追憶の果てに
しんと静まり返った室内に微かな靴音を鳴らして、ヴィショップは三階へと足を踏み入れる。
両手で4インチのパイソンを構え、抜け目なく両目を動かして周囲の様子を探りながら、ヴィショップはゆっくりと奥に向かって進んでいく。その後ろからは短機関銃を構えた黎が続き、彼もヴィショップと同様に眼鏡のレンズの奥に潜む眼球を動かして、ヴィショップの背後を警戒しながら彼の背中を追う。
「…オイ」
「あれは…」
そうして進んでいると二人は、壁にぽっかりと空いた、かつては扉が存在していたであろう正確な長方形の穴から覗いている血溜まりとスーツを着込んだ人間の腕らしきものを見つける。
「…先に行ってくれって言ったら?」
「貴方に銃を突き付けてこう言います。“行かないならケツの穴を十倍に増やしてやる”と」
「…援護頼む。俺に当てたら殺すからな」
ヴィショップは小さく溜め息を吐いて黎にそう告げると、パイソンを構えながらゆっくりと隣の部屋に続く穴へと近づいていく。そして数秒程たっぷりと掛けて穴に近づくと、穴の真横の壁に背を着け、息を大きく吐き出して呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ませて隣の部屋の気配を探った後、パイソンを前に突き出しながら隣の部屋に一気に足を踏み入れた。
パイソンを構えて隣の部屋に入ったヴィショップは、視線だけを動かして部屋に存在するものを確認していく。
まず最初に、他の部屋と同じく家具の類いが一切見受けられなく、違いといえば窓が無いこと以外には何となく他の部屋より狭い印象を与えることしかないこの部屋の中を一通り見渡す。そしてその後、自分の足元に転がっている、喉元から鮮血をまき散らした自分と黎の部下へと視線を落とし、軽く足で小突いて二人がぴくりとも動かないことを確かめた。
(ざっと見た限り、首意外に目立った外傷は無い…。やはりそれなりの手練れが……ッ!)
足元に転がる死体へと視線を向け、部下二人を殺した人物について考えを巡らせていると、唐突に自分に対して向けられた殺気を感じ取り、ヴィショップは咄嗟に前方に向かって身体を投げ出しながら、パイソンの銃口を自分の右手に位置する壁に向けて引き金を弾く。それと同時に、身に着けているよれよれで薄汚れた短パンとタンクトップから何本ものナイフをぶら下げた少年が、ヴィショップがパイソンの銃口を向けた壁をまるで発泡スチロールか何かの様に突き破って現れた。
(チッ、あの壁はカモフラージュかッ! 歳は取りたくねぇなぁッ!)
ヴィショップはこの程度のことすら見抜けなかった自分に対して舌打ちを打ちながら身体を丸めると、前転して体勢を立て直す。
その一方で少年は、床を蹴りつけて真横に跳躍、ヴィショップの放った三発の弾丸の内自分に直撃しるコースの弾丸をギリギリのところで躱すと、左手に持ったナイフをヴィショップの顔に向かって投げつけた。
「クッ!」
顔面目がけて投擲されたナイフを、ヴィショップは悪態を吐きつつパイソンの銃身で叩き落とす。
少年はその隙にヴィショップに向かって突進して一気に距離を詰めると、右手に握ったナイフをヴィショップの顔面目がけて突き出した。
「うおっ…!」
子供のものとは思えない鋭さで放たれた突きを、ヴィショップは顔を右に逸らすことで避ける。そして次いで放たれた少年の左脚の蹴りを右腕で受け止めると、少年の襟を左手で掴み、身体を投げ出すようにして少年を黎の方へと投げ飛ばした。
「黎ッ!」
ヴィショップによって投げ飛ばされた少年が宙を舞いながら、黎に向かって突っ込んでいく。その光景を目の当たりにした黎はヴィショップの言葉には返事を返さずに、手に持った短機関銃の照準を自分に向かって飛んできた少年へと合わせると、引き金を弾こうとする。
「なっ!?」
