Midnight Cross
「つまり、決行は二日後、ということでいいんだな?」
「あぁ、そうなるな」
ヴィショップがドーマの“行為”に付き合ってから一時間程経った頃。少女の死体を回収し、それを馬車に積み込んでドーマの屋敷を後にしたヴィショップは、満天の星空が頭上に広がる中、これといった装飾の無い地味な馬車を駆りながら、車体の中に居るヤハドと、先程ドーマの屋敷であったことを話し合っていた。
「それにしても…まったく、反吐が出る…! よくもそんな真似が出来るものだ…!」
「まぁ、履歴書に書けるような趣味じゃねぇのは確かだな。もっとも、そのおかげで俺等が付け込めるんだが」
明らかな怒りと侮蔑が込められて発せられた感情剥き出しのヤハドの言葉を聞いて、ヴィショップは思わず苦笑を浮かべる。
その一方でヤハドは、未だに怒りが収まり切らないといった様子で、ヴィショップに問いかけてきた。
「ところで、あの変態を破滅させる手筈はどうするんだ? 何かいい策が?」
「そうだな……とりあえず決行まで時間が無いからあまり大したことは出来ないだろうが…流石に何も手を打たない訳にもいかないしな…」
ヤハドの問いを受けたヴィショップは、無精髭を擦りながら思案に耽る。確かに屋敷の主であるドーマは典型的な無能だが、彼に付いている騎士団長、ハインベルツの方は違う。彼とヴィショップはまだ少ししか顔を合わせていないが、既にヴィショップに対して警戒心を抱いているなど、切れ者であるのは間違い無いだろう。下手をしたら、二日後に何らかの対策を打ってきかねない程に。
(もっとも、奴も別に確証がある訳じゃねぇから、そこまでデカい策は打ってこねぇだろう。それより問題は、レズノフ達の方か…)
そして思考は、『パラヒリア』の街で待機しているレズノフとミヒャエルの方へと移る。
(奴等が今行動している連中、あれを仲間に引き込めるかどうかが問題だ…。とりあえず、死体を片付付けたら速めに連絡を取る必要があるな…)
ヴィショップはそう考えて思考を中断すると、背後の車体の中で答えを待っているヤハドに声を掛ける。
「とりあえず、策については日が昇って街に居る馬鹿共と話をしてからだな。それまでは何とも言えん」
「そうか。まぁ、それについては貴様に任せよう。こういうコソコソとした事は貴様の得意分野らしいからな」
「御褒めに預かり光栄です、ドンパチ馬鹿殿」
ヤハドの皮肉めいた言葉に、ヴィショップは呆れ混じりの表情を浮かべながら軽口で答えた。
そしてそんな会話を交わしながらもヴィショップが馬車を進めていると、ヴィショップは不意に前方から何者かが近づいてくるのを見て取った。
(あれは…?)
ヴィショップは道の反対側を『パラヒリア』に向かって歩く人物にそれとなく視線を向け、その容姿を確認する。体型は中肉中背で髪は黒。瞳の色も黒。年齢は十代後半といった感じで、やや幼さの残った顔つきに後天的に手に入れたであろう逞しさが上手くマッチしており、華奢で脆いといった感じの感じられない、整った顔立ちをしていた。服装は黒のロングコートに黒のズボンと黒尽くしで、腰の辺りにベルトで鞘に収まった長剣を挿していた。
(こんな時間に……旅人か?)
