Red Shadow
ヴィクトルヴィアの屋敷をあとにしたヴィショップが再びエリザと顔を合わせたのは、既に日がとうに沈みきった深夜のことだった。彼女の営む食堂、『雪解け亭』。その店内でヴィショップは、エリザと再会したのだった。
「話はどうだった?」
最初に会ったときと似た、露出の極端に少ない質素なドレス姿のエリザが、顔を隠す様にして読んでいた新聞を下ろしてヴィショップに問いかけた。
「まぁ、色々聞きたいことは聞けたよ。ところで、奴が味方している理由が『グランロッソ』に好感情を抱いているからだってのは、あんたも知ってたのか?」
「そのことなら、協力を申し出てきた時に既に聞いている。それがどうかしたのか?」
黒い外套にカウボーイハット姿のヴィショップが問いかけると、エリザは訝しげな表情を浮かべながら返事を返した。
ちなみに、ヴィクトルヴィアの時に引き続いてヤハドは連れてきていない。本人は付いていこうとしたが、ヴィショップがそれを止めたからである。その理由は、何らかの手違いが生じて二人同時にレジスタンスに捕まる、あるいは殺害されるのを防ぐ為だが、それ以上に感情的になり易いヤハドが居ない方が話が進みやすいことをだろうと、ヴィショップが考えたからであった。
とにもかくにも一人でこの場に訪れたヴィショップは、エリザに対して「そうか」とだけ返すと、視線をエリザから店内へと移し、話題をすり替えた。
「ここでやるのか?」
「いや、やるのは別の場所だ。ここはただの、出発点に過ぎない」
ヴィショップの質問に、エリザは首を横に振って答えた。
今、二人がこの場所を訪れたのは、ヴィクトルヴィアの屋敷でエリザが受け取った情報、すなわち国王の根城であるトランシバ城への侵入経路を知る男がとある強制収容所に居る、という情報を他のレジスタンスのメンバーに知らせるべく、レジスタンスの会合の出席する為である。また、それと同時にヴィショップの顔見せも兼ねているが、今手元にある情報の重要度を鑑みるにそれはオマケ程度の扱いになりそうではあったが。
ヴィショップはエリザの返答を受けると、彼女の言葉の真意を確認しようと問いかけた。
「というと?」
「地下のトンネルを通っていく」
「…また地下か」
薄々感づいていたとはいえ、思わずヴィショップの口元に苦笑が浮かぶ。エリザはそれを見ると、屈みこんで床を剥がしながら、言葉を発した。
「先人たちが切り開いてきた、最も安全なルートだ。それが嫌なら、地上から言って治安維持軍に捕まっちまえ」
「別に嫌だとは言ってないさ。ただ、どこでもやり口は同じだと思ってな」
ヴィショップの頭の中に、武器を売り込みにいった東欧のテロ組織の根城が思い出される。世界有数の大国に喧嘩を撃っている彼等もまた、街並みの真下に蟻の巣の様に拠点を築き上げていた。技術も常識も、それどころか世界そのものが違うというのに、やり口はあまり変わらない。その事実に、ヴィショップは思わず苦笑を漏らさずにはいられなかった。
人間はどこまで行っても人間か、と。
「他にもこんなことをしていたことがあるのか?」
「…まぁ、そんなところだ。それより、早く行くとしようぜ」
「…そうだな。じゃあ、行くとしよう」
エリザの言葉で思考から脱却したヴィショップは、エリザの足元の縦穴の視線を移して、早く動き出す様に促す。エリザはそれを受け入れると、魔弓の納められたホルスターの付いたガンベルトを身に着け、カンテラ型の神導具とヴィクトルヴィアから受け取った封筒を持つと、縦穴の中に飛び降りた。ヴィショップは縦穴に近づくと、彼女に倣って縦穴に飛び降りる。
縦穴はヴィクトルヴィアの時とは違って浅く、特に苦も無く着地出来た。ただ、やはり地下なだけあって光源は殆ど無く、唯一頼れるのはエリザの手に握られたカンテラ型の神導具だけだった。
「行くぞ。離れるなよ」
「精々、あんたのケツ拝みながら歩かせてもらうよ」
「変なことしたら腕、折るからな」
