馬車に揺られて
カンテラ型の神導具による光によってぼんやりと照らし出された部屋の中、ヴィショップは沈黙を貫いたまま、右手で白銀な魔弓を構え、前方の的代わりのずた袋へと狙いを定めた。彼が佇む部屋には一つの窓も無く、周囲の壁が剥き出しの土であることが、この場所がレジスタンスの面々の手でによって代々使われ続けてきた、『リーザ・トランシバ』の地下に存在する隠れ家の一端であることを物語っていた。
レジスタンスの主要メンバーが集まっての会談から、今日で三日が経っていた。結局、ドルメロイ・オブリージュを確保する為の作戦には、ヴィクトルヴィアの推薦通りヴィショップが行くことになり、そのお目付け役としてエリザが選ばれた。そしてそれから今日に至るまでの三日間、ヴィショップはエリザやヴィクトルヴィアと作戦の内容を煮詰めつつ、老人から教わった魔弓に備わる今まで自分が知らなかった機能を試していた。
「………」
ヴィショップの親指が、ゆっくりと魔力弁を押し上げる。カチリという乾いた音が、魔力弁が限界まで開かれたことをヴィショップに知らせる。ヴィショップは、脳内で一つのイメージを固めつつ、魔力弁に魔力を流し込んだ。
すると、ヴィショップの手に握られた魔弓に彫り込まれた装飾から、光が漏れ始める。しかしその光は、今までヴィショップが魔弾に魔力を上乗せしてきた時に漏れ出るような、青白い光ではなかった。今、彼の魔弓が放っている光は、燃え盛る炎を連想させる赤色だった。
青白い光を放っていた時とは、また一味違った美しさがヴィショップの手の中で顕現する。だがヴィショップは、それを一瞥すらしないまま、引き金に掛けた指に力を込めた。
ヴィショップの人差し指が引き金を弾くと同時に、魔弾に封じ込められていた攻撃魔法が展開し、射出口から魔力弾が飛び出す。しかし、射出口から飛び出してきた魔力弾は、通常撃ち出される深紅の魔力弾などではなかった。
それは、巨大な火の玉だった。人間の頭程の大きさのある、どう考えても射出口から撃ち出せる筈の無い大きさの火の玉が射出口から撃ち出され、前方のずた袋へと直進していったのだ。そしてその火の玉は直線上にあるずた袋に命中すると、ずた袋の中には爆薬が詰め込まれていたのではないか、と疑いたくなるような轟音を轟かせて、爆発した。
「……フゥー」
爆発の衝撃で土煙が巻き上がり、視界が制限される中、ヴィショップは大きく息を吐き出した。その額にははっきりと汗が滲んでおり、表情には僅かながらも、先程までは無かった疲労の色が浮き出ていた。
「どうだ?」
不意に、背後から女性の声が飛んでくる。ヴィショップは土煙が晴れてずた袋の様子が確認出来るまで待ってから、返答した。
「駄目だ。昨日と変わらん」
跡形も無く吹き飛んだずた袋と、その真下に空いた小さなクレーターを眺めながら、ヴィショップはそう言った。すると、ヴィショップに掛けた声の主であるエリザが、ヴィショップの真横まで歩み寄った。
「これ以上やっても結果は変わらない、か。まぁ、三日で技術をものに出来ただけ、御の字だろう」
ヴィショップの返事を聞いたエリザは、ヴィショップが見ているものと同じものを見ながらそう返した。
この三日間、ヴィショップが新たに知った魔弓の機能…魔弾に四属性の力を付属させるという昨日の使い方の教鞭を取ったのが、何を隠そう今彼の真横に居るエリザだった。
理由としてはまず、この機能を使用するには一種の慣れが必要になる為だ。
