Anamnesis
ヴィショップの発したその一言は、エリザの表情を凍りつかせた。
驚きに見開かれた彼女の瞳は、グラスに酒を注ぎ終わって瓶を引っ込めるヴィショップを見つめたまま、動かない。ヴィショップもまた、見開かれたエリザの緑色の瞳をじっと見つめたまま視線を逸らそうとはしなかった。
「…すまないが、よく聞こえなかった。もう一度、言ってくれ」
やがて、震えた声でエリザがそう発した。
ヴィショップは彼女の要求通り、先程発した言葉をもう一度彼女に向かって発した。
「下らない理由だな、そうい…」
ヴィショップの言葉が最後まで口から出ることはなかった。
ヴィショップが先程の言葉を繰り返した瞬間、エリザはグラスを投げ捨てて窓枠から飛び降り、ヴィショップの顔面にむけて拳を突き出した。
ヴィショップは頭を左に逸らしてその一撃を躱すと、背後に数歩後退した。
「お前から、そんな台詞が出てくるとは思わなかったぞ…!」
「何度も言わせるなよ。俺とお前の付き合いは、そんなに長いもんでもねぇだろ」
怒気溢れる形相を浮かべるエリザに、ヴィショップはどこか嘲るような笑みを浮かべて見せる。
その態度を見て更に怒りを駆り立てられたエリザは、右手を振り上げながらヴィショップに突っ込んでいった。
「お前に、私の何が分かる!」
再びヴィショップの横っ面目掛けて右の拳を振るう。ヴィショップは頭を後ろに反らして彼女の拳を軽々避けた。
「お前のような、人を殺すことを屁とも思わない下衆に、私の何が分かるっていうんだ、ええッ!」
間髪入れずに、エリザの左の拳がヴィショップの顔に向かって突き出される。しかしヴィショップは表情を微塵も動かさずに右手で彼女の左手首を掴み、エリザの拳が鼻先を掠めることすら許さなかった。
「クソッ!」
悪態を吐いて、エリザは右の拳を振るった。ヴィショップは自分の顔に迫る彼女の拳を横目で捉えると、素早く手にしていた酒瓶を机の上に置き、空いた左手で彼女の拳を受け、驚くエリザを尻目に左手で手首を掴んで動きを封じた。
「離せッ…! この野郎ッ!」
エリザは何とか振りほどこうと力を込めるが、二人の間に明確に存在する力の差がそれを許さなかった。仕方なくエリザは右脚を振り上げるものの、ヴィショップは半歩身体を動かすことで容易にそれを躱してしまう。
エリザの蹴りを躱すと同時に、ヴィショップはエリザの両腕を引き寄せつつ身体を翻す。片足を床から離しているエリザがそれに抗える訳も無く、エリザとヴィショップの立ち位置はあっさりと入れ替わった。立ち位置が入れ替わると、ヴィショップはたたらを踏むエリザをそのまま扉の方向に押し付けた。エリザはそれに抵抗しようとするも、途中で押し倒されないようにされるので精一杯であり、派手な音を立てて彼女は背中から扉横の壁に押し付けられた。
「何の真似だ、クソッ…! 離せッ! 離せって…!」
ヴィショップに罵声を浴びせながら、エリザはヴィショップの手を振りほどこうと暴れる。彼女が身体を捩る度に、目尻から零れた涙が頬を伝っていたが、それに彼女が気付いた様子は無かった。
「はっ、何泣いてやがる。そんなに悔しいのか?」
「うるさい! 離せって言ってんだろ!」
頬を伝う涙を見たヴィショップが、苦笑を浮かべる。エリザは咆哮染みた声を上げると、ヴィショップの股の間目掛けて右脚を振り上げるが、ヴィショップは左の足裏でそれを容易く受け止めた。
蹴りを受け止められたエリザが、敵意の篭った瞳でヴィショップを睨み付ける。ヴィショップはつまらなそうに鼻を鳴らすと、エリザに問いかけた。
