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Bad Guys  作者: ブッチ
Bring On Revolution
65/146

逸線

 ヴィショップとヤハドによって娼館『華国の蝶』に預けられてから四日目の深夜、少女はフードの付いた身体に不相応なサイズの外套を着込んで、トランシバ城の廊下を外套の裾を引きずりながら歩いていた。

 兵士一人立っていない廊下を、少女は怯えながら進む。馬車で連れてこられた場所がトランシバ城であること、明かされない自分の相手、そして警備の全く居ない神導具で照らされた薄暗い廊下。それら全ての要素が、少女の心に深い不安の影を落としていた。だが、それらよりも遥かに少女の心を捉えて離さないことがあった。


(どうして…どうして、私は進むべき道が分かるの?)


 『ノルスタバルスク』で生まれ、ある時望む望まずに関わらず『パラヒリア』に渡ることになり、その成り行きで今こうして『スチェイシカ』に訪れている少女に、当然『トランシバ城』を訪れた経験等無い。にも拘わらず、少女の頭の中にはどこをどう曲がればいいのか、どの階段を登ればいいのかといった、次に進むべき道筋がはっきりと見えていた。

 無論、どうして分かるのかなど、少女に分かる筈もない。それ故に、少女は強い不安と恐怖を覚えていた。


「ヤハドさん…!」


 故郷から攫われて以降、もっとも親しく、まさしく彼女の思い描く親という存在そのもののように接してくれた男の名を呟いて、少女は首に掛けている鉄細工を握りしめた。

 それは、もう一人の少女と一緒に、ヤハドに連れられて『オートポス』の街に出たとき、二人にヤハドが買い与えた代物で、少女の小指程の大きさの湾曲した刃を持つナイフを象った造形をしていた。


『これは、俺の生まれた地域では、誇りと自由の証とされていたものだ。これを持つ限り、お前達は誰にも犯されぬ誇りと自由を手にしていることになる。それは、お前達が下衆共によって奪われたものだ。それが返ってきた今、お前たちは何かを恐れる必要も何かに屈する必要も無いんだよ』


 所々意味が理解出来ない言葉こそあったものの、それが自分達を思っての言葉だということはしっかりと理解出来ていた。もっとも、その時は誰もが恐怖の対象にしか映り得ず、買ってもらったことに対する礼すら言えずにいたが。


(そうだ…。私は、絶対に帰るんだ…。それで、ヤハドさんにお礼を言うんだ…!)


 少女はそう心中で呟くと、残った勇気を奮い起こして不安を振り払う。

 それで少女の歩調から恐れが消えることはなかった。だがしかし、少なくとも少女の身体の震えは止まっていた。


「ここかな…?」


 やがて、少女は一つの扉の前で足を止めた。少女の頭の中に浮かぶ道のイメージは、眼前の扉で途切れていた。

 少女の瞳が捉えたその扉は、今まで通ってきた絢爛豪華な廊下や階段とは一線を画していた。

 一言で言えば、あまりにも庶民的過ぎた。装飾の類いが一切存在しておらず、木の板を何枚か合わせて鉄で補強した質素な見た目は、国王の住まう城の真っただ中に存在している筈の無いものだった。取っ手も鉄の輪っかを取り付けただけで、鍵穴すら存在していない始末である。

 そんな異質な扉を、少女は熱にでも浮かされたような視線でじっと見つめた。


『入ってくるがいい』


 その時、少女の頭の中で声が木霊する。それは、まるで母親のように慈悲に溢れ、その一方で父親のような荘厳さを帯びた、女性とも男性ともつかない声だった。


「は…い…」


 その言葉は少女が意図したものではなかった。いや、そればかりかそれ以降の行動全てが、少女の意志が介入しているなど到底思えなかった。

 少女は目を半開きにし、虚ろな光を瞳に宿して扉の取っ手に手を掛ける。見た目と違い、扉は少女が少し押しただけで実にあっさりと開いた。

 扉の先の光景を、少女の瞳が捉える。パチパチと薪が燃える音を奏でる火がくべられた暖炉、木製の簡素ながらも落ち着いた雰囲気のあるテーブルと二脚の椅子。テーブルの上には湯気が立ち込めるカップが二つ置かれており、片方の椅子には口髭を蓄えた恰幅の良い穏やかな表情の男が腰掛けていた。