魔法を使用するのに必要な魔力とは、例えるならば粘土の様なものである。最初はただの塊に過ぎない粘土をこねくり回すことで作品を創り上げる様に、己の持つ魔力という存在に、魔法の能力や姿を強くイメージするで刺激を与えて変化させることで魔法というものは発動する。そして魔法発動の際に用いる呪文とは言わば粘土における型であり、呪文が魔法の名前として使用者の意識に刷り込まれることでイメージの大部分を肩代わりし、魔法の発動を大きく補助する役目を持つ。しかし、詠唱が存在しない魔弓の場合は、自らのイメージだけが頼りとなる。幸いなことに、この機能を使用するにあたって必要なのは流し込む魔力に四属性の内の一つの“色”に染め上げるだけなので、火の魔力を付与させたいことは鮮烈な炎のイメージを、水の場合は鮮烈な水のイメージを作り上げるだけで済む。が、それだけのことでも中々に難しいもので、実際ヴィショップ自身も初日の時点では四属性を付与させることは出来なかった。その為、それに精通する人間に教えを仰ぐ必要が生まれたのだった。
となれば、エリザがヴィショップにこの機能を教える役目を引き受けたもう一つの理由は、自ずと決まって来る。つまりは、エリザもまた、四属性を魔力弾に付与する能力を持った魔弓を持つ人間だということに。
(さてさて、一体何を考えてののかねぇ、あのエセ貴族は…)
隣に立つエリザのホルスターに納められている、黒い魔弓に視線を落としたヴィショップは、心中で呟いた。
エリザの持つ魔弓に、四属性を付与する機能が備わっていると知ったのは、二日前のことだった。地下のアジトの一室を借り、一日を費やしても魔力弾に四属性を付与させることの出来なかったヴィショップに、どこか意地の悪そうな笑顔を浮かべた彼女が、自ら切り出したことでヴィショップはその事実を知った。
本来なら四属性を付与する能力を持つ魔弓は、一部軍人や貴族しか持ち得ないものだ。なのでただの一般市民に過ぎないエリザがそれを持っているのはおかしいのだが、話を聞いてみるとどうやらヴィクトルヴィアがら貰ったらしかった。本人曰く、「自分が持っていても役に立たない」とのことで。
そしてそれ以外にももう一つ、ヴィショップの胸中で渦巻いている疑問があった。
(それにしても、本当にこいつは一体何なんだ…?)
ヴィショップはエリザの黒い魔弓から、自分の手に握られている白銀の魔弓へと視線を移し、その表面に彫り込まれた装飾を指で撫でた。
ヴィショップが抱えるもう一つの疑問とは、己の一対の魔弓に彫り込まれた装飾にあった。
この魔弓を見せた大柄な老人曰く、四属性を付与する機能を持った魔弓の象徴でもある装飾は、どれも同じデザインになっているらしい。理由については、彫り込まれた装飾自体が呪文であり、それによって機能を拡張しているのだとか、単なるブランド化の為だとか言われているものの、例に漏れず真実を知るのは製造者のみとのことだ。そんな存在意義の曖昧な装飾なのだが、どういう訳かヴィショップの使っている魔弓に彫り込まれているものは、エリザの持つ魔弓とデザインが異なっていたのだ。
どうしてエリザ…引いては他の魔弓とデザインが異なっているのか、そしてそれに意味があるのかは現時点では全く分からない。だが、ヴィショップにはそれがどうしても引っかかってしょうがなかったのだった。
「となると、日にこれを撃てるのは三発までか」
「……ん? あぁ、そうなるな」
隣に立つエリザの声で、ヴィショップは思考に耽っていた意識を引き戻した。だが、エリザはヴィショップが上の空で話を聞いていたのを見抜いているらしく、彼に向けられた視線は温かなものではなかった。
日に三発。これが、今のヴィショップの限界だった。
これは実際に売ってみて初めて実感が沸いたことだったのだが、四属性を付与した魔力弾は、ただ魔力を上乗せするだけのものより魔力を喰うのだ。現にヴィショップは、始めた魔力弾に四属性を付与させた日は、二発目の時点で眩暈がし、三発目を撃った後は膝から崩れ落ちた。その後、エリザから魔力のコントロール方法を教わったことで、三発撃ってもぶっ倒れないところまでは行ったものの、最大発射数の方は変わっていなかった。
