商談~ある貴族の場合~
ヴィショップ達が『水面の月』を後にしてから約二十分後、彼等の目の前には『バレンシア侯爵家』と彫られているプレートと大きな鉄製の門、そして荘厳さを感じさせるものの、どこか手入れの行き届いていない外見の屋敷が存在していた。
「…お前の読み通りだったとはな、米国人」
「何だ、信用してなかったのか?」
「当たり前だ」
どこか寂しげな雰囲気を纏った気品あるその姿に、ヤハドが感心した様子でヴィショップの方を見ずに告げ、ヴィショップがそれに応える。
四人は現在、『水面の月』で助けた少女…フレス・バレンシアから信頼を勝ち取り、フレスの家へと招かれていた。
フレスの先導で少女の家へと歩を進めたのだが、最初はヴィショップ以外の三人はヴィショップの言葉に半信半疑の状態で歩いていた。もっとも、ヴィショップの主張の割にはフレスの家までの移動方法が徒歩だったということを考えれば、それも仕方無い話と言えたが。
その結果、ヴィショップ以外の三人は、ヴィショップの予想が外れた時への対応について話しながら歩を進め、フレスに関しては自己紹介を終えた、歩き始めて最初の五分程度で完全に興味を失っていたのだが、進むにつれて平民と貴族の居住区を繋ぐ巨大な階段を通ったりている間に段々と話し声は鳴りを潜め、少女の家に着く辺りには殆ど無言で辺りをキョロキョロと見渡すなど、あながち路地裏でチンピラに言われた田舎者という呼び名に反論出来ないような状態に陥っていた。
「っと、こっちよ。こっちに来て」
ヴィショップ達四人が目の前の屋敷に目を奪われていると、屋敷の一員である筈のフレスの声が横から飛んでくる。ヴィショップとヤハドが、今でに屋敷から目を離せずにいるレズノフとミヒャエルを置いて声のする方に顔を向けると、フレスが目深に被ったフードを下ろしていた。その顔立ちはヴィショップの言葉通りかなり整っており、長い金髪を動く際に邪魔にならないようにする為か、ポニーテールにしていた。もっとも、それ以上にヴィショップとヤハドが目を奪われたのは、フレスが屋敷を覆う外壁に空いた四つん這いになることでようやく大人一人が通れそうな穴の前に立っているという事実の方だったが。どうやら、ここから屋敷の中に入ろうとしているらしい。
「こっちから入らないのか?」
「あ~、うん。少し事情があって…」
ヴィショップの問いに、フレスが気まずそうに答えようとした、その時だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様?」
突如、五人の耳に飛び込んできた、女性の声。その声は澄んだ声音で、文句無しに美声とよべる代物だった。
「そ、その声は…!」
その美しい声に氷を思わせる冷たさが同居していなければの話だったが。
「こんな夜遅くに、お疲れ様です。それで?外出の理由と一緒に居る殿方達の説明は、もちろんして頂けるんですよね?」
その美声の発せられた方向には、銀髪を携え眼鏡を掛け、その眼鏡の奥に確かな力強さを感じさせる碧眼を覗かせるメイドが一人、大よそ温かみと呼べるものを一切感じさせない笑みを浮かべて、屋敷のベランダに佇んでいた。
「つまり、彼等に私達の依頼を引き受けてもらおう、そう考えて連れてきたのですね、お嬢様?」
「そ、そうです…」
依然として温かみの無い口調を貫くメイドの問いに、フード付きの外套を脱いでシンプルなデザインのドレス姿となったフレスは、しゅんとした様子で答える。
今ヴィショップ達が居るのは、屋敷の中の応接間である。応接間は暖炉や柱時計、燭台などが飾られ、部屋の中心部分には装飾の入った木製のテーブルと椅子が置いてあり、ヴィショップ達はそこに腰掛けていた。貴族の家にしては家具が少ない気がするものの、典型的な金持ち特有のゴチャゴチャした感じは全く無く、置いてある家具もどれも主張の激し過ぎないないばかりで家主のセンスが感じられる構成になっていた。
あの後正面の門が開かれ、ヴィショップ達は屋敷の中へと案内され、応接間へと通された。そしてメイドからお嬢様と言われているフレスが、本来なら下の立場である筈のメイドに敬語で状況の説明をするのを聞いて、今に至る。
