獅子身中の蟲
時刻はH0712頃。既に日は昇り切り、『パラヒリア』の大通りに立ち並ぶ店々がぽつぽつと開店の準備を始めていく中、二頭の馬によって引かれる一台の馬車が、大通りのど真ん中をゆっくりと進んでいた。
「あれが、領主の屋敷か…」
馬車の御者台に座りって手綱を握っているヴィショップは、目を凝らして街の外れにある豪邸を見つめながら、ぽつりと呟く。不慣れな手つきで手綱を握る彼の姿には、何るべく目立たない様に配慮している様な雰囲気は微塵も感じられず、むしろ堂々としていた。
だが、今の彼の姿を見て、ギルド『蒼い月』の看板メンバーにのし上がった七人の内の一人、ヴィショップ・ラングレンだと気付く人間は殆どいないだろう。その一因には、彼がいつも身に着けている黒い外套やカウボーイハットを身に着けておらず、黒いズボンに白いシャツ姿でいることも含まれているだろう。だが、実際にその原因の殆どを占めているのは、今は後ろで一束に纏められいる、彼の無造作に伸ばされた髪の毛にある。
何故なら、今の彼の髪色は何の変哲も無い黒ではなく、濃い色合いの金色になっていたのだから。
ヴィショップの髪色が黒から金へと転じているのは、それは一言で言えば神導魔法によるものである。
『パラヒリア』近郊の森にひっそりと建てられていた、領主の忌むべき性癖の餌食となった子供達の死体を処理する為に使われている小屋。子供達の死体を処理しようとしていた男達からその場所を聞き出し、そこに辿り着いて子供達の死体を一先ず小屋の隠し部屋に放り込んだヴィショップとヤハドは、一時間程の仮眠を取った後に領主の屋敷へと向かうべく、男達が乗ってきた馬車のもとに向かった。
男達の吐き出した情報の通り、安っぽい作りの馬車は存在した。だが、ここで問題が生じる。それは、今の彼等の恰好にあった。ヴィショップとヤハドの恰好は、『クルーガ』に居た時から何一つ変わっていなかったのだ。
領主を嵌める為とはいえ、一時的にヴィショップとヤハドは領主と契約している犯罪組織『コルーチェ』の人間を装って死体の処理をしなければならない。となれば、自分達の身分がばれてしまえば作戦は失敗だし、同時にこれからもギルドメンバーとしてやっていくなら、自分達のことを覚えられる訳にもいかない。
だが、ヴィショップ達は既にこの世界に、写真に相当するようなものが存在していないことは確認しているものの、人の姿など口伝えや似顔絵などで簡単に広まってしまうものだ。その上、今回は主犯である領主は生かして捉える予定である。となれば、まず確実に領主に証言の機会が与えられるだろう。そして、ヴィショップ達がやろうとしていることを考えれば、まずヴィショップ達の姿が領主の記憶に残らないなんてことは有り得ないし、当然証言の際に領主の口から語られることとなるだろう。
となれば、変装でもすることによって、『コルーチェ』の一員に成りすましているヴィショップ達と、『蒼い月』のメンバーであるヴィショップ達が繋がらないようにする必要性がある。その変装にヴィショップが用いたのが、指定した対象の色を一日の間変化させる神導魔法『ターン・カレール』である。この神導魔法を使い、ヴィショップは髪の色を、ヤハドは皮膚の色を変化させたのだった。とはいっても、ヴィショップの魔力ではヤハドの全身の肌を変えると万が一の時に響くのと、ヤハド本人が物凄い拒否反応を示したので、服で隠せていない部分の色を変化させるに留めているが。
「おい、レイモンド。もう少しで着くぞ」
「…だから、俺はムハンマドだと言ってるだろうが」
丘の上の豪邸から視線を逸らし、背後の馬車に向かって声をかけると、不機嫌そうなヤハドの返事が返ってくる。
「だから、お前、肌の色見ろよ。どうみても白人なのに、その名前は変だろうが」
「フン、どうせここは地球じゃないんだ。“向こう”の常識など、通用しないさ。それに、俺は肌の色が変わろうがアラビア人だ。それは譲らん」
苦笑しながらヴィショップが話しかけると、不機嫌そうなままヤハドは返事を返し、そのまま黙り込む。
