意志を貫く者
「ここか…」
立ち並ぶ木々の中にぽつんと建てられている木造の安っぽい造りの小屋。その小屋の前に、ヴィショップとヤハドは両肩に袋を担いで立っていた。
『ルィーズカァント領』の領主、ドーマ・ルィーズカァントの暗い性癖の後始末をしている男達を捕え、彼等から情報を聞き出したヴィショップ達は男達を殺して死体を処理した後、その情報と男達の持っていた地図に従って森の中へと入っていき、彼等が少女達の死体を処理している小屋へと向かった。そしてもう日が昇り始めるまで一時間も無いであろう時刻になって、ようやく二人は目的の小屋の前まで辿り着いたのであった。
「今何時時だ?」
「H0504。ここじゃ分からないが、もう空が白くなり始めてる頃だろ」
ヤハドの問いかけに、ヴィショップは懐中時計の蓋を開いて時間を確かめながら答えた。鬱葱と生い茂る木々のせいで満足に空を見ることは出来ないが、もし見ることが出来たならヴィショップの言葉通り、白み始めてきた地平線が拝めることであろう。
ヤハドに返事を返すと袋一旦地面に置いてから、ヴィショップは懐から男達から奪った鍵束を取り出して小屋の扉の鍵穴に差し込んで回し、扉の取っ手に手をかけて扉を開いて小屋の中へと足を踏み入れる。
「……ここは特に何も無いな」
「あぁ。二本足で立つウサギが出てきても不思議じゃないくらい、普通だな」
扉の先に広がっていた、木のテーブルと椅子、そして暖炉が設けられた牧歌的な風景を見て、ヤハドは拍子抜けしたような声音で呟き、ヴィショップな軽口を叩く。
「まっ、カモフラージュだろうな。万が一、何の関係も無い人間がやってきてもいいように」
「…だろうな」
一旦外に戻って置いてきた袋を回収すると、そのままずかずかと足を踏み入れて床に袋を置き、リビングと思しき部屋のを歩き回りながらヴィショップはそう告げる。それにヤハドは賛同すると、ヴィショップと同じ様に両肩に担いでいた袋を床に下ろして小屋の奥へと進み、その先にあった台所や寝室を物色していく。
「これは…血か?」
ヤハドが台所に乱雑に置かれた皿やコップや戸棚の中などを適当に物色しながら一通り確認し、寝室へと移ろうとすると、色あせた木目の床にぽつんと赤黒い斑点が彩られていることに気付いた。
「…今日付いたものではなさそうだ」
床に屈みこみ、指を血痕に軽く押し当てる。血痕に触れた瞬間、指先が粉っぽい硬さを感じて、ヤハドは小さく呟く。そして視線を上げると、同じような赤黒い斑点が寝室に向かって続いているのを見て取れた。
ヤハドは指をこすり合わせて指先に付着した血液のカスを払い落としながら立ち上がると、寝室へと続く血痕を辿っていく。ぽつぽつと一定間隔で点在する血痕は一つの道となってヤハドを導き、その道はやがて、ヤハドを寝室の端に置いてある本棚の前に誘った。
「……ここが終点か?」
不意に途切れた血痕を見下ろしてヤハドは呟くと、視線を上げて目の前の本棚を見る。
その本棚もまた、小屋に置いてある他の家具と同じように安っぽい作りの色あせた木目の本棚だった。棚に納められている本の数も少なく、三段で構成されているもののガラガラで、支えの無い本が横倒しで置かれている状態。ヤハドはそんな本棚に手を伸ばし、本を退かしながら物色していく。そして、
「……鍵穴?」
二段目の棚に指を這わせていると、指先が穴のようなものを捉える。ヤハドがその穴の輪郭をなぞるように指先を這わせると、その穴が鍵穴のような形をしていることに気が付く。
「そういえば、米国人があの男達から鍵束を奪っていたな…。オイ。米国人!」
ヤハドはヴィショップが男達から鍵束を奪っていたことを思い出し、リビングに向かって声を張り上げた。
「うるせぇな。腹が減った赤子じゃあるまいし、もうちょっと理性的な呼び方が出来ねぇのかよ、お前は」
