Hide And Kill
「どうして、そう思ったんだ?」
暗闇の向こうからその言葉が返ってくるのに、数泊の間があった。
ヴィショップの問いかけに対じてエリザが返した返事はどこか冷たく、彼女が意図的に感情を押し殺しているのを物語っていた。
ヴィショップはそんな彼女の様子に思わず苦笑を浮かべると、声に現れない様に抑えつつ、彼女の質問に答える。
「何、ただ俺ぁ、その手の一文の得にもなりやしねぇ、ご立派な大義なんてものは信用しないことに決めてるってだけだよ。今までの会話で薄々分かりそうなもんだろ?」
「…そうだな。確かに、お前みたいな無法者にこんなこと言っても、信じてくれる訳がないか」
返ってきた返事は、言葉自体にこそ棘はあるものの、彼女の発した声音には不思議と棘はなかった。
エリザの返した返事に対してヴィショップが「まあな」とだけ返すと、エリザは小さく笑いを溢す。
「でも、まぁ、実際その通りだ。私は、貴族に対して個人的な恨みがある」
暗闇の中からエリザの返事が返ってくる。その返事は口調こそ穏やかだったが、その言葉の端に明確な恨みの影が掛かっていたのを、ヴィショップは見逃さなかった。
「何があったのか…」
ヴィショップは一瞬だけ思案した後、その因縁とやらについてをエリザに訊ねようとする。
しかし彼が言葉を発した瞬間、馬車は今までより一際大きな振動と共に、その動きを止めた。
「…着いたみたいだぞ」
「分かってる」
昔話から現実へと思考を切り替えたエリザが、声のトーンを落としてヴィショップに声を掛ける。ヴィショップはタイミングの悪さに心中で舌打ちを打ちながら答えると、外の物音へと意識を集中させた。
「お待ちしておりました、ゴーレンス殿」
「ご苦労さん。会場はこっちでいいんだね?」
軽い振動の後に、強制収容施設の人間と思しき声と、ヴィクトルヴィアの声が聞こえてきた。
「その通りです。送迎用の馬車をご用意しておりますので、こちらにどうぞ」
施設の人間と思しき声がそう告げると、複数の足音が聞こえはじめ、そして遠ざかっていった。恐らく、会話に出て来た送迎用の馬車とやらに向かっているのだろう。
ヴィショップはそれらの会話から、今自分達が潜んでいる馬車が強制収容施設の正門辺りに居ると、検討付ける。
(となると、この次に馬車が向かうのは畜舎か。さて…)
ヴィショップはヴィクトルヴィアから予め来ていた段取りを思い起こして、忍び込んでいる馬車が次に向かう場所を予測すると、右手を動かして周囲を探った。
(…これだな)
途中、エリザの身体に何回か触れてしまったせいで軽く爪先で小突かれたものの、大した時間を掛けずにヴィショップはお目当ての物体…何かのレバーのようなものを探り当てて、右手で握った。そしてその後は神経を集中させ、馬車が動き出すのをじっと待つ。
「よし、じゃあ、頼むぞ。貴族サマの馬車だ、傷つけるなよ」
(来たか…)
外からそんな声が聞こえてきたかと思うと軽い振動と共に馬車が動き出した。
ヴィショップは声と振動から馬車が動き出したことを悟ると、声には出さずに数を数え始めた。
(1…2…3…)
暗闇の中、ヴィショップは意識を身体に伝わる振動と車輪の回る音、そして右手で握っているレバーらしき物体に集中させながら、無心に数を数え続ける。彼の隣で腹這いになっているエリザは、沈黙を貫きながら、ヴィショップの立てる微かな呼吸にの音を聞いていた。
そして、ヴィショップが無言でおこなっていたカウントが八十六へと達した瞬間、ヴィショップは右手で握りしめていたレバーを思いっきり引いた。
レバーを引いた直後、二人の身体を襲ったのは浮遊感だった。しかしそれを感じたのはほんの一瞬だけで、次の瞬間には腹や膝等に打ち付けられた様な痛みが走り、そしてさらにもう一泊おけば、すぐ真下にある土の臭いを味わうことが出来た。