だが、それは寸での所で叶わなかった。
何故ならヴィショップに投げ飛ばされた少年が、あろうことか空中で身体を回転させて体勢を整えると。短機関銃を構えている黎に向かって右手に握ったナイフを投擲したのだ。
「クソッ…!」
黎は悪態を吐きながらも左手で自分に向かって投擲されたナイフを防ぐ。
矢の様に一直線に飛んできたナイフの刃が黎の左腕に突き刺さり、彼の表情が苦痛に歪む。だがそれでも黎は引き金を弾こうとして右手の人差し指に力を籠めようとするが、その次の瞬間には彼の右肩からナイフの柄が突き出していた。
「まさか…!」
腰に挿していたナイフを引き抜き、投げつける。その動作を空中で、西部劇に出てくるガンマンの早撃ちよろしく一瞬でやってのけた少年の姿に、思わず目を見開きながら黎は呟く。
黎の右手から離れた短機関銃が床に落ち、ガシャンをいう音を立てる。それとほぼ同時に少年が殆ど音も立てずに床に着地し、驚きに目を見開く黎の脚を足払いで払って仰向けに転倒させると、目にもとまらぬ速度で新たなナイフを右手で引き抜き、黎の首目掛けて振り下ろす。
「!」
しかしナイフの刃が黎の首に突き刺さる前に、ヴィショップが少年に向かって発砲。それに気付いた少年がヴィショップの銃撃を躱す為に身体を投げ出した為、黎の首から血が噴水の如く吹き出すことはなかった。
ヴィショップの銃撃を受けた少年は最初の一発を躱すと、右手に持ったナイフをヴィショップに向かって投擲、そして左手を動かして一瞬でナイフを抜き取って更にヴィショップに向かって投げつける。だがヴィショップは右手で投擲されたナイフを顔を捻って躱しながらパイソンの引き金を弾き、更に自分の腹に向かって飛んできたもう一本のナイフの柄を左手でキャッチすると、二発目の銃弾をも交わした少年に向かって投げ返した。
「ッ!?」
ヴィショップの手に握られるパイソンから放たれた弾丸を右に、胸元に向かって投擲されたナイフを少年は左にステップを踏んで避ける。だがナイフを避けた瞬間、待ってましたと言わんばかりにヴィショップの手に握られたパイソンが轟音を轟かせたかと思うと、パイソンの銃口から飛び出たマグナム弾が少年の太腿に命中、少年はまるで足を勢いよく払われたかの様にバランスを崩して頭から床に突っ込もうとしていた。
ヴィショップは前のめりに転倒していく少年の姿を見て微かに口角を吊り上げると、パイソンのシリンダーを開いて空薬莢を落として装填作業を行おうとする。
だが、
「マジか…!」
装填作業を行おうとしていたヴィショップの左手は眼前の光景を見た瞬間にその動きを止める。
何故なら、頭から床に突っ込もうとしていた少年が、頭が床に接触する直前に両手を床に着けたかと思うと、ハンドスプリングの要領で身体を浮かび上がらせ、空中でナイフを引き抜いてヴィショップに飛びかかってきたのだから。
「クソがッ…!」
回避が間に合わないことを悟ったヴィショップは悪態を吐くとパイソンを投げ捨て、両手でしっかりと柄を逆手に握って振り下ろしてきたナイフの刃を止めるべく、少年の腕を両手で掴む。その結果、何とかナイフがヴィショップの喉元に突き立てられるのは避けられたものの、ヴィショップはそのまま少年に押し倒されてしまった。
「チッ…趣味じゃねぇんだよ、てめぇみてぇのは…!」
ヴィショップに馬乗りになり、全体重を掛けてナイフを喉に突き立てようとしてくる少年に抵抗しながら、ヴィショップは軽口を叩く。
だがその軽口とは裏腹に、女性の様な細腕のどこにこんな力があるのかと疑いたい程の少年の力の前に、ヴィショップの額には汗が滲み始め、息遣いも苦しげなものになる。そして何より、少年の手に握られたナイフの刃が非常に緩慢な動作で己の喉元へと近づいていくのをヴィショップは止めることが出来なかった。
(こいつの腕……!)