「逆に訊きたいんだがな。復讐ってのは、そんなに立派なもんか?」
返事の代わりに、エリザが吐きかけた唾がヴィショップの顔にかかった。
ヴィショップは溜め息を吐き、顔を袖にこすり付けて顔を拭くと、エリザの瞳をじっと見つめて口を動かした。
「やり遂げた所で、得をすんのは自分くらいなもん。しかも手に入れるもんにしても、精々が少しの間気分が良くなるだけ。そんなもんが、本当に胸を張って誇れるようなもんか? 趣味道楽、端的に言えばただの自慰行為とどれだけの差がある? そんなもんに何もかも懸ける生き方が間違っていないと、胸を張って言えるのか?」
ヴィショップの発した問いに、エリザは中々答えようとしなかった。
その理由を、ヴィショップは理解していた。エリザ自身、この言葉を否定する言葉が思いつけないでいる。だがそれに人生を懸ける意志が覆らない以上、ヴィショップの言葉を受け入れることが出来ずない。かといって、本来の目的ではない国の立て直しを堂々と言ってのけるほど面の皮を厚くすることも出来ずにいるのだ。
しばらくの間、エリザは口を噤んだまま俯き、一言も発すことはなかった。やがて顔を上げると、ヴィショップな顔をまっこうから捉えて口を動かした。
「確かに、お前の言うとおりかもしれない…。復讐なんてものは、私が考えているほど大したものではないのかもしれない。だが、それでも私にはそれしかないんだよ!」
喉が張り裂けんばかりに、エリザは声を張り上げる。
「四年間、ずっとそのために生きてきた! 今更、生き方なんて変えられない! 例え、それで死ぬことになろうとだ!」
ヴィショップに顔を近づけて声を張り上げるエリザを、ヴィショップは冷淡な視線で眺める。そしてエリザが言葉を吐き終えると、静かな口調で告げた。
「…お前、復讐が終わった後、どうするつもりだ?」
「…何?」
予想していなかった質問に、思わずエリザの相貌に怪訝そうな表情が浮かぶ。ヴィショップはそれを無視して、エリザが返事を返すのを黙って待った。
しかし、待ったところで中々返事は返ってこない。ヴィショップはその結果に対して特に驚いた素振りを見せずに溜め息を吐くと、段々と視線を下げ始めたエリザに言葉を投げかける。
「何にも考えちゃいないんだろ、お前。復讐が終わった後、どう生きてくのかなんて」
「…考えたところで、いざという時に決意が鈍くなるだけだ」
エリザはハッとした表情で視線を上げて言い訳染みた台詞を吐いた。
ヴィショップはもう一度小さく溜め息を吐くと、彼女の手首を掴んでいた両手を放した。掴まれていた手首を順に擦りながらエリザが驚いた表情を浮かべていたが、ヴィショップはさっさと背中を向けて歩き出すと、近くにあった椅子に腰掛けた。そして机の上に置いておいた酒瓶を無造作に手に取って口元に運んで、喉を潤した。
「…昔話をしてやる。ここから遠く離れた土地、俺の生まれた土地で起きた出来事だ」
ヴィショップはそう言って、手でベッドに腰掛けるようにエリザを促す。
再び訪れたすり替えとも取れる程に大きな話の方向転換に、エリザは苛立ち混じりに声を上げそうになる。しかしそれは、椅子に座っているヴィショップが自分へと向けている瞳から発せられる、有無を言わさぬ威圧感によって押し殺されてしまった。
エリザは納得いかなそうな表情を浮かべながら、ヴィショップに促された通りベッドの上に腰掛けた。ヴィショップはエリザが腰を下ろしたのを確認すると、もう一度瓶に口を付けてからゆっくりと語りだした。
