波乱なれ、新大陸
「ここが、『オートポス』か…」
船から伸びる渡し板を渡って木造の桟橋に降り立ったヴィショップは、桟橋の向こうに見える灰色の町並みを眺めて、小さく呟く。他にも二ケタにも及ぶ数の船が停泊している、『スチェイシカ』きっての港町『オートポス』の桟橋一帯は、時刻は既に深夜ということもあって暗闇に包まれて神導具が無ければ足を踏み外して海に落ちそうな程に暗く、それと同様に桟橋の向こうに見える『オートポス』の街並みにも殆ど灯りの灯っている建物は存在していなかった。
『グランロッソ』のものより幾分か冷たさの増した風が肌を撫でる中、ヴィショップは視線を桟橋の向こうの街並みから、桟橋の中腹辺りで会話しているコートの男とプルートへと向ける。その視線の先では、プルートがコートの男に小さな袋を手渡していた。そしてそれが、一種の賄賂であることをヴィショップが見抜くまで、一秒すら必要としなかった。
「オイ、何を立ち止まっている、米国人。さっさと進まないか」
渡し板を渡り切ってすぐの所でヴィショップがその光景を眺めていると、背後からヤハドの不機嫌そうな声が発せられて鼓膜を揺さぶる。
結局、船に乗っている間中ヤハドが船酔いから醒めることは無かった。その為か、心なしかヴィシィショップに対する口調が弱々しく感じられる。もっとも、船に組み込まれた魔導具によって風向きの心配することは無いとはいえ、それでも二十時間近い時間の掛かった航海の中で終始気分を悪くしていたのだから、それも当然といえば当然の話だが。
「だらしねぇなぁ、おい。よくそんなんで今まで生き残れてこれたなぁ」
「う、うるさい。貴様には関係……うっ…」
ヴィショップがヤハドの方を振り向いて呆れ顔を浮かべる。顔を青く染めたヤハドは何とか言葉を返そうとするが、言葉の途中で表情を固めると、そのまま渡し板から顔を突き出して海に胃液を吐き出した。
ヴィショップはそんなヤハドの有り様を見て溜め息を一つ漏らし、ヤハドに背を向けて歩き始める。そして途中、プルートと話していたコートの男とすれ違ってからプルートの許まで進むと、コートの男の背中を眺めながら煙草を吸おうとしているプルートにマッチの箱を差し出した。
「…………」
プルートは差し出されたマッチの箱を無言で見つめ、そのまま一切の言葉を発さずにヴィショップの手の中のマッチの箱を受け取る。それを見てヴィショップは苦笑を漏らすと、自分も煙草を一本取り出して口に咥え、右の掌をプルートに向けてかざす。煙草に火を点け終えたプルートは横目でヴィショップの右の掌を見つめた後、マッチの箱をヴィショップの右手に向けて軽く放り投げた。
「今の奴は?」
恐らくは故意的なものだろうが、狙いを外してやや海の方に向かって飛んできたマッチの箱を右手を伸ばしてキャッチすると、ヴィショップはマッチを一本取り出して火を灯し、煙草の先端に近づけながらプルートに訊ねる。
「この港の今日の警備当番さ。今の政府で本当に甘い汁を吸えるのは、それなりの地位に居る奴だけだからな、案外、賄賂が通じる奴は居るもんだ。尤も、向こうは航海禁止時間内に海に出たただの漁師だと思ってるがな?」
「航海禁止時間? んなもんがあんのか」
火を点け終わったマッチを海に投げ捨てて、ヴィショップが聞き返す。プルートは口から煙を吐き出すと、煙草を指で挟んで口元から離してから、返事を返した。
「何でも、国境警備の一環らしい。今まではそんなのは無かったんだが、現在の王になってから作られた。警備してる奴等の疲労や漁師共の生活苦を度外視すれば、まずまずの成果を上げてるそうだ」
「途中出会った軍隊の船もその一環か?」
そろそろ『オートポス』の姿が見えてきた辺りで唐突に現れて停船するように要求してきた、『スチェイシカ』の国旗である、二本の鎌を脚で持っている鷲の絵が描かれた旗を掲げた大型船の姿を思い出しながら、ヴィショップはプルートに訊ねる。あの時は結局、プルートが偽造した航海許可証を見せて切り抜けた。
「いや、あれは昔からだ。ああやって一日中領海内を巡回して、手当たり次第に出航許可証を確認して回ってる。何とか出会わないようにしようにも、それが出来ない様な時間を計算して動いているから、必ずどこかで引っかかっちまう。それにやましいことが無くても、一定間隔を空けて何隻も巡回しているせいで、何回も引っかかって時間ばっかり食っちまうから大抵の人間から嫌われてる、由緒正しきクソ共だ」