ヴィショップは段々と近づいてくる少年を横目で眺めながら、暇つぶしに少年が何者かを類推する。
現在の時刻は、あと一時間もしない内に空が白み始める頃合いであり、ただの少年がうろついている時間帯とは考えにくい。その上帯剣していることから考えても、少年が年齢に相応しい生活をしているとは考えにくかった。
(もしくはギルドの人間か…。確かあいつ等が行動を共にしているのもあれぐらいの人間だった筈…)
そこまで考えた所で、少年と馬車とがすれ違って少年の姿が視界の範囲外へと消えたので、ヴィショップは考えることを止めて馬車の手綱を握ることに意識を戻そうとする。
だが、
「血の匂いがする、アンタの馬車」
少年がヴィショップの視界外へと消えた瞬間、呟く様な、それでいてはっきりとした声音で発せられた声がヴィショップの耳朶を打つ。
ヴィショップは一瞬にして表情を冷淡なものに変えると、馬車を停める。そして車体のヤハドが小声で何事かと聞いてくるのを聞き流しながら黙りこくり、少年が動く気配が無いのを察すると口を開いた。
「言っている意味が分からないのですが?」
「文字通りの意味さ。アンタの馬車から血の臭いがする。それも魔獣のじゃなく、人間のな」
間髪入れずに返された少年の返事を聞きながら、ヴィショップは思案し、そして決断する。
その一方で後方からは、少年が長剣を抜いたと思われる、刀身と鞘の擦れる音が聞こえてきていた。
「見せてもらおうか、その馬車の中」
「何の権利があって?」
「別にやましいものが入っていないなら構わないだろう? どうしても嫌だっていうなら、力づくでもいいんだぞ?」
背後から少年の脅しめいた冷徹な声が聞こえてくる。ヴィショップは少年の発した言葉を心中で鼻で笑うと、背後の車体の壁を指で三回叩いてから少年に返事を返した。
「では、どうぞご勝手に」
ヴィショップがそう告げると、少年は無言で馬車の車体の後部にある扉へと近づいていく。そして扉の前に立ち、開こうとして少年が手を伸ばした瞬間だった。
「クッ!?」
木製の扉を突き破って、鈍い銀色に光る剣先が少年の顔面目掛けて突き出される。少年は自分の鼻先に向かってくる剣先を、地面を蹴りつけて後方に逃れることで何とか躱すと、腰に差していた長剣…刀身が内側に湾曲しているファルクスを抜き放って、馬車の扉を睨み付けた。
少年の視線の先では、扉から突き出ていた刀身が引っ込んだかと思うと、すぐに扉が開いて、フード付の外套を着込んで顔を隠したヤハドが右手に曲刀を持って地面に降り立った。
「……まだ子供じゃないか」
ヤハドはファルクスを右手で構え、じっとこちらを睨み付けている少年の姿を見てそう呟いた。
「だから何だ?」
「…そうだな。そう言うと思ったよ、貴様はな」
ヤハドの呟きを聞いたヴィショップが怪訝そうな声音で訊ねると、ヤハドは微かに歯軋りを鳴らして吐き捨てる様に言葉を返した。ヴィショップは明白な侮蔑の篭ったヤハドの言葉に苦笑を浮かべると、
「“家”で落ち合おう。適当に済ませたら来いよ」
そうヤハドに告げて馬車を奔らせ、夜の闇の中に消えていった。
「逃がすか…!」
だが、当然のことながら少年がそれを手をこまねいて眺めている筈が無く、闇夜に溶けて消えようとしているヴィショップの駆る馬車に左手の掌を向けて何かしようとする。
ヤハドはその少年の動きを見るや否や、身体に身に着けているスローイングナイフを、確かな修練に裏打ちされた俊敏かつ流れる様な動作で抜き取ると、少年の左腕に向かって投擲した。
「チッ!」
少年は舌打ちを打って左手を下げると、右手のファルクスを振って今や胸元に向けて突き進んでいるスローイングナイフを叩き落とす。ヤハドはその隙に一気に少年に向かって駆け出すと、一瞬だけ険しい表情を覗かせながらも、少年の腹部に向けて真一文字の斬撃を繰り出した。