フレスの説明によると、やはりヴィショップの見立て通りフレスはギルドへの依頼の持ち込みの為に動いていたらしい。どうして黙って屋敷を抜け出したかについては語らなかったものの、その理由もあの治安の悪さを鑑みれば予想はついた。だが、それよりも問題視するべきことがあった。
(にしても、人が居ねぇな、この屋敷…)
ヴィショップは目の前で展開されるフレスのメイドへの言い訳を聞き流しながら、その問題点に対して考えを巡らせる。
それは屋敷の人間を、目の前のメイド以外誰一人として見ていないということだった。このメイド以外は住み込みで働いていないと考えることも出来たが、まだ日が完全に落ち切ってから大した時間は経っていない。それに警備の人間すら一人も居ないというのは不自然だった。
(そして何より、“親”が出てこない)
ヴィショップが一番気にかけているのは、その点だった。
見た目から考えても、フレスの歳は精々十代前半といったところだろう。流石にその年齢でこの屋敷の主であるというのは考え難い。となれば、このフレスの他に屋敷の主が存在する筈であり、その主はフレスの親である可能性が非常に高い。にも関わらず、いつまで経ってもフレスの親が姿を見せる気配は無い。実の娘が屋敷から姿を消し、それが戻ってきたにも関わらずである。
(こりゃあ、予想より面倒になってきたか…?)
元々フードで顔を隠した上流階級らしき少女から依頼を受ける時点である程度の厄介事であることは覚悟していたが、状況が予想以上にキナ臭い方向に進んでいることに対し、ヴィショップが小さく溜め息を吐く。もっとも、だからといって依頼を手放す気はサラサラ無かったが。
そしてヴィショップがフレスとメイドの方に意識を向けると、少女の必死な言い訳を黙って聞いていた銀髪のメイドが、その言い訳を遮って少女に訊ねているところだった。
「それより、お嬢様?そちらの殿方達の自己紹介がまだ済んでいないのですけど?」
「そ、そう言えばそうでした!このインコンプリーターの人がヴィショップ・ラングレンさんで、こっちの大きな人がウラジーミル・レズノフさん、色黒の人がアブラム・ヤハドさん、それで色白の人がミヒャエル・カーターさん」
「私はこちらのお屋敷で給仕をさせて頂いております、レム・フレイアと申します。本日はお嬢様を助けて頂いて、有難う御座いました」
フレスの紹介に合わせて、四人は軽く手を上げて挨拶すると、メイドが自己紹介と共に感謝の言葉を述べる。
「いいえ、構いませんよ。男として当たり前のことをしたまでです。それより、私達に訊きたいことがあるのでは?」
ヴィショップがニコニコと笑みを浮かべながらそう言うと、レムは一瞬だけ驚きの表情を浮かべるが、それはすぐに元の無表情へと戻る(その前にヴィショップの言葉に対して必死に笑いを堪えているレズノフとミヒャエルに対して不信感を含んだ視線を向けていたが)。
「……その通りです。どうやら、他人の考えていることを読むのがお得意なようですね?」
「まぁ、少しはね」
明らかに警戒心を増したレムの言葉にも、ヴィショップは一切笑顔を崩さずに対応する。
フレスの場合と違って、レムに対して考えていることを当てる様な真似をすれば、警戒心が増すのは想定内のことだった。治安が最悪な場所で絡まれている見ず知らずの少女に手を差し伸べる人間が善人である可能性は、はっきり言って限り無く低い。しかもその助けた人物が高い身分で、救いの手を差し伸べた人物が喧嘩慣れしており、他人の心内を読むのに長けているとくれば、救いの手を差し伸べた人間の目的は助けた人物を利用するか、もしくは合意の上で手籠めにするかの二つに一つ。もしこれだけの要素を具えておきながら善意のみで助ける人間が居るとつれば、それは間違い無くキリストの親戚か真性の変人のどっちかである。
つまり、ヴィショップに対してレムが警戒心を抱くのは自然なことであり、賢明な判断と言えた。もっとも、メイドに警戒心を抱かれたぐらいで怯むヴィショップではなかったが。