数秒程してヤハドの居る寝室に、ヴィショップが呆れたような表情を浮かべながら入ってくる。
「老人なんだろう? 耳が遠いと思ってな」
「揚げ足取るな、ターバン野郎。で? 何の用だ?」
「この本棚の二段目の所に、鍵穴の様なものがある。お前の持っている鍵束が役に立つかもしれん」
ヤハドはそんなヴィショップの軽口に軽口で応じると、本棚に存在する鍵穴の様なものについて話す。それを聞いたヴィショップは一瞬怪訝そうな表情を浮かべた後、先程のヤハドと同じように本棚の二段目に指先を這わせた。
「……成る程ね」
そしてその指先が問題の穴を捉えると、ヴィショップは懐から鍵束を取り出して鍵穴に合いそうな鍵を探し始める。安っぽい鉄製のリングからぶら下がっている鍵は全部で五本存在し、部屋の中はまだ太陽が昇っていないことに加えて、小屋が森の中に建っているということもありそれなりに薄暗かったが、ヴィショップは鍵の表面を指の腹で撫でながらじっと見つめることを四回(既に小屋の鍵を開ける時に使ったものは除外していた)繰り返すと、五本の鍵の中から一本を選んで本棚にぽっかりと空いた鍵穴へと差し込んで回した。
しん、と静まり返った室内にガチャンという乾いた音が響く。その次の瞬間、鍵を差し込まれた木製の本棚がゆっくりと真横に向かってスライドし始めた。
「…良い趣味してるぜ」
本棚が、ずずずという低い音を立てながら真横にスライドすることによって、本棚の裏側に隠されていた、丁度本棚と同じぐらいの大きさの扉が姿を現す。
ヴィショップは本棚の動きが停止するまで待ってから、本棚の裏から姿を現した扉の取っ手に手を掛けた。
「鍵は掛かってねぇみたいだな」
取っ手を回して軽く押し込み、扉が僅かに開いたことを確認して、ヴィショップは小さく呟く。そして腰からぶら下げていた光源用の神導具(男達が所有しているもので、どうやら魔物避けの効力も持っているらしい)を左手で持ち、右手でホルスターから白銀の魔弓を引き抜いた。
「俺がこの先に進む。お前はここで待機してろ」
「分かった。何かあったら呼べよ」
そしてヤハドを扉の前で待機させると、扉を開いてその先へと足を踏み入れた。
扉の先は真っ暗だった。いくら森の中だとはいえある程度は外からの光が入ってくる筈なので、完全に真っ暗ということはこの部屋には窓が存在しないのだろう。ヴィショップは後ろ手で扉を閉めると、神導具を掲げて部屋の中を照らしてみる。
もっとも、部屋に入った瞬間に鼻をついてきた匂いで、ある程度この部屋の状況は理解出来ていたが。
「やっぱりな…」
神導具の灯りでぼんやりと照らし出された部屋の有り様を見て、ヴィショップはぽつりと呟く。他の部屋と同じ様に色あせた木目の床や壁は、夥しい量の血で彩られていた。その血液の殆どは乾ききってどす黒く変色していたが、中にはまだ乾ききっておらず、神導具の光を反射してぬらぬらと光るものも存在した。部屋にはおおよそ家具と呼べるものは、何やら書類のようなものが乱雑に置かれている簡素な椅子とテーブル以外には存在していない。その他の部屋のスペースは黒い布をすっぽりと被せられた、ヴィショップの胸下辺りの高さの五つの四角い物体によって埋められており、部屋の奥にはこれまた簡素な暖炉が備え付けてあった。
ヴィショップは部屋の粗方の状況を確認すると、左手で神導具を掲げながら黒い布を被せられた四角い物体に近づく。そして姿勢を低くすると神導具を床に置き、魔弓を四角い物体へと向けながら、左手で四角い物体に被せられている布を捲り上げた。
「まぁ、そうだろうな…」
黒い布を捲り上げた先に視界に入ってきたものを見て、ヴィショップは呟く。黒い布に覆われていた四角い物体の正体、それはぼろぼろの布を身に纏った少女の入った、鉄製の檻であった。
