Child Play
獅子の頭を模した像の裏から姿を現した階段を、ヴィショップはルイスの後についていきながら下っていく。その後ろにはハインベルツが続いており、ヴィショップは自分に向けられている彼の視線から、振り向かずともハインベルツが自分に警戒心を抱いているのを読み取ることが出来た。
「凄いだろう、ボルツ! この隠し階段は我が屋敷に代々伝わる地下室へと繋がっており、不届き者の襲撃から何人もの主人を救ってきたのだ!」
「それはそれは…歴史の重みを感じるお話ですね」
「そうであろう、そうであろう! この屋敷は、まさしく『グランロッソ』の至宝の一つといっても過言ではないのだ!」
壁に掛けられた魔導具の灯りを頼りに階段を下りながら、ヴィショップはルイスの自慢話に応対する。
そのような会話を交わしながら階段を下っていると、気付けば三人は階段を下り切って古めかしい扉の目の前に立っていた。
「おお、着いたな。さて、鍵を開けるとしようか」
扉の前に進み出たドーマは凝った装飾の施された鍵を懐から取り出すと、扉の取っ手を縛る鎖にぶら下がっている南京錠の鍵穴に差し込んで捻る。そしてカチッという音を鳴らして鎖から落ちた南京錠を手に取ると、扉を縛っている鎖を取り払って床に落とした。
「さぁ、見るがよい。“宴”を催すには相応しい場所であろう?」
両手で扉を押して開いたドーマが、自慢気な口調で声を上げながら扉の先に足を踏み入れる。ヴィショップはその後に続いて部屋の中に入ると、中に広がる光景に思わず息を呑んだ。
「これはこれは…」
今しがた後にしてきたドーマの私室を凌ぐ程の広さを持ったこの地下室に存在するものは、大きく分けて三つしか存在しなかった。
一つは、部屋の色んな所にまるで家具の様に置かれた大量の拷問器具や道具類。その殆どは、ヴィショップが知識としては知っていても実物を拝んだことはないものばかりであり、それ以外は全く見たこともないようなものしかなかった。そしてそれらには恐らくは一つの例外も無く、使用した形跡が見て取れた。
そして二つ目は、部屋の中心に設置された優に三人は横になれるであろう純白のベッド。それは血なまぐさく、陰惨極まるレイアウトが施されたこの部屋の中では唯一の救いの様に感じられたが、一点の曇りも無いその純白の姿は、逆に不気味な威圧感を帯びて佇んでいた。
そして三つ目の存在は、
「い…イヤだ……こないで、イヤァッ!」
部屋の中心に据えられた純白のベッドの上で、四肢から伸びる無骨な鎖をジャラジャラと鳴らしながら怯えている、ボロ切れの様な衣服を身に纏った亜麻色の髪の少女だった。
(あのガキは……)
ヴィショップはベッドの上で涙を浮かべる少女の姿を見て、昨日の晩の出来事を思い出す。
(昨晩に小屋から連れてきたガキか……)
それは今まで全く動きの無かったドーマ側の、初めてのアクション。
夜の帳はとうに落ち、街を歩く人影も殆ど姿を消した時刻に屋敷に呼び出されたヴィショップとヤハドにハインベルツから告げられた、二つの言葉。一つは、翌日の晩に“宴”を行うこと。もう一つは、今晩の内に“宴”に使用する供物を屋敷に運び入れることだった。
そして今目の前でベッドに鎖で縛りつけられている少女こそが、ヴィショップが昨晩の内に屋敷に運び入れた少女だった。
(にしても…)
ヴィショップは罪悪感の欠片も無い視線を少女に数秒送った後、少女から目を離して部屋の内観を見渡しながら考え込む。
(この光景……まるで、あの時の…)
ヴィショップの脳裏で、今目の前に広がっている光景と、まだ元の世界に居た時に見たある光景とが重なっていく。
その二つの光景は詳細こそ違うものの、殆どずれることなく重なってく。そしてあと少しで二つの光景がヴィショップの脳裏で完全に重なるといったところで、
「どうだ、ボルツ! すんばらしいだろう、我が地下室にして悦楽の頂点を味わえる至高の楽園は!」
高らかに張り上げられたドーマの声によって遮られた。
「えぇ、そうですね。正直な話、予想を遥かに凌ぐ完成度の高さで、驚いております」