床の裏側についている紐を引っ張って縦穴を閉じたエリザは神導具を掲げて、ヴィショップにも見えるように奥へと続く通路らしきものを照らしながら、顎をしゃくってついてくるように合図する。それにヴィショップが軽口で応えると、彼女は冷たい声音で一言告げて、歩き出した。
流石手作りとでも言うべきか、通路は狭い上に凹凸があり、かなり足に優しくない造りになっていた。その上灯りは神導具のみで満足に前方を確認することも出来ず、そればかりか時折分かれ道まで存在していた。だが、先導を務めるエリザは、全くと言っていいほど立ち止まることなく歩き続け、ヴィショップは置いて行かれまいと歩調を速めながら、その様子に感嘆していた。
「もしここで迷ったら、どうなるんだ?」
凹凸に躓いてうっかりエリザの尻に触れる、等といった沽券に関わる失敗だけは犯さないように注意して進みつつ、ヴィショップはエリザに訊ねた。
「道に明るくない奴が探そうとしない限り、野垂れ死にするんじゃないか?」
「地図とか持ってないのか?」
「頭の中にある」
「…じゃあ、あんたがしわだらけの婆さんになる前に、ここを抜けないとな」
「言ってろ、無精髭のクソオヤジ」
「今は二十代だ」
とりとめのない会話を交わしながら、二人は通路を進んでいく。そうして十数分程歩いたところで、二人の前に木製の扉が現れた。
先を進むエリザは扉に近寄ると、拳で二度扉を軽く叩いた。
「矢じりの先端は鷹の頭へ」
「墜ちた鷹の喉笛に猟犬の牙を」
扉の向こう側から掛けられた声にエリザが応えると、ゆっくりと扉が開かれた。
エリザは扉の向こう側に立つ、カンテラ型の神導具を持ち腰から手斧をぶら下げた男に会釈すると、扉を通った。ヴィショップもそれを真似して扉を抜けたが、その際男が向けていた視線には露骨な疑心が込められていた。
「来たか、エリザ」
「あぁ。急に呼び出して済まない」
扉を抜けた先は、ちょっとした部屋になっていた。置いてある家具こそ中央の古ぼけた円卓のみだが、広さの方は手動で掘ったにしてはそれなりの広さがあった。円卓の中央には神導具ではなく燭台が置かれ、八人の人間が腰掛けていた。その内の一人はかつて『雪解け亭』で出会った年配の男だった。
円卓の一席に座っている、『雪解け亭』でテメウスと呼ばれた年配の男の掛けた声に返事を返しながら、エリザは身に着けていたガンベルトから魔弓を抜き取る。そして手斧なりナイフなりを身に着けて円卓の周りをに立つ四人の男の内の一人に魔弓を手渡してから、空いている席に座った。
ヴィショップは、エリザと同じ様にホルスターから魔弓を抜き取って近くに居た男に手渡しつつ、円卓についている人々を確認する。その面々は年齢も性別もバラバラであり、まだ学生にしか思えない青年も居れば、家で編み物をしているのがお似合いの妙齢の婦人も居た。
ただ、その一方で全員に共通していることもあった。
それは、全員が全員、本当の意味で暴力慣れしている訳ではない、という点だった。建前なんてものが守ってくれない状況になった時、一切の躊躇も無く暴力を振るえる人間は自分を除けばこの場に一人も居ない、その言葉が、彼等を一目見た瞬間にヴィショップの脳裏を過ったのだ。
(これじゃ町内会の定期集会だな…)
円卓に座る彼等を見渡したヴィショップは、心中で溜め息を吐く。予想出来たこととはいえ、これでは実際に市内で暴動を起こしたとして、どれだけ役に立つのかは疑問の残るところであった。何せ、踏み砕くべき頭蓋は彼等の憎しみが向く対象だけとは限らないのだから。
ヴィショップは今度は実際に小さく溜め息を吐いてから、円卓に座るべく歩き始める。しかし、円卓に近づいたところでこれ以上空いている席が無いことに気付くと、再び溜め息を吐いてエリザの後ろに立った。
「そこの人が、『コルーチェ』の手引きで来たという…?」
「そうだ。名はヴィショップ・ラングレン」
眼鏡を掛けた老婦人の問いに、エリザが答える。ヴィショップは質問した老婦人に向かって小さく手を振ってみたが、すぐに視線を外されてしまった。
