牡鹿の舞
「…以上で、合計金貨二枚に銀貨十五枚、銅貨七十二枚に小銅貨四枚だよ」
「分かった…ん?小銅貨って何だ?」
魔弓の試し撃ちを行った部屋から出て、購入していた物品の会計をしていたヴィショップは、店主の口から出た聞いた覚えの無い硬貨の名前に、思わず訊ね返す。
ヴィショップと店主を隔てるカウンターの上には、ヴィショップが購入することにした様々な物品が置かれていた。ホルスターが二つ設けられているガンベルト、魔弓で使用する魔弾を数箱、リロードを補助するクイックローダー、ナイフ数本と黒いカウボーイハット、皮の手袋、そして救済者の銘と装飾の彫り込まれた銀色の魔弓が二挺。
結局、魔弓はヴィショップが二挺とも購入することになった。あの後レズノフとヤハドが挑戦してみたものの、何度引き金を弾こうがうんともすんとも言わず、ミヒャエルに声を掛けてみたものの本人が拒否した。結果としてこの四人の中で魔弓を扱えるのはヴィショップだけなのと、店主曰くこの魔弓は二挺でワンセットらしく、片方だけ購入するのも何だか後ろ髪を引かれるので、ヴィショップは二挺とも購入することを決めたのだった。
ちなみに、鎧は購入していない。理由としては、当然の如く鎧を着けての戦闘にヴィショップは慣れていないので、今更着込んだところで重荷にしかならないと考えたからだ。
「…小銅貨っていうのは、銅貨の下の単位で、十枚で銅貨一枚分の価値があるんだ」
ヴィショップに訊かれた店主は、一瞬だけ無言になった後、どこか諦めた様な表情を浮かべてヴィショップに説明する。
「何だ、やけに素直に教えてくれるな。裏がないといいんだが?」
「別に。ただ、もう君達が何を知らなくても驚きはしなくなっただけさ。それにこれ以上貰う気は無いよ。酒代は充分稼げたからね」
店主は小さく笑いながらそう言うと、お釣りとして小銅貨を六枚渡す。
「そいつは結構。あとは店閉めて、イイ女でも買って夜を楽しみな。ちなみに俺のオススメは…」
「おい、米国人!後がつっかえてるんだ、さっさとしろ!」
ヴィショップが店主から小銅貨を受け取り、随分と軽くなってしまった硬貨入れの袋に放り込んみながら店主に軽口を叩いていると、不意に背後からヤハドの苛立った声が飛んでくる。
「チッ、はいはい、分かりましたよ、今退きますよ…って、お前等、そんなもん買うのかよ」
ヴィショップがカウンターの上に置かれたものを自分の袋に放り込みつつ後ろを振り向くと、後ろに立っていたヤハドとレズノフが両手に抱えている物が目に入り、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何だ、悪いのか?」
「そうだぜ。中々クールでイカしてるだろ?」
「いや、まぁ、別に扱えるんなら構わねぇけどな…」
ヴィショップは、レズノフとヤハドがカウンターに並べた物品を見て、思わず口から呆れ声が漏れる。
カウンターに並べられた物体は、レズノフがスローイングダガー数本とそれを装備する為のベルトに手斧が二本、そして1.6メートル程の長さを誇る分厚い刀身が特徴の両手剣。ヤハドは片手で振るえる程度の長さに抑えられた曲刀に、長弓とそれに使用する矢、そしてレズノフと同じくスローイングダガー数本とそれを装備する為のベルトにプラス、一般的な長さのナイフが二本とナイフを装備するのに使うベルトを二本並べていた。また、二人もヴィショップと同じ考えに至ったのか、鎧の類は購入していなかった。
「はい、まいど。そっちのデカい人のは金貨一枚に銅貨四十枚、そっちの黒い人は銀貨八十二枚に銅貨二十九枚ね」
「マジで?もうちょっとまけらんない?」
「無理無理」
「…んじゃ、適当に済ませろよ」
ヴィショップは、値段の交渉に突入したレズノフから目を話すと、店の出口に向かって歩き、扉を開ける。
扉を開いた先は、店に入った時とは大きく姿を変えた街並みが広がっていた。既に日が沈み、立ち並ぶ建物からは光が漏れ出している。無論、その光はヴィショップの知りうる光よりも弱弱しいものだったが、その弱弱しい光によってぼんやりと照らされた町並みは、日が落ちようとも煌々と光り輝く夜の街になれたヴィショップにとって新鮮な光景だった。
「買い物、終わったんですか?」
「ん?あぁ、後は二人が会計済ませるだけだ」