歯を食いしばり、額に汗を滲ませながら迫りくる刃を押しとどめようとするヴィショップの視界に、複数の注射痕のある少年の浅黒く焼けた腕が目に入る。
その少年の腕のありさまからヴィショップは、少年の並外れた筋力がクスリによって付与されたものであることを悟った。
(力に関してはこれで説明がつく…。だが技術の方は…)
その一方で、ヴィショップは少年の見せた高度なナイフ捌きを思い出して思わず息を呑む。
クスリを使えば筋力を上げることは出来る。しかし、技術まで引き上げることは出来ない。つまり少年の身に着けている技術は誰かに教え込まれたことになるが、それに該当しそうな人物は一人しかいなかった。
(レンノスケ・カタギリ…。子供を使うただのイカれたジャパニーズ・ヤクザだと思ってたが、どうやら才能は“本物”みてぇだな…)
心中でそう呟くと、ヴィショップはそれ以上思考するのを止めて全ての意識を、少年の握るナイフの刃の侵攻を止めることへと注ぐ。
今やナイフの切っ先はヴィショップの喉元まであと数センチというとこまで迫っており、このままではあと数秒でヴィショップの喉元に突き刺さるだろう。かといって少年自体をどうにかしようにも、両手を使わなければ少年の力に抗えないので両手は使えず、駄目元で少年の背中に膝蹴りを入れてみるも、クスリで痛覚を遮断している少年の気すら逸らすことが出来なかった。
もはやヴィショップの力では、迫りくる凶刃を払いのけられない状況にまで追い込まれていた。だがそれでもなお、ヴィショップは感情の無い瞳で自分を見下ろす少年を真向から睨み付けながら、抗い続ける。
自分がまともな死に方をすることはないであろうことはとうに自覚し、数年前に“目的”を果たしてからは惰性で生きていたようなヴィショップだったが、それでもこの瞬間だけは死ぬ訳にはいかなかった。
カインを殺された落とし前。彼の中でそれだけは、どうあってもケリを付けなければならなかったのだ。
だがそれでもナイフの刃はゆっくりとヴィショップの喉元へと近づいていく。そしてついにその切っ先がヴィショップの喉元に届こうとした瞬間、
「…?」
空気を震わせて銃声が室内に鳴り響いたかと思うと、少年の背中に四つの風穴が開く。
痛みはなくとも着弾時の衝撃には流石に気付いたのか、少年が後ろを振り返って視線を向けたその先には、ナイフが突き刺さった肩の痛みに表情を歪ませながらも何とかマカロフを掲げて引き金を弾いた黎の姿があった。
「よくやった、中国人…!」
少年の注意が黎へと向けられた瞬間、ヴィショップは唇の端を吊り上げながらそう呟くと、右肩を撃たれて一気に力が弱まった少年の腕を振り払い、右手を少年の身体にむかって伸ばす。そして少年が何本もぶら下げているナイフの内一本を引き抜くと、少年の喉を一気に搔き切った。
「ッ!?」
少年の眼が驚愕に見開かれ、彼の喉から噴出した鮮血がヴィショップの顔に大量にかかる。だがヴィショップは更に右手を奔らせると、今度は少年の心臓にナイフを突き立てた。
少年の視線が、ヴィショップの顔から自分の胸に突き立てられたナイフの柄へとゆっくりと移動していく。
ヴィショップは少年の大きく見開かれた瞳がゆっくりと動いていく様子を冷めた視線で見つめ、次いで視線を床に力無く垂れている少年の腕へと移す。そして喉を切り裂かれ、心臓にナイフを突き立てられてもなお少年の意識が消えず、ぶるぶると小刻みに震えながらもナイフを振り上げようとしているのを確認すると、右手を少年の首に絡め、左手を少年の顔に当て、一気に力を籠めて少年の首をへし折った。
「……ハァァァァ」
鈍い音が鳴ったかと思うと少年の腕の震えが止まり、そして少年の頭が力無く垂れ下がる。
ヴィショップは少年の首と顔から右腕と左手を離すと、自分の上に跨っている少年の死体を真横に退かし、盛大な溜め息を吐きながら後頭部を床に着けて大の字に寝そべる。大の字に寝そべっているヴィショップの息遣いは荒く、夏場でもないのに身体中から汗が噴き出てており、それらは彼の体力が大幅に削られていることを如実に語っていた。
「ひどいザマですね…」
大の字に寝そべり、顔に付着した血を拭うことも忘れて息を整えていると、弱々しい黎の声が耳朶を打つ。
「…テメェが言えたザマかよ」
「フッ…。そうかも…しれませんね…」
荒い息遣いのままヴィショップが返事を返すと、自嘲気味な微笑と共に黎が呟くように言葉を発する。
そのまま互いに何も発しないまま数秒程過ぎた頃、黎が口を動かした。
「行けそうですか?」
「…てめぇは?」
大の字に寝そべったまま、ヴィショップが訊ねる。
「質問に質問で返すなって言われませんでした?」
「うるせぇな、いいから答えろよ」
「…両腕ともきついですね。ちょっと無理そうです」