「その若造、本当に信用できんのかいの? 犯罪者共が連れてきた男じゃろ?」
今度は、大柄な体つきの老人が、不審そうな視線をヴィショップに向けてエリザに問いかけた。その老人の体格が脂肪によって形成されたものではないのは、恐らくヴィショップでなくとも一目で理解出来ただろう。
「その話は既に済んだ。今ここで話すべきことではない」
「済んだと言っても、判断を下したのはオコーネルさんとシュレッデンさんの二人だけでしょう? 我々はその判断に賛成するとは、一言も言っていないのですがね」
老人の問いに答えたのは、エリザではなくテメウスだった。すると、今度は学生にしか思えない見た目の青年がテメウスの言葉に反発する。
「この男は、充分な実力を示した。それは皆にも見せただろう!」
「確かに見ました。しかしシュレッデンさんの話と見せられた品から導き出せるのは、そこの男が盗賊三人の首を持ってきたという事実だけです。本当にその男が盗賊三人を一人で排除した証拠とするには、少し弱いと思いますが?」
「ヴィショップは私との勝負に勝った、これで充分だろう、マッコイ!」
痺れを切らしたエリザが苛立ちの籠った声を上げる。その声に、マッコイと呼ばれた青年は驚いた様な素振りを見せたものの、すぐに持ち直して反論した。
「オコーネルさんは女性です。だからいくら貴方が魔弓の扱いに長けていても、男性相手では限界というものが…」
「盗賊の首見てゲーゲー吐いてたガキが、舐めたこと台詞を吐くな!」
「こ、構造上男性と女性では男性の方が筋肉が多いんです、だから…」
「じゃあ、あんたは一体なんなんだ、ヒョロヒョロのがり勉君? 女の子と喧嘩しても判定負けしそうなあんたは、男じゃないってか? ええッ!? 学院卒業してるからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
「い、いくら何でも女の子には負けませんよ! てか、女性にだって負けるつもりはありませんから!」
どうやらマッコイの一言は地雷を踏み抜いたらしく、円卓を挟んでエリザとマッコイは激しい言い争いを始める。他の円卓の面々は、ある者はそれを囃し立て、ある者はおろおろと手をこまねき、ある者は額に手を置いて呆れかえり、ある者は何とか止めようと声を上げていた。
(訂正する、これじゃ小学校のホームルームだ…)
そんな有り様に醒めた視線を投げかけながら、ヴィショップは心中で悪態を吐いた。そして、近くで茫然とその光景を眺めている男に歩み寄ると、彼が手に持っていた白銀の魔弓を掠め取り、グリップを右手で握り込んで人差し指を引き金に掛けた。
「あっ、オイ…!」
魔弓がヴィショップの手に納まってから、ようやく自分の手から魔弓が掠め取られたことに気付いた男は、腰に差しているショートソードを抜き放とうとするが、その時点で既にヴィショップは魔弓を天井に向け、引き金に掛けていた人差し指に力を込めていた。
そして直後、鞘走りの音を容易く掻き消して、魔弓が低く重々しい轟音を奏でる。
揉めていたマッコイとエリザはもちろんのこと、他の円卓に座るメンバー、そしてその周りを固める四人の男達も、ピタリと動きを止めてヴィショップへと視線を向けた。
ヴィショップは視線だけを動かして周囲を見渡し、全員の視線が自分へと向けられていることを確認すると、つまらなそうに鼻を鳴らして、魔弓を下ろした。
「き、君! 一体何の真似……ヒイッ!?」
ヴィショップの予想に反して、茫然と彼のことを眺めていたマッコイが最初に正気を取り戻して口を開いた。
ヴィショップは僅かに感心したようにまなじりを上げると、手に持っていた魔弓を円卓に向かって放り投げる。放り投げられた魔弓は弧を描いてマッコイの目の前に落ちて派手な音を立て、それに驚いたマッコイは情けない声を上げた。
ヴィショップはそれを見て、小さく鼻で笑う。そしてショートソードを中途半端な構えで構えたまま茫然としている男から離れ、円卓に近づきながら口を開いた。