「甘い!」
少年は吠える様に叫ぶと、ヤハドの振るった曲刀をファルクスで受け止める。そしてヤハドの一撃の重さに表情を歪ませつつも、肉薄してきたヤハドの身体に向かって左の掌を突き出した。
少年の左の掌が突き出された刹那、少年の身に着けている黒のロングコートの袖から突然緑色の光りが漏れ始めたかと思うと、今まで無風状態だったにも関わらず、まるで突き出された少年の掌を中心に渦を巻く様に風が吹き始める。
「ヤバい…か…?」
そのただならぬ状況にヤハドは危険を感じ取ると、左脚で地面を蹴りつけ、後ろに下がって少年から距離を取ろうとする。だがその寸前で、少年の掌を中心に吹いている風の音がはっきりと聞き取れる程に激しくなったのに気付くと、咄嗟に右脚を振り上げて少年の左腕を蹴り上げた。
「しまっ…!?」
蹴り上げられた左手が天に向かって掲げられ、掌はヤハドから満天の星空へと向けられる。その瞬間、少年のロングコートの袖から漏れる光がより一層輝きを増し、薄い緑色の光を帯びた一メートル近い大きさの三日月状の風の塊が夜空に向かって打ち出された。
「魔法だと…!?」
その光景を見た瞬間、ヤハドは困惑した様子でそう呟いた。
通常、魔法とは魔導具や神導具などの一部の例外を除いて、呪文を詠唱しなかれば発動しない。にも関わらず、少年は詠唱無しで魔法を使用したのだから、いくら魔法に疎いといえどもヤハドが驚くのは当然のことといえた。
(あのロングコート自体が魔導具とやらか? いや、だがあの光り方はロングコートそのものというより、その下の腕自身が発光している、といった感じか…)
魔法を放つや否や、唐突に光は失われ始めた少年の左腕を睨み付けつつ、ヤハドは今しがた起こった現象について推測しようとする。
しかしそれは長く続くことはなかった。少年は忌々しげに左腕を下ろしてヤハドを睨み付けると、右手に握ったファルクスを構えながらヤハドに向かって突っ込んでくる。ヤハド瞬時に今しがたの魔法に対する思考を放棄して、正面の少年へと意識を集中させる。
少年は一秒もしない内にヤハドに肉薄すると、ヤハドの喉元目掛けて突きを放つ。ヤハドはそれを左に動いて避けると、少年の腕を切り落とさんとして曲刀を振り上げる。だがその瞬間、少年の左の掌がヤハドの振り上げた曲刀に向けられたかと思うと、少年のロングコートの袖から光が漏れ始める。そして先程とは違い、満足に反応する暇も無い程の短い間隔で、先程の半分以下の大きさの三日月状の風の塊が打ち出されて、ヤハドの握る曲刀の刃を真向から迎え撃った。
「うおっ…!」
風の塊は曲刀の刃に触れた瞬間に霧散、それと同時に曲刀はまるで鉄に打ち付けられたかの様に弾かれ、ヤハドその勢いのまま二、三歩後退する。
その隙を突いて少年はヤハドに向かって踏み込み、ファルクスをヤハドの右肩目掛けて袈裟懸けに振り下ろす。しかしヤハドはそれを躱すでもなくその場で身体を翻して少年に背を向けると、左手を伸ばしてファルクスを握る少年の右手首を掴んで斬撃を止め、更には手首を捻り上げてファルクスを手放させる。更にその一方で曲刀を手放すと、少年の左腕を掴んで引き寄せて脇に挟み込んだ。次いで少年の右手首から左手を放し、少年の左腕に掌底を撃ち込んで圧し折るべく腰の横まで左手を引き付けた。
だが、ヤハドの掌底が放たれ、少年の左腕を圧し折ることはなかった。何故なら、
「右手もか…!?」
ヤハドの左手から解放された少年の右腕が左腕と同じ様に発光したかと思うと、ヤハドの頭に向かって伸びてくる。恐らく、今度は外さない為にヤハドの頭を鷲掴みにしてから魔法を発動しようという算段なのだろう。
ヤハドはコートの袖から漏れる緑色の光を横目で捉えるや否や、咄嗟に左腕を跳ね上げて少年の右腕に手刀を叩き込む。