「掛けるんだ」


 先程と同じ声が、男の口から発せられる。少女はその言葉の通り、空いている方の椅子に近づいて腰を降ろした。

 男は少女が腰を降ろしたのを確認すると、テーブルに置かれたカップを少女に勧めた。


「飲むといい」


 少女は無言で、男の言葉に従う。カップを両手で持って口に運ぶと、甘酸っぱい風味が舌を刺激した。それは凡そ少女が今まで口にしたことのない程の美味しさではあったが、果して少女の表情は露と動くことはなかった。


「さて……では、話を始めるとしよう」

「はな…し…?」


 二、三口中身を呑んでから、少女はカップをテーブルに戻した。男はそれを見ると、少女の顔をじっと見つめる。少女が男の発した言葉を繰り返すと、男は首をゆっくりと縦に振った。


「そうだ。私が君をここに呼んだのは、君と話をするためだ」

「話……何を話せばいいの…?」


 ぼんやりとした表情で、少女が訊ねる。


「君の故郷について話して欲しい」

「故郷?」

「そうだ。君の故郷、『ノルスタバルスク』についての話が聞きたい」


 男が語りかける。それに少女が抗う術はなかった。

 男に求められた通りに少女は唇を動かした。最初に話したのは、住んでいた町のこと。吸い込む空気にはいつも砂が混じり、日中は空高く上る太陽が身を焦がす熱が、夜には身体を流れる血までをも凍らせんとする冷気が人々を嬲る、小さな町のことを話した。その次に話したのは、町での生活のことだった。税の徴収と言って家の金を持って行ってしまう兵士達。終わりの見えない貧しい生活に絶望し、残った僅かな金を酒に注ぎこむ両親。そんな両親に詰られ時に打たれながら、遠くまで水を汲みに行ったり最低限の食べ物を買いに行くだけの生活を繰り返す自分。そしてその道すがら、同じ境遇の子供達と会うたびにこっそりと遊んだ、数少な幸福な時間。それを話し終えた後は、自分が知る限りの『ノルスタバルスク』に伝わる伝説や、おとぎ話を話した。砂漠に眠る、たくさんの宝が隠された宮殿の話や、死者を生き返らせる蠍の神様の話、砂嵐と共に現れて強欲な貴族から財産を奪い、苦しむ民に分け与える義賊の話。それら全てが、自分より幾分か上の友達から聞いた話だった。

 少女が話している間、男はじっと黙って話を聞いていた。そして時折、テーブルの上に置かれた羊皮紙に何かを書き込んでは、視線を少女へと戻し、再び黙って話に耳を傾けるのだった。


「…ごめんなさい、これで私の知っているお話しは全部なんです。話してくれた子が、どこかにいっちゃったから」

「そうか。なら、それで充分だ。最後に一つだけ訊いて、それで終わりにしよう」


 どれくらいの時間が経ったのかは分からない。どうして覚えているのか、自分でも不思議な出来事まで洗いざらい話し終えた少女は、申し訳なさそうな表情を浮かべてこれ以上話すべきことが無いことを男に告げた。