「取り敢えず、俺が組織に入るかどうかで揉めているようだが、そいつに関してはエリザとそこのじいさんが言ったように、既に取り引きが成立してる。だから、今更グチグチ言ったところで意味が無い」
「わし等はそんな話は聞いていない。レジスタンスの動向は、わし等九人全員の総意を持って決められる。そしてその内七人は、貴様の加入に反対しとる」
「あんた等を殺そうと思えば、今出来た。取り敢えず今は、そいつで納得しとけ」
大柄の老人がドスの効いた声でヴィショップに話し掛けるが、ヴィショップはそれを、まるで駄々をこねる子供を扱うかの様に一蹴すると、エリザの真後ろに立って、彼女の座る椅子の背もたれに両手を置いた。
「とにかく、今はそれよりも重要な話がある。…そうだよな、お転婆姫?」
エリザの後頭部を見下ろしながら、ヴィショップは問いかけた。エリザは顔を上げ、ヴィショップの身体に後頭部を預けるような格好でヴィショップを見上げると、溜め息を吐いてから、口を動かす。
「次からはもっとマシな方法を取れ。それと、その呼び方も止めろ、不快だ」
「お気に召した様で何よりだよ」
エリザは目を細めてそう告げると、椅子を引いて立ち上がる。ヴィショップは彼女が椅子を引くのに合わせて後退しながら軽口を叩き、そして先程魔弓を掠め取った男の真横まで下がった。
「今回、皆に集まってもらったのは、そこの無駄に頭の回る無頼漢を紹介する為だけではない。それとは別に、我々にとって大変重要な情報が手に入ったからだ」
「…一体、どんな情報なんだ?」
エリザの言葉を受けて、先程の揉め事を呆れ混じりの表情で傍観していた精悍な雰囲気の男が問いかけた。
エリザは頷くと、手元に置いておいた封筒を男の方に滑らせる。
「ヴィクトルヴィアに依頼していた調査が終わった。例の噂は、どうやら真実らしい」
エリザがそう告げた瞬間、円卓に座るメンバーの間でざわめきが起こる。
封筒を受け取った男は中の書類を取り出して目を通し始め、その左右に座っている妙齢の婦人と、他人からの悪意に鈍感そうな顔つきの太めの男が、顔を覗き込ませて書類を見ようとする。それに引きずられて、マッコイの目の前に放り投げられた魔弓に手を伸ばそうとしていた大柄な老人とマッコイが、席を立って書類を見ようとし始めたので、エリザは軽く両手を打ち鳴らして二人を席に着かせ、視線を自分へと集中させた。
「その書類に関しては後で呼んで貰うとして、取り敢えずヴィクトルヴィアからの報告を簡潔に纏めたものを、今ここで話したいと思う。まず、ドルメロイ・オブリージュの居場所についてだが、彼は現在旧カルトリコ族の領土、現『サウマン州』の『ララルージ』に建つ強制収容施設に身分を隠して収容されていることが判明した」
そこまで話したところで、早速円卓のあちこちからエリザへと質問が飛び始める。
円卓の面々に向けて話すエリザを黙っていたヴィショップは、円卓の方に視線を向けたまま先程魔弓を掠め取った男に近づいて、男の方を小突く。小突かれた男は警戒した様子でヴィショップに向き直った。ヴィショップは男を横目で見ると、再び視線を円卓の方に戻してから、今しがたエリザの口から出て来た地名について訊ねた。すると男は口をポカンと半開きにした後、仕方なさそうに話し始めた。
「『サウマン州』ってのは、この地の原住民だったカルトリコ族の領土だった場所だ。二年前の内戦終結以降、今の名前になってる。最初は、住んでいるのは原住民と彼等の監視と統治の為に送られている軍隊、それと商売の為に移住した連中ぐらいだったんだが、今では中心部で食いはぐれた人間が移住先にし始めてるらしい。『ララルージ』ってのは『サウマン州』の中心都市だ」
「強制収容施設ってのは?」
「内戦時に戦闘に参加していた人間の生き残りだったり、内戦終結後も国に反抗的な人間を連行して、収容してる施設さ。行ったことはないが、聞いた話によればそこは、収容した連中を時間を掛けて野垂れ死にさせる為の、地獄染みた場所らしいぜ」
「ふぅん…」