ヴィショップは黒い布を取り払い、中に入っている少女の姿を見つめる。だが、布を取り払われ神導具の光まで向けられているにも関わらず、中に入っている少女はぴくりとも身体を動かさずに蹲ったままだった。
(もう死んでるのか……? いや…)
微動だにせず、何の反応も示さない少女の姿を見て、ヴィショップは一瞬少女が既に息絶えてるのではないかと考えたが、すぐにその考えを霧散させて、少女の入っている檻を調べ始める。
確かに、視界を覆っていた黒い布を取り払い、灯りまで向けているのに何の反応も無かったのならば、普通はそういう反応が取れない状態…つまり意識が無い状態なのだと考えるだろう。実際、ヴィショップもその考えに至ったのだが、そこである存在を思い出した。
それは彼の居た世界には無く、今彼が居る世界にはある技術、乃ち魔法である。この世界では当たり前のように存在している魔法は選ばれたものしか使用出来ないといえ、その殆どがヴィショップの常識を覆す。到底草木など生えないような場所から植物の蔓を生やし、水気の無い場所で水を生成し、果てにはどんな物質で構成されているかも分からない鎖や壁を生成する。そして何よりも、そのような技術を誰にでも使用できるように一つの道具に籠めることが可能であり、実際に行われている。
となれば、中に放り込んだ人間の五感の働きを阻害するような力を持った檻ぐらい、存在していてもおかしくはない、そうヴィショップは考えたのだ。
「ビンゴ…!」
果たしてその予想は的中した。ヴィショップは魔弓を置き、神導具を持ち上げて檻を観察していく内に、檻を檻足らしめる鉄の柱の内の一本に紋章のようなものが刻み込まれているのを発見する。
(つまりこれはただの檻じゃない可能性が高いって訳だ…。恐らく、神導具の類いだな。まぁ、確証が持てている訳でもねぇが……ん?)
指先で鉄の柱に刻み込まれた紋章を撫でながら、ヴィショップはこの檻について考えを巡らせる。するとヴィショップは、不意に檻の中から何かが動く気配を感じ、檻の中に向かって視線を移した。
「……………」
ヴィショップが視線を移した先、恐らくは神導具である檻の中では、先程まで蹲ってぴくりとも動かなかった少女がいつの間にか起き上がり、辺りをきょろきょろと見回していた。
(やっぱり生きてたか…。それよりも、こっちの姿に反応している様子はねぇ……となれば、やっぱり予想は的中か?)
汚れて汚らしくなった金色の髪を揺らしてきょろきょろと辺りを見回し、やがてサファイヤの様な両目に涙を浮かべて再び蹲る痩せ細った少女の姿を見ながら、ヴィショップは自分の考えを確固たるものにする。
ヴィショップは最後に檻の中の少女を一瞥すると、檻に被せられていた黒い布を再び被せてから魔弓を手に取って立ち上がった。そして黒い布を被せられた他の檻に近づくと、一つ一つ布を捲って中を確認していく。その中身は髪の色や目の色、顔立ちなどに差異こそ有るものの、そのどれもが恐怖と絶望がごちゃまぜになった表情を浮かべる痩せ細った少女であることは変わらなかった。ただ一つ、部屋の一番奥においてある檻に入っていた存在を除いては。
「こいつは……」
最後に手を伸ばした五番目の檻に入れられている存在を見て、ヴィショップは小さく言葉を漏らす。
最後の檻に入れられていたのは、灰色の毛並をした一匹の犬だった。といっても、体長は二メートル近くある上に、顔つきはヴィショップのよく知るドーベルマンなどといった大型犬よりも尖っており、どちらかと言えば狼とよんだ方が相応しい見た目をしていた。
「この檻もか」
ヴィショップは横になったままじっとしている檻の中の犬を見ながら、鉄柱のに刻み込まれた紋章に指先で触れる。するとヴィショップは、檻の中に赤黒い小さな物体がいくつか転がっているのに気付いて、手を伸ばした。