「俺の生まれた土地には、ある一人の男が居た。その男は元々大したことのない凡庸な家に生まれた、凡庸な男だった。十八になるまで男は、男に相応しい凡庸極まる生活を送っていたが、ある日そんな男を豹変させる出来事が起こった。結婚を誓い合った女の死だ」
ヴィショップは口を動かしながら机の上のグラスに酒を注いで、エリザに手渡した。エリザは一瞬躊躇した後、差し出されたグラスを受け取った。
「女の死は、男を大きく狂わせた。何故なら、女の死は事故によるものでなければ病気によるものでもなく、ある五人の男の手によって凌辱の果てにもたらされたものだったからだ。そして何より致命的だったのは、女を辱めた五人の男全てが強力な権力を持つ者達の息子であり、法で裁くことが叶わない存在であったことだ。男は穢し尽くされた女の死体と非情な現実を前に怒り狂い、女をこんな目に遭わせた五人の男への復讐を誓った。……丁度今のお前の様に、復讐の後のことなど何も考えずにな」
ヴィショップの最後の一言を受けたエリザは、静かに視線を手元のグラスへと落とした。ヴィショップは真意の読めない瞳で彼女の見つめてから、続きを話し始める。
「法の力が及ばない五人の男を殺す力を、男は法を外れることで手に入れようとした。男は同じような仕打ちを受けた仲間を四人集め、犯罪へと手を染めていった。どんなことでもやった。最初は盗みや麻薬の売買から始まり、次第に殺しにも手を付け始めた。様々な人間をどんどんと取り込み、集団から組織へと転じていくにつれて、それは更に勢いを増していった。外国への武器の密輸、人身売買、拉致行為。凡そ、人が考え付くほぼ全ての悪徳に手を染めて、男は貪欲に力を蓄え続けた。彼が関わることによって死んだ人間は万に届き、彼が関わることで人生を滅茶苦茶にされた人間は十万を超える。男が国の政にすら干渉出来るまでの力を手に入れた頃には、復讐を望んだ相手を遥かに凌ぐ悪人へと成り下がっていた」
「……出来たのか、復讐は?」
ヴィショップは一端言葉を切って、酒で喉を潤した。最初に入っていた量の五分の一程度の酒しか入っていない酒瓶を机の上に置くと、エリザが急かす様に訊ねてくる。ヴィショップは袖口で口元を拭うと、話を再開した。
「結果として、男は復讐を成し遂げた。もはや政治にすら干渉出来る程になった男の組織からその五人が逃れることは出来ず、二年の間に五人共殺された。その家族を含めてな。男は歓喜した。五人の首をテーブルに並べて、酒を飲みながらあらん限りの罵倒の言葉を吐きつけた。しかしそれは、たった数分で脆くも崩れ去ることとなった」
「何故だ?」
「簡単さ。男は気付いたんだ。今の自分には、何も残っていないことを」
エリザの発した問いに答えると、ヴィショップは酒との代わりとでも言わんばかりに煙草を取り出して口に咥え、火を灯した。
「復讐を遂げた時、男の齢は七十に届いていた。文字通り人生の全てを復讐に捧げてきた男には最早、人生をやり直すだけの時間すら残されていなかったのさ。そして復讐の果てに手に入れることが出来たのは五人の男の生首とひと時の喜び、そして他人に迷惑を掛ける意外に何の使い道も無い数千人規模の組織と、使い道のない大量の金だけだった。愛すべき人は誰も居らず、一応組織を結成した時の仲間が一人だけ生きていたが、その仲間を除けば記憶の中の愛した女を思い返す以外に、生きる目的など無い有り様に成り果てていた」
「……その男は、復讐したことを後悔したのか?」
エリザはヴィショップにそう問いかけた。ヴィショップは煙を吐き出しながら、頭を左右に振った。