「グッ…!」
少年の右腕は弾かれてその掌は在らぬ方向へと向き、少年の口から苦悶の声が漏れる。
ヤハドは少年の右腕に手刀を叩き込むと、こんどは少年の顔面に左の肘を突き刺す。そして間髪入れずに右脚を振り上げながら身体を翻すと、鼻孔から鮮血を漏らしながら二歩程後退した少年の側頭部を後ろ回し蹴りで蹴り抜いた。
「クソッ…!」
側頭部を蹴り抜かれた少年の身体が一回転しながら宙を舞う。しかし少年の身体が無様に地面に横たわることはなく、空中で身体が一回転したにも関わらず少年は地面に左手を着いて着地してみせると、未だに光を放ち続けている右腕を挙げ、掌をヤハドに向けて突き出した。
直後、少年の掌から最初に見たときと同じような大きさの三日月状の風の塊が打ち出される。ヤハドは地面に一本の線を引きながら迫ってきた風の塊を真横に転がって躱しつつ、地面に転がっていた曲刀とファルクスを拾い上げると、立ち上がると同時にファルクスを少年目掛けて投げつけた。
「それがどうした…!」
縦に回転しながら空を切り裂いて迫ってくるファルクスの姿を見て少年はそう呟くと、左手を飛んできたファルクスへと向ける。そして少年のロングコートの袖から緑色の光が漏れ出したかと思うと、次の瞬間には既に三日月状の風の塊が発射されており、風の塊は回転しながら飛んできたファルクスを迎え撃つと、ファルクスを真上に向かって弾き上げて霧散した。
ヤハドはファルクスが真上に弾き上げられたのを確認すると、右手で曲刀の柄をしっかりと握り込みながら少年に向かって駆け出す。少年の方は光の消えた左手を下ろすと、今度は右腕を発光させてヤハドに向かって掌を突き出した。
(あれは掌を向けた方向に真っ直ぐにしか放てない……姿は視認し辛いが軌道を見極めるのは難しくない…!)
ヤハドは今までの戦闘で得た推測を脳裏に思い浮かべると、少年の掌へに意識を向けつつ少年に向かって突進していく。そして魔法が撃ち出されないまま少年とヤハドの距離が段々と縮まり、あと二秒もしない内に曲刀が少年の身体を捉えられる所まできた瞬間だった。
「なっ、しまった…ッ!」
ヤハドへと向けられていた右の掌が急に下げられたかと思うと、その直後には三日月状の風の塊が撃ち出される。ヤハドはそれを見て少年が何を企んでいたかを理解するが、時は既に後の祭りだった。
撃ち出された風の塊がヤハドの足元に命中したかと思うと、人の手によって綺麗に整備された地面を炸裂させ、大量の砂煙を巻き上げてヤハドの視界を奪う。
ヤハドは視界を覆い尽く砂埃に舌打ちを打ちながらも、目を凝らして少年の姿を捉えようとする。その結果、“元の世界”での経験が幸いしてか彼の両目は、自分に向かって迫ってくる薄い緑色の光を帯びた三日月状の風の塊をしっかりと捉えていた。
「ムウッ…!」
だがそのスピードは凄まじく、今から避けようとしても避けられないのは目に見えていた。その為ヤハド曲刀の柄を両手で握り、迫りくる風の塊を曲刀で受け止めようとするが、その勢いを殺しきれずに立ち込める砂煙の外まで押し出されてしまう。
「クソッ、何て威りょ……ッ!」
砂煙の外まで押し出されたところでようやく風の塊が霧散する。ヤハドはしっかりと両手に残った痺れを感じながら驚嘆の声を漏らす。そして少年の姿を改めて捉えようと視線を上げた瞬間、立ち込める砂煙の中で銀色の光が煌めいたのを見て取ると、咄嗟に頭を庇う様に曲刀を振り上げる。
「シッ!」
刹那、砂煙の中からヤハドに飛び込んでくるようにして姿を現した少年が、両手で構えたファルクスをヤハドの頭目掛けて一直線に振り下ろしてくる。
ヤハドは何とかそれを受け止めるものの、先の攻撃を受け止めた際の衝撃が残るヤハドの両腕では話にならず、何とか剣の角度をずらしてファルクスの斬撃を受け流すと、後ろに下がって距離を取ろうとする。