変装によって身分を誤魔化すにあたって、当然のことながら名前も偽名を名乗ることにした。偽名についてはヴィショップが考え、ヴィショップがボルツ、ヤハドが、神導魔法で変えた肌色に合わせてレイモンドにしたのだが、当のヤハドはそれを受け入れずに自分で考えたムハンマドという名で貫き通そうとしていた。
「分かった、分かった、好きな名前を名乗れよ、レイモンド」
「ムハンマドだ、腐れ米国人」
「汚ねぇ言葉を使うと、愛しの神様に地獄に落とされるぞ、クソテロリストが」
頑なに意見を変えようとしないヤハドに呆れながら、ヴィショップは苦笑を浮かべて軽口を叩く。
そんなことをしている間に、馬車は市街を抜けて領主の屋敷の建っている丘を登っていた。
「貴様にだけは言われたくないな、この外道が」
「よく言われるよ。っと、着いたぜ」
ヴィショップはヤハドに返事を返しつつ、屋敷の前の門まで辿り着くと馬車を止めた。すると、門の左右に立っていた鎧姿の騎士が馬車に歩み寄り、御者台に座るヴィショップを見上げながら声をかけてきた。
「ここから先は領主、ドーマ・ルィーズカァント様のお屋敷だ。用の無い者は引き返せ」
「えっと、その領主様に用があってきたんですよ…っと」
言葉の端に含まれる横柄さを隠そうともしない口調の騎士に対し、ヴィショップは彼等が望んでいるであろう、へりくだった態度で返事を返すと、懐から、子供達の死体を処理していた男達から拝借した、白い鳩に十字架というルィーズカァント家の紋章が彫り込まれたプレートを手渡す。
「“廃棄物”の始末をしてきたので、領主様にご報告に上がったのですが…」
「…分かった、さっさと通れ」
騎士は腰のベルトに差し込んでいる手帳の様なものを取り出して、ヴィショップ達…正確には馬車に乗った、ゴミ処理業者を名乗る男達の来訪が予定にあるかを確認すると、プレートを返して門を開くようにもう一人の騎士に合図を送る。
ヴィショップの言った“廃棄物”とは、森で処理することになっている子供達の死体の隠語である。
ヴィショップが男達から聞き出した情報によると、この街の領主であり、契約対象であるドーマの補佐をしている騎士団長ハインベルツも、自らの主の性癖については熟知しており、それを知った上で主の歪んだ性生活の維持に力を貸している。だが、だからといって騎士団の人間全てが領主の性癖を知っているわけではない。寧ろ情報の漏洩を防ぐためにその事実を知らせている人間は最小限に抑えられているのが実情である。その為、領主の性癖を知る人間は領主の自宅を護衛している騎士の中においても多くはなく、そんな何もしらない騎士達が死体の処理の報告に来る『コルーチェ』の人間を不審がらないように、屋敷で出たゴミの一部を処理する業者ということで領主と『コルーチェ』の人間の間で口裏が合わせられているとのことだった。
(小屋やら馬車やらの情報が正確だった時点で気にしちゃいなかったが……取り敢えず、あの男達の情報は信用できるものと考えてよさそうだな…)
男達から聞き出した上方が正しいことを再認識しつつ、ヴィショップは面倒臭そうな口調の騎士からプレートを受け取って懐にしまうと、解放された鉄製の門を通って中庭の方に向かおうとする。後は、中庭を通って屋敷の玄関まで辿り着き、再びプレートと要件を告げて領主に会えばいいだけだった。
「おい、ちょっと待て」
だが、再びノロノロと動き出した馬車に、騎士の男の静止の声がかかる。
「何でしょうか?」
ヴィショップは馬車を停めると、騎士の方に振り返って訊ねる。その表情からは焦りや驚愕などといった、凡そボロを出す結果を招くことによる感情の色は徹底的に排斥されており、浮かんでいたのはいかにも人当りの良さそうな人口の笑みだけだった。その笑みは本質的には詐欺師の浮かべるソレと同等だったが、その笑みは並大抵の詐欺師の笑みに付き物な、漠然とした不信感煽るようなことはなかった。
つまりその笑みは作り笑いにも関わらず、本心からくるものだと言われても納得してしまいそうな程に自然な笑みだったのだ。
