動き出した。
(やはり“あいつ”の言う通り、私は革命家でも何でもない、ただの復讐がしたいだけの愚か者に過ぎないみたいだな……革命が順調に進んでいるのに、何の感情も湧いてこない)
胸の内に自虐の言葉を吐き捨てながら。
『グランロッソ』軍とレジスタンス主導で引き起こされた暴動により、建国以来片手で数えられる程度しかない程の大規模戦闘が地上で繰り広げられる最中、打って変わってしんと静まり返った地下通路をヴィショップ達は歩いていた。
「今、どれくらいまで進んだんだ?」
「大体半分程だな。このままいけば、予定通りの時刻にトランシバ城の真下に着く筈だ」
地図を片手に先頭を歩くヤーゴと時折会話を交わしつつ、ヴィショップは列の最後尾を歩く。
地下通路の中は少し肌寒さを憶える程に涼しかったが、ヴィショップの目がおかしくなっているのでなければ、目の前を歩く男の首筋は汗で湿っていた。それが極度の緊張によるものであることは、想像に難くない。
(さてさて、こいつらがどこまで役に立ってくれるか…)
ここに連れてきた連中は、現場の指揮等で必要な人間を除いた場合、最も使えると思った者ばかりである。だが、それでも軍事訓練を受けて数多の修羅場を潜り抜けてきたといえるのはヤーゴとヴィショップのみで、他の面々は実戦経験など殆ど無いに等しかった。
それは分かっていたこととはいえ、いざ敵地に盛り込もうとしている段階でそれをまざまざと見せつけられるとなると、流石のヴィショップも心中で呆れ混じりの呟きを漏らさずにはいれられなかった。
(……それに、そうそう物事は上手く運んでくれないみたいだしな)
ヴィショップがその気配に気付いて足を止めたのと、戦闘を歩くヤーゴが足を止めたのは、同時といっても差支えがなかった。
「出て来い。そこにいるのは分かってる」
不意に足を止めたヤーゴに後ろの仲間達が訝しげな表情を浮かべたが、彼等が声を発する前に、有無を言わせぬ威圧感を持ったヤーゴの声が前方の暗闇向かって発せられた。
「ほう。流石は一国の主といったところか。読みが鋭い。まさか、本当にこの道を通ってくるとはな」
言葉共にその人物が姿を現した瞬間、ヤーゴの背後に並んでいた仲間達が隊列を崩して広がり、剣を引き抜いた。
それを尻目に、最後尾に一度っていたヴィショップ、神道具を持たない右手をホルスターの真上に運んだまま、黙って暗闇から姿を現した人物を見ていた。
その人物の姿は、周囲の暗闇と相まって悪魔を彷彿とさせる不気味な雰囲気を醸し出していた。
金色の刺繍が施された真紅のローブ、首元からじゃらじゃらと音を鳴らして大量にぶら下げられた銀製の装飾品、そして鳥を模した奇怪なデザインの仮面。
生きている内にそう何度もお目にかかる機会など無いであろう、異質の形貌。実際に、剣を構えて戦闘態勢を整えるヤーゴ達の中に、そのような恰好に見覚えのある者は居なかった。だが、ヴィショップだけは違った。彼だけは、唐突に姿を現したこの人物の姿に、確かな心当たりがあった。
(こいつ…まさか、レズノフが言ってた奴か…?)