「逃がすかッ!」
「チィッ!」
だが少年の一瞬の躊躇いも無くヤハドを追って脚を踏み出すと、両手でファルクスを構えたまま追撃を放つ。ヤハドもそれを防ごうと曲刀を振るうものの、刃物など大きいもので鉈程度しか振るったことのないヤハドでは少年の太刀筋に匹敵出来ず、反撃する暇も与えられないまま少年の剣戟を何とか捌き続ける。
袈裟懸けに振り下ろし、返す刀で振り上げる。縦一直線に振り下ろしてきたかと思えば、横真一文字の斬撃が飛んでくる。それを防いだ直後には鋭い刺突が肩を掠めて鮮血が飛ぶ。痛みに顔を表情を歪めながらも反撃を放とうとするが、読まれていたのか少年の身体に近づくことすら出来ずに刀身が叩き落とされ、逆に少年の攻撃がヤハドの身体を襲う…。
先程までとは違い、少年は完全に攻撃手段を剣だけに絞って攻撃を放ち続け、ヤハドから僅かに距離を離した剣戟が最も生きる間合いを保ち続けている。その結果、剣の技術で劣っているヤハドはより得意とする零距離での格闘戦に持ち込むことが出来ず、不慣れな間合いでの戦いを強いられ、その身体に刻み込まれる傷が徐々に増えていく。
(このままでは不味いな…。距離を狭めるにしろ離すにしろ、どうにかしてこの間合いから脱出しなければ。しかし…)
少年の攻撃を何とか捌きながら、ヤハドは思考する。
このまま剣での斬り合いを続けていれば、技術で劣るヤハドが負けるのは目に見えている。その為には何とかこの間合いを脱しなければならないのだが、距離を狭めようにも、唯一反撃出来そうな攻撃である刺突に関しては少年自体がそれを理解しているせいで迂闊に反撃しようものなら手痛い一撃が待っており、掌を向けて発動する詠唱無しの魔法に関しても掴まれて動きを封じられたり距離を詰められることを恐れてか使わなくなってしまった。かといって距離を離そうにも、少年はしっかりとヤハドに喰らい付いて離れない。スタミナ切れを狙って引き離す手もあるが、少年のスタミナが尽きるまで彼の剣戟を裁き続ける自信はヤハドには無かった。それにそもそも弓を宿に置いてきている為に、距離を離したところでスローイングナイフを投げつけるぐらいしか手が無い。
(となれば…)
ヤハドは曲刀を握る両手へと意識を集中させる。
(一か八か、やってみるしかないな…)
そう心中で呟いて思考を終えると、ヤハドは再び少年のと切り合い…ひいては少年の太刀筋に全神経を集中させる。
そして再び先と同じ様に防戦一方に甘んじる中、金属同士がぶつかり合う音が唐突に途切れた。
(……来い!)
少年の振るったファルクスの一閃がヤハドの曲刀を捉え、彼の手から弾き飛ばす。ヤハドの手から離れた曲刀がくるくると回転しながら宙を舞う最中、少年は武器を失ったヤハドを見据えながら小さく息を吐き出すと、両腕から緑色の光を漏らしながらファルクスを上段に構え、ヤハド目掛けて全力で振り下ろした。
今まで見せてきた少年の剣筋の中でその一振りは、最も単調でいて最も鋭い一振りだった。剣で受け止めるのならともかく、咄嗟に動いて躱すのは不可能な程に。
そしてまた、万が一にもこの一撃を避けられた時の為のカードである、ファルクスの柄を握る少年の両腕から漏れる緑色の光が少年と慢心が無縁であることを証明していた。
剣で受け止めることは出来ず、躱すことも不可能に近い。そして例え躱せたとしても、少年の両腕から放たれる魔法が息の根を止める。文字通り、今のこの状況はヤハドにとっての行き止まりとなる“筈”だった。
「な…に…?」
ファルクスを振り下ろした瞬間、少年の目が驚きに見開かれる。