 男は気分を害した様子も無く、出会った時と微塵も変わらない穏やかな表情のまま返事を返すと、手に持っていた筆を置いた。


「何ですか? 私に答えられることなら、何でも答えます」

「そうか。なら訊こう。どうして、君はここに来たんだ?」


 ぼうっとした表情のまま、口元だけを笑顔の形にして少女は答える。少女の答えを受けた男が質問をすると、少女は少し考えるような素振りを見せた後、男の質問に答えた。


「ヤハドさんを助ける為です」

「それは、一体何者だ?」

「ヤハドさんは、私を助けてくれた人です。悪い人の手から、守ってくれた人なんです。本当のお父さんみたいな人なんです」


 どこか嬉しそうな声音で、少女は語る。男は一々それに頷きを返しながら、少女が話すのに任せた。


「だから、私はヤハドさんを助けるんです」

「助けると言うと、具体的には何をするんだ?」

「ここでの出来事を教えてあげるんです。そうすれば、ヤハドさんはとても助かるって、悪い人が言ってたんです」

「悪い人が?」


 怪訝そうに男が訊ねると、少女は首を縦に振る。


「そうです。ヤハドさんは、悪い人はお友達なんです。それで、悪い人が私を呼んで言ったんです。これから連れて行くところで言うとおりに動いて、そこで起こったことを話せばヤハドさんはとっても助かるって。いいえ、ヤハドさんだけじゃなく、この国の人みんなが助かるんだって」

「この国の人皆が助かる? それはどういうことだ?」


 少女は瞳に虚ろな色を宿し、生気の無い表情を浮かべたまま、その質問に答えた。


「この国を苦しめている国王をやっつけられるからだって、悪い人は言ってました」

「そうか…」


 男は少女の言葉を訊くと、顎に手を当てて口を噤んだ。

 どうやら何かを思案しているようだったが、何を考えているのかを予想しようと試みるだけの知性は今の少女には残っていなかった。ただただ、虚ろな瞳で男を見据えて次の言葉が吐き出されるのを待つばかりである。


「その悪い人の名前は?」

「えっと…確か……ヴィショップ…」

「ヴィショップ…か」


 まるで自分の記憶に深く刻み込むかの様に、男は少女の発した名を呟いた。そして数泊の間を置いてもう一度その名を呟き、今度は一拍の間の後にもう一度呟く。

 少女はそれを、黙って眺めていた。やがて男は小さく息を吐き出すと、少女に訊ねた。


「その悪い人は、レジスタンスの人間か?」

「分かりません。レジスタンスの人と一緒に居るけど、あまり仲は良くなさそうです。どちらかというと、私を攫った悪い人達との方が仲が良さそうです」

「他にも悪い人が居るのか?」


 少女は首を縦に振って肯定する。


「はい。『コルーチェ』っていう人達です。この人達から、ヤハドさんと悪い人は私を助けてくれたんです。この前も、港のある街にお話しに行っていました」

「港のある街…『オートポス』か」


 独り言の様に男はそう漏らすと、次の質問を少女に投げかける。既に最後の質問でも何でもなくなっていたが、少女は一切拒絶することなくそれに答えた。


「その二人は、貴族か何かと知り合いだったりはしないか?」

「分かりません。でも、そういった人と会っているのを見たことはないです」

「二人と出会ったのは?」

「別の国です。ずっと檻の中に入れられていたので、どこなのかはよく分かりませんでした。船で行ける所です」

「分かった。では、別の質問をしよう。レジスタンスの人間と『コルーチェ』の人間がどこに集まっているかを知ってるか?」

「……ごめんなさい、分かりません。ただ、レジスタンスの人に会うためにはどこに行けばいいのかは、知っています」

「そうか。ではその場所と、ヤハドという人物とヴィショップという人物の人相を教えてもらおうか」

「はい」


 少女は男の言葉に素直に従って、ヴィショップとヤハドの人相、『雪解け亭』と『ゴール・デグス』、そしてその姉妹店の存在を教えた。

 男は少女の言葉を聞き終えると、彼女の瞳を覗き込むように顔を近づける。


「さて、もう時間だ。礼を言おう。今日は色々と助かった」

「いいえ、そんなことは…」

「最後に、一つ私と約束してもらおう。絶対に破ってはいけない約束だ」

「何でしょうか?」


 男は右手の人差し指を立て、その先端を少女の額へと近づけた。


「今日、ここで起こったことは全て忘れるんだ。分かったな?」

「はい…」


 言葉と共に、男の指先が少女の額を軽く小突く。

 今まで半開きだった少女の瞳が見開かれ、男の顔をじっと見据える。そして絞り出すようにして返事を返すや否や、少女は腰を浮かせて立ち上がり、部屋の出口に向かって歩き始めた。