「それで?何が訊きたいんですか?答えられる範囲なら何でも答えますよ?」
「はい、ジイサン!ファックした女の数は答えられる範囲に入りますか?」
「黙ってろ。すいません。馬鹿なんで、こいつ」
「…そのようですね」
「まぁ、女性経歴以外でお願いしますよ、出来れば」
ヴィショップは、ニヤニヤと笑みを浮かべながら横槍を入れてきたレズノフに肘を捻じ込むと、若干表情に赤味が増したレムに、質問を促す。
対して促されたレムは、コホンと咳払いを一つして、僅かに現れた表情の赤味を消してからヴィショップに質問する。
「別に変なことを訊こうと思っている訳ではありません。私はただ、ラングレン殿達のギルドランクが知りたいのです」
(まぁ、そんなこったろうと思ったよ…)
レムの質問に、ヴィショップは心中でそう呟く。
仕事を依頼する以上、それを引き受ける人間の実力を知っておきたいと考えるのは当然のことである。ギルドランクなどというものはヴィショップ達は知らないが、名前からしてもギルドメンバーとしての実力を示す基準であることは簡単に予想出来る。なのでこの質問が出てくること自体には何の疑問も抱かないし、レムが求めている答えも分かる。だが、問題なのはその答え方だ。
何せヴィショップはギルドランクどころか、フレスに勘違いさせているだけでギルドに所属してすらいない。つまり、ここで答え方をしくじればせっかく掴んだ貴族からの依頼をふいにしてしまう可能性が充分にある。よって答えは慎重に選ばなくてはならない。
(まっ、もう答えは決まっているがな…)
ヴィショップは一瞬だけ薄笑いを浮かべてから、再びフレンドリーな笑顔を張り付けると、レムの隣に座るフレスからの期待の眼差しを真っ向から受け止めつつ、レムの質問に答えた。
「あぁ、自分はギルドメンバーではありませんよ」
「へっ?」
「はっ?」
流石にその答えは予想していなかったのか、フレスはおろかレムまでもがポカンとした表情を浮かべる。
(おい、いいのか米国人)
(いいんだよ。奴等は貴族だ。調べられちまえば俺達がギルドに所属してないなんてこと、簡単にバレちまう。だったら先に自分で言う方が遥かに良い)
こっそりと耳打ちしてきたヤハドに、ヴィショップは理由を説明する。
ヴィショップの見た限り、レムというメイドはそれなりに社会の酸いも甘いも噛み分けている人種だ。となれば、依頼した人間に信用が置けなければ調べるぐらいのことはやりかねないし、貴族の家に仕えている以上、貴族の権力を利用すればそれは決して不可能ではない。むしろ赤子の手を捻るが如くだろう。
ならば、嘘を吐いて暴かれるよりも、いっそ自ら正直に暴露した方が遥かに交渉を進め易い。それ故の行動だった。
「え、え?あ、あなたギルドに所属してるんじゃないの?」
ヴィショップの語った事実を前に、口調が粗暴になる、フレス。どうやらこの口調が彼女の素の口調らしい。そんなフレスに対し、ヴィショップは意外そうな表情を作って対応する。
「えぇ、そうですよ。というか、ギルドの人間とは私は一言も言ってないと思いますよ?」
「い、言われてみればそうだけどさぁ…」
ヴィショップの返事を聞いて、見るからに落ち込む、フレス。一方のレムは驚きから立ち直ったらしく、咳払いを一つすると、元の冷静な口調でヴィショップ達に告げた。
「とにかく、これで結論が出ました。ギルドメンバーでも無い貴方達に依頼を引き受けさせることは出来ません。宿はこちらでご用意させて頂きますので、本日はお引き取り下さい」
レムはそう告げると、ヴィショップ達に碧眼を向ける。その両の目は明確な拒絶の意思を孕んでいた。場合によっては実力行使も辞さないといったまでに。そんな視線を向けられる辺り、見た目の美しさとは裏腹に戦いに精通しているのかもしれない。
「えっと、そうですよね。はい、すいませんでした、お邪魔しまし…」
「まぁ、そんなこと言わずに」
だが、それでもヴィショップは退こうとしなかった。一人立ち上がろうとしたミヒャエルを、レズノフに指示して席に着かせると、張り付けた笑顔を絶やさずにレムの碧眼を見つめ返す。