馬車の床下の冷たい木目から一転、固い土の上で腹這いに寝そべっているヴィショップは僅かに身体を起こして前方を確認する。視線の先では、今の今まで自分達が忍び込んでいた馬車が順調に畜舎の方向に向かって遠ざかっていた。馬車の御者台に座る施設の人間と思しき男が後、方で地面に寝そべっているヴィショップとエリザの存在、そして馬車の車体の下に空いた、今しがた二人が馬車から“降りる”のに使用した穴の存在と、その穴が閉じて元通りになったのに気付いた様子は無かった。
ヴィショップは遠ざかっていく馬車から視線を逸らし、周囲の様子を確認する。お目当ての物体は、すぐ右手にあった。
(…こいつか)
地面に寝そべるヴィショップの右手にあったものは、まさに監獄といった佇まいの石造りの巨大な建物だった。回数は八階建てで、表面には鉄格子の嵌められた小さな窓が何個も存在している。屋上にはボウガンで武装した人間が数人詰めており、遠目からでも分かるぐらいにやる気の無い態度で監視に励んでいた。
もっとも、『リーザ・トランシバ』からここまでの移動中に既に時刻は深夜へと大幅に近づいており、そんな夜の闇の中で黒い外套を身に纏って地面に伏せているヴィショップとエリザをサーチライトの一つも無しに見つけるのは、例え真面目に勤務していたとしても至難の業だったろうが。
屋上から視線を下に下げていくと、少し離れた所に建物の中へと続く扉が見えた。しかしそこには当然、見張りと思しき人物が二人居た。
たき火に当たりながら談笑している二人の見張りの存在を確認したヴィショップは、軽くエリザの腿を爪先で小突いた。同じ様に周囲を確認していたエリザがヴィショップの方に視線を向け、二人の視線が交錯する。ヴィショップは彼女の翡翠の様な目から視線を剥がすと、ゆっくりと二人の見張りの方に這い始めた。
いくら暗闇の中とはいえ、露骨に動けば屋上の見張りに気付かれてしまう。その為、屋上の見張りの目に留まらない様に注意しつつも、出来るだけ素早く二人地面を這った。途中、ヴィクトルヴィアの馬車と同じ様に預けられて畜舎へと向かう馬車が来た為に動きを止めていたこともあって、見張りの二人との距離を詰めるまで、軽く十分は掛かっていた。
たき火の光に照らされない程度に見張りい近づいたヴィショップとエリザは、一端動きを止めて見張りの様子を観察する。すぐそこに侵入者が居るともしらずに談笑を続ける見張りの内、一人の左手には酒瓶が握られていた。そしてたき火の灯りに照らされた見張り二人の顔は仄かに紅潮していて、酒に酔っていることを二人が見抜くのに数秒と要さなかった。
ヴィショップは顎の無精ひげを擦りながら二人の見張りをじっと眺めていたが、やがてゆっくりと手を動かして、傍らで伏せているエリザの手を握った。
「……ッ!?」
唐突に手を握られたエリザは、驚いた様に身体を振るわせてヴィショップを睨み付ける。ヴィショップは、弾みで微かに持ち上げられた彼女の空いている方の拳が振り下ろされる前に、急いでもう片方の手を掴んでいるエリザの手に伸ばすと、人差し指を彼女の手の腹に押し当てて動かした。
「……」
ヴィショップが自分の掌に文字を書いていることに気付いたエリザは空いている方の手の拳を解くと、ヴィショップが掌に書いている文字に意識を集中させた。
ヴィショップはエリザが自分の趣旨を理解してくれたことに心中で安堵の溜め息を吐いた。そして念を押して彼女の掌に、もう一度最初から文字を書くと、彼女の掌を軽く二回叩いてから動き始めた。
ゆっくりと音を立てぬように這って行くヴィショップの耳に、同じように押し殺した物音が聞こえては、段々と遠ざかっていく。ヴィショップは一瞬だけ脳裏を過った振り向くという選択肢をもみ消して、見張りの内の片方の後方に向かって這い続けた。用心の為に迂回した為か、ヴィショップが見張りの後方に位置取るまでには、馬車から抜け出して見張りに近づくまでと大体同じような時間が掛かった。