「気を付けて帰ることだ」

「はい」


 少女の背中に男が別れの言葉を投げかける。少女は振り返ることなくそれに返事を返すと、木製の質素な扉を開き、部屋を後にした。そして少女がその場から居なくなると、男はテーブルの上に置かれた羊皮紙に視線を落としたのだった。







「失礼します、閣下」

「入るがいい」


 トランシバ城の主たるガロスの部屋の扉を叩く音と共に、聞き慣れた部下の声がガロスの耳朶を打った。

 ガロスがテーブルの上に置かれた手にした筆のスピードを落とさずに返事を返すと、禿鷹と鎖を象ったエンブレムを右肩に持つ灰色の軍服を着込んだ優男が、恭しい一礼と共に扉の向こうから姿を現した。


「どうでしたでしょうか?」


 優男はガロスから三歩程距離が開けた位置で立ち止まると、直立不動の姿勢でガロスに訊ねる。その表情には姿勢とは裏腹に堅苦しいものは混じっておらず、むしろ微かな笑みすら浮かんでいた。


「やはり、俺に敵対する人間の差し金だった。しかも、レジスタンスと繋がりのある人間だ。意外だったのは、『コルーチェ』の連中まで絡んでたことだな」


 ガロスは特に優男を咎めるような素振りを見せることなく、先程“この場所”を訪れた少女との会話から得た情報を告げる。


「『コルーチェ』ですか。レジスタンスが『コルーチェ』と手を組んだのか、それともレジスタンスと『コルーチェ』の間に繋がりは無く、少女を送り込んだ人間が両方と繋がっているのか…」

「何とも言えんな。だが、前者であってもおかしくはないだろう。今更両者でいがみ合っていられるだけの余裕は、どちらにも無い筈だからな。それより、面白い話が聞けた」

「というと?」


 優男がガロスに問いかける。


「あの娘をここに送り込むように仕向けた二人の人間の存在だ。名前は、ヤハドとヴィショップというらしい」

「ヤハドとヴィショップ…ですか。聞き覚えが有りませんね。レジスタンスの人間ですか?」


 優男が訊ねると、ガロスを首を左右に小さく動かした。


「いや、そうではないらしい。かといって、『コルーチェ』の人間という訳でもなさそうだ」

「では…」


 ガロスは筆を置いて優男の方に向き直った。


「娘が送られてきたタイミングから考えても、お前の言う男が私の命を狙っているとみて間違いないだろう。恐らく、その男達も奴の手の人間だと考えられるが……娘は直接会ったところを見たことはないらしいから、何とも言えんがな」

「…そうですか。もし仮にその二人が奴の手の者だとすると、あの男はその二人を仲介人としてレジスタンス、そして『コルーチェ』と接触を?」

「その可能性はあるだろうな。ただ、全く面を突き合わせていない、という訳でもないだろう。どちらにしろ、奴からレジスタンスと『コルーチェ』の有力な情報を手に入れられそうだな」


 ガロスがそう返すと、優男はそうですか、と言って頷く。


「ところで、貴様の方はどうだ? 何か進展はあったのか?」

「えぇ。『ララルージ』の強制収容施設の騒動の大まかな全体図が見えてきました」


 今度は逆にガロスの方から優男に質問をぶつけた。優男は笑みを浮かべて返事を返すと、ガロスはもったいぶらずに話すように促した。


「今回の一見ですが、どうやら外部犯による計画的犯行のようです」

「根拠は?」

「まず、死亡者の傷跡です。死傷者や負傷者の殆どは何かで殴られたり首を絞められたりといったものですが、死亡者の中に三名、刺し傷によるものがありました」

「ガラスの破片か何かを使ったのではないか?」

「いえ、形状や深さから見ても、あれはナイフ等の類いで付けられた傷です。しかもその三名の内、二名は致命傷となった首意外の部分には全く傷がありませんでした。残った一人は腹に一カ所、胸にの刺し傷がありましたが、胸の方は的確に急所を捉えていました。自由を前にして感情高ぶらせた人間に出来る芸当ではありません。それに…」