「失礼は百も承知で申し上げますが、私はお引き取り下さいと申し上げた筈ですよ?」
そう告げるレムからは、隠そうともしない警戒心が見て取れた。ヴィショップが一瞬だけ視線を落とすと、膝の上に置かれた右手の袖に左手の指を少しだけ潜り混ませていた。恐らく、袖の中にナイフなどの暗器の類を隠しているのであろう。
ヴィショップはその一瞬だけ視界に捉えた光景に心中で薄笑いを浮かべると、レズノフの膝をレムやフレスに気付かれないように指で叩きながら、レムを説得する為の行動に移る。
「まぁ、確かにそう言われましたが、流石に困ってる御夫人方に手を差し伸べないのは、矜持に反するので」
「どうぞお構いなく。それに貴方達に助けて頂かなくても、侯爵家に仕える騎士達の力を持ってすれば、貴方達に依頼するまでもなく問題を解決出来ます」
「またまた。それなら最初からギルドに依頼する必要なんてないじゃないですか。金が掛かるだけなんですし」
「…それは貴方達には関係の無い話…」
「それに、騎士なんて居ないんでしょう?」
ヴィショップがその一言を告げた瞬間、レムの顔には微かな、フレスの顔には一目で分かる程の驚きの色が浮かび上がる。
「…今、お屋敷の中に騎士の姿が見えないことを理由に申していらっしゃるのなら、それは勘違いというものですよ?」
「いや、違います。確かにそれも理由の一つですがね」
ヴィショップはにっこり笑ってそう答えると、テーブルに置かれた冷えた紅茶に口を着けてから理由を説明する。
「確かに私はあなたの言う通り、この屋敷に着いてから警備の人間に一人も出会わないのを疑問に感じました。でも、それはただ単に休暇中なだけなのかもしれません」
「その通りです。今、侯爵家に仕えている騎士達には休暇を与えています」
レムがヴィショップの発言を肯定し、ヴィショップが顎をさすりながらレムに悟られないように薄笑いを浮かべる。
十中八九、今ヴィショップが言った考えは真実ではないだろう。第一、いくら休暇を与えるといっても一人残らず全員に与えるというのは、流石に有り得ない。だがそんな意見でも、相手から提案してきたのだとしたら、その相手に真実を隠しておきたい人間ならば思わず肯定してしまうだろう。その考えでは絶対に答えに辿り着けないと知っているならば、その考えを維持させてしまえばいいだけの話だ。そしてそういった手段は決して間違いではない。
「でも、いくらなんでも全員に休暇を与えるなんていうのは、おかしな話ではありませんか?しかも、雇い続けるだけの金が無い、そこらの店ならともかく、財力に優れ強大な権力を有する、国という階段の頂点付近に位置し、栄華を極める侯爵家がですよ?いくらなんでもそんな貧乏臭い真似はしませんでしょうし、まさか働きづめで病気になったら可哀想なんて理由もありえないでしょうしね」
ただし、それは相手がその答えが間違っていることに気付いていなければの話だが。
「…ッ……それは…」
ヴィショップのどこか皮肉っぽく語られた言葉に、レムの表情が微かに変化する。視界を横にずらせばフレスも同じような表情を浮かべていた。どこか物憂げで、切なげな表情を。
そんな二人の表情から、ヴィショップは確かな手応えを感じつつ、話を続ける。
「それに、さっきあなた、その服の袖に指を掛けていましたよね?癖か何かですか?」
「…そうですが、それがなにか?」
「いや。私の知り合いでも同じことをする人が居るんですけどね、確か私の記憶が正しければ、それは袖の裏に何かを仕込んでいる人間の動きなんですよ」
ヴィショップはそう告げると、紅茶を掻き混ぜるためのスプーンで紅茶の入ったカップを軽く叩く。
ヴィショップの一言以降、誰も言葉を発さず、柱時計の針の音のみが木霊する応接間に、新たにコツーンという小気味良い音が鳴り響いた、次の瞬間。
「ッ!」
レムがいきなり椅子から立ち上がったこと思うと、服の袖から小さなスローイングダガーを抜き取り、レズノフに向かって投げ付けた。
「おっとゥ」
レズノフは楽しそうな声を出すと、“元”の世界から愛用している鉈程の大きさのある大振りのナイフを一瞬で抜き、喉目掛けて投擲されたスローイングダガーを弾き飛ばした。