ヴィショップは、横から声を掛けてきたミヒャエルに返事を返す。
ミヒャエルは身体の三分の二程の長さがあり、先端付近に空けられた穴から金属製の札の様なものが垂れている杖を持って、武具店の壁にもたれ掛かっていた。ヴィショップが試し撃ちに使った部屋から出た時には既に店内に居なかったったことから察するに、どうやら少し前から店の外に出てこうしていたらしい。
「それで?何買ったんですか?」
「アレだよ。ほら、お前にも撃ってみないかって勧めたやつ」
「あぁ、あの鉄砲ですか」
「そうだ。お前は、それを買ったのか?」
ヴィショップが杖に視線を向けながら訊ねると、ミヒャエルはクスリと微笑しながら答える。
「えぇ。本来は魔法を使うのを補助する為の武器らしいんですけど、疲れた時に歩くのも補助してくれそうなんで。結構長く使えるし出番も多いと思うんですけど、どう思います?」
「…まったく、いい根性してるな、テメェ」
「何のことです?」
顔を引きつらせながらのヴィショップの発言にも、余裕たっぷりの態度で応える、ミヒャエル。それが、疲れからくるものなのか、ヴィショップという人間に慣れたからの態度なのかは、定かではないが。
「ところで、何でこんな所に居るんだ、お前?」
「えっと、カウンターで待ってたらいつの間にか外が暗くなってたんで、つい」
「何だ、それ?」
ミヒャエルの語った理由に、訝しげな表情を浮かべる、ヴィショップ。それに対しミヒャエルはヴィショップに視線を向けずに、ぼんやりとした光に照らされた町並みを眺めながら話しを続ける。どこか物憂げな表情を浮かべながら。
「何でかよく分からないんですけど、こういう光景が好きなんですよ、僕。何か、僕にとって欲しくて溜まらない人が、今にも迎えに来てくれる様な…そんな気持ちになって…」
「ハァ…?意味がわか…」
「終わったぜェ、ジイサン!」
ますますミヒャエルの言っていることが理解出来ず、ヴィショップが聞き返そうとするが、買い物を済ませたレズノフの大声によって遮られてしまう。
「やっと終わりましたか。それじゃあ、早く宿に行きましょうよぉ」
「そうだな。特にやることも無いし、腹も減ったし。いいだろ?ヤハド、ジイサン?」
「別に構わん」
「あ、あぁ、そうだな」
レズノフとヤハドが出てきたのを確認するやいなや、ミヒャエルは立ち上がって疲れ切った声で宿に向かうことを提案する。そのミヒャエルの表情からは、つい先程まで覗かせていた物憂げな色合いは完全に消え去っていた。そして、それを見たヴィショップは、少し戸惑いながらも、ミヒャエルの提案に賛同する。
「じゃあ、行きましょう。今すぐ行きましょう。そりゃあ、もう、寄り道なんてせずに今すぐに!」
「個人的には魔導協会とやらに興味が…」
「嫌ですよ。嫌ですからね?それがどんな場所かは知らないけれど、絶対に嫌ですからね?」
「冗談だ。落ち着け、連続強姦魔」
「だから、僕はそんなことしてないですってば!」
「いやぁ、随分と楽しそうだね」
ヴィショップが、今にも宿に向かって足を動かしかねないミヒャエルをからかっていると、いつの間にか店の外に出てた店主が声を掛けてくる。
「ん?どうしたんだ?」
「いや。宿を探しているみたいだから、オススメを教えとこうと思ってね。随分と稼がせてもらったから、ちょっとしたサービスさ」
店主はそう言うと、ヴィショップに向かって四枚の羊皮紙を差し出す。
すると、ヴィショップがそれを受け取る前に、横から延びてきたレズノフの手がそれを奪い取り、書かれている内容を読み上げる。
「えっと…「ギルド『蒼い月光』傘下、宿泊施設『水面の月』無料宿泊券」…。なんだ、そりゃあ?」
「説明を頼む、店主」
文面を読み上げたレズノフが訝しげな声を出し、ヤハドが店主に詳細を説明するように頼むと、店主が待ってました、とでも言わんばかりの反応速度でその要求に応える。
「文字通り、宿屋の一日無料宿泊券さ。で、『水面の月』という店なんだけど、書いてある通り『蒼い月光』っていうギルドの傘下にある店で、色々とギルドに対して便宜を図ってくれるんだ。ギルドっていうのは、まぁ、便利屋の寄合みたいなものかな。依頼を斡旋してくれたりしてくれるんだ」
「成る程、つまり、俺達に職まで提供してくれるって訳か」