男の説明を聞いたヴィショップは、曖昧な返事を返して、円卓での話へと意識を戻す。ヴィショップに説明していた男はその態度を見て、聞こえる様に舌打ちしてそっぽを向いたが、ヴィショップがそれにとりあうことはなかった。
「で、そこにドルメロイが居るのはいいとして、どうやって攫ってくんじゃ?」
「それについては、向こうから方法が提案されている」
大柄な老人の問いかけにエリザは答えると、円卓の全員に聞こえる様に答えた。
「三日後の“商会”に参加するヴィクトルヴィアの馬車に紛れて施設内に侵入、本来の目的のカモフラージュ及び施設内の撹乱の為に収容されている人間を無差別に解き放った後、混乱に紛れてドルメロイを連れて撤退、というものだ」
「そんなに上手くいくものなんですかねぇ…? だって、私達、施設の形も何も知らないじゃありません?」
エリザがヴィクトルヴィアから提案された作戦を告げると、妙齢の婦人がそれに疑問を投げかけた。
「施設の構造に関してはそれらの書類と一緒に受け取っている。警備の巡回ルートや時間も割り出されており、この作戦に賭けてみるのも悪くはないと思う。ただ、実際に施設に侵入する人間が二人に絞られるのが問題だ」
「二人? どうして二人なんだ?」
書類を渡された精悍な青年が、エリザに訊ねた。
「何でも、馬車に隠せる人数の限界が二人らしい。だから、この作戦で行く場合、ただ腕が立つだけでなく、忍び込むことにも長けた人間じゃないと駄目だ」
「忍び込むこと、か。…どうした。エリザ?」
エリザの言葉を受けて、テメウスが険しい顔付きで考え込む。が、そんな彼の視界が何やら困った様な様子で後頭部を搔くエリザの姿を捉え、テメウスは考えもそこそこにエリザに話し掛けた。
「いや…ヴィクトルヴィアの方から、この作戦に参加する人間を一人、推薦されているんだが…」
「ほう、そいつは話が早いのう。で、誰なんじゃ?」
大柄な老人に訊ねられたエリザは、数秒の逡巡の後に、ある人物に向かって人差し指を向けた。
「……俺、か」
彼女が指差したその先に立っていたヴィショップは、左右をキョロキョロと見回しすと、困った様な溜め息を吐いてそう漏らした。
その瞬間、エリザの指先を追った大柄な老人の笑顔が、一瞬にして歪んだ。
エリザとヴィショップがレジスタンスの会合に出席するより少し前、『グランロッソ』の『ルィーズカァント領』中心都市、『パラヒリア』に軒を構える唯一のギルド、『タル・ティル・スロート』にの内部に二つだけ存在する、犯罪者収容用の狭い牢屋。今までは、精々が騎士団に放置された酔っ払い程度しか入らなかったこの牢屋に、一人の肥満体の男が入っていた。
男の名は、ドーマ・ルィーズカァント。この『ルィーズカァント領』の領主だった人物であり、同時に何人もの少女達を毒牙に掛けてきた罪を暴かれて裁きを待つ犯罪者へと墜ちた人物でもあった。
「クソッ…何で…どうして、こんな目に…」
冷たい石造りの床と鉄格子の填められた窓から吹き込んでくる風に体温を奪われながら、ドーマは血液や汗等で薄汚れてしまった服を右手で引き寄せる。そんな彼の服の左袖はぽっかりと空洞になっており、ドーマは服を引き寄せた際に空洞になった左袖を見ると、もうどれ程流したかも分からない涙を流し始めた。
「クソッ…クソッ…私の腕…ハインベルツ…カタギリ……早く助けにこォいッ!」
蚊の鳴く様な声で呟いていたドーマの声は、最後の言葉を吐く瞬間にその声量を爆発させる。
そんな彼の呪詛染みた唸り声は、鉄格子の向こうで監視役をしていたギルドメンバーの女性を叩き起こすには充分過ぎる程であった。
「夜中に騒ぐんじゃないわよ、変態デブ!」
「ぐふっう!?」
女性は弾かれたように起き上がって周囲を見渡すと、口元の涎を拭いてから、近くに落ちていた酒瓶をドーマに向かって投げつける。酒瓶を回転しながらドーマに向かって飛んでいき、上手い具合に鉄格子をすり抜けてドーマの顔面へと命中し、ドーマは思わず苦悶の声を漏らした。