「やっぱりね」
「…貴方は」
ヴィショップが笑みを浮かべたままそう言うと、レムから殺気が篭められていてもおかしくない視線が飛んできた。
「え、え?ど、どうしたのよ、レム?いきなり…」
「…お騒がせして申し訳ありませんでした」
「いいえェ、お構いなくゥ」
事態が呑み込めずにあたふたとしながらも、何とか絞り出すようにして出したフレスの問いに、レムは答えることなく謝罪だけを述べると、再び席に着いた(その際、軽口を叩いたレズノフを睨みつけるのも忘れてはいなかった)。と、同時に、ヴィショップはそんなレムの態度を見て、彼女がヴィショップとレズノフに嵌められたことに気付いていることを確信した。
(やはり、ただのメイドでもなかったな…)
ヴィショップはそう心中で独りごちると、レズノフにナイフを仕舞うように指示した。
何故いきなりレムがスローイングダガーをレズノフに投げ付けたのか。それは至って単純な理由、レズノフに殺気を向けられたからだった。
ヴィショップは、レムの申し出を断ったことで彼女が警戒心を剥き出しにし、彼女が万が一の為に袖の中に隠した暗器に指を伸ばしたのを確認した時、隣に座るレズノフの膝をレムに気付かれないように叩いていた。あれにはれっきとした意味があった。それは知らない人間が聞いた所で、意味があるようには感じられてもその中身を知ることは出来ない言語。つまりは暗号、それもかなり古くから存在し、今では一般にも普及した極めてシンプルなもの。そう、モールス信号である。
ヴィショップは軍、及び警察に所属したことはない。だが、マフィアという組織を設立させる際に必要だった為、欧文のモールス信号に関しての知識を具えていた。そしてレズノフは全世界を又にかける戦争犯罪人。その手の知識はもはや一般常識レベルであり、欧文、和文はもちろん独自の構成を持つ中国形式のモールス信号も熟知している。その為、レズノフはヴィショップの膝の叩き方からそれがモールス信号であることを見抜き、ヴィショップの指示に従った。「合図をしたらメイドに殺気を向けろ」という指示に。
いくらレムに戦闘経験があったとしても、世界各地の紛争地域で破壊の限りを尽くしてきたレズノフの前では赤子同然。そう考えたヴィショップはレズノフに、レムに対して殺気を向けるように指示した。そうすればそれに反応したレムが暗器を取り出して攻撃を仕掛けてくると考えたからだ。レズノフの殺気を前にして、冷静で居られるものなどまずいない。そのレズノフの二倍は生き、殺しを続けていたヴィショップでさえ心を怪しく揺さぶられたのだから。
とにもかくにも、現にレムはレズノフの殺気に反応してスローイングダガーを投げ付けた。もうこれで言い逃れは出来ない。今得たばかりの事実を武器に、ヴィショップは口を再び動かす。
「それが次の理由ですよ、レムさん」
「…言っている意味が理解できませんが?」
レムが何とか冷静さを取り戻した口調でヴィショップに告げる。ヴィショップが喋り始めてから基本的に主導権を握られ続けている彼女の心内では、恐らくかなりの苛立ちが渦巻いていることであろう。ヴィショップにとっては知ったことではなかったが。
「一介のメイドであるあなたが暗器を身に着けている。それは護衛の人間がとんでもなく無能か、あなた以外に誰も居ないかのどちらかが理由だということを雄弁に語っているとは思いませんか?」
「これは、お嬢様の身の回りのお世話をするものとして、不測の事態に…」
「それなら最初から専属の護衛を就ければ済む話でしょう?少なくとも、私にはあなたが専属の護衛には見えない。こっちの馬鹿の殺気に簡単に浮き足立ちましたし、暗器の使い方も言っては悪いですがお粗末だ。わざわざ敵の目の前に居る状況で暗器の仕込み場所に指を伸ばすなんて真似、プロならまずやりませんよ。それにタイミングだって警戒心を剥き出しにしてすぐだ。それではここに武器を仕込んでいますと言っているようなものですよ」
「ッ!いい加減に…!」