「そうであろう! まったく、自分の美的感覚の優秀さに思わず恐怖すら浮かんでくる次第である! ハハハハハハハァッ!」
心中で舌打ちを打ちつつ、ヴィショップは脳裏に浮かんだ光景を掻き消してドーマの望んでいるであろう答えを発する。
ヴィショップの言葉を受けたドーマは、嬉しそうに腹を揺らして高笑いを浮かべた。そして一通り笑い声を上げると、満足気な表情を浮かべてハインベルツの方に顔を向けた。
「では、ハインベルツよ。ここまでで結構だ。後は部屋の外で待っておれ」
「畏まりました。では、何かありましたらお呼びくださいませ」
ドーマにそう命じられたハインベルツは頭を下げると、ヴィショップの真横を横切って部屋の外へ出ていく。その際、ヴィショップを睨み付けることもご丁寧に忘れていなかった。
「さて……では、どちらから始める? 私としては、玄人として素人の貴様にお手本を見せてやるのはいいと思うのだが…?」
部屋から出て行いくハインベルツへと視線を向けていると、早速身に着けている衣服を脱ぎ始めたドーマがヴィショップに訊ねてくる。質問を受けたヴィショップは、衣服を脱ぎ始めたドーマの姿を、目に涙を滲ませて怯えきった様子で見つめている少女にチラリと視線を向けた。
「あ……た、助けてッ! 助けて、助けて、助けてッ!」
その視線に気付いたのか、少女は半ば錯乱した様子でヴィショップに助けを求め始める。
ヴィショップは髪を乱しながら、喉を潰さんばかりに声を張り上げる少女の姿を無感動に見つめると、ドーマに視線を戻し、人当りの良さそうな笑みを浮かべて返答を返した。
「今回は見物だけにさせてもらいます。領主様の御手腕を拝見させて頂くのに集中したいので」
「そうか。うむうむ、良い心がけだ。感心するぞ! ハハハハハハ!」
身に着けていた服を全て脱ぎ捨てたドーマは、ヴィショップの言葉に機嫌を良くしたのか全身の脂肪をブルブルと振るわせて笑いながら、地下室の一角に置いてある腰の辺りに届くぐらいの高さの滑車の付いた台に近づくと、それを片手で引っ張りながら少女の横たわるベッドに近づく。
「や…やめて……やめてくださいぃ……」
カラカラと乾いた音を立てながら、ドーマは台と共にベッドの真横にやってくると、台を残して再びベッドから離れる。ヴィショップはベッドから離れ、今度は、文字らしき金色の模様が入った黒い壺のようなものを運ぼうとしているドーマに視線を向けてから、台の上に並べられている物体へと視線を向けた。
(ワイヤーらしき紐状の物体に、鋏。それに何か液体の入れられた瓶に、ガーゼや包帯等…どうやらアレは、ガキの怪我の治療に使うっぽいな…。となると…)
台の上に並べられた色々な道具類を眺めてヴィショップは一人ごちると、視線をドーマが運んできた黒い壺へと移し、中身を覗き込む。壺の中には何個もの真っ黒な拳大の石が入っており、石の間に木製の持ち手の有る鉄製の棒が突き刺さっていた。
(熱する為の器具が見当たらないからはっきりとは言えないが、アレは焼き鏝ってところか。楽しめる上に傷口も塞げる…。この手の道具が必需品っていうのは、“こっち”でも変わらねぇか…)
ドーマが楽しげな表情を浮かべながら台の隣に置いた壺をつまらなさそうに眺めながら、ヴィショップは心中で呟いて小さく鼻を鳴らす。
この手の他者に継続的に痛めつける行為を行う際、痛めつける対象に対して応急処置を行うことの出来る道具類は必需品である。何故なら、人間の身体というのは壊れるときは簡単に壊れてしまうもので、傷の処置を行わないまま行為に及んでいると、気付けば出血多量やら何やらで死んでいることも珍しくはないからだ。
そしてこのような問題に対処出来る為か、焼き鏝など高熱を利用して苦痛を与える道具類はこの手の界隈ではかなり人気があった。これらの道具は、対象に押し付けたりして苦痛を与える他にも、傷口に押し当てることで、縫ったりするよりも遥かに手っ取り早く傷口を塞げる上に、鏝を熱するための器具を使って手足の切断等に使用する刃物の消毒も出来、この手の行為の際には非常に便利な道具であるといえるだろう。実際、ヴィショップも元の世界でスナッフビデオの撮影に立ち会った時に焼き鏝を使用しているのを見たことがあった。