「まぁ、そんなところかな。ギルド加入には大した手続きは必要ないから、出身地がホントにこの世のものかどうかも疑わしいような場所の君達でも、ちゃんと加入出来ると思うよ。まぁ、そこら辺は向こうで聞いた方が良いだろうけど。あぁ、別にギルドに加入しなくてもちゃんと泊めてもらえるし料理も出してくれるから安心して大丈夫だよ」
ヴィショップが店主に訊くと、店主は微笑を浮かべながらそれを肯定する。
「そうかい。んじゃ、ありがたく受け取っておくとしよう。ありがとよ」
「またのご来店をおまちしております。ジイサン殿」
「テメェ…」
「あれ?そこのデカい彼がずっとそう呼んでるから、名前かと思ったんだけど、違うのかい?」
「違ぇよ。俺の名前はヴィショップだ、先生」
「そうかい。じゃあ、改めて、『ダッチハイヤー武具店』へのまたのお越しをお待ちしております、ヴィショップ御一行様」
「考えておいてやる。あばよ」
ヴィショップはそう返すと、手をヒラヒラと振りながら店主に背を向けて歩き出す。他の三人もそれに続き、ヴィショップ達は『ダッチハイヤー武具店』を後にした。
「えっと…三階建ての大きな建物で、正面にでかでかと店名の入った看板が掲げられていて……よし、ここで間違い無いな」
ヴィショップは羊皮紙に書かれた建物の特徴と、目の前に建っている建物の特徴とを照らし合わせ、その建物が自分達の目的地であることを確認する。
『ダッチハイヤー武具店』と『水面の月』なる宿泊施設は思ったほど離れてはいなかったので、精々、ミヒャエルの腹の虫が二回程鳴るぐらいの時間で辿り着くことが出来た。時間にして約十分程だろうか。
「よぅっし!んじゃ入って…」
「やっと夕食にありつける!イヤッホゥッ!」
「…この世界に来て、奴が一番輝いた瞬間だな」
「…まったくだ」
店を確認するや否や、ミヒャエルがレズノフの言葉を遮って店内に突入する。レズノフがそれを追いかけ、ヴィショップとヤハドが呆れながらも店内へと足を踏み入れる。
その際のミヒャエルのテンションは、ヴィショップとヤハドの言葉通り、この世界に来てから最も高いものだったが、そのテンションも店の内部に広がる光景をみた瞬間に急速に萎んでいった。
「…えっと、その……何かすいません…」
何故なら、店内に突入したミヒャエルが見たものは、どう見ても堅気の人間には見えない連中が、程度の差は有れど武装して状態で、あちこちに置かれたテーブルで酒盛りをしている姿、そしてそれらの殆どの視線が、大声と共に店に入ってきたミヒャエルへと向けられていたのだから。
「おい、何ぼさっとしてんだ。さっさと席探すぞ」
「ひぃ!って、何だ、ヴィショップさんか……って、分かったから引っ張らないでください、首が絞まる!」
ヴィショップは何故か謝っているミヒャエルの襟を掴むと、そのまま引きずるようにして席を探し始める。
「なぁ、ジイサン。チェックインはどうする?」
「んなモン、後だ。先に腹に何か入れときたい」
「おい、米国人。そこの席が空いてるぞ」
「ナイスだ、ヤハド」
ヴィショップはレズノフの質問に答えると、ヤハドが見つけた奥に一つだけ空いていたテーブルに着く。そのテーブルの近くには、カウンターと呼ぶにはいささか大きすぎの窓口とでも呼ぶべきものが存在した。その周りの動向を見るに、どうやらあそこで宿泊の手続きをしたり料理の注文、そして受け取りを行うらしい。
「さてと。席も見つけたことだし、さっそく何か食うか。メニューもあそこにデカデカと書いてあるしな」
「じゃ、とりあえず俺は酒で」
「俺はあの豆と牛肉の蒸し煮だ」
「えっと…本当にここで食べるんですか…?」
レズノフとヤハドが、窓口の真上に書かれているメニューを見て食べるものを選んでいると、ミヒャエルが小声で話し掛ける。
「ハァ?散々メシだメシだ言ってたのは、テメェじゃねぇのかよ?」
「いや、そうですけど。でも、ここはどっからどう見ても治安が悪いじゃないですか。っていうか無法地帯ですよ」
ミヒャエルは、チラチラと店内に視線を泳がせながら、不満気な言葉を返してきたヴィショップに反論する。
確かに店内の様子はミヒャエルの言う通り、とても治安が良さそうには見えなかった。そもそも、一般人も使用出来る場所なのに、視界に入ってくる人間が誰もかれも武装しているという時点でどこかがおかしい。