「魔力弾に四属性を付与させるのは、ただ魔力を上乗せするだけのより四倍近い魔力を喰う。通常の魔法にしてみれば、四段階目の魔法を使用するのと大体同じだ。取り敢えず、三発撃てるんならマシな方だろう」
半目でヴィショップを睨み付けていたエリザはそう言うと、スカートの裾を翻して出口に向かって歩き始める。
「あんたは何発が限界なんだっけか?」
ヴィショップは自分の魔弓をホルスターに納めると、彼女のあとを追いかけつつ問いかけてきた。エリザはヴィショップに背を向けたまま、右手の指を四本立てて頭の上で振り、出口の扉を開いてその場を去っていき、ヴィショップもそれに続いて部屋をあとにした。
例の会合から今日で三日。今日こそが、ドルメロイ・オブリージュ確保の作戦の実行日だった。
時間は、夕飯時を少し過ぎたあたり。『リーザ・トランシバ』の市民区に伸びる、馬車が通行可能な通りの内の一つに、ヴィショップとエリザの姿があった。二人共、格好はフード付の外套で、顔をフードで隠し、建物と建物の間を奔る路地に隠れるようにして立っていた。
「……そろそろだな」
尻ポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認したヴィショップが、白い息を吐き出しながら小さく漏らす。するとそれから数分と経たぬ内に、石造りの通りを駆ける蹄と車輪の音が聞こえてきた。
二人の前にやってきたのは、一台の馬車だった。御者台にまで伸びた屋根にはカンテラ型の神導具が吊るされており、車体は灰色主体の塗装を施されており、通常のものより一回りは大きい。そしてそれを、二頭の黒馬が引いていた。
「どうぞ。主は中でお待ちです」
ヴィショップとエリザが馬車を眺めていると、車体の扉が開いて、ヴィクトルヴィアとの話し合いの時に彼の傍らに居た、武人然とした男が顔を覗かせた。
ヴィショップとエリザは彼の言葉に従って、馬車へと乗り込む。中にはL字型の座席と丸いテーブルがあった。テーブルの上にはワインのグラスとそのツマミであろうフルーツの盛られた皿が置かれており、座席にはヴィクトルヴィアが、ワイングラスで空中に小さな円を描きながら腰を降ろしていた。
「寒い中、待たせてしまって申し訳ないね」
「これぐらい、市民区の大半の人間は慣れてるさ」
フードを下ろして二人が席に着くと、ヴィクトルヴィアが二人に声を掛ける。エリゼはヴィクトルヴィアに返事を返すと、テーブルの上にの皿に盛られたフルーツを一つ摘まんで口に放り込んだ。
座席に座った二人の身体に振動が奔り、馬車が動き出したことを伝える。ヴィショップは一瞬だけ窓の外に視線を向け、テーブルの上に置かれている空のワイングラスに手を伸ばした。
「これから重要な作戦を行うんだ。酒は止めろ」
「チッ。十八、十九のガキじゃあるまいし、酒の加減ぐらい付けられる」
グラスに指先が触れるか否かというところで、横から伸びてきたエリザの手がワイングラスを掻っ攫っていく。ヴィショップは舌打ちを打つと、テーブルの上に置かれていた他のワイングラスを手早く取り、ヴィクトルヴィアに向かって差し出した。ヴィクトルヴィアは微笑を浮かべると、ワインボトルを手に取って、ヴィショップが持つワイングラスに白ワインを注ぎ込んだ。
「二人とも、今日の手順はちゃんと覚えているね?」
ヴィショップのワイングラスに白ワインを注ぎ終わったヴィクトルヴィアは、ワインボトルをテーブルに置いて、そう問いかけた。
「強制収容施設にジェームズ・ボンドよろしく忍び込んで、あんたが“商会”とやらを行っている間にドルメロイの確保、及び収容者の解放を行い、騒ぎに乗じてあんたの馬車まで戻ってくる」