一瞬、檻の中に手を入れれば中に入れられている存在も知覚出来るのではないかと思い、手の動きを止めて魔弓を握りなおしたが、危惧したような事態が起こることはなく、檻の中に向かって伸ばされたヴィショップの左手は目的の物体を人差し指と親指で摘み上げてヴィショップの許に帰ってきた。
「成る程、そういう趣向か…」
左の人差し指と親指で摘み上げた赤黒い小さな物体を見つめながら、ヴィショップは小さく呟く。二本の指の腹で弄ばれている小さな物体は、ぶよぶよと柔らかく、しっとりと湿っていた。
「となると、こっちには…」
ヴィショップは左手の二本の指で弄んでいた物体を投げ捨てると、立ち上がって部屋の奥に設置されている暖炉へと向かう。そして灰がすっかり溜まった暖炉の目の前にしゃがみ込むと、神導具を床に置いて左手で灰をゆっくりとした動作で払い始める。嵌めている黒い手袋が徐々に灰色に染まっていくのを全く厭わずにヴィショップは手を動かし続ける。そして手袋越しに、灰とは違う硬い感触が僅かに伝わってくると、ヴィショップは手を止めて灰の中に指を突っ込み、灰の中から白い何かの欠片のようなものを取り出した。
「やっぱり有ったか…」
ヴィショップは灰の中から拾い上げた欠片をまじまじと見つめて、そう呟く。そして灰の中にその欠片を投げ入れると、魔弓をホルスターに納めて立ち上がり、この部屋の出口に向かって歩き出した。
彼は理解していた。犬らしき生物の入った檻に中にあった赤黒い物体、そして暖炉の灰の中に紛れていた白い何かの欠片。その正体が一体何であるのかを。そしてここで何が行われ、何故そのような行為が行われたのかを。
「やはり、この部屋に窓はねぇな…」
扉に向かって歩きながら、ヴィショップは部屋の壁をぐるりと見渡して呟く。
「まぁ、キツイもんな。人の肉が焼ける臭いは。こんな換気するのも一苦労な部屋じゃ、先に肉だけ焼かずに処分したくなるのも分かるってもんだ」
口角を僅かに吊り上げ、まるで同情でもするかの様に呟くと、ヴィショップは最後にこの部屋に置かれた数少ない家具である机に近づき、その上に置かれた何枚かの紐で括られた羊皮紙の束を手に取ってから、部屋の扉の取ってに手を伸ばして扉を開いた。
「……どうだった?」
「予想を裏切らない、肥溜め具合だったよ」
扉を開いて寝室へと戻ったヴィショップに、壁にもたれ掛ってヴィショップの手巻きの煙草を吹かしていたヤハドが声をかける。それにヴィショップは小さく笑いながら軽口を交えて返事を返すと、神導具を腰から吊るしてから自分も煙草を取り出しつつ、部屋の中の状況をヤハドに説明し始めた。
「チッ…下衆共が…!」
ヴィショップの説明を聞き終わったヤハドが、煙草を口元から外して忌々しそうに吐き捨てる。ヴィショップがそんな彼の姿を紫煙をくゆらせながら眺めていると、ヤハドが短くなった煙草を床に放り捨てて荒々しく足で踏み潰しながら問いかけてきた。
「……これからどうするつもりだ? どうせ、お前の中では既に考えが纏まっているんだろう?」
「そうだな…取り敢えず、玄関に置いてきた死体をこの隠し部屋に移す」
「そういうことを訊いているのではない」
ヴィショップのからかうような返事に眉をひそめつつ、ヤハドはヴィショップが差し出した手巻きの煙草を受け取り、マッチで火を点ける。ヴィショップはヤハドが煙草に火を点け終わり、煙を吹かしたのを横目で確認しながら、隠し部屋から持ってきた羊皮紙の束に目を通しつつ、ヤハドの問いかけに答えた。
「取り敢えず、後二回でケリを付けたい」
「後二回? 何のことだ?」