だが、そんな充分な説得力を持ったのミヒャエルの言葉も、眼前の三人には届かなかった。
「別に、こんぐらい大したモンじゃねぇよ。よくあるこった」
「そうだ。俺達の食事も、大抵傍らにカラシニコフを置いた状態でとっていたからな」
「おいおい、何だ、アレ?鹿の剥製か?趣味悪ィなァ」
「…貴方達に意見を求めた僕が馬鹿だったのかもしれません……」
そんな具合で全く今の状況に意を介さない三人の言葉を聞いて、ミヒャエルが呆れ声を出した、まさにその瞬間だった。
「嫌ッ!離しなさいよ!」
「いいじゃねぇかよ、嬢ちゃん。少し付き合えよ」
店の中に少女の悲鳴が響き渡り、それに追従するようにして男の猥雑な声が上がる。
ヴィショップ達がその声に反応して、声の聞こえた方向に視線を向けると、その先にはフードを目深に被った少女(体付きがはっきりとしないので声で判断)のに絡んでいる、角刈りの大男が居た。
「はっ、ご盛んなこって」
「どうします?助けます?」
「面倒臭いから、パァス。それに他の奴等も動いてないしィ?」
レズノフの言葉を受けたミヒャエルが店内を見回すと、確かに店内に居る全員が絡まれている少女のことなど無視して食事を続けていた。窓口に立っている人間も含めてだ。
「成る程。ミヒャエル、テメェの言う通り、ここは無法地帯らしいな。上等だ」
「ん?どうしたよ、ジイサン?」
そんな店の連中の態度を見たヴィショップは、大男の武器が近くに無いことを確認すると、小さく笑って座っていた椅子を引いて立ち上がる。そして、立ち上がったヴィショップを見て不思議そうな声を出したレズノフに、これからやろうとしていることを告げた。
「あのガキを助けてくる」
「意外だな、ジイサン。実は正義感に溢れてたってか?」
そんなレズノフのからかうような言葉に対しヴィショップはニヤリと笑うと、驚いた表情で固まっている残りの二人にも聞こえるように、今からとろうとしている行動の真意を語る。
「馬鹿が。んな訳ねぇだろ?あのガキだがな。さっきチラッと視界に入った時の動作で分かった。ありゃ、高い教育を受けた人間だ」
「殺しのか?」
「んな訳ねぇだろ、マウンテンゴリラが。礼儀作法だよ。それに声音から考えても、初潮を迎えてるかギリギリの年齢だろうが。そんなガキに殺しの作法を仕込んだところでモノに出来るかよ」
ヴィショップはレズノフのあまりにも的外れな意見に、思わず頭を抱えそうになる。
「つまり、あの子供はそれなりの身分に属するということか?」
「そういうこと。恩を売る相手としちゃ、悪くない」
「また媚売りか」
「まぁな。役に立つ奴なら、人格は度外視して売るのが俺の主義だ。役に立たない奴には何もやらんがな」
ヴィショップはヤハドの馬鹿にしたような言葉にも笑顔で返事を返すと、そのまま絡まれている少女の所に向かって歩き出す。その歩調は、武器を購入してからこの建物に入るまでの道のりでの歩調と比べると、どこか軽いものに感じられる歩調だった。
「止めてったら!離してよ!」
「だからさァ。そんな邪見にすんなって…」
「ヘイ、色男。お楽しみ中悪いな」
そして少女の相手に夢中になっている大男の背中に近づくと、肩を叩いて軽い口調で呼びかける。
「あ?何だ、テメェは?」
「別に。人並み程度の罪悪感を抱ける人間さ。それより、女性の扱いがなってないぜ、色男。それはもう、発情期で盛りが付いた犬の方が紳士的に見えるぐらいにな」
「吹くじゃねぇか、おおぅ?お前、あれか。自分は武侠物の主人公だと思ってるクチか?」
「そういう訳じゃ無いさ。言っただろ?俺はただの…」
こめかみをひくひくと痙攣させながら、威圧感たっぷりの態度でヴィショップに近づく、大男。
だが、そんな光景を腐る程見てきたヴィショップにとっては、今更恐怖するようなものではなかった。後はただ、先程購入した魔弓を腰の外套で隠れているホルスターから引き抜き、武器も持たずに近づいてきたこの大男の下顎に突きつけてやれば全てが決着する。する筈だった。
「…ただの……ただの…」
同じ言葉を繰り返しながらホルスターに納められた魔弓が存在する筈の位置を弄る、ヴィショップ。だが、いくら探してもそこに求めている物体は存在しなかった。
(どうなってんだ?ちゃんとホルスターに突っ込んで…!)