「ジェームズ・ボンドっていうのが誰かは知らないが、まぁ大体その通りだね。地図の方はどうだい?」
「ちゃんと頭の中に叩き込んでるさ」
ワイングラスを傾けつつ、ヴィショップはヴィクトルヴィアの質問に答えていく。
ヴィクトルヴィアはヴィショップの返事を聞いて満足気な表情を浮かべると、更に盛りつけられた葡萄を一粒手に取り、それを指先で弄びながら問いかけた。
「“商会”については、どれだけ知っているんだい?」
「収容してる人間を売り買いする場、てことだけだ」
ヴィクトルヴィアの問いかけに、ヴィショップは大して感心を見せずに答えた。
“商会”が、強制収容施設に収容された人間を奴隷として売り買いする場だと知ったのは、三日前のレジスタンスの会合の後だった。あの後、ヤハドとプルートの許に戻ったヴィショップが、“商会”というものの存在についてプルートに訊ねた際、彼が話してくれたのだ。
“商会”なるものの存在を知ったヤハドは激怒していたが、プルート曰く“商会”はあくまでも合法的な行事であるらしかった。何でも“商会”が開かれるようになった際、先の内戦終結以降も『スチェイシカ』に反発し続けた人間の中で、更生に成功した人間の社会復帰の為に雇用先を提供する、数人の貴族や富裕層の人間主導で行われる慈善事業、という建前を立ててその存在を議会で審議し、実際に通ってしまったらしい。その為、収容されている人間の意志等無関係に金銭で取引されているのが実態だったとしても、合法的な存在として特にこそこそと行うこともなければ、あまつさえ政府からの資金提供すら受けて行われているとのことだった。故に、正式名称である「更生プログラム修了者を対象にした、社会復帰支援雇用会議」ではなく、その実情を知る者からは“商会”とだけ呼ばれている。
「あの場所では、人は人として扱われない。ただの道具として扱われる。身に着ける衣服は最低限で、入浴は三日に一度で男女問わず監視が付く。食事は最低限で、メニューの変更は殆どない。一日の大半は仕事に費やされ、少しでも反抗的な態度を取れば懲罰房に叩き込まれるんだ」
「……何が言いたい?」
はっきりと憤りを表情に表しているエリザと違い、その隣に座るヴィショップの表情は平静そのものだった。強いて言うなら、若干退屈そうだったぐらいだろうか。
「…それらの理不尽な仕打ちを見ても、早まらないように、ということさ」
「安心しろ、その手のには耐性がある」
ヴィショップがつまらなそうに返事を返した瞬間、ヴィクトルヴィアの表情が微かに歪んだ。ヴィショップは一瞬だけ顔を覗かせたその表情を見過ごすことはなかったが、特にそれに言及することはせずに、話を進めた。
「とこれで、アレは手に入ったのか?」
「…ああ。ヤーゴ」
ヴィショップが訊ねると、ヴィクトルヴィアは彼の隣に座る武人然とした男に声を掛けた。武人然とした男は頷くと、懐から錆びついた古い鍵束を取り出して、テーブルの上に置いた。
「これが、強制収容所の?」
「そうだ。強制収容所の諸々の施錠を解くのに必要な鍵の面々さ」
鍵同士がむつかりあってジャラジャラと音を立てる鍵束を手に取ったエリザは、錆びついた鍵を一本一本確認しながら、ヴィクトルヴィアに問いかけた。ヴィクトルヴィアは首を縦に振ってそれに答えると、鍵束について説明し始める。
「鍵に数字と文字が彫り込まれているだろう?」
「ああ」
「それは強制収容所のエリアを示している。そして強制収容所エリアの施錠は、全てエリアと符号する鍵で解除できるようになっているんだ」
エリザの顔に視線を向けつつ、ヴィクトルヴィアは自身も鍵束に触れながら説明を行う。彼の指先は、エリザの褐色の肌に触れるか触れないか、といったところまで近づいていた。