「聞かされていた話によると、二人組だとのことだが、もう一人はどこにいったんだ?」
振り返ったヴィショップに対し、騎士は高圧的な口調で訊ねる。だがその口調は警戒からくるものではなく、ただ単にヴィショップを見下していることからくるものだったが。
「馬車の中に居ます。いやあ、相方は仕事熱心なもんで、いつも仕事が終わったあとはゴミの匂いが服に染み付いちまうんですよ。それで、騎士様の気分を害したら悪いと思い、馬車の中に引きこもっている次第です」
「そうか。ふむ、良い心がけだ。あともう一つ聞きたいのだが…?」
「はい、何でしょう?」
依然として人当りの良さそうな笑みを浮かべたままヴィショップが答えると、騎士の男は幾分か上機嫌になりながら次の質問に移った。その口調からは、つい先程まで見え隠れしていた高慢な調子は薄れていた。
「予定では、まだ日が昇らぬ内に屋敷に到着するとのことだったが?」
「あぁ、それですか。いやぁ、ゴミを処理するのに使ってる魔導具がイカれてしまいましてね? それで作業が遅れてしまったんですよ」
騎士の質問に対し、ヴィショップは思い出したような口調で返事を返す。
「そうか。まぁ、給料を減らされたくなければ、次からは気を付けろよ」
「はい、そうさせてもらいます」
ヴィショップが男に語った内容は無論嘘っぱちだが、当の騎士は全く疑うような素振りも見せずに、ヴィショップに先に進むように促す。ヴィショップは頭を軽く下げて返事を返すと、中庭に向かって馬車を向かわせた。
「……入ったぞ」
「……相変わらず、へつらうのが上手いことだ」
門を通り抜け、騎士達が再び門を閉めてヴィショップ達に背中を向けたのを確認すると、ヴィショップは前を向いたまま、軽く馬車の壁を拳て小突いてからヤハドに声をかける。
「だが、役に立っただろう? 下手に出るって行為は、場合によっちゃ五十口径の弾丸より強力な武器になるのさ」
侮蔑の色を含んだヤハドの返答に対しても、ヴィショップは特に気分を害した様子も無く答える。そして噴水をぐるっと回り、玄関の前まで馬車を移動させると御者台から飛び降りた。
「着いたぜ、ミスター・バッドスメル。それとも、手を取ってエスコートしてやらなきゃ怖くて降りられないか?」
「貴様にエスコートされるくらいなら、豚にエスコートされた方がまだマシだ、安っぽい小悪党が」
御者台から飛び降りたヴィショッップが軽口を叩くと、ヤハドはそれに対し軽口で応じながら、馬車の後部の扉を開いて降りる。その姿は、袖口などから覗く素肌が白くなっていること以外は特にいつもと大差無く、充分な活力が満ちていた。そしてヤハドは馬車から降りると、すばやく、それでいて自然な動きで馬車の扉を閉めた。
その行為は、元々死体を入れた袋以外は何も入っていなかったので今となっては馬車の中には何も残ってはいないが、それでも念を入れ、馬車の中に残った死体の臭いが漏れ出すことを防ぐための行為だった。
この馬車が何回も使われてきているのか、それとも死体を入れた袋が完全に密封されてはいなかったからなのか、そのどちらもなのかは分からないが、一つの事実として馬車の中には死体の臭いが染み付いていた。無論、元々この馬車を使っていた男達がこの臭いについて何の対策も練っていないということはなく、何の花かは分からないが何やら良い香りのする香水の様なものが入っている霧吹きが男達の荷物の中に入っていた。恐らく、というより十中八九はこの霧吹きを使用して馬車の中の臭いを軽減していたのだろう。
「何だ、元気そうじゃないか。てっきり、青ざめた姿で出てくるもんだと思ってたぜ。酸っぱいもんでも要るか?」
「それは妊婦の場合だろうが…」
だがそれでもなお、馬車の内部から死体の臭いの全てを消し去ることは出来なかった。その臭いは微かに鼻孔をくすぐる程度ではあるが、確かに馬車の中に居座り続けていた。