「だが俺達は一回しか会わなかったぞ?」
「そこは知恵の見せ所ってやつだ。奴等に連行されずに切り抜けるのに肝心なのは、鉢合わせる時間だ。航海禁止時間内に出会ったら問答無用で連行、拒否すれば沈められてしまうから、航海禁止時間になる前に鉢合わせるように調整して、その後一気に駆け抜けるのが正解だ。無論、奴らの目を欺ける完成度の偽造許可証や、巡回ルートの情報を仕入れるのは必須だがな」
「ふぅん、中々に面倒臭いな」
ともすれば“元の世界”に匹敵するかもしれない海の警備の厳重さに、ヴィショップは少し意外そうな表情を浮かべる。それと同時に、『グランロッソ』側の、殆ど警備など無い等しい海上警備の有り様を思い出して、両国の温度差の違いを実感した。
そんな風に会話を交わしていると、不意にプルートが視線を後方へと向ける。それに釣られてヴィショップも視線を後ろへと向けると、それぞれ荷物を担いだ、海に捨てた女を除いた三人の『フィティッシュ』でカードゲームをしていたメンバー、そしてその他二人の『コルーチェ』のメンバーと、小屋から連れてきた二人の少女、そしてその少女達に心配そうな視線を向けられている、未だに血色の悪い表情を浮かべたヤハドの姿があった。
「揃ったな。では、出発する」
プルートは部下達に一通り視線を通すと、『オートポス』の市街地に向かって歩き始める。ヴィショップは、背後でプルートの部下達が歩き始めたのを感じつつ、プルートの後に続いて歩き出した。
「このままこの国の首都に向かうのか?」
「いや、『リーザ・トランシバ』に向かうのは日が昇ってからだ」
「遠いのか?」
「寧ろ近い。歩いても大して時間は掛からないだろう。だが…」
「あぁ、外出禁止令でも出てるのか」
「まぁ、そんなところだ。既定の時間以降は、滞在している街の外に出ることは出来ない。出ようとしても、門の所で兵士に止められる」
ヴィショップが先んじて理由を言い当てると、プルートは前方へと向けていた視線を一瞬ヴィショップに向けてから、返事を返した。
ヴィショップはプルートと同じ様に視線を前方に向け、顎の無精髭を触りつつ彼の話を聞いていたが、不意に視線をプルートに移すと、僅かに唇の端を持ち上げながら問いかけた。
「でも、通り抜ける手段はあるんだろ?」
「……どうだろうな」
表情を微動だにさせぬまま、プルートは返事を返す。ヴィショップは黙々と前だけを見て歩き続けるプルートの顔から視線を外すと、小さく笑みを漏らした。
「まぁ、いいさ。別にそこまで急いでレジスタンスに会いたい訳でもねぇ。ただ、遅すぎなければいいだけだ」
「ならいいだろう。この話は終わりだ」
プルートはそれだけ告げると、僅かに歩くスピードを速めてヴィショップとの距離を稼ぐ。
そうしている内に、いつの間にか足元は板張りの桟橋から砂利が広がる地面へと変わっており、周囲は深い黒に染まった海から、石造りの建物が建ち並ぶ灰色の光景へと変わっていた。
「殆ど閉まってるが、行く当てはあるのか?」
「組織の傘下の店の内、生き残ってるのがもう少し行った所にある。取り敢えずそこを目指す」
「そうか。まっ、任せるよ」
前方を行くプルートに声を掛けると、ヴィショップの方に背を向けたままプルートが返事を返す。ヴィショップは短く返事を返すと、後は黙々とプルートの後をついていった。
そうして歩くこと十数分。途中で何回か曲がって表通りを抜け、路上に寝転んで睡眠を取っている人物がちらほらと見受けられるようになってきた裏通りを進んだ末に、ヴィショップ達は目的地である、年季の入った酒場の目の前へと辿り着いた。なお、その最中に協会らしき建物を二つ見受けることが出来たが、ヴィショップはそれに訝しげな視線を向けただけで、プルートに質問することはなかった。
「“『ゴール・デグス』。お食事、ご宿泊の他、『リーザ・トランシバ』までの駅馬車もご用意しています。値切りは要相談”、ねぇ…」