予想外の展開に、ヴィショップは思わず焦りだす。だがそんな焦りも、背後からヴィショップの耳に飛び込んできた、ガンガンと何かを打ち鳴らす音とレズノフの大声によって霧散する。
「やれェ!ジイサン!殴り合えィ!」
その声に釣られて振り返ったヴィショップは、文字通り言葉を失う。何故なら、さっきまで自分が着いていたテーブルで、レズノフが自分のホルスターに納められている筈の魔弓を、まるでベースボールファンの手に握られたメガホンの様に打ち鳴らしていたのだから。
「テメェ、レズノフ!何やってやがる!」
「何って、応援してやってるんじゃねぇか」
「うるせぇ!さっさとそいつをこっちに…」
ヴィショップがレズノフに対し有らん限りの罵声を飛ばすが、それは全て言い切る前に遮られてしまう。背後に立っている大男の拳によって。
「ゴハッ!」
肩を掴まれ無理やり大男の方に向き直らされたヴィショップの顔面に、大男の拳がクリーンヒットする。その結果、ビショップは軽く吹っ飛ばされ、近くにあったテーブルの料理を巻き込んで派手に転倒する。
「キャァァッ!」
『うおおおぉっ!』
「あちゃー。ジイサン、駄目じゃん」
少女の悲鳴、周囲の人間から上がる歓声、そして何故か声量のデカいレズノフの落胆、それら三つがヴィショップの耳に飛び込んでくる。
「おい、あんちゃん。テメェからおっ始めたんだ、最後まで…」
ヴィショップが突っ込んだテーブルに座っていた男が、テーブルを支えに立ち上がろうとするヴィショップに野次を飛ばそうとする。だが、男の口は言葉を最後まで言い切らずに固まってしまう。ゆっくりと上げられた、犬歯を剥き出しにし、不自然に口角を吊り上げたヴィショップの表情を見て。
「どうしたァ!それで終わりか、王子様よぉ!」
そんなヴィショップの表情など露も知らずに、大男はヴィショップの背後にゆっくりと歩み寄ると、狙いをヴィショップの頭に定め、拳を振り下ろす。だが、その拳がヴィショップの頭を捉えることは無かった。
「上等ォ!」
ヴィショップの咆哮が店内に響いたかと思うと、ヴィショップは素早い動作で大男に向き直り、大男の右腕に拳を叩き付け、自分の頭部目掛けて振り下ろされた拳の軌道を逸らして宙を切らせると、支えにしていたテーブルの上にあった、ヴィショップの転倒に巻き込まれずに残っていた酒瓶を逆手で掴み、大男の頭に叩き付ける。
「ぐ、おおぉぉぉ…!」
血と酒で頭を濡らしながら苦悶の声を上げる、大男。だが、ヴィショップが拳を引くことは無かった。
ヴィショップは、痛みに耐えかね、前屈みになっていることで位置の下がっている大男の顎にアッパーカットをかます。大男の頭部は弾かれたように跳ね上がり、視線は床から天井へと強制的に移動する。ヴィショップは、その体制のまま二歩三歩と後ずさっている大男のがら空きの胸に前蹴りを叩き込む。そして、さらに数歩後ずさった大男に向かって、軽く助走をつけてからジャンプすると、全体重を籠めた右の拳の一撃を、お返しとばかりに顔面に叩き込んだ。
「グホォッ!」
声にならない悲鳴をあげ、大男は近くにあったテーブルを巻き込んで勢い良く転倒する。
『おおおおおぉぉぉっ!!!』
その光景を見ていた店内の人間から上がる、割れんばかりの喝采。恐らく、今の殴り合いは彼等にとってはかなりエキサイティングな見世物となっていたのだろう。もっとも、魔弓を使った脅しで事を済ませようと考えていたヴィショップにとってその歓声は、もう何発か殴っておこうかと考えさせる程に神経を逆撫でする代物だったが。
「うがああああぁっ!」