少し距離を空けて見張りの後方に陣取ったヴィショップは、暗闇に息を潜めつつ、そっとナイフを取り出した。そして二人の見張りの視線を確認しながら、小さくナイフを動かして僅かな光を反射させた。
一回目は何も返ってこなかった。見張りの片方の視線がヴィショップに向きかけたので、ナイフを腹の下に隠して待ち、視線が再び逸れるのを待ってからもう一回ナイフを動かす。今度は暗闇の中から、自分が反射させたのと同じくらいの小さな光が瞬いた。ヴィショップはその光で、エリザが位置についたことを悟ると、地面に伏せたまま右手を、自分に背中を向けている見張りの首元に向けてかざした。
「神導魔法黒式、第二十八録“グラートル・チェーン”」
ヴィショップが呪文を詠唱し終えると同時に、ヴィショップの掌から漆黒の鎖が伸びて見張りの首元に巻き付いた。ヴィショップは間髪入れずに立ち上がって膝立ちになると、右の掌から伸びている鎖を左手で掴み、全体重をかけて引っ張って見張りを思いっきり引き倒した。
「な、何だ、き…!」
その一部始終を呆けた表情で眺めていたもう一人の見張りが、慌てた様子で腰の剣に手を伸ばそうとする。しかし残ったもう一人の首元にも、背後から伸びてきた漆黒の鎖が巻き付いたかと思うと、ヴィショップが倒したのと同じように引き倒されて、後頭部を強打した。
ヴィショップはその光景を眺めつつ魔法を解除すると、中腰ですばやく倒した見張りに近づく。意識を失っているのを確認してから、屋上の見張りに見つからないように建物の壁にぴったり背中を付けて、中へと続く扉の横へと移動する。暗闇から姿を現したエリザもヴィショップと同じ様に扉の真横までやってきて、フードの下から装飾が彫り込まれた黒い魔弓を取り出して右手で構えた。ヴィショップもホルスターから白銀の魔弓を一挺抜き取って右手で構えて、左手で扉の取っ手を掴んでゆっくりと回した。
鍵はかかっていないようで、取っ手はすんなりと回った。ヴィショップは小さく息を吐き出し、僅かに扉を開いて中を覗き込んだ。
覗き込んだ先で見えたのは、光源用の神導具が吊るされた狭い通路だった。ヴィショップは開いた扉が目論見通り、非常扉の内の一つであることを確認すると、顎をしゃくってエリザに中に入るように指示し、扉から離れる。ヴィショップが扉から離れると、エリザは近くに転がっている見張りの脇に手を回して抱きかかえながら、扉の中へと姿を消す。ヴィショップはエリザが完全に扉の中に入るのを待ってから、自分も彼女と同じ様に気絶した見張りを抱きかかえて扉の中に入った。
「手筈は憶えてるな?」
ヴィショップが中に入って扉を閉めると、外套を脱ぎ捨てたエリザが見張りから服をはぎ取りながら、話し掛けてきた。
「少しは信用して欲しいもんだね」
ヴィショップは返事を返しつつ見張りを床に寝かせ、エリザの方に手をかざす。
「信用していないついでに言っておくが、こっちを向いたらどうなるか分かってるだろうな」
「はいはい、重々承知してますよ」
エリザは懐から、ヴィクトルヴィアに渡された鍵束を取り出すとヴィショップに投げ渡した。
弧を描いて飛んできたそれをヴィショップはキャッチして適当に返事を返すと、エリザに背中を向けた。すると数秒としない間に、服と肌が擦れる小さな音がヴィショップの耳朶を打ち始めた。
鍵束を床に置いたヴィショップは小さく口笛を吹いて、見張りから服をはぎ取る。上下を一通り脱がせ終わると、フード付の外套を脱ぎ、その下に身に着けていた洋服を脱ぎ始めた。
「さっきの話の続きだが、あれはいつしてくれるんだ?」
上に来ていたシャツを脱いで床に落とし、ヴィショップは見張りが身に着けていた、深緑に赤いラインが入った制服の上着を身に着ける。
「話さなきゃいけない義理はないだろう」
制服のボタンを留めながら、エリザが答えた。
「さっきは満更でもなかっただろ? 今になって掌返すのは、あまりに酷過ぎやしないか?」