もっとも、肉を焼いた際の臭い等で好き嫌いが出る上に、“とある理由”で対象が苦痛に耐えかねて悲鳴を上げることがない為にあまり派手でなく、使っていない場合もそれなりに存在したが。
「さぁて、そろそろ始めるとしようかねぇ…」
額に浮かんだ汗を拭ってドーマは呟きを漏らすと、壺の表面の模様に掌を押し当てる。すると壺の表面の模様が仄かに発行し始め、ドーマが手を離した瞬間にパチパチと音を立てて中に入った石が橙色に光り始めた。どうやらこの壺は、中に入っている物体を熱する力を持った魔導具らしい。
「ふふふふっ……では、楽しませてもらおうかぁ…」
ドーマは興奮を抑えきれない様子で笑みを浮かべると、石の間に突き刺さっている鉄の棒の木で出来た持ち手を握り、引き抜いた。
「ひっ……!」
熱せられた石の間から姿を現した、鉄の棒の先端部分を見て、少女が悲鳴を漏らす。
何故ならドーマが引き抜いたのは鏝ではなく、先端付近に肉厚の刃を持った手斧だったのだから。
「ほぅ、いい悲鳴だ。だが……私を興奮させるには足りないなぁ…?」
「や、やだ…。やだやだやだやだやだやだッ!」
熱で刀身を橙色に光らせた手斧を片手に、ドーマはベッドの上へと上がっていく。そんなドーマの姿を見て少女は鎖をジャラジャラと鳴らしながら首を振り、何とか逃げようともがき続けていた。
そんな光景を、ヴィショップは部屋の壁に背を預けながら眺める。今や、彼の眼は驚きに見開かれていた。何故なら、
(まさか……薬を使わない気か…?)
ドーマが、少女に対して意識を混濁させたり痛覚を鈍麻させる類いの薬を一切使用せずに事に及ぼうとしているからであった。
通常、スナッフビデオなどの撮影の際には麻薬等を使用して対象の意識を混濁させ、痛みを感じさせず、むしろ快楽の波の中に突き落としてから行為を始める。その理由は至って単純なもので、痛みを残したまま行為に及んだ場合、対象が有らんばかりの悲鳴を上げる為、悲鳴を上げるのを防ぐ為である。
(この手の行為の際、悲鳴を上げるのを防ぐのには第三者から発見されるのを防ぐなどといった尤もらしい理由がある…。だが実際には、痛めつけられる側が上げる悲鳴に行為に及んでいる本人ですら耐えられないからだ…)
少女に馬乗りになって、右手に握った手斧をゆっくりと振り上げるドーマの姿を見ながら、ヴィショップは考える。
(死を望む程の苦痛に直面した者の放つ絶叫は、性的欲求など簡単に押し退けて耳にするものに恐怖を与える。だから、俺が今まで目にしてきたスナッフビデオではガキに薬を撃ち込んで意識を混濁させていた……一つを除いて…)
ヴィショップの脳裏に、先程ドーマの言葉によって掻き消さなければならなかった光景が浮かび上がる。
旧型のブラウン管テレビ。そこに映し出された、今いる地下室と非常時に通ったレイアウトのマンションと思しき一室。
(そう、あれは……俺が刑務所に入る一年前……上海での………)
ドーマの振り上げた手斧が勢いよく振り下ろされて少女の肉と骨に喰らい付き、少女がこの世の物とは思えないような絶叫上げた瞬間、ヴィショップの脳裏に一年前の光景と一人の男の姿が鮮明に蘇った。
上海で対峙し、そして死闘の果てに殺した一人の日本人の姿が。
「ボス……ボス、起きてください」
「ん……着いたか…」
時刻にして午後六時頃。自らが所有するプライベートジェット機の、殆ど個室といっても過言では無い座席の上でいびきを掻いていたヴィショップ・ラングレンは、真横から飛んできた部下の言葉を受けると、若い頃と比べてすっかり重くなってしまった瞼をこじ開けて、目を覚ます。そして顔にかかる真っ白な前髪を手で退けると、背を思いっきり伸ばして大きな欠伸を一つ漏らした。
「はい。もう着陸しています。既に迎えが待っています、行きましょう」
「…分かった」