「そうか」
一瞬の沈黙の後に帰ってきた黎の言葉に対し、ヴィショップは短く返事を返す。
「…どうします? 一回帰りますか?」
更に数秒の沈黙の後、黎がヴィショップに問いかける。
訊ねられたヴィショップは少しの間思案した後に、黎に問いかけた。
「ここで退いたらどうなると思う?」
「恐らく、カタギリを取り逃がします。次に見つけられるのはいつになるか分からないでしょうね。まぁそれも、逃げる私達をカタギリが追ってこないという前提のもとですが」
そう黎が告げた直後、黎が倒れてくる方向からポケットを漁るような物音が聞こえてきたかと思うと、甲高い金属音と黎のものと思われる舌打ちがヴィショップの耳朶を打つ。
その音を聞いたヴィショップは小さく笑みを浮かべると、両手を床に着いて大儀そうに身体を起こし、スーツの袖で顔中に付着した少年の血とそれに混ざっているであろう己の汗を拭ってから、年相応の緩慢な動作で立ち上がる。そして床に転がっているパイソンを拾い上げ、スーツの懐からクイックローダーを取り出して装填してシリンダーを閉じると、右手でパイソンのグリップを握りながら火の点いていない煙草を咥えている黎へと近づいていく。
「悪いですね」
ヴィショップは黎の目の前まで来るとしゃがみ込み、黎の足元に転がっていたライターを拾い上げて、黎の加えている煙草に火を点けてやる。
黎はヴィショップに礼を述べると、煙をたっぷりと吸い込んで肺にため込み、一気に煙を吐き出す。そうやって煙草を堪能している内にヴィショップが自分に左の掌を突き出していることに気付くと、小さく笑みを漏らしてから、満足に動かない右手を動かして握っていたマカロフをヴィショップの足元まで滑らせる。
「弾倉は上着の内ポケットの中です」
マカロフを拾い上げ、弾倉を床に落としたヴィショップの姿を見ながら、黎は弾倉の場所を教える。黎の言葉を聞いたヴィショップは彼の上着の懐に手を伸ばして弾倉を一つ取り出してマカロフに装填すると、マカロフをスボンの後ろに差し込んだ。
黎からマカロフを拝借するとヴィショップは立ち上がり、四階へと続く階段に向かって歩き出す。すると、
「武运(御武運を)」
黎が中国語でヴィショップの背中に向かって言葉を発する。
ヴィショップは足を止めて振り返ると、小さく笑みを浮かべて返事を返した。
「It can talk in English――a chinkie(英語で話せよ、中国人)」
それだけ告げるとヴィショップは黎に背中を向けて歩き出し、奥に向かって姿を消した。後に一人残された黎は煙草を吹かしながら苦笑を浮かべると、小さく呟いた。
「腐れ欧米人め…」
「この先か……」
黎と別れ、一人四階に向かって歩を進めていたヴィショップは、階段を上り切った所にある、この建物の中では初めてお目にかかる煤けた扉の前に立つ。
ヴィショップは右手に握りしめたパイソンを改めて握り直すと、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整える。そして扉へと視線を移すと、右脚を扉に向かって突き出した。
派手な音と共に錆びついていた扉の蝶番が簡単に圧し折れ、蹴りを叩き込まれた扉が勢いよく地面に倒れる。ヴィショップはすぐさま右脚を引っ込めると、パイソンを両手で構えながら室内へと足を踏み入れる。
(これは…)
室内へと足を踏み入れて部屋に広がる光景を見た瞬間、ヴィショップの脳裏に昨夜見た劉宛てのDVDの内容がフラッシュバックする。
部屋の壁を覆い尽くすかのように大量に置かれた拷問用の道具や撮影用のカメラ、ライトといった器具。そしてパイプで造られた安っぽいベッドとその上に敷かれた血が染み付いたシーツ。それらの光景はヴィショップに、劉を脅迫するための映像がここで撮られたということを如実に語っていた。
だがその一方で、ヴィショップが見た、劉宛てに送られてきたDVDに移っていた部屋とは大きく違う点が一つだけ存在した。
「Watch me…」
それは、部屋の中心に据えられたベッドの上に置かれている、汚い英語の記された紙が貼られた一台のブラウン管テレビだった。
ヴィショップはパイソンを構えながらブラウン管テレビに近づいて貼られている紙に書かれた言葉を呟くと、ブラウン管テレビの画面を隠している紙を取り払う。するとその瞬間、一人でにテレビが点き、映像が流れ始めた。
「…………」
流れ始めた映像は、この部屋のある一点から撮影したと思われるものだった。場所は恐らく、この部屋に三台ある撮影用のカメラの内のどれか一つだろう。映像の内容は、中央のベッドに縛り付けられた少女が複数の人間に拷問染みた暴力を振るわれながら凌辱されるといったもの。つまりは典型的なスナッフビデオなのだが、この映像は通常のスナッフビデオとは異なる点が二つ存在した。