黒いズボンを脱ぎ、制服の下に脚を通しつつ、ヴィショップはもう一度訊ねた。
「…これが終わって、気分が向いてたら話してやるよ」
ズボンの紐を結び終わったエリザが、仕方なさそうに返した。
「いいね。少しやる気が沸いてきた」
最後に見張りの被っていた帽子を被ると、ヴィショップは小さな笑みを浮かべて振り向いた。
振り向いた先には、帽子を目深に被って顔を見えにくくしているエリザが経っていた。施設の制服に身を包む彼女は、身長が少し物足りない気こそするものの、元々レジスタンスの一員として身体を鍛えていたに加え、今日は胸元をサラシで締め付けているのと後ろ髪を一玉に纏めて帽子の下に隠しているのも手伝って、一見しただけでは男にしか見えない姿になっていた。
「悪くないな。その格好でオペラにでも出てきたらどうだ?」
「冗談言ってる場合か。早く行け」
ヴィショップがエリザの姿をまじまじと眺めながら呟くと、エリザは呆れ混じりにそう言い、右手を振って追い払おうとする。ここから先は、ヴィショップが一人でドルメロイを探し。エリザは脱出ルートを確保する、という手筈になっているのだ。
「リョーカイ、上官どの。風に帽子煽られてバレたりすんなよ」
「そんなヘマはしないよ。お前こそ、うっかり職員の前でボロを出すなよ」
ヴィショップは、外へと通じる扉に向かって歩くエリザに一声掛けて、廊下の先に向かって歩き出した。
所々にぶら下げられた神導具のもたらすほの暗い光に照らされた廊下を、ヴィショップは黙々と歩き続ける。腰にぶら下げた長剣の慣れない重さが不快だったが、だからといって帯剣せずに歩き回るのは御免なので、渋々それを受け入れる。もっとも、いざその時になったら便りになるのは、腰からぶら下げているまともに扱ったことのない長剣ではなく、制服の下に隠している一挺の白銀の魔弓だったが。
「C地区…お目当ての場所までは、二つ程地区を超えなきゃならんな…」
廊下の突き当たりにあった扉の金属製のプレートに彫られた文字を見たヴィショップは、小さく呟いた。
予めヴィクトルヴィアから書面で受け取り、頭に叩き込んでおいた情報では、この施設は外側に位置するAからEの五つの地区と、より一層警備の厳重さが増し、各地区に一つずつ設けられた検問を通ることでしか向かえない、FとGの二つの地区から構成されている。そして肝心のドルメロイはどうやら、内戦時にカルトリコ側に見方した組織の末端の一人として、A地区に放り込まれているとの話だった。
「とりあえず、まずはB地区からだな」
ヴィショップは脳裏に描いていた地図を一端引っ込めると、目の前の扉を僅かに開いた。
扉の先は、薄暗い緩やかなカーブを描いた横長の廊下だった。しかし今しがた通ってきた非常通路と違い、壁にはCを頭文字に三ケタの数字が彫り込まれた金属製のプレートを取り付けられている扉が、ずらっと並んでいる。その扉の向こうで、この施設の人口の大半を占める存在である収容者達が寝息を立てているであろうことは、想像に難くなかった。
ヴィショップは視線を動かして周囲を確認して人が居ないことを確かめると、一息に扉を抜け、後ろ手で非常通路の扉を閉め、鍵束にぶらさがっている鍵を使って施錠した。そして頭の中に叩き込んだ見取り図でA地区の方角を確認し、その方角に向かって歩き始めた。
(しかし……カルトリコ側に見方して、強制収容所行き、か…)
必要最低限の灯りだけが灯された廊下を歩きながらヴィショップは、ヴィクトルヴィアから聞かされたドルメロイがここに放り込まれるまでの顛末について思考を巡らせる。
(殆どまともな味方なんて居ない状態で、内戦相手のとこまで追ってから逃げ延びる。そして正体が明らかになることなく内戦終結まで生き延び、今なおただの反政府組織の末端としてここに収容されている…)
途中で右手へと伸びる三叉路にぶつかったヴィショップは、壁際に身体を寄せ、僅かに顔を覗かせて人が居ないことを確認した。