「いや、男はそんな有り様になっても、復讐したことを微塵も後悔しなかった。無論、正しいことをしたとも思ってはいなかったし、むしろ自分は地獄に堕ちて当然の人間だと思っていた。…もっとも、だからこそ余計にタチが悪かったんだが」
「…?」
エリザが訝しげに首を傾げる。ヴィショップは煙草を口元から離すと、どこか乾いた笑みを浮かべて続きを話した。
「ここからが、この話の肝だ。復讐を遂げた男には、最早これ以上生き続ける意味が無かった。だから、男は仲間の最後の一人が死ぬのを見届けてから自分も命を絶つことにした。…だが、男には生きる意味は無くても、欲望だけはあった。何だと思う?」
ヴィショップは一端話を切って、煙草をエリザに向けて問いかける。エリザは手元のグラスを弄びながら少しの間考えていたが、結局答えが思いつかずに肩を竦めた。
ヴィショップはエリザが答えるのを諦めたのを確認してから、煙草を口に咥える。そして煙を吐き出しながら、答えを告げた。
「生きることを止めようとした男の望みは、ただ一つ。死んだ後、少しでもかつて愛した女の近くに行くことだった。つまり、女が居るであろう天国に、少しでも近い所に行きたかったんだな」
ヴィショップは煙草を吹かしながら、エリザの顔色を覗う。エリザは真剣な表情でヴィショップの話に聞き入っていた。ヴィショップは、これがレズノフだったら途中で笑い飛ばしていただろうな、と心中で苦笑を浮かべた。
「その為に、男はある二つの行動をとった。一つ目の行動は、法の裁きを受ける為に自ら警さ…政府に出頭することだった。男のやってきたことを考えれば死刑は避けられなかったし、無駄に有り余った金を使えば例え死刑にならなくなりそうでも無理矢理覆すことが出来る。当然、自分のやってきたことを考えれば釣り合いが取れているとはいえなかったが、それでも人の手で裁かれて死ねば少しは罪を償えると考えたんだろう。まあ、分からない感情ではない。だが、もう一つの男がとった行動は、凡そ有り得ない類いのものだった」
「何をしたんだ、その男は?」
ヴィショップは瓶に残った残りの酒を喉に流し込んでから、エリザの質問に対する答えを発した。
「もう一つの男がとった行動は、自分に出来る最大の社会福祉だった」
心なしか自虐的に見える笑みを浮かべて、ヴィショップはそう答えた。
最初、エリザにはヴィショップの言おうとしていることが理解出来なかった。だが、数秒と経たない内に彼の言おうとしていることに気付いた瞬間、彼女の眼は驚きに見開かれた。
「まさか…そいつは…!」
「そうだ、エリザ」
ヴィショップは煙を大きく吐き出してから、言葉を発する。
「男は、自分の組織の幕を自分で下ろしたのさ。政府に自分の組織の情報の全てを明かしてな」
エリザが予想した通りの言葉を、ヴィショップは口から吐き出した。そして茫然とするエリザを尻目に、ヴィショップは小さく笑い声を漏らし始める。
「っくく…笑えるだろ、エリザ。有るかどうかも分からねぇ死後の世界の為に、その男は数千人の自分の部下を全て売ったんだ。組織を築き上げた張本人を味方につけた政府を前に部下達が逃げ切れる訳も無く、全てと言っていいほどの部下達が捕まった。捕まった部下達の末路を俺は知らないが、男の下で働いてきた連中だ。幹部は尽く死刑になっただろうし、死刑を逃れたとしても最早人並みの人生を送ることは不可能だろう。数千人の部下達の人生を、男は死んだ女に近づく為だけに踏みつぶしたんだよ」
笑い声を漏らしながらそう告げるヴィショップに対して、エリザは掛ける言葉を思いつかなかった。
普段ならば、自業自得とでも言ってのけることが出来ただろう。だが、この時だけは違った。何故なら、
(……ヴィショップ?)