何故なら、ヤハドの身体を頭から股まで一刀両断する筈のファルクスの刀身が、ヤハドの頭まであと数センチという所で止まってしまって動かないから。そして何よりも少年を驚かせたのは、ヤハドの頭を目前にしてピタリとファルクスの刀身が動きを止めた理由が、空中で祈る様に合わせられたヤハドの掌と掌の間に刀身が挟まれてしまっていたからだった。
つまりヤハドは、受け止めたのだ。
自分に向かって尋常ではない速度で振り下ろされた刃を、よりにもよって素手で。
当然というべきか、この様な事態を想像もしていなかった少年は茫然とした様子で、柄から手を離して魔法を使用することも忘れて刀身を受け止めているヤハドの茶色い革製の手袋が填められた両手を見つめる。その一方でヤハドは思わず冷や汗を流しながらも、自分の鼻先まで迫っているファルクスの刀身に吸い込まれている己の視線を引き剥がして少年へと向けると、ファルクスの柄を握る少年の両手に向かって右脚を振り上げた。
「ッ! しまった…!」
少年の両手が真上に跳ね上げられ、蹴り飛ばされたファルクスが先程のヤハドの曲刀と同じ様にくるくると回転しながら宙を舞う。
両手を蹴り飛ばされたことでやっと正気に戻った少年は、魔法を発動すべく跳ね上げられた両手をヤハドに向けようとするが、その動きよりも早くヤハドは右脚を地面に着け、一歩踏み出して少年の懐に入ると、左手で少年の襟首を掴んで引き寄せる。そして自分に向かってバランスを崩しながら引き寄せられてきた少年の鳩尾に右の掌底を思いっきり叩き込んだ。
「がふっ……!」
掌底が少年の鳩尾に強く突き刺さった瞬間、少年の口から掠れた声が漏れ、身体がくの字に折れ曲がったかと思うと、そのまま意識を手放して力無く両手を垂らしてヤハドの身体にもたれ掛る。
ヤハドは先の程行った荒業の緊張を抜け切らずに肩で息をしつつ、襟首を掴んでいる左手を放して少年の身体突き放す。少年の身体は一切の抵抗のないまま仰向けに倒れ、ヤハドは少年が意識を取り戻す気配がないことを確認すると、近くに突き刺さっている己の曲刀を取る為に動き始めた。
「ハァ…ハァ……ッ…ハァ…」
地面に突き刺さっている曲刀を引き抜くと、額を湿らせている大粒の汗を袖で拭いつつ仰向けに倒れている少年の許まで戻ってくる。ヤハドは少年を見下ろすと視線を少年の左胸へと移し、左脚で少年の右胸を軽く押さえつけて曲刀を振り上げる。そして少年の心臓を刺し貫いて息の根を止めるべく、曲刀の切っ先を振り下ろそうとするが…、
「クソッ…!」
曲刀の切っ先は少年の左胸まであと数センチといったところでその動きを止める。
ヤハドは、自身の腕の振るえが伝わって微かに振動している曲刀の刀身を苦悩に満ちた表情で見つめながら、悪態を吐いた。
(殺せ……殺せ! これは、“元の世界”に戻る為に必要なことだ! 俺の…“俺達”の本懐を為すのに必要なことだ!)
ヤハドは微かに震えるだけでピクリとも動こうとしない自身の両腕を見つめながら、自身を叱咤する。
(このガキは所詮、俺の住んでいた世界とは違う世界の人間だ…! 何を躊躇う必要がある! それに……俺にはもう、躊躇う資格も無いだろうが!)
数日前、ヴィショップの策に乗って犠牲にすることに決めた少女達の顔を想い起こしながら、ヤハドは何とか動こうとしない両腕を動かそうとする。
だが、どれだけ少年を殺める為の理由を作り出し、どれだけ躊躇う必要が無いことを言い聞かせようとも、ヤハドの脳裏に浮かぶ一人の少女が、ヤハドに少年を殺めることを許そうとしなかった。
自身と同じ浅黒い肌に、自身が愛した女性の持つ美しい碧眼と笑顔を受け継いだ、自分の腰ぐらいの身長しかない、愛して止まなかった一人の少女の姿が。
『パパ』
「うおおおおおおおおおおおッ!」
脳裏に浮かぶ少女が、嘗てと全く変わらぬ鈴の音の様な声でそう発した瞬間、ヤハドは雄叫びを上げながら曲刀を振り上げ、そして力の限りを尽くして振り下ろした。