膝に掛けていた毛布を取り払いながら、スーツ姿の部下がヴィショップに話し掛ける。ヴィショップはそれに応えると、何本もの深いしわが刻み込まれた手を座席の肘掛けに着き、大儀そうに座席から立ち上がると、飛行機の出口に向かって歩き出した。
「ボス」
「ん」
途中、部下の一人から六連発リボルバー…コルト・パイソン、四インチモデルが収まったショルダーホルスターを受け取って、寝起きの倦怠感が中々薄れなくなってきた身体を動かして身に着ける。そして他の部下が持ってきたスーツの上着を着込むと、襟を正して飛行機の出口を抜けた。
「お待ちしておりました、ボス」
ヴィショップが出口から伸びるタラップへと足を踏み出した瞬間、下方から声が掛けられる。その声のした方にヴィショップが視線を向けると、そこには滑走路内だというのに黒塗りのリムジンが一台止まっていた。
「おう。カインはどうしてる?」
「チェンバーズさんなら、もう会合の会場に向かってます。チェンバーズさんから言いつけられているので、長旅でお疲れとは思いますが、ボスにもそのまま会合の会場に直行してもらうことになります」
「ったく、あの野郎も人遣いが荒ぇな…」
だが、そんな普通なら目を見張るような光景を前にしてもヴィショップは驚くどころか、退屈そうな表情を浮かべたままリムジンから姿を現した男と会話を交わすと、苦笑を浮かべ、後ろに部下を二人引き連れながらタラップを降り、男が開いたドアからリムジンへと乗り込む。
「場所は?」
「浦東新区にある中華料理店です」
「ふん、いかにも連中らしいな。世界各国、どこで会合やるにしても、奴等は中華料理店だ。連中、一種のジャンキーだな」
座席に座り、部下がワインを継いだグラスを受け取りながら、ヴィショップは運転席に座る男が語った会合の場所を効いて、鼻を鳴らす。そしてワインを口元まで持っていって傾けると、口内を充分に潤わせてから男に告げた。
「出せ」
「はい」
男は短く返事を返し、アクセルを踏み込む。
ヴィショップ達の乗るリムジンはその巨体を微かに揺らしてエンジンを吹かすと、滑走路から抜けるべく動き出した。今や、天を貫かんばかりのビルが立ち並ぶ、富める者と貧しき者が混ざり合って生きていく都市、上海の中心部へと向かって。
「着いたか」
「はい」
リムジンが走り出してから一時間程した頃、微かな振動と共に、リムジンが八階建ての建物の前で停車する。
ヴィショップはそれで目的地に到着したことを悟り、運転席の男に声を掛けると男は短く返事を返した。
「どうぞ、ボス」
自分の隣に座っていた部下がリムジンの扉を開き、ヴィショップが外に出れるようにする。ヴィショップは特に何も言葉を発さぬまま。手にしていたグラスをリムジンの適当な所に置いて外に出る。
「…これ全部が中華料理店だっけか? 派手な金の使い方するぜ、まったく」
リムジンから出たヴィショップは、目の前に鎮座する、平均収入程度では入ることすら叶わないであろう高級料理店、『龍天飯店』の看板を掲げた八階建ての建物を見上げて、呆れた口調で呟いた。
「既に皆様は中でお待ちです。行きましょう」
ヴィショップが目の前の建物を呆れ顔で見上げていると、リムジンの助手席から降りてきた男がヴィショップに声を掛け、建物の扉を開いて中に入るように促す。声を掛けられたヴィショップは無言で視線を男へと向けると、男の開いた扉を抜けて店の中へと足を踏み入れた。
「欢迎光临、客人」
鮫の顎の骨などが納められたガラスケースや、鳳凰を描いたと思わしき絵が飾られた店の中に入ると、カウンターに立っている店員が中国語で話し掛けてくる。一方で話し掛けられた本人であるヴィショップは、無言で視線を店員に向けた後、部下の後に扉を閉めて入ってきた男へと視線を向けた。
「少々お待ちを」
ヴィショップの視線を受けた男はそう告げて軽く頭を下げると、カウンターに立っている男と二、三会話を交わす。そして話を終えて店員から離れると、ヴィショップの方に振り向いた。
「それでは、参りましょう。チェンバーズさん達は最上階でお待ちです」
「分かった」