酒場の二階部分に掛けられた看板に書かれている文字を、ヴィショップは口に出して読み上げてみる。 そんなことをしている間に、プルートは正面の扉を開いて酒場の中に入っていく。酒場の灯りを点いておらず、窓から見える店内の光景は真っ暗で、扉には“閉店”の文字が書かれたプレートが下げられていたが、それを気にした様子は一切無かった。
その後ろにそれぞれ荷物を持った部下達が続いて酒場の中に入っていくのを見たヴィショップは、彼等の最後尾で未だに足取りをふらつかせているヤハドに視線を向けると、呆れたように小さく息を吐き出して酒場の中へと入っていった。
灯りの灯されていない酒場は、窓から差し込む月の光と自分たちが持ち込んだランプ型の神導具の光があるとはいえかなり暗かった。ヴィショップは万が一のことを予想してホルスターの魔弓のグリップに神導具を持っている左手とは逆の手の指の腹で触れつつ、神導具と月の光に照らされてぼんやりと姿を浮かび上がらせているプルート達の姿を、入り口の近くに立って眺めた。
暗さのせいではっきりとは分からないものの、酒場の構造は『フィティッシュ』と酷似していた。ヴィショップより一足先に入ったプルート達は荷物を床に置くと、二人ほど引き連れてプルートは奥の階段に向かい、残りのメンバーは持っていた神導具を丸テーブルやカウンターの上に置くと、カウンターの裏に消えた一人を除いてくつろぎ始めた。
「…ここが、今日の寝床か?」
ヴィショップがその光景を淡々と眺めていると、弱々しい声と共に扉が開かれ、ヤハドが姿を現す。
「そうみたいだな。それにしてもお前、本当に大丈夫か?」
「やかましい。一晩寝れば何とか…」
二人の少女に不安気な眼差しを向けられながら、弱々しい足取りで入ってきたヤハドに、ヴィショップは呆れを通り越して憐憫の色すら孕んだ表情を浮かべて声を掛ける。それに対してヤハドが、明らかに覇気の掛けた視線でヴィショップを睨みつつ、言い返そうとした瞬間、天井からぶら下げられていた何個かの神導具が光りだし、二人は眩しさを思わず顔を背けて目を細めた。
「さて、まず挨拶から始めようかしら」
顔を再び前方へと向け、段々と瞼を開いていくヴィショップとヤハドの耳に階段の方から、聞き覚えの無い女性のものらしき声が飛び込んでくる。
それに反応して二人が視線を奥の階段へと向けると、そこにはプルートの他にもう一人、緑色の髪を腰まで伸ばし、男物の黒い礼服に身を包んだ、四十代半ば程の女性が立っていた。背は女性にしてはかなり高く、180センチはある。整った顔立ちからは美しさ以外にも、まともな生活をしているだけでは得ることが出来ないような強靭さを見て取ることが出来、特に双眸には、大多数の人間が一見しただけで見抜くことは出来ないであろう程に隠された、凶暴な光が微かに瞬いていた。
「初めまして、せっかくの商売を台無しにしてくれたチンカス野郎の御二方。私は、『コルーチェ』の頭領を務めさせてもらっております、レイア・シルバスカと申します。以後、お見知りおきを。……もっとも」
にっこりと表情に笑みを張り付けつつ、自分の名を語るレイアの姿を無言で見つめるヴィショップとヤハド。その二人の返答を待たずにレイアはゆっくりと右手を持ち上げると、
「以後が有れば、の話ですが」
頭の少し上辺りまで掲げた右手の指を鳴らした。
そして、パチンという乾いた音が店内に響き渡った瞬間、指を鳴らした彼女を除いた、その場に居合わせた全員の手が弾かれたように動いた。
ヴィショップ達が『スチェイシカ』へと上陸していたその頃、『パラヒリア』に残ったレズノフは、街の中心部に建てられた大集会場、その吹き抜けになった二階部分の柵にもたれ掛り、真下の一階の様子を眺めながら酒の入った瓶を煽っていた。
ぼんやりと光る神導具の灯りのみが光源となる中、柵に背中を預け、頭を柵から投げ出しつつ捻って階下へと視線を向けるレズノフの視界には、『パラヒリア』に駐屯している騎士達がその装備の全てを没収された状態で集められていた。
最初、騎士団達は全員詰所に集められていたのだが、腕を切り落とされて錯乱状態に陥っていたドーマから何とか聞き出した証言によって、少なくとも騎士団長が今回の件に関わっていたことの裏付けが取れたので詰所の捜査を行う為と、詰所では騎士達を一カ所に集めておくことが出来ず、監視の目にも限界が有る為、イベントや会議の際に使用している大集会場に騎士達を移したのだった。