一つは、喉を潰しかねない声量で上げられる少女の悲鳴。もう一つは、少女に暴行を加えている複数の人間が全て、少女と同じぐらいの年齢の子供達だったということ。
ヴィショップはブラウン管テレビに映し出された、狂気じみた映像を眉一つ動かさずに眺め続ける。
すると、
「……下らねぇ」
不意にそう呟いたかと思うと、右手に握っているパイソンの銃口を後方へと向け、引き金を弾く。発射された弾丸は真っ直ぐ突き進み、ヴィショップの後方に置かれていたロッカーを貫通し、その中に入っていた小型カメラを破壊した。
次いでヴィショップは銃口をブラウン管テレビへと向けて引き金を弾く。銃弾を受けたブラウン管テレビは火花を上げながらその役目を終えた。
ヴィショップは黒い煙を上げているブラウン管テレビを一瞥すると、再びパイソンを構えて部屋の奥にある扉に向かって進む。そして扉の前に立つと、先程と同じ様に扉を蹴破った。
これまた先程と同じ様に蝶番が圧し折れ、扉が倒れる。その先にあったのは細い廊下で、突きあたりには部屋があるようだが机やら椅子やらが積み重ねられており進めそうにはなかったが、途中で左へと分岐していた。ヴィショップはちょっとしたバリケードとなって行く手を塞いでいる机や椅子の寄せ集めを少しの間見つめると、気にくわ無さそうに鼻を鳴らしてから左の道に向かって歩き始めた。
「この先は……屋上か…」
パイソンを構え名がらゆっくりと進み、左手の道に足を踏み入れたヴィショップは目の前の階段を見てそう呟いた。そして数秒間思案した後、ゆっくりと階段を上り始める。
蛍光灯の灯りすらない暗闇の中を、ヴィショップは手すりに手を伸ばしながら一段一段上っていく。ヴィショップは昔程夜目の効かなくなった両目をしっかりと見開いて周囲の状況を確認しながらゆっくりと登っていき、二分近く掛けて階段を上り切ると、屋上へと続く扉の前に立つ。
扉の前に立ったヴィショップはパイソンのシリンダーを開き、先程使った二発分の空薬莢を排出して新たに二発装填してから、右脚を振り上げて扉を蹴破り、パイソンを構えながら屋上に足を踏み入れようとした。
「ッ!」
だが蹴破られた扉が床に倒れ、星も月も見えない曇天の空と遠くに見える上海中心部の夜景、そしてそれらを隔てるように設置された錆びついたフェンスの姿がヴィショップの目に入り、彼の左脚が屋上に一歩足を踏み入れた瞬間、ヴィショップは真横から強烈な殺気を感じ取って咄嗟に頭を下げる。
その瞬間、真横から銃声が上がり、何かが空を切るような音が上方からヴィショップの耳朶を打つ。ヴィショップが前屈みになりながらも視線を銃声の上がった方へと向けると、そこには安っぽい白のスーツに身を包んだ派手な金髪の男が、右手に拳銃を持ちながら意外そうな表情を浮かべていた。
「カタギリィ…!」
ヴィショップは忌々しげにそう呟きつつ、パイソンの銃口をカタギリへと向けようとする。だがその瞬間、カタギリの右脚が跳ね上がり、ヴィショップの顔面を捉えようとする。ヴィショップはそれを左手で受け止めようと、蹴りのコースに左手を割り込ませるが、
「うおっ…!?」
予想を超える威力を見せたカタギリの蹴りの勢いを殺しきることが出来ず、ヴィショップはそのまま蹴り飛ばされる。ヴィショップの身体を一瞬だけ宙に浮いた後、冷たいコンクリート製の床に叩き付けられた。
「クソッ…!」
だがそれでもヴィショップは咄嗟に右手を跳ね上げて、何とかパイソンの銃口をカタギリの顔面へと向けると、パイソンの引き金を弾いた。
しかしカタギリは発射されたパイソンの弾丸を頭を逸らすだけで避けてしまう。そして躱した際に頬を掠めた弾丸が、一本の赤い線が刻み込んだにも関わらず薄ら笑いを浮かべると、右手に握った拳銃の引き金を弾いた。
「グッ…!」
ヴィショップは身体を真横に転がして弾丸を躱そうとしたが、既に先程までの戦いで疲労が限界近くまで蓄積してしまっている年老いた彼の身体は満足に言うことを聞かず、躱すことは叶わぬまま弾丸はヴィショップの右肩に喰らい付き、彼の手からパイソンが零れ落ちた。
「っ、ふぅ~。危ねェ、危ねェ。ったく、ホントに末恐ろしいジジイだなぁ、アンタ」
ヴィショップの手からパイソンが零れ落ちたのを確認すると、カタギリはわざとらしく溜め息を吐きながら、これまた演技染みた動きで額をスーツの袖で拭う。
確かな余裕が滲み出ている態度を見せるカタギリを静かに睨み付けつつ、ヴィショップは一瞬だけ視線を床に転がっているパイソンに向けようとした。
「おーっと、ダメダメ。今は俺とのトーク・タイムだぜ、オジイチャン?」
だがその瞬間、カタギリの手に握られた拳銃が火を噴き、パイソンの撃鉄を粉砕する。
(こいつ……!)