かつてレズロフが言っていた、ドーマを殺害したという魔導士の姿と、眼前に現れた人物の姿はあまりにも似通っていた。
予期せぬ存在との邂逅に対し、ヴィショップがとった行動は口を噤んで様子を見る、というものだった。ヴィショップはいつでも魔弓を抜けるようにしたまま、ヤーゴ達の後方で仮面の人物に視線を向ける。一方の仮面の人物は品定めするかのように剣を引き抜いたヤーゴ達を見ていたが、後方に下がっているヴィショップの存在に気付くと、そこで視線を止めた。
「お前は…確か、検体三十二号を倒した奴じゃないか。どうしてお前がここに?」
ヴィショップに視線を向けて、仮面の人物は不思議そうな声音で問いかけた。しかしヴィショップは仮面の人物の言っている言葉の意味が理解出来ず、訝しげな表情を浮かべて沈黙を貫く。
すると、仮面の人物は得心のいったように手を叩いた。
「そうか、検体三十二号じゃ分からないな。ほら、検体三十二号っていうのはあれだ、“お前達”が倒した羽の生えたバウンモルコスだよ」
その名前を聞いた瞬間、ヴィショップの目が驚きに見開かれる。
その名前は、ヴィショップがギルドに所属した後に受けた、現状最初にして最後の依頼の標的であり、彼にこの世界の異質さをはっきりと突き付けた存在だった。
そして何よりヴィショップの意識を引いたのは、その存在に対しての仮面の人物の呼び名。検体三十二号という、ただヴィショップがバウンモルコスを倒したのを知っているだけの存在であれば、決してつけることのない呼び名だった。
「おい、ヴィショップ、どういうことだ? お前こいつと…」
「ヤーゴ、援護してやるから、お前はそこの連中を連れて先に行け」
ヴィショップと仮面の人物のやり取りを前に、微かに猜疑の影を表情に落としたヤーゴが顔だけを動かしてヴィショップに振り向き、問い質そうとする。しかしヴィショップは有無を言わせぬ口調でそれを掻き消すと、右手でホルスターから魔弓を引き抜いて仮面の人物へと向けた。
「…それでも構わないが、一つだけ聞かせるんだ。こいつは一体、何者だ?」
一瞬の逡巡の後に、ヤーゴはヴィショップにそう問いかける。
「さぁな。俺にも分からん。だからこそ、こいつと少し話がしたい訳だ」
仮面の人物を見据えたまま、ヴィショップは答える。
ヤーゴが諦めた様に息を吐いて、視線を正面の仮面の人物へと向ける。ヤーゴは一言も発しなかったが、それが肯定の意思表示であることは容易に理解出来た。
しかしそれはヴィショップだけではなく、仮面の人物も同様だった。仮面の人物はくぐもった笑い声を漏らすと右手を顔の少し上辺りまで掲げる。
「悪いが、お前達には一人の例外も無く、私の実験に付き合ってもらう予定なんでな」
「実験だと? 何の実験だ!」
仲間の一人が上げた声に対して返事を返すかのように、仮面の人物が右手で指を鳴らした。
直後、仮面の人物の足元青白い光を放つ魔法陣が伸びていく。
「こいつ……やはり魔術師か!」
ヤーゴ達が声を上げながら展開された魔法陣から下がりつつ剣を構える。
仮面の人物の足元から伸びた魔法陣は先程までヤーゴが立っていた位置まで広がったところで拡大を止めると、その輝きを一層増し始めた。
それを攻撃の予兆と受け取ったのか、ヤーゴ達はいつでも回避行動をとれるように神経を研ぎ澄ませる。だが、ヴィショップは仮面の人物を見据えたまま、魔弓を突き付け続けていた。何故なら、彼はこの時仮面の人物から、自分達に対する殺意を全く感じ取れなかったからだ。
故に、ヴィショップはこれが攻撃の類ではないと判断した。そしてその判断は正しかった。
「な、なんだあれは…」
青白い光が地下通路を照らし出す中、呆気に取られたヤーゴの口から言葉が漏れだす。そしてヴィショップもまた、彼ほどではないにしろ驚きに感情を支配されながら目の前の光景を見ていた。
青白い光が段々とその輝きを失っていき、やがて完全に消え失せる。それと同時に仮面の人物の足元から伸びていた魔法陣も消え去り、代わりに仮面の人物の目の前に一人の女性が立っていた。
女性は一糸纏わぬ姿で、その場に降臨していた。黒くやや癖のある長髪は大きく膨らんだ胸元にかかり、傷一つ無い肌を纏った四肢がスラリと伸びている。相貌は野性的な猛々しさを孕んで、見る者を萎縮させるような雰囲気を持った美しさを放っていた。
その姿は、神話で語られる戦乙女を目にした男達に連想させたとしても何らおかしくはなかった。
そう、まるでタトゥーのように黒い模様が浮かび上がった深い青色の肌を持ち、頭から二本の角を生やしてさえいなければ。