瓶の口を指の間に挟んで前後に軽く振りながら、つまらなそうな視線を向けるレズノフの眼下の騎士達は、時間が遅いことと突然の拘束で神経を擦り切らしていたことが相まって、ほぼ全員が毛布に包まって眠りに落ちていた。もっとも、大集会場であっても騎士団全員を収容するにはいささか足りない為、階下は足の踏み場も無い状況になっているが。
「……そろそろ一段落着いたかァ?」
呆けた表情で一階の様子を眺めていたレズノフは、不意にそう呟くと柵から背中を離す。
レズノフが今この場に居るのは、監視役を任されたからではない。ただ単に、つい先程まで行われていた宴会の雰囲気に耐えられなくなったからだ。
屋敷での一件にひとまずケリがつき、今回の事件の顛末を大集会場に集めた市民達に説明し、騎士団の面々を大集会場に移した後。時間は既に日付が変わる間近だったが、まだまともに取れていない食事を取る目的も含めて、今回事件に大きく関わった面々を労う為、そして悲観に暮れる四人を少しでも元気づける為に、宴会が開かれたのだ。街の様々な店から料理や酒が提供されての宴会は即興で仕上げたものとは思えない程に豪華絢爛であり、レズノフは大いに飯を喰らい、酒を飲んで楽しんだ。そこまではよかったのだが、途中から今回の事件で死亡した子供達への追悼式のようなものが始まり、文字通り天国から地獄といった感じで熱気は冷め、暗い雰囲気と涙を啜る音がその場の全てとなった。それに耐えきれなかったレズノフは、酒と食べ物を片手に宴会場となっていた『ホテル・ロケッソ』を抜け出して、ここに来ていたのだ。
理由は単純なもので、ここに居れば知り合いに連れ戻される心配が無いからである。というのも、大集会場は『ホテル・ロケッソ』から少し距離がある上に、あるものは装備を取り上げられて代わりに毛布を身に纏っている騎士達のみ。ここに好き好んでくる人間が居るとは考え難いので、手が回るとしても最後の方になるのは確実だからだ。また、一応警備のギルドメンバーが二人程居るが、レズノフはこの街ではジェード達四人以外とは特に親交を持ってないので、適当に嘘を並び立てても疑われるようなことはないだろう。
柵から背中を離したレズノフは、指の間に挟んでいた酒瓶を持ち直して口元の持っていくと、足元に置いてある料理の盛られていた皿をそのまま放置して、歩き出す。とりあえず様子を見る為にも『ホテル・ロケッソ』まで戻ろうと考え、レズノフは一階に続く階段に向かって歩き出すが、階段に近づいたところでレズノフは、次第に近づいてくる足音を他でもない階段の方角から耳にした。
(見張りの奴が戻ってきたのかァ…?)
その足音を耳にしたレズノフは、自身が二階へと上がってきた時に見張りとして立っていたギルドメンバーの姿を思い浮かべる。
その件のギルドメンバーは、レズノフが代わりに見張っておいてやると言ったら、酒と料理を調達しに外に向かった。その為レズノフは、この足音が目的のものを仕入れて戻ってきたギルドメンバーのものだと考えたのだが、実際にはそうではなかった。
「……よう。向こうのはもう終わったのかァ?」
階段から姿を現した、黒コートを身に着けた黒髪の少年を見て、レズノフは少し驚いたような表情を浮かべて問いかける。
少年は先程『ホテル・ロケッソ』で会った状態から何も変わっていなかった。赤く腫れ上がった双眸も、どこかやつれたように思える顔つきも。
「あぁ。といっても、まだアンタが望んでるような状況にはなってないけどな」
レズノフの問いかけを受けて少年…ジェードは、固い表情を浮かべて返事を返した。
「そうかァ。んじゃあ、もうちょっとここで時間潰そうかなァ…」
ジェードの言葉を聞いたレズノフは首を竦めてみせると、再び柵に背中を預けて酒を一口煽った。
ジェードはレズノフの発した言葉に対して何か言葉を発することもないまま、レズノフの身体をじっと見つめると、固かった表情を更に固くして言葉を発した。
「本当にすまなかった。こんなことに巻き込んぢまって」
「…その話はもうケリがついただろうゥ? いつまでも穿り返すんじゃねェよ、カマ野郎」