その為、ヴィショップは馬車から降りたヤハドの顔は青ざめているものだとばっかり考えていた。死体の臭いなど、当然心休まる臭いではない。むしろそれは、たとえどんなに微かでも人の気分を腐らせていく臭いだ。大抵の人間にとってその臭いは耐え難いものだろう。それに耐えられる人種は、恒常的にその臭いを嗅ぎ続けてきた人間、つまりはその臭いに慣れてしまった人間意外には有り得ないだろう。
(少なくとも、地獄を見たことはあるって訳か……)
ヴィショップはヤハドの過去に、人の死臭に慣れてしまう様な出来事が過去にあることを見抜く。そして恐らく、その出来事が彼をテロリストという存在に変えたことも。
「……何を見ている。言っておくが、俺はこれでもイスラム教徒だぞ」
「…安心しろ。俺の結婚相手はれっきとした女だ」
ヤハドが自分のことを見つめているヴィショップの視線に気付き、嫌悪感を丸出しにした表情を浮かべる。ヴィショップは苦笑を浮かべると、左手の薬指をヤハドにかざしてから、屋敷の正面玄関へと歩き出す。
「お前はここで馬車を見張ってろ。いいな?」
「分かったから、さっさと行け。やっと貴様から離れられるかと思うと、清々する」
「センズリかくなら、馬車の中でやれよ?」
「誰がやるか、ボケナスが」
そしてヤハドに向かって軽口を叩くと、正面玄関の扉を挟んで立っている騎士の方に歩み寄った。
「“廃棄物”の処理が済みましたので、そのご報告にまいりました」
「うむ……ご苦労だった。報酬はいつも通りに節の終わりで構わないな?」
「はい、それで大丈夫です。ところで、一つお願いが」
ヴィショップの差し出したプレートを確認した後、先程の騎士と同じ様にベルト差し込んでいる手帳を開いて確認を済ませると、ヴィショップにプレートを返して、後はさっさと帰れとでも言いたげに欠伸を噛み殺す。
だがそれでヴィショップはこれで引き返すつもりは毛頭ななかった。領主の変質的性衝動がどこで解放されているのか、そして次に行われるとしたらそれはどこなのか、それを知る為に、領主に近づいて会話を交わし、親しくなる必要があった。
昨晩に男達を尋問した際、ヴィショップは男達が、子供達がいつどこで領主の毒牙にかかっているかも聞き出そうとはしたのだが、案の定彼等は知らなかった。とどのつまり、彼等はあくまでも後処理に徹しており、領主の罪を暴くためにはその懐に飛び込んむ必要があったのだ。
その為にも、ヴィショップは今この場で領主と会って話を交わす必要があった。『パラヒリア』近郊の森林に建てられた小屋に監禁されている子供のストックは四人。それが尽きれば補充が必要になるが、そうなれば『コルーチェ』の他のメンバーと接触する必要が出てくることになるであろうことは、想像に難くない。つまり、今確保出来ている子供達のストックが尽きる前にケリを付ける必要がある。領主が一回の性衝動の解放でどれだけの人数の子供を消費するのか定かでないのも相まって、モタモタしていられる程の余裕は今のヴィショップ達には存在しなかった。
「何だ? こっちだって暇じゃないんだ。報酬の引き上げとかなら聞かないからな」
「いや、そうじゃなくてですね? ただ、領主様とお話しさせてもらいたいと思いまして」
あからさまに面倒臭そうな表情を浮かべていた騎士は、ヴィショップの言葉を聞くや否やその表情をますます面倒臭そうなものに変えて、ヴィショップに訊ねた。
「駄目だ、駄目だ。領主様はまだ就寝中だ。会いたければ後にしろ」
「いやぁ、でも、上司からこの仕事の担当が変わったことを報告しておくように言われてまして」
「ん? そう言えばお前、いつもの奴ではないな?」
ヴィショップが自ら告げて、馬車に乗ってやってきた男の顔が、自分が正面玄関や門の番を務めている日にときおりやってきた男のものと違うことにやっと気付いたのか、騎士はまじまじとヴィショップの顔を見つめる。それに釣られてヴィショップに応対していないもう一人の騎士もヴィショップの顔に視線を向ける中、ヴィショップは人当りの良さそうな笑顔を張り付けたまま、二の句を告げた。