「つまり、あなたは暗器を使い始めて日が浅い。何故なら、つい最近のに護衛の人間に頼れなくなったので急ごしらえで学んだ技術だからだ。違いますか?」
流石にここまで言われては黙っていられないのか、レムが声を荒げる。だがヴィショップはそんなことはまったく意に介さずに、フレスを“口説き落とす”為に言葉を紡ぐ。
「さらに言えば、騎士が居ない理由は恐らく財政難からきているのでしょう。もしくは屋敷の誰か…多分この屋敷の主、つまりはフレスさんの親御さんが感染性の病気に罹り、感染するのを恐れて逃げ出されたか」
「な、何を根拠に!」
レムがもはや冷静さとは無縁の声を上げる。その隣ではフレスが、驚愕の感情を宿した両の眼を見開いてヴィショップへと向けていた。
「簡単な理屈です。この屋敷で私は、警備の人間が一人も存在しないばかりか、あなた以外の給仕すら見ていない。これに関しては休暇説が当て嵌まらないこともないですが、手入れが行き届いていない屋敷の外観を見るに、あなた以外もう居ないのでしょう。それに置いてある家具も少ない。客を招き入れる応接間であるにも関わらず必要最低限の物しか置いていない。これは日常生活に必要無いもの以外は売却しているからではないのですか?」
「ち、違います、それは…!」
「それだけではありません。私達はこの屋敷に招き入れられて以来、フレスさんの親御さんにあったことがありません」
「それは御二人とも留守にしているだけで…」
「いくらなんでも両親共にというのは有り得ないでしょう。少なくとも母親は残る筈ですよ。両親共働きの貴族なんて聞いたことありませんからね。精々二人とも家を離れるとしたら社交界ぐらいでしょうが、フレスさんの歳を考えれば一緒に連れて行くでしょう。それに留守にしているなら、普通は最初に私達にそう告げるでしょう?それを告げなかったのは、私達を親御さんに会わせたくなかったか、どうやっても会わせることが不可能かの理由以外有り得ないと思いますが?」
「ッ!」
ヴィショップの最後の一言に反応して、フレスが微かに呻き声のようなものを漏らす。ヴィショップはそれに一瞬だけ視線を向けると、話の締め括りに入る。
「そして何より、私が騎士の休暇説を否定した時のあなたの表情。あの時のレムさんの表情は、今までの私達との会話の中で見せたどの表情とも違いました。驚きでも怒りでもなければ、警戒しているといった風でもない。あの時のあなたの…そしてフレスさんの表情は、物憂げで切なげな表情をしていました」
「仮にそうだとして、それが何の根拠になるんですか!?」
殆ど喚く様にして、レムが問う。
もしかしたら彼女自身、隠し通すのは不可能だと思い始めているのかもしれない。例えここで追い返せたとしても、世間の情報を探れば裏付けを取ることは可能だ。もしヴィショップの言葉通りの事態に陥っているなら、それは到底隠し通せることではない。
それでも抗うのを止めないのは、フレスを守ろうとする一心からか。だとすれば、フレスは良い従者を得たと言えるだろう。
「それが関係あるんですよ。今私が申し上げている騎士の居ない理由、財政難と家主の病気。それに関連する話題が、先程私の考えを告げた時を除けば、あそこでだけ出ているんですよ」
「なっ…!」
だが、ヴィショップにとってはフレスから依頼を請ける上での邪魔者でしかない。ならば、そんな彼女の望みを踏みにじる以外に道などありはしなかった。
あくまでも、ヴィショップが欲しているのは金と貴族の後ろ楯でしかなく、用があるのは依頼人だけなのだから。
「あの時、あなた方があの表情を浮かべたのは、話の最後の話題が、あなた方が抱えている問題を連想させたから。それが“貧乏臭い真似”という言葉か“病気”という言葉のどちらなのか、或いはその両方なのかは解りませんがね」
「ち、違う…そんな事は決して…!」
僅かに口の端を吊り上げながら告げたヴィショップの言葉に、レムは消え入るような声で反論する。その碧眼には今や出会った頃の力強さは無く、完全に追い込まれたことへの悔しさと絶望。そして、ヴィショップに対する敵意と恐れが渦巻いていた。