ヴィショップは撃鉄を打ち砕かれ、使い物にならなくなったパイソンから視線をカタギリへと戻しつつ、心中で感嘆の念の混じった悪態を吐いた。
(人を煽りつつ、自分を取るに足らない人間に見せかけるような素振り。そしてその裏に潜んでいる、確かな冷静さに裏打ちされた洞察力。これで若さ故の“遊び心”が薄まれば、こいつは世界を動かしかねないクソッタレになれるだけの素質は秘めてやがる…)
しかしそう考える一方でヴィショップは、カタギリの中から確かな勝機を見出し、冷淡な薄ら笑いを浮かべていた。
(だが、“若過ぎる”。こいつには若者特有の根拠の無い自身がまだ残っている。故に…お前は俺に殺される)
ヴィショップは心中でそう呟くと、目の前で銃口をヴィショップに突き付けながら一人で話しているカタギリへ、そして自分の両腕へと意識を集中させる。
(距離は充分…。あとはこの身体がちゃんと動いてくれることを祈るだけ、か…)
ヴィショップは息をゆっくりと吐き出して呼吸を整えると、
「にしてもアンタ、あのビデオ見ても眉一つ動かさなかったよな? アレ、俺のお気に入りだったんだが、ジジイには刺激が…」
「おい、若造」
得意げに口を動かすカタギリの言葉を遮って、口を開く。
「何だよ?」
「死ぬ前に、てめぇに二つ程教えといてやる」
話を遮ったヴィショップに、カタギリは不愉快そうな視線を向ける。だがその裏には、先程にも増して強くなった警戒の色が潜んでいた。
半世紀以上に渡って裏社会で生きてきたヴィショップですら、ぼんやりとしか捉えられない程に隠匿された警戒心にヴィショップは内心で舌を巻きつつ、口を開く。
「まず一つ。殺す時は、特別な理由が無い限りさっさと殺せ」
そう発した瞬間、ヴィショップの左手が想像を絶する速さで腰の後ろへと伸び、差し込んでいたマカロフを引き抜いてカタギリへと向ける。そのあまりのスピードに目を見開きつつも、カタギリは手に持った拳銃の引き金を弾こうとする。だがヴィショップの握るマカロフは、ただ拳銃の引き金を弾くだけだった筈のカタギリの拳銃よりも速く、装填されている弾丸を吐き出した。
「ジジイッ…!」
だがそれでもカタギリの命が潰えることはなかった。驚くべきことにカタギリは咄嗟に身体を逸らすことで、胸元に向かって発射されたマカロフの弾丸を躱してみせたのだ。しかしそれでも完全に躱し切れた訳ではなく、発射されたマカロフの弾丸はカタギリの右肩に食い込み、彼の右手から拳銃を手放させることに成功していた。
ヴィショップは弾丸を躱されたにも関わらず、全く驚いた素振りを見せることなく立ち上がると、マカロフを握った左手を地面に着いて立ち上がり、カタギリとの距離を詰めるべくその懐に向かって飛び込んでいく。その際、彼の身体は当然の如く悲鳴を上げたが、ヴィショップは僅かに表情を歪ませるだけでそれを押し殺した。
ヴィショップが一気に距離を詰めてきたのを見て、ヴィショップの早業に大きく見開かれていたカタギリの眼に冷静さが舞い戻る。その瞬間、彼の左手がスーツの懐に奔ったかと思うと、目にもとまらぬ速さでナイフを取り出してヴィショップの喉元目掛けて突き出してくる。その突きの鋭さはヴィショップが今までお目にかかってきた中でも有数のモノで、それを見切って躱すことは常人には不可能にすら思える程だった。
だが、
「!」
相手の動きを見極めて予測することに関して常識外れの技術を持ち、なおかつ三階にてカタギリの切り札とも取れる子供の突きを目にしていたヴィショップが、その突きを見切ることの出来ないなどということはなかった。
ヴィショップは突きの軌道を見切ると、右肩に穿たれた風穴のもたらす痛みに悲鳴を上げる右腕を動かして、喉元にむかって突き出されたナイフの刃を受け止める。美しい銀色に研ぎ澄まされたカタギリのナイフは、ヴィショップの年老いて脆くなった表皮と肉を簡単に貫いて骨にまで達したが、それ以上進むことはなかった。