「それに?」


 ガロスが聞き返す。優男は笑みを浮かべたまま、悪びれもしない様子で発した。


「目撃者が居ます」

「なら、最初からそれを話せばいいだろう」

「話しても、閣下は他の根拠も提示するように仰ったでしょうから」


 呆れた様子でガロスが溜め息を吐くと、優男に続きを話す様に告げた。


「目撃者はA075に収容されていた少年です。その少年によると、職員の姿をした男が現れ、同室だった男を連れ出し、自分にナイフを渡して他の人間を逃がすように言って去っていったようです」

「騒ぎを引き起こした目的は、A地区の人間の解放、か…」


 ガロスはそう呟くと、顎に手を当てて思考に耽る。

 わざわざあれ程の騒ぎを起こした目的が、何の戦略的、政治的価値の無い人間が集められるAからE地区に収容されている人間であった、というのは流石に妙であると言わざるを得ない。となると連れ出された人間には何らかの重大な価値が存在していることになるが、それが何なのかをガロスは掴めずにいた。


「連れ出されたのは、どんな奴なんだ?」

「ビシャスという老年の男です。『ララルージ』で活動していた反抗部族の組織に物資を提供していたとして、四年程前に収容されています」

「四年前か…」


 ガロスの脳裏に、ある一人の男の肖像が浮かび上がる。それは、四年前に死んだにも関わらず、未だに勢い衰えることなく燃え続ける恨みの炎を消すことが出来ずにいる、血の繋がった一人の男の姿だった。


「その男……もしや…」

「……閣下。あの方は既に亡くなられております」


 ハッとした表情を浮かべて、ガロスが呟いた。その呟きを優男は聞き逃すような真似はせず、穏やかな、それでいて言い聞かせるような口調でガロスに言葉を掛けた。


「だが、死体は出ていないだろう? 出てきたのは左腕が一本だけだ。 生きていたとしても、何もおかしくはない」

「ですが閣下、記録によればその男にはちゃんと左腕が付いております。決めつけるのは早計かと」

「そんなもの、他人の左腕でも持ち出せばどうにでも出来る。あの男の腕だと判断したのは、兵士が持ってきた左腕に王家の者のみが填めることを許される指輪を填めていたからに過ぎん。王族に狂的に固執する男なら手放す筈がないと、そう考えてな」


 ガロスはそう反論すると、再び思考の渦に意識を浸らせる。そしてしばらくの間考え込んだ後、黙って次の言葉を発するのを待っていた優男に向けて訊ねた。


「その騒動、やはりあの男が関わっていると思うか?」

「確証はありません。ですが、状況から考えてその可能性は高いです。あの男なら、施設内に人を潜り込ませる手引きも出来ましょう」

「そうか。なら…」


 ガロスはテーブルの上に置かれていた封筒、そして一枚の羊皮紙を手に取ると、優男に向けて突き出した。


「事を起こす際はヴィショップとヤハドという名の男と共に、そのビシャスという名の老人にも気を配れ。いいな?」

「では、閣下」


 優男が念を押すかのように訊ねてくる。ガロスは頷いて、彼の求めている言葉を告げてやった。


「この件に関してはお前に任せる。好きなようにやるといい」

「御命令、確と承りました閣下。御期待には、必ず答えて見せましょう」


 優男は恭しく頭を垂らして羊皮紙と封筒を受け取ると、扉に向かって歩き始めた。そして扉を閉める前にもう一度頭を下げてから、静かに扉を閉めてその場を後にしたのだった。






「というと、つまりは何も憶えていないと?」

「はい、ごめんなさい…」


 険しい顔付きをしたヴィショップの顔をおっかなびっくり見上げる少女の口から、微かに震えた声が漏れる。その言葉を前にヴィショップは大きな溜め息を吐くと、乱雑に頭を掻き毟った。