「つまり、今この屋敷に仕えているのはあなた以外に居らず、他の人間は誰も居ない。それは家主たるフレスさんの両親が病に罹り、給料を渡せない程の財政難に陥っているか、感染を恐れて逃げ出されたからだ。そして実の娘が短時間とはいえ行方不明になったにも関わらず姿を見せないのは、ベッドから離れられない程に症状が重いか、もしくは既に死んで…」
「死んでないッ!」
ヴィショップの言葉を遮って、フレスが声を上げる。その両目には大粒の涙が溜まり、それでも泣き声を上げないようにスカートの端を必死に握りしめて我慢していた。
「死んでない…ッ!またいつか元気になって…元のように暮らせるんだから…!」
「お嬢様…」
そんなフレスの姿を見て、レムが思わず口を覆う。そんな彼女の左目からもまた、涙が零れていた。
それをヴィショップ達が黙って見つめる中、フレスは服の袖でグシグシと乱雑に涙を拭うと、ヴィショップに問い掛けた。
「本当に…依頼を引き受けてくれるの?」
「ッ!お嬢様、それは…!」
「だってもうこれしかないじゃないッ!他のどのギルドに掛け合っても駄目だった!最後の望みだった『蒼い月』でさえ!なら…もうこの人達を信用するしかないわ!」
レムが慌てて止めに入ろうとするが、フレスはそれを拒絶する。
「それにレムも見たでしょう!?アナタのナイフだって簡単に防いで見せたし、私達の現状だってこっちから言う前に言い当ててみせた!実力は申し分無いわ!」
「でも…しかし…!」
「もう…嫌なのよ…。樫の様に細くなっていく父様と母様の姿を見るのは…!」
「お嬢様…」
段々と力を失っていく、フレスの言葉。そんなフレスの告白と共に俯いていくフレスの顔を前に、レムの口から出る筈だった言葉が消え失せていく。
そんな光景を前にするヴィショップの脳内で渦巻く、フレスの一言。
(“どのギルドの掛け合っても駄目だった”、ね…。願ったり叶ったりの状況じぇねぇか…!)
ヴィショップは一瞬だけ、犬歯を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべると、座っていた椅子から立ち上がる。
「大方の状況は理解した、フレス・バレンシア。では、こちらの意向を述べさせてもらおう」
最早、敬語という名の鎧は必要無い。
もうこれ以上縋る対象が存在しない程に追い込まれているのなら、そのようなしゃらくさい駆け引きは必要無い。
「我々四人は、貴女がその首を縦に振れば、如何様な仕事でも引き受けてみせよう。欲する物を与え、害する者を排し、一寸程の穴も無くその求めに応じよう」
必要とされる行動は、己の存在感を刻み付けること。それが虚像であろうが関係は無い。心を捉えて離さない程に印象的な、到底見透かすことなど出来ない程に底の知れない、そして抱える不安をちっぽけなものに感じさせる程の不敵さを孕んだ姿で接することだ。
「後は貴女の返答次第だ。こちらは既に、英雄にも為る気概も、外道に堕ちる決心も済んでいる。貴女が一言、イエスと言えば、それで我々の道は定まる」
本来の能力など関係無い。ただ、相手にとっての希望にさえ為れば良い。それに為れさえすれば、後は何も語らずとも、望んだ言葉は口を衝いてその姿を現す。
「……………助けて…くれるの…?私達の望みがたとえ、どんなに難しいものだとしても?たとえ私達が、アナタ達の望むであろう褒美を与えられないとしても?」
「何を望むかを決めるのは私達だし、それは貴女なら容易に与えられるものだ。だから、余計な心配などせずに、存分に遣い潰して頂いて結構」
ヴィショップの返答を聞いたフレスは、ゆっくりと目を閉じる。数秒後にその目が開いた時には、強固な決意の色がその双眸に宿っていた。
「私、フレス・バレンシアは、ヴィショップ・ラングレン、ウラジーミル・レズノフ、アブラム・ヤハド、ミヒャエル・カーターの四人に依頼します。……私の両親を助けて下さいッ!」
フレスの下した決断。ヴィショップが告げるべき言葉は既に決まっていた。
「イエス、マイ・ボス。全身全霊を以てお引き受けさせて頂こう」
こうして、四人にとってこの世界で最初の“仕事”が幕を開けた