老いて動きが鈍くなった身体と違い、若い頃から全く衰えることなく働き続ける痛覚が迅速にヴィショップの脳に送った苦痛によって上げかけた叫び声を押し殺して、ヴィショップは右腕を下げて、右腕に突き刺さっているナイフを握っているカタギリの左手を下に引き下げる。そして何も守るもののなくなったカタギリの顔にマカロフの銃口を突き付けた。
「スゲェな、オ…」
額に押し付けられた、未だ熱の残るマカロフの銃口の感触を感じながらカタギリが口を動かそうとしたが、ヴィショップはカタギリが言葉を言い切る前に引き金を弾く。
その瞬間、カタギリの頭が弾かれたように仰け反ったと思うと、彼の身体はそのまま後ろに向かって倒れていった。
「もう一つは……死ぬのは俺じゃなくて若造だってことさ」
ヴィショップは目を見開いて仰向けに倒れているカタギリの死体にそう吐き捨てると、マカロフの銃口を向けて引き金を弾いた。
弾丸が尽き、スライドが後退し切ったまま戻らず、弾切れを意味する掠れた音が鳴るまで。
彼は引き金を弾き続けた。
「おい、ボルツ。ボルツ!」
脂ぎった、それでいて不機嫌そうな声音で自分が名乗っている偽名を呼ばれ、ヴィショップは意識をかつての上海から、今立っているドーマの地下室へと戻す。
「大丈夫か? 何を呆けている?」
「いえ、すいません。お恥ずかしいことながら、領主様の手際がとても洗練されていたので、見入ってしまいまして…」
ヴィショップの視線の先のドーマは、全面を大きくはだけてはいるものの既に衣服を身に着けていた。視線を少しずらして部屋の中央に置いてあるベッドの上へと視線を向ければ、血で染まった様々な器具と両手両足を切り落とされ、全身傷だらけの少女の身体を見て取ることもでき、それらの光景は既にドーマの“行為”が終了していることを物語っていた。
「そ、そうか? まぁ、私自身、この道に関しては世界でも有数の逸材だと自負しているからな…。ハーハッハッハッハッハッー!」
「ところで領主様? この後はどうするご予定で?」
ヴィショップの世辞にすっかり気分を良くして高笑いを上げるドーマを遮って、ヴィショップは質問する。
「この後か? この後は身体に付いた小汚い血を落とし、衣服を変えて酒を飲んで寝るだけだ」
「そうですか。では申し訳ありませんのですが、私は死体の回収と部屋の片づけを終えて失礼させてもらっても構わないでしょうか?」
「む……まぁ、構わんが…」
「領主様の広い御心遣いに感謝します」
「うむ、そうかそうか。では、ここは貴様に任せるぞ!」
ヴィショップがそう訊ねると、ドーマは少し残念そうな表情を浮かべながらもヴィショップの要求を呑む。そしてその後のヴィショップの言葉で更に機嫌を良くすると、衣服を翻して私室へと通じる階段に向かって歩き始めた。
ヴィショップは人の良さそうな笑顔を浮かべながら頭を下げてドーマを見送ると、その直後にさも思い出したかの様な素振りでドーマを引き留めた。
「あ、領主様。一つお聞きしたいことが」
「何だ?」
引き留められた領主は怪訝そうな表情を浮かべながらヴィショップへと振り返る。
対してヴィショップは相変わらずの笑顔を浮かべたまま、ドーマに問いかけた。
「次はいつ行われるご予定でしょうか? 子供達の供給の参考にしたいので」
「次か…そうだな…」
ヴィショップにそう訊ねられたドーマは、少し考える素振りを見せてから返事を返した。
「二日後! 二日後にする!」
「かしこまりました。では、お休みなさい」
「うむ! 貴様も当然、次回も参加するのだろうな?」
「えぇ、もちろん。その時は、私も楽しませていただきます」
「うむうむ! そうしろ、そうしろ! では、さらばだ!」
右手の人差し指と中指を立てながら返事を返す。そしてその後のヴィショップの答えを聞くと、スキップでもしだしかねない様子で階段に向かって歩いて行った。
ヴィショップはそんなドーマの後ろ姿にもう一度頭を下げると、ドーマに背を向けてベッドの方に向き直ると、ドーマに聞こえない様に小さく溜め息を吐いてから、ベッドに近づいていく。