昔話とやらを話しながら漏らすヴィショップの嘲るような笑い声が、まるでヴィショップ自身に向けたもののように感じられてならなかったからだ。
「確かに、男の部下達は罪を犯してきた。だが、それは全て男の指示に基づいて行ったものだ。組織を復讐の道具としか見ていなかった男は、部下達に組織の本当の存在理由を教えなかった。だがそれでも、部下達は男を組織の主と認めて傅き、その手を汚してきた。男の命令で何人もの部下が死んだ。まともな身体でなくなったものもいれば、精神が壊れた奴もいた。男が自らの意志で死刑を待つ身となった時は、毎日部下達がやってきた。ある者は何とか男を説得しようとし、ある者は男の意志を尊重し、涙を流しながら感謝の言葉を告げた。それほどまでに慕っていた部下達を、男は何の躊躇いも無く生贄に捧げたのさ。今の今まで頭を過ったことも無かった、下らない感傷の為にな」
そこまで話すと、ヴィショップは息を吐く。そしてすっかり短くなった煙草を空になった瓶の中に捨てると、笑うのを止めた。
「だがな、エリザ。その男が心底救いようの無い野郎である所以は、そこじゃない。奴の本当に救いようの無い点は、望み通り死刑になるその瞬間まで、“それ”で少しは天国に近いところに行けると思ってたとこだ。もし少しでもまともな人間なら、男のやった行為は贖罪になんかなり得ない、むしろ最低限の良心すらかなぐり捨てた外道の所業だってことを理解出来ただろう。だが、男には出来なかったんだよ。男はもう、悪人ですら持ち得ていた人間性すら手放していたのさ」
ヴィショップはそう言うと、煙草を捨てた瓶を持って立ち上がった。
「俺は、お前が復讐に人生を懸けるのを止める気は無い。所詮は、俺の人生じゃないからな。ただ、これだけは憶えておけ。復讐なんぞの為に人生を懸けたツケは、お前の想像を遥かに超えた大きさで返ってくる。復讐が終わった時、お前が残りの人生をまっとうに生きていけるとは思わない方が良い」
ヴィショップはそれだけ告げると、エリザに背を向けて扉の方に歩き始める。
「最後に、一つだけ訊きたい」
扉を開こうとした瞬間、背中にエリザの声が投げかけられる。ヴィショップは扉の取っ手を掴んだまま動きを止め、エリザが問いかえるのを待った。
「その男は死んだ後…天国に行けたと思うか? それとも地獄に堕ちたと?」
ヴィショップは少し考えた後、扉を開きつつ答えを返した。
「そいつは分からないが、俺が神なら死ぬことすら許さないだろうな」
ヴィショップはエリザの返事を待たずに部屋を出ると、扉を閉める。
部屋をあとにしたヴィショップは、扉の前に立ったまま大きく息を吐く。そして視線を横に向けると、部屋の中のエリザに聞こえない様に声量を落として言葉を発した。
「盗み聞きか? いい趣味してるな」
「…部屋に返ろうとしたら、女の方の大声が聞こえてきたからな。お前が、何か良からぬことをしようとしてるんじゃないかと思っただけだ」
扉の横で壁に背を着けて立っていたヤハドは、少しだけバツが悪そうに返事を返した。ヴィショップは苦笑を浮かべ、扉の前に立ったまま話を続ける。
「安心しろよ。俺にはもう女が…」
「あれが、お前の過去か」
ヴィショップの言葉を遮って、ヤハドが言葉を発する。ヴィショップは苦笑を表情から消して口を噤むと、やがて短い返事を返した。
「そうだ」
ヴィショップが返事を返すが、ヤハドは険しい表情を浮かべるだけで何も言葉を発しようとはしない。ヴィショップはそんな彼を見て再び苦笑を浮かべ、下へと続く階段に向かって歩き出しながら声を掛けた。
「まぁ、お前の為に話した訳じゃないが、少しでもお前の人生の足しになったなら、それはそれで良かったよ。貸しにしといてやるから、今度返してくれ」