(そして何より…このタイミングで、ヴィクトルヴィアがドルメロイの存在に勘付いた…。偶然にしちゃ、出来過ぎだ)
三叉路を横切ったヴィショップは、今回のドルメロイの件から漂ってくる、鼻につく“臭い”について考えながら、不自然な体勢にならない程度に足音を殺して歩き続ける。そうして歩いている内に、ヴィショップはB地区へ抜ける扉の前に辿り着いた。
ヴィショップは制服の尻ポケットに捻じ込んでいた懐中時計を取り出して、時間を確認する。ヴィクトルヴィアから渡された、地区毎に行われる見回りの時刻表に乗っていた時刻には、まだ少し余裕があった。
(おまけに、収容先の情報をいくらでも引き出せる奴まで居ると来てる)
ヴィショップは扉の取っ手に手を掛けると、鍵が掛かっているかどうかの確認の意味合いを込めて扉を軽く押してみた。扉が動くことはなく、何かに引っかかったような音だけが微かに聞こえた。
ヴィショップは懐から鍵束を取り出す。輪に吊るされた鍵の殆どは所々で錆びついており、少なくは無い年季の入った代物であることを証明していた。ヴィショップはそれを無言でじっと見つめた後、符号する鍵を探し出し、小さく鼻を鳴らして扉の鍵穴へと突っ込んだ。鍵を回すと小さくカシャンという音が鳴る。ヴィショップは鍵束をしまうと、再び取っ手に手を掛けた軽く押した。今度は何の抵抗もなく扉は開いた。
扉の向こう側は、今通ってきた廊下と殆ど同じ構造の廊下だった。違いといえば、せいぜい壁に並んだ扉のプレートに記されている文字が、CからBに変わっていたことだけだった。
ヴィショップは扉を閉めるて施錠すると、先程と同じ様にA地区に向かって廊下を進んでいく。途中、C地区の通路にあったのと同じ、非常通路に抜ける扉を見つけたので、鍵束の鍵を使って施錠しておいた。解放する人間の数を考えれば、二人程度の見張りが合流してきた程度でそう易々と鎮圧されるとは考えられないが、意味が無くとも障害は少ない方がいいのもまた事実だった。
(それに、囮が簡単に逃げ出しても困るしな)
先程と同じく、誰かにばったりと出会うようなこともなくヴィショップはA地区に続く扉の前へと辿り着いた。そして尻ポケットから再び懐中時計を取り出し、見回りの時間までの猶予を確認し、扉の鍵が掛かっていることを確かめてから鍵穴に鍵を差し込んで扉を開いた。
三度目となる似たような光景に軽いデジャヴを覚えつつ、ヴィショップは通路を進んでいく。しかし脳裏では、今までのように既に起こった出来事についてではなく、これから起こそうとしている出来事について思考していた。
すなわち、これから数分後に行われるであろう見張りに向かう人間を含めた、三人の人間が詰めているであろう日直室、そこの制圧についてを。
(派手にやるとバレちまう。だから、魔弓は無しだ。となれば、魔弓抜きでやらなきゃならん。が、俺の力じゃ騒がれずに三人の人間をやるのは無理。と、くれば…)
非常通路へと続く扉を施錠したヴィショップは、三叉路まで来ると、右手へと伸びる通路の脇の壁に背中をつけ、ナイフと懐中時計を取り出した。
(一人をここでやるしかねぇな)
右手にナイフを持ち、左手に蓋を開いた懐中時計を持って時間を確認しつつ、ヴィショップは見回りが始まる時刻を待つ。
使い慣れていない武器に六発で打ち止めの魔弓と、何度も使えない弱い魔法だけを武器に、敵陣のど真ん中で息を潜める。そんな環境には人間の精神に多大なストレスを与え、時間間隔の延長を始めとして様々な感覚を狂わせ、冷静さを失わせる。それはヴィショップといえども例外ではなく、目深に被った帽子には彼の汗が少しづつ染み込んでいっていた。
「ったく、今度は覚えてろよ」
緊張にまともな判断力を持っていかれないように耐えながら、じっと正面の壁に視線を向けて待ち続けたヴィショップに、ついにその時がやってきた。
通路の奥から、不本意そうな声とそれをからかう笑い声が聞こえてくる。