「ひっでぇなぁ、おい」
ベッドの前に立ったヴィショップは、四肢をもがれ歯を引き抜かれ身体中に大小問わぬ無数の傷を刻み込まれ、全身をぬらぬらと光る赤と濁った白の退役で汚された少女を見下ろして、大した感慨も興味も無さそうな声音で呟く。
そしてヴィショップはじっと少女を見つめた後に少女から視線を外し、少女の身体と手足を放り込む為のずた袋を探そうとした瞬間だった。
「…………ぁ」
ヴィショップが少女から視線を外した瞬間、少女の口から極めて小さな、だが確かに声と呼べる音が漏れ出た。
(このガキ…まだ息が…)
ヴィショップはその声を逃さず聞き取ると、少女の方に向き直る。
すると、地下室の出口の扉に手を掛けていたドーマにも少女の声が聞こえたのか、扉を開きかけていた手を止めてヴィショップの方に向き直った。
「今、何か言ったか?」
「いえ、空耳ではないでしょうか? 今日はもうお疲れなのでは?」
ヴィショップは少女の口に手を置いて声が漏れないようにし、同時に少女の身体が自分の身体で隠れるような位置に身体を動かすと、ドーマに背を向けたまま返事を返す。
そんな彼の眼下では、口を塞がれた少女が驚きに目を見開きながらも、その瞳に希望の色を宿していた。恐らくは、目の前の男が自分を助けてくれるかもしれないと考えたのだろう。
「…そうだな。今日は早く休むとしよう」
「それがいいでしょう。お休みなさい。………ふぅ…」
ドーマは少しの間ヴィショップの顔を見つめると、欠伸を漏らしながら返事を返して扉を抜け、私室へと続く階段を上っていく。ヴィショップはその背中に言葉を投げかけ、そしてドーマの身体が見えなくなったのを確認すると、小さく溜め息を吐いて視線を少女へと戻した。
ヴィショップに視線を向けられた少女は、その目に怯えと期待を孕みつつヴィショップの目を見つめる。ヴィショップはそんな少女を冷淡な表情を浮かべて見つめ返すと、
「…ッ!?」
ヴィショップは少女の口を塞いでいないもう片方の手を少女の鼻へと伸ばし、親指と人差し指で少女の鼻をつまんで塞いだ。
気管を塞がれた少女が驚きに両目を見開き、ヴィショップの手を退けようと弱々しくもがく。だが少女の四肢は既に切り取られており、焼き鏝で無理矢理傷を塞がれた痛々しい後の残る切断面が宙を掻くだけだった。
「ったく、あの変態、中途半端もいい所だな。てめぇの趣味のケリですら満足に付けられねぇなんてよ。そんなんだから…」
ヴィショップは己の眼下で、残った力を振り絞って必死にもがく少女の姿をつまらなさそうに眺めながら、まるで安酒場で愚痴を漏らすかの様な口調で呟きを漏らす。そうしている内にも何とかもがいている少女の動きは段々と小さくなっていき、やがて完全に静止した。
ヴィショップは、涙を溜めて恐怖のあまり両目を大きく見開いて事切れた少女の姿をじっと見つめ、完全に息絶えていることを確認すると、両手を少女の鼻と口から離して、一言呟いた。
「俺みたいな人間に目を付けられる破目になる」
そう漏らすとヴィショップは少女に背を向け、少女の死体を放り込むずた袋を探す作業に戻ろうとする。
だがその際、彼はベッドの上に転がっている少女の右手の中に銀色の物体が落ちているのを見つけると、少女の指を開いてその物体を手に取り、まじまじと見つめてみる。少女の手から取り上げた物体は銀で出来た半円状の物体で、首に掛けられるように茶色の安っぽい紐が通されていた。表面に不自然に途切れた絵が彫り込まれており、この物体がもともと一つの物体だったものを二つに分けた内の片割れであることを物語っていた。
「ハッ、中々悪くないな。貰っとくか。ありがとよ、子猫ちゃん」
ヴィショップは拾い上げたネックレスをズボンの尻ポケットに突っ込むと、少女の死体に振り向いてそう告げる。そして再び少女に背を向けると、今度こそ少女の死体を詰めるずた袋を探し求めて歩き始めた。