ヴィショップの発した言葉の意味が分からず、ヤハドはヴィショップに聞き返す。それに対しヴィショップは、羊皮紙の束に目を通してヤハドには視線を向けることないまま、返事を返した。
「んなもん、決まってる。領主が処刑台に送られる前に楽しめる、残りの“お楽しみ”の回数さ」
その一言をヴィショップが発した瞬間、煙草を吹かしていたヤハドの動きが止まり、彼の表情が一瞬にして固まる。咥えていた煙草がぽとりと床に向かって落下し、彼のブルーの両目は大きく見開かれてヴィショップを睨めつける。そして彼の表情が驚愕から怒りへと塗り替えられた瞬間、ヤハドの右手が弾かれたかのように動いてヴィショップの胸ぐらを掴み、力いっぱい壁に押し付けた。
ヤハドはそのヴィショップの言葉で全てを理解した。ヴィショップが、隠し部屋の捕らわれている子供達の命を目的の為に差し出そうとしていることを。それも考え得る限り最悪の方法で。
ヴィショップの背中が壁に押し付けられ、腰から吊るしていた神導具が壁にぶつかって音を立てる。その衝撃でヴィショップの頭からカウボーイハットが落ち、ひらりと宙を舞って床に落下し、肺から押し出され、口から吐き出された空気によって加えていた煙草が零れ落ちる。ただそれでも、手に持っていた羊皮紙の束、そして視線だけは床に向かって落とすことはなかった。
「…どうした? 虫の居所が悪そうだな?」
怒りにも苦痛にも恐怖にも戸惑いにも表情を染めることはなく、ただ薄笑いを浮かべたままヴィショップはヤハドに問いかける。その表情は余計にヤハドの感情を煽り立て、それに対する返事として発せられたヤハドの葉は、もはや冷静さを欠いた怒鳴り声と化していた。
「どうしただと!? 貴様、自分の言った言葉の意味が…やろうとしていることの意味が、分かっているのか!?」
憤怒で表情を歪めながら、ヤハドが怒鳴りたてる。その形相はテロリストという肩書に相応しい鬼気迫るものであったが、それを目の当たりにしているヴィショップから薄笑いが消えることは無かった。
「お前は! あの領主の許に連れて行かれた子供達がどうなるかを知っているだろうが! なのに、どうしてそのような言葉を平然と吐ける!?」
何の返答も返さないヴィショップにますます苛立ちを募らせたのか、ヤハドは胸ぐらを掴んだ右手を引き寄せてヴィショップの顔を自分の目の前に引き寄せる。
だが、そんなヤハドに向かってヴィショップの口から放たれた言葉は、あまりにも淡白な一言だった。
「その方が手っ取り早いし、確実だからだ」
「貴様…ッ!」
その一言で、辛うじてヤハドを押さえつけていたものが断ち切られる。ヤハドは再びヴィショップを壁に押し付けると、左手の拳を振り上げてヴィショップの顔に叩き込もうとした。
だがヴィショップはその拳に視線も合わせぬまま、右手を動かして自分の顔に向かって放たれた拳を受け止める。そしてヤハドの拳を右手の指で握りしめたまま、今度は左手を動かして自分の胸ぐらを掴んでいるヤハドの右腕を掴むと、自分のことを忌々しそうに見つめているヤハドに向けて言葉を発し始めた。
「…まず最初の一回で現場の場所を抑え、次の一回で言い逃れの効かない現行犯として確保する。これが確実だ。それに、最初はお前も賛成していただろう?」
「今となっては状況が違う…! 子供達を下衆の手に自ら引き渡すなど、死んでも願い下げだ…!」
「ここで俺達がしくじれば、この先の犠牲は止められない。ならば、多少の犠牲は覚悟の上で確実性を追い求めるのが正解だとは思わないか?」
「ハッ、“大の為に小を殺す”という奴か? そんなものは、殺される側に立ったことのない人間のほざく、傲慢極まる暴論だ。そんなものはクソッタレだ」
自らの瞳を覗き込むようなヴィショップの視線を睨み返しつつ、ヤハドは言い返す。いくら目的の為とはいえ、手を伸ばして助けられる立ち位置に居る子供達を見捨てる。それどころか自らの手で止めを刺すに等しい真似を行うなど、到底ヤハドに許せる行いではなかった。