ヴィショップはそんな彼に視線を向けると、ワイングラスの残りを一気に煽った。
「随分と古いみたいだが、ちゃんと使えるのか、それ?」
「その点は問題ないから、安心してくれ。さて…」
ヴィクトルヴィアはヴィショップの方に視線を向けて返事を返す。そして一端言葉を切ってから、改めて二人に問いかけた。
「とりあえずこちら側から言っておくことは、ここまでだ。特に他に何か無いのなら、そろそろ始めたいんだけどね」
ヴィクトルヴィアの発した問いに、二人は軽く頷いて答える。それを確認したヴィクトルヴィアが指を鳴らすと、隣に座っていたヤーゴが立ち上がり、馬車の床に敷いてあるカーペットを剥がした。
剥き出しになった木製の床の表面には、金属製の輪っかで出来た簡素な造りの取っ手が付けられていた。ヤーゴがその取っ手を引っ張ると床の一部が持ち上がり、人一人分が通れる程の穴が現れた。ヴィショップとエリザは立ち上がり、順番にその穴の中へと身体をすべり込ませていく。
「くそっ、随分と狭いな…」
「申し訳ないが、ここは主の緊急避難用でね。快適に過ごせるようには設計されていないんだ」
あちこちに身体をぶつけながら、ヴィショップは無理矢理に身体を床下の空間に潜り込もうとする。
ヴィクトルヴィアの言葉通り床下の空間はかなり窮屈だった。横の広さは人二人が入れるかどうかも怪しく、高さはうつ伏せになれば鼻先が天井に触れ合う程しかなかった。
「ほら、もっと詰めろ」
「無茶言うな、これ以上詰めたら、股に挟まれてタマが潰れちまうよ。俺はそんなのは御免だね」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと詰めろ。あと、もしこの中で発情したら、今の言葉を実現させてやるからな」
「誰が手ぇ出すかよ、てめぇみてぇなおっかねぇ女…っと、蹴るな、蹴るな!」
エリザのつま先で肩を蹴られながらも、何とかヴィショップはエリザが入れる分のスペースを確保する。スペースが空いたことを確認したエリザは床下に降りようとするが、不意に右手首を掴まれて、彼女の動きは止まった。
「…何だ?」
咄嗟に振り向いた先に居たのは、ヴィクトルヴィアだった。エリザは彼が自分の右手首を掴んでいることを確認すると、訝しげな表情を浮かべて問いかけた。
「いえ、ただ…御武運をお祈りする、と言いたかっただけだよ」
穏やかな笑みを浮かべて、ヴィクトルヴィアはそう返した。
「……ご期待には応えてみせるよ」
エリザは訝しげな表情のままそう返事を返して、右手を引いた。彼女が右手を引いたのを感じ取ったヴィクトルヴィアが手を放すと、エリザはそのまま床下へと消えていった。
「ううむ、狭いな。どうにかならないのか」
「ダイエットでもしたらいかがですかね? 痛ッ! この、アマ…ッ!」
エリザの姿が消えたいった床下へと続く穴から、ヴィショップとエリザの声が聞こえてくる。
ヴィクトルヴィアは少しの間床下へと続く床を眺めていたが、やがてヤーゴに支持して、その穴を塞がせた。
「…あんた、あいつのことどう思ってるんだ?」
穴が塞がれ、床下が暗闇に包まれるのを待ってから、ヴィショップはエリザに問いかけた。
「あいつというと、ヴィクトルヴィアのことか?」
「そうだ。何となくだが、あんたはあいつと距離を置いてるからよ」
暗闇の中から、エリザの声が返ってくる。ヴィショップが更に質問を飛ばすと、数秒待ってから答えが返ってきた。
「あいつの目的の根幹は、あくまでも『グランロッソ』との戦争を起こしかねない現政権を引きずり下ろすことだからな。求めている結果が同じでも、その意思は私達とは大きく異なっている。だから、必要以上に慣れ合うつもりはない」