 少女を『華国の蝶』に預けてから五日後の夕暮れ時、ヴィショップとヤハドは予め『華国の蝶』のオーナーに言われていた通りに引き取りにいき、その足で『オートポス』のにある『ゴール・デグス』に訪れていた。そして腰を落ち着けたところで、肝心の少女の買い主、そしてその買い主とのやり取りについて聞き出そうとしたのだ。

 だが、返ってきた返事は無情にも「何も憶えていない」という一言のみだった。


「くそっ、失敗か…」


 座っている椅子の背もたれにもたれ掛り、天井を見上げてヴィショップは呟いた。

 元々ヴィクトルヴィアの言っていた通り成功の見込みがある計画ではなかった。ヴィクトルヴィアははっきりと言わなかったが、もし仮に全て上手く行って国王に会えたとしても、国王は神導魔法の使い手であり、何らかの魔法を使用して記憶を操作される可能性も存在していたのだから。むしろ、ここまで上手く行ったこと事態が幸運だったと言っても問題は無いのだ。


(ガキの記憶が消されていた以上、ガキを買ったのは強力な神導魔法の使い手ってことになる。取り敢えずは、ガキを買ったのが国王だという推測を確信に近いレベルまで引き上げられることは出来たが…)


 そう、結果だけ見れば悪くはないのだ。例えそれが僅かな一歩であっても、国王の喉元には確かに近づきつつあるのだから。


(それでも、目的を為すにはやはりカードが少なすぎる…)


 だが、例えそうであってもガロスに対する有効打を得ることに失敗したという事実は、変わらなかった。

 天井を仰ぎつつ、ヴィショップは小さく溜め息を吐く。そのまま少しの間、少女とヤハドの会話をBGMに天井をぼうっと眺めていたが、不意に顔を戻して席から立ち上がった。


「あら、どうしたの?」


 ヤハドと少女のやり取りを面白そうに眺めていたレイアがそれに気付いて、声を掛ける。ヴィショップはカウンターに向かって歩きながら返事を返す。


「少し歩いてくる」


 レイアは「そう」とだけ告げるとヴィショップから視線を外す。ヴィショップも彼女を一瞥しただけですぐに視界から外して、カウンターに置いてあるカウボーイハットを被り、真横にあったグラスの中身を飲み干すて店を後にした。

 店の外は既に暗くなっており、太陽は今まさに地平線の向こうに姿を消そうとしているところだった。街灯として一定間隔であちこちに設けられている神導具が、ある種幻想的な雰囲気を街並みに与える中を、ヴィショップが外灯のポケットに手を突っ込みながら歩き出した。

 どこに行くとも知れずに歩きながら、ヴィショップは今の状況で事を起こした場合の結果をシュミレーションする。しかしその結果は、どう甘く見積もっても良い結果とは言えなかった。城に入るまでは、どうとでも出来よう。だが、城の制圧とい点に差し掛かると、どうしても避けても通れない問題、すなわちガロスの存在が立ちはだかった。

 城の広さとそこに詰めている兵士の数を考慮すれば、城の制圧はトップであるガロスを討ち取ることで士気を低下させない限り為し得ない。だが、神導魔法の使い手であるガロスは、話しによれば軍隊一つを単独で崩壊させる程の力を持っているとのこと。彼の懐に飛び込める程度の利点で勝てるような相手ではないことは確かだろう。かといって、ガロスに致命的な隙を与える程のカードは手元に無く、それに結びつくかもしれない計画も無駄骨に近い形で終わった。このままでは、負けが濃厚な戦いに臨まなければならなくなるのは必至だった。


「…ここは」


 そうして考えてる内に、ヴィショップはかつて女神を描いた美しい絵画、そしてそれを描いたまだ若い一人の少女と出会った教会の前に来ていたことに気付いて、足を止めた。


「たまには、神にでも祈ってみるか…」


 