ヴィショップの言葉を受けたヤハドが、驚いた表情でヴィショップの背中を見る。既にヤハドに背を向けていたヴィショップはその表情を見ていなかったが、ヤハドがどんな反応をするのかは凡そ予想をつけていたらしく、階段の向こうに姿を消しながらこう返した。
「“そう”いうのには鼻が利くんだよ。何たって、人生の大半を“それ”だけに費やしてきた、大馬鹿者だからな、俺は」
トランシバ城、国王の自室。そこの部屋の主である『スチェイシカ』国王ガロス・オブリージュは、寝間着姿で椅子に腰掛け、キャンパスに向かっていた。
左手には木製のパレット、右手には筆を持ち、足元には水の入ったバケツを置いて黙々とキャンパスに向かう姿は、ガロス自身が痩せていることも相まって彼の姿を王というイメージからかけ離れた姿へと変えていた。これで上質なシルクで織られた寝間着と眼光の鋭さが無ければ、ただの絵描きそのものだったであろう。
そんな彼が真剣な表情で向かう先のキャンパスには、純白の布を身に纏った半裸の少女達が描かれていた。少女達の背からはこれまた白い羽が生え、彼女たちが人ではないことを象徴している。そして何人もの少女達の中心には、地上に向かって慈愛の表情を浮かべる女神が描かれていた。
「入れ」
キャンパスに向かう彼の意識を阻害したのは、扉越しに聞こえてきたノックの音だった。
ガロスは小さく息を吐いて筆を下ろす。そしてすぐ横にある、安っぽい便箋の置かれた台の上にパレットと筆を置いて、訪問者に入って来るように告げた。
「失礼します」
入ってきたのは、紺色の軍服に身を包み右の太腿にホルスターを巻き付けた茶髪の優男だった。優男の軍服の右肩には、禿鷹と鎖をモチーフにしたエンブレムが縫い付けられている。
優男は部屋に入ってくると、ガロスの許に歩み寄って傅いた。
「何の用だ」
「はい。『ララルージ』の強制収容施設で暴動が発生しました」
ガロスの声を受けた優男は顔を上げてこの場を訪れた目的を果たした。
報告を受けたガロスは小さく溜め息を吐くと、キャンパスから優男の方に向き直って、優男に問いかけた。
「現状は?」
「F,Gエリアへの拡大阻止に成功。他のエリアも、既に鎮圧したも同然かと」
「だろうな。むしろ、牙を捥がれた駄犬に手こずる様では、金を掛けた意味が無い」
ガロスは無感動に頷くと、椅子から立ち上がって窓際に歩み寄る。
「暴動の原因は?」
「どうやら消灯時間中に部屋から出ることに成功した人間が発端となったらしいのですが、現時点では不明です」
「解明にどれくらいかかる?」
「収容されている人間の大半が参加していますので、首謀者の割り出しには時間が掛かると思われます。上手くいけば十日で済みますが、収容されている連中の結束力を考えるとそれ以上は優に掛かるでしょう」
「脱走した人間は?」
「確認中ですが、一割にも満たないと推測されます」
「こちら側の死傷者」
「現時点で八名確認されています。恐らく、暴動の最初期にやられたのだと思われます。他は概ね軽傷、数名骨を折る者が出ております」
一通り質問を終えたガロスは、窓を開いてその先の地平線をじっと見つめる。彼が見ている方角は、件の収容所がある方角だった。
「部下に、施設長の身柄を確保する準備を進めさせろ」
「かしこまりました」
優男は返事を返すと、部屋をあとにする。優男が消えた後、ガロスは少しの間地平線を眺めていたが、やがて窓を閉めると再びキャンパスの前の椅子に腰を降ろした。
「隠し通せるとでも思ったのか、愚か者め」
そして誰に語りかけるでもなく呟くと、パレットと筆を手に取って再び絵を描き始めた。