「あくまで協力者としての関係を貫くと?」
「そういうことだ。それに、奴も所詮貴族に過ぎない」
どこか忌々しそうな口調のエリザの声が、ヴィショップの耳朶を打った。
「というと?」
「あいつと初めて会った時の言葉を覚えているか? その時、あいつは自分の仕事を何と言った?」
暗闇の中から発せられた問いに、ヴィショップは一瞬考えてから答えた。
「農業関係を手広くやっているとか言ってたな」
「曖昧に言えばそうなる。だが、実際にはこの国の農業の流通を牛耳る立場にあいつはいる」
エリザはそう言うと、ぽつりぽつりと語りだした。
「元々この国は寒さと太陽の出にくい気候のせいで、農作物が育ちにくい。そのためこの国では農作物の大半を少し前までは輸入で賄っていた」
「今はどうしてるんだ?」
「内戦で屈服させて複数の部族の内、農作業に適している土地を持つ部族から、割に合わない程の格安で仕入れているらしい。おかげでその部族は今では、兵士すら農作業に回さなければやっていけない状況らしい」
「それを主導してるのが、あいつって訳か。となると、この国で元から農作業やってた連中は…」
彼女の言わんとしていることが理解出来てきたヴィショップは、暗闇の中で小さく頷いた。
「当然、大打撃だ。何たって、向こうは利益を度外視した値段で品物を捌いてる。どう足掻いたって、既存の農民達が売り出す農作物はそれらと比べて割高になってしまう。それにそれらを仕入れる層の大半は一般市民だ。軍事費等に充てる為に税金が上がっている昨今で、わざわざ高い国内産を買う人間は居ないからな」
「行き付く先は、野垂れ死にか…」
「もしくは、身売りして奴隷になるかだ」
ヴィショップが言葉を零すと、エリザは忌々しそうに吐き捨てた。ヴィショップはエリザが居るであろう方向に視線を向けて、彼女に質問した。
「ところで、この国では奴隷ってのは合法なのか?」
「一応は違法ということになっている。だが、薄めた雑炊を一日二食しか食えないような賃金だけ渡されて一日中こき使われれば、殆ど奴隷と変わらないさ」
「法律の抜け穴、って訳か」
ヴィショップは唇を微かに吊り上げて、そう呟いた。
今の言葉から、この国に労働法の概念が殆ど存在していないのは、容易に予想出来た。もっとも、一応は奴隷の存在を認めていないところを見るに、全く存在していないという訳でもなさそうだったが。
「ところであんた、農民について随分と気にかけてるな」
「…何が言いたい?」
数秒の沈黙を破ってヴィショップがそう訊ねると、暗闇の中から警戒心を帯びたエリザの声が返ってくる。
「別に。ただ、あんたは農民じゃなくて料理人で、商売人だ。その点だけ考えれば、安い食材が入ってくる訳だしあの野郎に感謝してもいいんじゃねぇのか? まぁ、入ってくる食材がよっぽど不味いっていうなら話は別だが」
「……農民も料理人も同じこの国に生きる民だ。それを苦しめる存在を恨んで、何が悪い」
ヴィショップが苦笑を浮かべつつ答えると、少し間が相手からエリザの返事が返ってきた。
帰ってきた返事は、思わず暗闇の向こうにいるのはキリストかブッダなのかと疑いたくなるぐらいの壮麗美句だったが、無論それを丸々信じ込むようなヴィショップではなかった。
そして彼女の本心が関心を向けているのは、今や敗戦の徒をも巻き込んで一体どれほどいるのか想像もつかないような『スチェイシカ』に生きる国民ではなく、その上に君臨している存在であり、彼女の本心が義憤ではなくもっとおどろおどろしいものであるのにヴィショップが気づくまで、数秒と掛からなかった。
「お前、昔貴族と何かあったのか?」
ヴィショップがそう訊ねた瞬間、暗闇の中のエリザの動揺が、手に取る様に感じられた。