「そういう訳で何とかなりませんかね? まぁ、何が起こるって訳でもないですが、領主様への報告が遅れたことで万が一…ということもありますしねぇ…?」
「う~む……仕方ない、か…」
ヴィショップの言葉を受けた騎士は少しの間考え込んだ後、仕方なさそうに言葉を漏らした。
「では…?」
「分かった。今、領主様に報告を入れてくるから、ここで待っていろ。おい、お前はこいつを見張っていろよ」
騎士はニコニコと人畜無害そうな笑みを浮かべているヴィショップにそう告げると、一緒に正面玄関の番をしているもう一人の騎士にヴィショップの監視を任せ、普段昼まで寝ている領主を朝方に起こしたことで向けられるであろう苛立ちの矛先が、少しでもこの朝方に押しかけてきたヴィショップに向けられるように祈りながら、騎士は正面玄関の扉を開いて屋敷の中に姿を消した。
「おい、領主様が話を聞いて下さるそうだ。ついてこい」
「そうですか。いやぁ、助かります」
騎士の男が屋敷の中に姿を消してから数分後、正面玄関の扉が再び開かれ、正面玄関の前で手持無沙汰にしていたヴィショップに向かって騎士の声が掛けられる。ヴィショップはそれにすぐに返事を返すと、もう一人の騎士に軽く会釈をしてから、騎士の後について屋敷の中へと入っていった。
(ごちゃごちゃと、子供みてぇなセンスしてやがる…)
騎士の後についていきながらヴィショップは、高そうな物品を片っ端から集めたに違いないであろう、屋敷を彩る統合性のないインテリアの数々を眺めて、心中で嘲笑を漏らす。
「この応接間でお会いになるそうだ。くれぐれも粗相をするんじゃないぞ」
「重々承知しております。案内してくださって、有難うございました」
そんなことをしている内に、二人は領主の待つ応接間の扉の前へと辿り着く。
ヴィショップは、騎士の言葉に丁寧に返事を返すと、騎士の開いてくれた扉を抜けて応接間へと入っていった。
本来であれば、この騎士はこのまま扉を閉め、時間を遅れて朝っぱらに参上し、領主の理不尽な怒りを向けられる原因を作った目の前の男に対して心中で呪いの言葉を吐き捨てて、正面玄関の番に戻る筈だった。だが、今回、騎士はヴィショップに対して心中で呪いの言葉を吐き捨てることは出来なかった。何故なら、そんなことより遥かに彼の意識を引き付ける出来事が起こったからである。
その出来事とは、応接間に入ろうとするヴィショップの顔に、騎士が何てことはなしに視線を投げかけた瞬間に起こった。騎士は、朝っぱらに起こされる原因を作ったこの男が、少なくとも自分と同程度の理不尽な叱責を受ける筈だと考え、話を終えて戻ってきた時にこの男がどれだけ憔悴しているかを確かめられるよう、ニコニコと人当りの良さそうな笑みを浮かべている今の表情を脳裏に焼き付けておこうと考えた。
だが、人畜無害そうな笑みが浮かんでいることを予想してヴィショップの顔へと向けられた騎士の両目に移ったのは、予想とは全く違う表情。その表情は確かに笑っているには違いなかったが、人畜無害などという言葉を鼻で笑うどころか、その上に糞をひり出しているような笑みだった。しっかりと開かれた目には、底の見えない程に深い井戸の様な漆黒の色が宿り、吊り上った口角からは愛嬌の欠片も感じられず、ただただ冷酷さが浮かんでいた。まさに、目の前の人間をどう地獄の釜の底に叩き落としてやろうかと思索する悪魔の如き笑みが、応接間に踏み入れようとする男の顔に浮かんでいたのだ。
その笑みを見た瞬間、騎士の背中を冷たいものが駆け上がる。騎士の視線は、ほんのごく短時間の間…ヴィショップが応接間に入り、彼の表情が騎士の立っている場所から見えなくなるまでのほんの一瞬の間だが、ヴィショップの表情に釘付けにされて離れることが出来なかった。そしてヴィショップの表情が見えなくなった次の瞬間には、ヴィショップに向けていた視線を物凄い勢いで自分の足元へと移していた。まるで、次瞬間に今は後頭部を向けているヴィショップの顔がぐるんと自分の方に向けられ、先程までの陰惨な笑みを浮かべたヴィショップの視線と自らの視線が交錯することを恐れる様に。