だがその歓声も、店内に響き渡った咆哮によって掻き消される。
鼻が折れていないかを確かめていたヴィショップが鼻に手を当てたまま振り向くと、そこには鼻血をドクドクと流しながらも、その表情に明確な怒気を孕んだ大男が立っていた。
「しつけぇなァ、アンタ」
「ブッ殺す!ぶっ殺してやる、クソガキがァ!」
唾と血を飛ばしながら怒声を上げる、大男。その殺意と気迫に満ちた姿に、再び店内の人間が歓声を上げる。
『うおおおおっ!!!』
「面白くなってきたじゃねぇか!ミヒャエル、賭けの準備だ!」
「俺はあの大男に賭けるぜ!」
「俺はあの黒髪だ!」
「俺はデカブツの方だ!」
「はいはい、ちょっと待ってくださいよぉ!」
そしてその歓声も、レズノフの一言で途端に賭けの話へと変わる。
ヴィショップはそんな店内の状況に、呆れつつもどこか懐かしさのようなものを覚える。
(そういや、こういったことも随分と久しくやってなかったな…)
ヴィショップの脳内に浮かび上がる、嘗ての光景。まだ何も失っていなかった頃の光景が。
そしてヴィショップはその光景たった一瞬だけ懐かしむと、男の殺意の篭った視線を真っ向から受け止める。そしてそのまま睨み合うこと十数秒。微動だにしないヴィショップと大男にギヤラリーが気付き、喧噪が鳴りを潜め始めたその瞬間に、二人は動き出した。
「うおおおおっ!」
「うがあああああっ!」
互いに雄叫びを上げながら、真正面から突っ込む、二人。最初に仕掛けたのはヴィショップだった。
「ぅおらあッ!」
大男の顔面目掛けて右のストレートを放つ、ヴィショップ。だが大男はそれを姿勢を低くすることで躱すと、姿勢を低くしたままヴィショップに突っ込む。
「グハッ!」
その結果、大男の肩がヴィショップの鳩尾に入り、ヴィショップの肺から息が吐き出される。そして大男はそのままヴィショップの体に腕をまわして持ち上げると、思いっきり床に向かって投げつけた。
「か、はっ…」
背中を強かに床に打ちつけ、ヴィショップは声にならない悲鳴を上げる。それでも何とか立ち上がろうとするが、そこに大男の追撃が迫る。
「うらあああああっ!!」
耳に飛び込んできた大男の雄叫びに反応して振り向いた時には、すでに遅すぎた。視界の殆どが大男の身体が占められており、次の瞬間には強い衝撃と共にヴィショップは吹き飛ばされ、壁に叩き付けられていた。
「アアアアアアィィィィッッ!」
『うおおおおおおっ!!!!!』
大男の雄叫びに合わせ、ギャラリーの歓声が一際大きくなる。
大男は、自らのタックルをもろに受け、何とか壁を支えにして立ち上がろうとしているヴィショップを見据えると、もう一度雄叫びを上げてからヴィショップに向かって突進する。
その一方でヴィショップは何とか立ち上がると、一瞬だけ真上に視線を移し、後は笑みを浮かべるだけで避ける素振りすら見せなかった。それはどこか余裕すら感じさせる態度でもあった。
大男はそんなヴィショップの態度に神経を逆撫でされたのか、さらに青筋を浮かび上がらせながら、ヴィショップの顔面目掛けて拳を振りぬいた。
『おおっ!?』
次の瞬間、ギャラリーから驚きの声が上がる。
何故なら、彼等の目に移ったのはヴィショップの顔面に止めと成り得る一撃が入った光景ではなく、その場で飛び上がったヴィショップが、壁に掛けられていた鹿の首から先の剥製に手をまわし、自らの体を引き上げてその一撃を躱す光景だったのだから。
「なっ…ぐむっ!」
大男も渾身の一撃が外れたことに声を上げそうになるが、ヴィショップがそれを許さなかった。