「だが、その目は…!」
ジェードの口から謝罪の言葉が吐き出されると、レズノフは表情をうんざりとしたものに変えて黙るように言いつける。しかしジェードは口を閉じることなく、レズノフの左目があった場所へと視線を向けた。
ズボンとタンクトップの様なものを身に着けただけのレズノフの姿からは、元から付いていた傷以外にも、今回の一件で付けられ、焼くことで無理矢理塞がれた醜い傷跡を何か所か見受けることが出来たが、中でも目立つのがハインベルツの長剣によって抉られた左目だった。そこには他の箇所のような焼くことで無理矢理塞がれた醜い傷口が無い代わりに、本来彼の眼窩に納まっている筈の眼球も存在しなかった。左目があった場所には、白い包帯が巻かれているだけだった。
ハインベルツによって付けられた傷の大半は焼くことで塞ぐことが出来、残った微かな傷もナターシャの神導魔法で瞬時に治すことが出来た。だが抉られた左目は今のナターシャの実力では治すことが出来ず、潰されたままだった。
「…俺にはよく分からないが、内臓や目玉なんかは肉や骨なんかよりも治すのが難しいらしい。潰された状態から元の状態まで治すには、最高クラスの神導魔法を使わないと無理なんだと。だが、そんな神導魔法が使える人間なんて、数える程しかいない! その使える奴だって、会おうとして簡単に会えるような奴等じゃないし、もし会えたとしても治してもらうには莫大な金がかかる。だから、その目は……うっ!?」
レズノフが事の重大さに気づいていないと判断したのか、ジェードは声を大きくして言い聞かせるようにレズノフに話す。
レズノフは必至になって口を動かすジェードを退屈そうに眺めると、不意に手を振って酒瓶の中身をジェードの顔にぶっかけた。
「な、何を…!?」
「うるせェんだよ、グチグチグチグチ。目が潰されたからなんだってんだ、アァ?」
鼻のつくアルコール臭を放つ液体を袖で拭って、ジェードはレズノフに今しがたの行動の真意を問おうとするが、それを遮ってレズノフは、どこか苛立ちを滲ませた声音で言葉を発した。
「だからなんだって、どうとも思わないのか!?」
「確かに若干視界が狭くなったが、そんだけだろうが。別に武器を振るって殺し合いが出来なくなった訳でも、女とヤれなくなった訳でもなければ、飯も酒も飲めなくなった訳でもねェ。ただ、見える範囲が狭まったってだけの話だ。んなオウムみてェに何度も騒ぎ立てるようなことじゃねェだろうが」
当たり前のことを言わせるな、とでも言いたげな表情でそう告げるレズノフの姿を、ジェードは呆気に取られた表情を浮かべて見つめる。レズノフはそんなジェードの表情を見て、つまらなそうに鼻を鳴らすと、柵に預けていた背を起こして階段に向かって歩き始めた。
「言いたいことはそれだけかァ? テメェ、少しでも俺に悪いと思ってんなら、俺に無駄な時間を過ごさせないように努力しろ。それ以上は望まねェからよォ」
擦れ違い際にそう告げて、レズノフは階段を下り始める。殆ど無音に近い中、レズノフは靴音のみを響かせて階段を下っていく。そして踊り場にさしかかった瞬間、今まで沈黙を貫いていたジェードの口から言葉が漏れ出た。
「俺は、ここに残ろうと思ってる」
背後から発せられたジェードの声レズノフの耳朶を打つと、階段を下ろうとしていた彼の脚がその動きを止めた。
「妹の身体は……あいつ等に任せて。ここに残って、俺は奴等を追いたいんだ」
靴音を響かせてジェードは振り向き、レズノフへと向き直った。
「だけど、今の俺には力が足りない。だから……アンタが許してくれるなら、俺はアンタについていきたい」
ジェードの言葉を、レズノフは背を向けたまま無言で聞き続ける。
「あの騎士団長との戦いで、俺は奴に敵わなかった。せいぜいが、奴に本気を出させた程度だ。だが、アンタは奴に勝った。魔法も無ければ、剣の振り方だって無茶苦茶だったのに、アンタはあいつに勝ったんだ。……鍛えてくれとはいわない。ただ、アンタの戦いを見てれば、何かを学べそうな…」
「オイ、黒坊主」
ジェードの言葉を遮って、レズノフは彼の方に向き直る。その顔には、
「悪くねェ。及第点はくれてやれるぜェ」
犬歯をちらつかせた、楽しげな笑みが浮かんでいた。