 自虐的な声音でそう漏らすと、ヴィショップは扉を引いて教会へと足を踏み入れる。

 あの時同様、祭壇の奥に飾られた巨大な絵画に描かれた女神と視線が合う。女神から視線を外して辺りを見回してみると、ちらほらと長椅子に腰掛けている人間を見て取れることが出来た。それらは数こそ決して多くはないもののどこか穏やかな表情を浮かべており、まるで本当に、彼等を見下ろす様に描かれた女神から何らかの施しを受けているのかと錯覚させられる程であった。


「あっ、ヴィショップさんですよね? お久しぶりです」


 適当な長椅子に腰掛けようと動き出す直前、ほのぼのとした声がヴィショップに掛けられた。その声のした方向にヴィショップが視線を向けると、最初にこの教会を訪れた時に出会ったシスター、サラ・ノウブリスが嬉しそうな表情を浮かべて歩み寄ってきたところだった。


「名前憶えてくれてたのか。律儀な嬢ちゃんだな」

「忘れるわけないじゃないですか。楽しいお話も聞かせてもらいましたし」


 長椅子に腰掛けながら、ヴィショップは苦笑を浮かべる。サラは嬉しそうな笑顔を浮かべたまま、ヴィショップのすぐ横に腰掛けた。


「嬉しそうだな。俺に会えたからか?」

「えっと…それは、その…いえ、嬉しくないという訳じゃないんですよ?」

「本気にするなよ。で、何でそんなに嬉しそうなんだ?」

「か、からかわないで下さいよっ」


 他愛のない軽口に本気で気まずそうな表情を浮かべたサラのせいで苦笑を引っ込め損なったヴィショップは、笑顔を浮かべている本当の理由を訊ねた。サラは可愛らしく頬を膨らませると、次の瞬間には再び喜色満面の笑みに表情を戻して、ヴィショップの問いに答える。


「今朝、両親から手紙が来たんですよ。それで、嬉しくって」

「商人やってるんだったっけか?」


 ヴィショップが質問すると、サラは首を軽く立てに振った。


「はい。お隣の国との関係が悪化していて、情勢が悪い国が行き先だったから心配していたんですけど、元気そうで何よりでした」

「隣国との情勢が…悪化…?」


 その言葉に引っかかりを覚えたのは、ほんの偶然だった。ただ、ここに来るまでの間にその言葉が関わってくる事に思考を巡らせていたから、その言葉に反応してしまっただけに過ぎない。普段であれば、そんなことを考えることなど無かっただろうし、“そんな”発想に思い至ることもなかった。

 だが、それでもこの時、ヴィショップはその発想を現実のものにしてしまいたいという欲求に、抗うことが出来なかった。


「…両親が今居る国ってのは、どこなんだ?」

「えっと…『ノルスタバルスク』という国です」


 欠片程の悪意も持たぬ無垢そのものの表情で、サラはその名前を発した。

 直後、ヴィショップの身体を非凡な興奮と衝撃が襲った。アドレナリンが湧き上がるようにして分泌されていくのを気分の高揚で感じ取りながら、ヴィショップは声が震えないように努めて、更にその質問を投げかけた。


「前に…両親から手紙が来たのは、いつだ…? どこから送られてきた…?」


 少し上を向きながら、サラが記憶を探り始める。その微かな時間ですらもどかしく感じながらも、ヴィショップはじっと待った。

 そして、ヴィショップにとっては百年にも千年にも感じられた、実際にはほんの数秒の間の後に、口を開いた。


「確か、十五日ぐらい前だった筈です。場所は、『ノルスタバルスク』の隣にある『ガンブルーフ』という国でした」


 十五という数字、そして『ガンブルーフ』という国名。どちらもが、共にヴィクトルヴィアの地下室で憶えのある存在だった。そのどちらもが文字という形で、確かにヴィショップはその二つの存在を目にしていた。

 この短い会話の中で思考の中に姿を現した、妄想染みた馬鹿げた一つの考え。ヴィショップには、もはやそれを黙殺することは出来なくなっていた。

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