そんな彼の一歩たりとも退かない態度と、強い意志の籠められた瞳を見て、ヴィショップはすぐにこの手の説得が無意味なことを理解した。
(成る程、こんなカビの生えた説得で納得する程、安い人間でもなかったか…)
ヤハドの瞳をじっと見つめながら、ヴィショップは心中でそう一人ごちる。
ヴィショップ自身、自分で言っておいて何だが、この手の少数を切り捨てるような理論を支持している訳ではなかった。むしろ彼は、この手の理論を支持する人間を見て嘲笑う類いの人間だ。
いつの時代においてもこの手の理論を正論の様に語り、支持するのは犠牲とならない“大”の方であり、それを拒む“小”の意見は尊重されずに黙殺される。たとえ自ら進んで殉教者の役目を背負った様に見えたとしても、それは結局のところ、あまりにも大きすぎる期待の前に屈しただけに過ぎない。そもそも、土台無理な話なのだ。名も知らぬその他大勢の為に自分の命を差し出すことなど。ましてや、その対価が仰々しく名前の彫られた記念碑ぐらいなものとなれば尚更だ。下手をすればそれすら与えられない。そしてその一方で、そういった負の面を“大”の方が知ることはない。苦痛や苦悩の殆どは犠牲になった“小”の方に押し付けられるのだ。
所詮、この手の理論は不平等と不寛容の塊に過ぎない。それが今まで生きてきた中で、ヴィショップがこの手の理論について下した評価だった。
だが、いくらヴィショップがこの手の理論を鼻で嘲笑う類いの人間だからといって、
(なら……もうややこしい真似は抜きだ)
ヴィショップが“小”を切り捨てない人間という訳ではなかった。彼は結局のところ、悪人意外の何者でもないのだから。
「すまない、ヤハド。勘違いさせたようだ」
「……何?」
小さく息を吐いて、唐突にそう告げるヴィショップ。その突然の発言に、ヤハドは怪訝そうな表情が浮かぶのを押さえられなかったが、ヴィショップはそんなヤハドの態度は無視して言葉を発した。自分の本心を。
「はっきり言おう。俺はガキ共がどうなろうが知ったこっちゃない」
「なっ…!?」
それはヤハドの中でも、ある程度予想の付いていた答えだった。ただそれでも、こうも取り繕う素振りすら見せずに堂々と口に出されてしまえば、驚きを隠すことなど出来ない。ヴィショップはそんなヤハドの表情をじっと見つめつつ、話を続けていく。
「いいかヤハド、お前は一つはき違えている」
「何?」
ヴィショップの言葉に、表情から驚きの色を消したヤハドが聞き返す。
「俺達がこの土地に来たのは、変態の哀れな毒牙にかかる少女達を助ける為じゃない。あくまで領主を嵌める為に来たんだ。お前はそこんところをはき違えてる」
「………」
そのヴィショップの言葉を聞いたヤハドが口を噤む。ヴィショップが彼の瞳や態度を見て気付いたように、彼もまた気付いていた。目の前のヴィショップが、少なくとも今は決して自分の意志を曲げることがないことを。
互いに睨み合ったまま、沈黙が続く。
この時、ヴィショップとヤハドには大きな違いが存在した。それはヴィショップにあってヤハドに無いもの。そしてその違いは、ヴィショップがヤハドの意志を捻じ曲げるのに充分な役割を担っていた。
「それでも…俺は……!」
「ヤハド」
眉間にしわを浮かべ、険しい表情をしながら言葉を発しようとするヤハドを遮って、ヴィショップは彼の名前を呼ぶ。そしてヤハドが返事を返すのを待たずに、言葉を発していった。
「お前は何がしたいんだ?」
「…何だと?」
言葉の意味が理解出来ずに聞き返してくるヤハド。ヴィショップは彼に、畳み掛けるようにして言葉を発していった。