騎士は視線を下に向けたまま、扉を閉めることもなく固まっていた。かといって、それの時間は決して何者かに不審がられるほど長くはなく、応接間で始まった、苛立ちを隠すどころか全面に押し出した様子の領主の言葉と、それを先程までの低姿勢の口調で宥めるヴィショップの声が聞こえてくるまでの間だけだった。
先程までと何ら変わらぬ声が聞こえてきた瞬間、騎士は思わず安堵の溜め息を吐くと、領主と領主に付いている騎士団長に一言挨拶をしてから扉を閉めた。そして、領主と騎士団長に挨拶を入れた際に視界に入った、先程までと変わらぬ人当りの良さそうな笑みを浮かべたヴィショップの表情は騎士に一つの結論を導き出した。
つまり、先程のおとぎ話に出てくる様な地獄の悪魔の如き笑みは、光の屈折やら何やらで生み出された自分の錯覚だった、という結論である。
騎士はその結論に行き当たると、ヴィショップに対して呪いの言葉を吐き捨てることも忘れ、実に清々しい気分で正面玄関へと戻っていった。
だが彼は後に悟ることとなる。あの笑みが錯覚でも何でもなかったということを。
「で? つまり、前の奴等に代わって、お前と馬車に居るもう一人が担当になったから、その報告をしにきたという訳か?」
「はい、つまりはそういう訳です」
ヴィショップをここまで案内した騎士が、ヴィショップが嵌めるべき存在を見つけた際に一瞬だけ浮かべた笑みに、心を大きく揺さぶられていることなど露も知らぬまま、ヴィショップは応接間の席に座って領主と言葉を交わしていた。
「そんなことのためだけに、一々この私を起こすな、馬鹿者! 昨日は夜遅くまで酒を飲んでいたので、寝不足なのだぞ?」
「それは大変迷惑をおかけしました。こちらとしてもこのような早朝に押しかけるのは気が引けたのですが、なるべくこの手の雑務は後に長引かせた方が寧ろ領主様の手を煩わせる結果になると考えまして…」
太い指で眠そうに瞼を擦りながら、『ルィーズカァント領』の領主であるドーマ・ルィーズカァントは苛立ちの籠った声を上げる。だがそんな彼の声も、ヴィショップが自分の一方的に自分に非があるように振る舞い、なおかつ丁寧に対応していく内に丸みを帯びていった。
「ふん、貴様等なりの心遣いという訳か。まぁいいだろう」
「領主様の寛大なお心遣いに感謝致します」
「うむ、そうだろう、そうだろう。私は貴様等の不手際で朝早くにベッドから追い出されたとしても、簡単に水に流してしまえる程に心の広い人間なのだ。フハハハハハハ!」
ヴィショップが頭を下げると、ドーマは妊婦の様に突き出た腹を揺らしながら笑い声を上げ、赤ワインの注がれたグラスを口へと運ぶ。
だが、そんなドーマの態度とは対照的に、彼の背後に立つ騎士団長、ハインベルツ・グノーシアの表情は冷め切っており、その視線はヴィショップだけへと注がれていた。
(成る程、後ろの野郎はお飾りじゃない訳だ)
その視線から、はっきりとした警戒の臭いを嗅ぎ取って、ヴィショップは心中でそう呟く。
(もっとも、お前が警戒したところで、この変態に伝わらなきゃ、意味なんてねぇけどな)
そして同時に心中でほくそ笑むと、下げていた頭をゆっくりと持ち上げた。
「ん? これで話すべきことは終わりか?なら、もう出ていけ。私にはやることがある」
「いえ、もう一つ。領主様の広い御心に甘えさせていただきたいことがあります」
まるで今までヴィショップが居たことを忘れていたかの様な態度で、ドーマは顔を上げたヴィショップの方に視線を向けて屋敷から追い出そうとする。ヴィショップはそれに対し、ドーマを持ち上げる口調で彼の要望を跳ね除けると、ドーマがそれに対し何か言葉を発する前に二の句を告げた。
「領主様が楽しんでおられ、我々がお手伝いをさせてもらっています、領主様の高尚なご趣味。それに、私も参加させてはいただけないでしょうか?」
そう告げて、ヴィショップはにっこりと笑った。
その笑みの裏に、先程騎士が垣間見た笑みを隠しながら。