ヴィショップは静かに息を吐き出すと、右手のナイフの角度を変え、視線をナイフへと落として、意識を段々と近づいてくる足音へと集中させる。ナイフの刀身に見回りの男の姿が歪んで移り、段々と大きくなっていく。次第に見回りの手に握られた神導具の光が届き始める。そこまで近づいてきたところで、ヴィショップは左手の懐中時計をしまい、ナイフを逆手に持ち替えた。そして見張りの持つ神導具が角から姿を覗かせた瞬間、ヴィショップは身体を翻し、左手を伸ばして神導具を持つ見回りの手首を掴んで引き寄せつつ、右手に握ったナイフを見張りの腹に叩き込んだ。
「うぐっ…!」
いきなり手首を掴まれて引き寄せられたことに驚く暇もなく、見回りの下腹部に激痛が奔る。見回りは堪らず身体をくの字に折り曲げるも、何とか襲撃者の姿を一目見ようとして頭を持ち上げようとした。
しかしヴィショップはそれを嘲笑うかの様に腹に突き刺したナイフを引き抜くと、小刻みに震えながら垂れている見回りの首に右腕を回して抱え込む。そして右手に持っていたナイフを手放し、それを左手でキャッチすると、見張りの右の肺目掛けて二度突き刺した。
ナイフの切っ先は肋骨の間を抜けて肺を抉り、容易く破裂させた。見回りは口元から血を吐き出し、弱々しく手を振り回してもがく。
ヴィショップはその様を無感動に眺めると、右腕に力を込めつつナイフを握ったままの左手を見回りの側頭部に押し当てて、見回りの首を圧し折った。見回りは最後に痙攣したように四肢を振るわせると、そのまま動かなくなった。
ヴィショップは見回りの死体をそっと床に寝かせる。そして制服に血が付着していないことを確かめると、見回りの手に握られたままのカンテラ型の神導具を捥ぎ取り、改めて帽子を目深に被り直してから、日直室に向かって歩き始めた。
日直室までの距離は大したことはなく、すぐに着いた。ヴィショップは中に入る前に静かに息を吐いて調子を整える。
「神導魔法黒式、第八十八録…」
ナイフを背中に隠し、呪文の詠唱しながら、ヴィショップは扉を開いて部屋の中へと踏み込んだ。
「何だよ、やっぱり変われっていっても…」
「パルシー・リンボ」
部屋の中には情報通り、二人の職員が居た。一人は入り口近くの机に足を投げ出して座りながら視線を手元の本へと注いでおり、もう一人は部屋の奥に置いてある木箱から酒を取り出そうとして屈んでいる。
手前の職員が部屋に入ってきたヴィショップを先程の見回りと勘違いして声を掛ける。ヴィショップはそれを無視して左手を奥の職員に向けてかざし、呪文を詠唱し切った。
その瞬間、ヴィショップの左手から緑色の閃光が撃ち出されて、奥で屈んでいた職員に命中した。緑色の閃光を受けた職員はピンと背筋を伸ばして仰向けにひっくり返り、引き付けを起こしたかのように身体を痙攣させる。
「な、何だ…うおっ!?」
ひっくり返った際に落とした酒瓶の割れる音で何かが起こったかとに気付いた手前の職員が、慌てて立ち上がろうとする。しかしその時には既にヴィショップは職員の真横に移動して、彼が腰を降ろしている椅子を蹴りつけていた。
座っていた椅子を蹴り飛ばされた職員は、抵抗すら出来ずに地面に倒れ込む。ヴィショップは慌てて起き上がろうとする職員の背中を踏みつけて地面に押し付けると、職員の首にナイフを突き立てた。
ナイフを突き立てられた職員の身体が弾かれたように一度だけ震え、そのまま動かなくなる。ヴィショップは息絶えた職員の首に生えたナイフを抜きとると、奥の方で身体を痙攣させているもう一人の方に歩み寄る。
「……ん?」
するとその最中、ふと壁の方に視線をやったヴィショップは、壁に掛けられたあるものを見て歩みを止めた。ヴィショップは床に倒れている男の方に向けていた歩みを壁の方に向け、壁に掛けられたその物体を手に取る。
「こいつは…」
ヴィショップはまじまじとその物体を眺めると、ある物体を求めて、懐へと手を伸ばした。