ヴィショップは短い返事を返すと、男の後について正面のエレベーターに向かって歩き出す。
エレベーターは男がボタンを押してから数秒と経たずに降りてきて、ヴィショップ達の目の前の扉が左右に開く。ヴィショップの目の前でエレベーターを待っていた男が一歩横に動いてヴィショップに道を譲る。ヴィショップは男が譲った道を通ってエレベーターに乗り込むと、壁に背中を預けて、部下と男が乗り込んできてボタンを押すのを、上海を訪れる切っ掛けになった出来事を思い返しながら眺めていた。
(しかし…まさか、窮奇の奴等から手を貸すように頼まれるとはな…)
上海に巣食うチャイニーズ・マフィアの中でも一際強大な力を持つ組織であり、今回の会合の相手でもある、犯罪組織窮奇。
ヴィショップの率いるクラブ・ネメシスが上海へと勢力を拡大しようとした時、最も激しい抵抗を見せた組織である窮奇が、他でもないクラブ・ネメシスの手を借りる為にヴィショップを上海に呼びつけたという事実に、ヴィショップは思わず苦笑を浮かべずにはいられなかった。
事の発端は、数日前。LAにある自宅で休んでいたヴィショップの許に掛かってきた、一本の電話だった。電話の主は、ヴィショップがクラブ・ネメシスを設立した時からのメンバーであり、上海支部を統括している男、カイン・チェンバースだった。
いくら古くからの付き合いとはいえ、滅多なことでは直接電話など掛けてこないカインが電話を掛けてきたのも充分に驚くべきことであったが、電話越しにカインがヴィショップに語った内容は更に驚くべきものであった。
「窮奇とクラブ・ネメシス上海支部、そのどちらもが潰されかねない事態が発生したので、急遽共闘体勢をとって問題解決にあたることになった。なので、上海で行う会合に出席して欲しい」そう、カインは電話越しに語っていた。
無論、こんなことをいきなり言われたところでヴィショップは、話を鵜呑みにして上海に行こうなどとは考えない。だが、今回だけは話が違った。何せ、この話を持ち掛けてきたのがクラブ・ネメシスを一緒に創設した同志であったというのもあったが、カインが電話越しで口にした今回の問題を引き起こしている張本人の名前、その名前が、彼に上海行きを決意させる程に重要な名前だったからだ。
(レンノスケ・カタギリ。事件から二年経った今でさえ、その名前を聞いたジャパニーズ・ヤクザは例外なく震え上がるといわれる、最悪の若造が出張ってきたとはな…)
電話越しでカインが、微かに震えた声で語った名前をヴィショップは脳裏で反芻する。
そして、その名前の主が引き起こしたとある事件を思い起こそうとしたその時だった。
「着きました、ボス。チェンバーズさんも窮奇の幹部達も扉の先の部屋でお待ちです」
僅かな振動と共にエレベーターが停止し、扉が左右にスライドする。ヴィショップは脳裏に浮かんでいた男の存在を頭から追い出すと、エレベーターの開扉ボタンを押している男…カインの部下の言葉にしたがって、目の前に見える龍の彫刻が施された扉へと部下を引き連れて近づいていく。
「トマレ。ブキ、ココデアズカル」
扉の目の前まで近づくと、左右に立っている、短機関銃を手にしたスーツ姿の中国人…恐らくは窮奇側の人間が掌を突き付けてヴィショップ達を止め、片言の英語で武器を預けるように要求する。
ヴィショップは二人の中国人に視線を少し向けた後、ホルスターに納めていたパイソンを抜き取って中国人に手渡すと、後ろの部下二人にも武器を出すように命じた。
「デハ、ボディチェックスル。テ、アゲル」
ヴィショップ達から武器を預かった中国人は、預かった武器を近くに置いてある机の上に並べると、片言の英語と身振り手振りでヴィショップ達に手を挙げるように言う。そして手を上げたヴィショップ達の身体を上から下に向かって軽く叩いていき、武器を所持していないことを確認すると、扉の取ってに手を伸ばした。
「イイダロウ。ボス、ナカデマッテル」
片言の英語を喋りながら、中国人が扉を開く。ヴィショップはボディチェックで僅かながらに乱れた服装を正すと、部屋の中へと足を踏み出した。