「お前のこの世界での目的は何だ? 名前も知らないガキ共を助けることか? それとも気に食わない人間にアッラー直伝の鉄槌を下してやることか?」
ヴィショップはヤハドの左手を握りしめていた右手を離すと、ヤハドの胸ぐらに向かって伸ばし、掴んで自分の方に引き寄せる。
「世界の問題とやらを解決して、あの女神とやらに願いを叶えてもらうのはどうでもいいのか? もしかしたら“元の世界”に戻れるかもしれないのに?」
“元の世界”。その単語が出た瞬間、ヤハドの両目がハッとして見開かれる。
(良い兆候だ……)
その表情を見て心の中でほくそ笑みながら、ヴィショップはまるで責め立てるかの様に言葉をぶつけていく。当然、それを表に出すことなどなく。
「やり残したことはないのか? 残してきた仲間はいないのか? 成し遂げたい目的があって、テロリストなんて汚名を背負うことにしたんじゃないのか? それはもうどうでもいいのか?」
「黙れ…!」
絞り出すようにしてヤハドが声を発する。だが、それをヴィショップが聞き入れることはない。
「それとも、全部放り出してこの世界で生きていくのか? 目的も仲間も“元の世界”での人生も、全てを無かったことにして? まぁ、それもいいだろう。何もかも忘れ、何もかも捨ててこの世界で…」
「黙れと言っている!」
喉が張り裂けんばかりに怒声を張り上げて、ヤハドはヴィショップの言葉を遮った。ヤハドのもはや叫び声に近い怒声が、寝室に響き渡る。二人の意見が衝突して以来、ずっと逸らされることのなかったヤハドの視線は、今や床へと向けられていた。ヴィショップはそんな彼の姿を見つめながら、改めて口を動かす。
「ここで暮らしている間、“元の世界”の時間が変動しないとは限らない。もしかしたら、全てが終わって帰ることが出来ても、仲間は死に果て、お前の戦いの決着は付いてしまっているかもしれないぞ?」
ヴィショップは欠片も視線を逸らさぬまま、ヤハドに話しかける。最早二人の意志のぶつかり合いの決着はついていた。ヤハドが視線を逸らしたその瞬間に。
ヴィショップにあってヤハドに無かったもの。それは人道を度外視した、ひたすらに冷徹な合理性だった。
「……一つ約束しろ」
数秒の沈黙の果てに、視線を下に向けたままヤハドが呟く様にして声を上げる。ヴィショップの胸ぐらを掴むその腕は、今やヴィショップとは対照的に小刻みに震え、力強さも何も感じさせないものへと変貌していた。
「何だ?」
「絶対に……絶対にあの領主を処刑台へ送ると確約しろ…」
「……もし失敗したら?」
「……俺がこの手でお前を殺す」
顔を上げ、ヴィショップを真向から睨みつけながらヤハド告げる。その瞳は、怒りと増悪によって彩られた、壮絶な覚悟の炎を宿していた。その感情の矛先は、姿すら見ていないドーマ・ルィーズカァントであり、彼に協力する全ての人間であり、自らの信念を折ることを強要したヴィショップであり、そしてそれに屈した自分自身だった。
ヴィショップはそんなヤハドの覚悟の籠められた瞳を見て、口角を吊り上げながら返事を返した。
「任せろ。数日以内に、この国の住人が領主の頭でフットボールが出来るようにしてやるさ」
にやりと笑みを浮かべながら、ヴィショップはヤハドに向かってそう告げる。その言葉を聞いたヤハドは小さく笑うと、ヴィショップの胸ぐらから手を放した。そしてヴィショップも同じようにヤハドの胸ぐらから手を放すと、まるで何もなかったかのように笑みを浮かべながら、彼に向かって語りかけた。
「…もう日も昇ってきてるだろ。死体を隠し部屋に置いて、変態野郎のツラでも拝みに行くとしようぜ、相棒?」
「……お前に相棒呼ばわりされるのも、死んでも御免だな」
そして互いに軽口を叩き合うと、リビングに転がしている死体を回収する為に歩き出した。