ヴィショップは鹿の剥製で体を引き上げている体勢のままで、表情に驚きの色を張り付けている大男の首に両足を絡み付かせ、首を締め上げる。
「ぐ…ぐ…ぐ…ぐ……!」
呻き声を漏らしながら、どんどん顔が真っ赤になっていく、大男。その光景を前に、ヴィショップは勝利を確信する。後は、さすがに殺す訳にもいかないので適当なところで大男から足を離し、弱り切ったところに止めを刺すだけかと思われた。
「な…める…なァ!」
「!?」
大男は絞り出すようにして言葉を発すると、首を染め上げているヴィショップの両足に手を掛け、そのまま全体重を掛けて下に引き下げる。
骨が折れたのではないかと錯覚するような痛みがヴィショップに走ったのは、たったの一瞬。次の瞬間には鹿の剥製が壁から外れ、刹那の浮遊感の後に床へと落下していた。
「うがああぁっ!」
叫び声を上げながら、大男が床に倒れているヴィショップに向かって足を振り上げる。
ヴィショップは咄嗟に、壁から外れて床に転がっていた鹿の剥製の角の部分を掴むと、振り下ろされる大男の右足に向かって振り抜く。鹿の剥製の首の部分が大男の右足を捉え、振り下ろされた右足は軌道を逸らされてヴィショップの顔の少し横を踏みつける。だがヴィショップははそれに対して眉一つ動かさずに、鹿の剥製を大男の顔目掛けて突き出す。
「て…テメェ…!」
ガードが間に合わずに、顔面にモロに一発くらった大男はそのまま数歩後退する。どうやら、鹿の剥製を武器として使い始めたヴィショップに対し、さらに苛立ちを感じているらしい。
一方のヴィショップはというと、その隙に立ち上がり、軽くステップを踏みながら両手で鹿の剥製を構える。
「舐めるなって言ってんだろうがァ!」
その動きに耐えかねた大男が右腕を振り上げながら、怒りを剥き出しにしてヴィショップに突進する。
ヴィショップはそれに対し、無言で笑みを浮かべると、まず大男の右の拳の一撃に鹿の剥製を叩き付けて弾き、鳩尾に蹴りを叩き込む。そして頭を抱えて前屈みになった大男の頭に回し蹴りをかます。
「う…おぁ…!」
ヴィショップは呻き声を上げながら後ずさる大男との距離を一機に詰めると、大男の頭に鹿の剥製を振り下ろし、垂れ下がってきた頭に膝蹴りを入れて無理矢理上げさせると、こんどは胸に向かって回し蹴りを叩き込む。
「ぐぅはあっ!」
苦悶の声を上げながら、壁に向かって後ずさる、大男。ヴィショップは大男と壁の位置が充分に近づいたことを確認すると、鹿の剥製を大男に向かって軽く放り投げた。
「…ぁ…?」
意識の飛びかかっている大男の両目が、宙を舞う鹿の生首を追う。その隙にヴィショップは大男に駆け寄ると、大男の数歩手前で飛び上がり、大男の顔面に二段蹴りを叩き込む。
「ゴヘッ!」
大男が声にならない悲鳴を上げ、壁に叩き付けられる。ヴィショップは落ちてきた鹿の剥製をキャッチすると、剥製の首の部分を持ち、角の前面にした状態で大男目掛けて突進する。
何とか大男がそれに反応しようとするが、焦点が合っているかどうかも怪しい状態の大男では、それを止めることは叶わない。碌に反応も出来ないままヴィショップと大男の距離はゼロへと迫り、鹿の剥製の頭部の角が大男の両脇を通って木製の壁に突き刺さり、大男を壁に縫い付ける。
そしてヴィショップは身動きの取れなくなった男目掛けて拳を振りかぶりながら、大男に聞こえるような大きさで呟いた。
「エロい夢でも見て来い、色男」
その言葉の後、間髪入れずにヴィショップの拳が大男の顎に叩き込まれ、遂に大男はその意識を手放した。そして意識を手放した大男の頭がガクンと垂れ下がったのを合図に、本日最大の歓声が店内を支配した。