「うっ…ここから出たら、覚えてろ…へ、兵を引き連れて貴様なんか…!」
檻に放り込まれた初日に、監視の男によって圧し折られた鼻に奔る激痛に耐えながら、ドーマは憎々しげに女性を睨み付ける。一方の女性は何か言おうとしたものの、面倒臭くなったのかそのままそっぽを向いてしまった。
「ったく、明日になったら『クルーガ』の方の騎士団が引き取りにくるってのに…」
鉄格子の向こうから女性の愚痴が聞こえてくる。
ドーマは目に涙を浮かべて鼻を両手で押さえながら、鉄格子から離れて壁際へと寄る。その時、鼻孔から流れる血が手や洋服の袖を汚していたが、それを彼が気にした様子は無かった。というよりは、気にするだけの余裕すら彼には残されていなかったのか。
「ぐぞう…っ! みでろよ、今に…ッ!」
壁に背中を預け、両脚に顔を埋めながら、ドーマは涙混じりの悪態を吐く。
「……ん?」
丁度その時だった。
「が…っ…ぐげっ…ごあっ…!?」
鉄格子の向こうから微かに聞こえる声と、何か重いものが倒れ込んだような音をドーマの耳が聞き取ったのは。
「ど、どうかしたのか…?」
ドーマは壁に預けていた背中を起き上がらせると、四つん這いの状態で這いながら鉄格子へと近づいていく。そして鉄格子に指先が触れるか触れないかの所まで来たところで、彼の視界にある光景が飛び込んできた。
「ヒッ…!」
冷たい牢屋の中にドーマの悲鳴が響き渡る。
鉄格子の近くまで這ってきたドーマが見たもの、それは床に横たわる、先程彼の顔面に酒瓶を投げつけた女性の死体、しかもどういうことか肌色だった肌が変色し、まるで木の枝と見間違える程に痩せ細った、ミイラ状の死体だった。
そのつい数秒前までの姿など見る影も無いその惨状に、悲鳴を上げたドーマはひっくり返るようにして尻もちをつく。そして口をパクパクと動かしながら女性の死体を見ていたが、やがて彼はその女性の死体にある一人の人間が立っていることに気付いた。
「な、何者だ…?」
いや、それが本当に人間であるのかどうかは、ドーマには確信が持てなかった。何故ならミイラ状になった女性の横に立っているのは、派手な金刺繍の施された深紅のローブを身に纏い、首元からじゃらじゃらと銀の装飾品を大量にぶら下げ、その上目深にフードを被り鳥を模した面を被るという、奇怪な出で立ちをした人間だったのだから。
その仮面の人物はまるでドーマの言葉に反応したかの様に彼の方に振り向くと、ゆっくりと彼の入っている牢屋に向かって歩き出した。
「ま、待て! 止まれ! く、くるんじゃないっ!」
無言でにじり寄ってくるその姿は、ドーマに根源的な恐怖を植え付けた。
ドーマは甲高い声を上げて手をブンブンと振り回すと、必死の形相で牢屋の奥に向かって這って行く。
仮面の人物はゆっくりと牢屋に近づきながら、右手をかざす。そして、牢屋の奥の壁に身体を擦りつける様にしてまで離れようとしているドーマに右手の指先を向けた。
「ひっ、ひいいいいいいいいいっ!」
叫び声を上げながら、ドーマは死を覚悟して両目をきつく閉じた。そんな彼を、仮面の人物は黙って見据える。
そして仮面の下で短い言葉を呟いた瞬間、
「ぎっ、ぎゃあああああああああああっ!」
ドーマの口から、喉が張り裂けんばかりの絶叫が上がる。
それと同時に、脂肪がたっぷりとついたドーマの身体がみるみる痩せ細り、肌の色はどんどん土気色へと変貌していく。ドーマの上げる絶叫も彼の身体の変異とともにその勢いを失っていき、十秒と経たぬ間に、その絶叫は途切れた。
最早最後の方は蚊の鳴く声にしか聞こえなかったドーマの叫びが潰えたことを確認すると、仮面の人物は右手を下ろす。そして牢屋の前で横たわっている女性と同じく、ミイラとしか思えない姿になってピクリとも動かないドーマを見下ろすと、振り向こうとして一歩足を引いた、その瞬間だった。
「オイオイ、一体コイツはどうなってんだァ?」
アルコール混じりの息と共に、おおよそこの場に似つかわしくない、どこか気の抜けた声が発せられたのは。




