悪魔猛りて、死を奏でる
肥大化した上半身のあちこちから生えた四本の脚は、“かつては子供だった怪物”を巨大な一発の砲丸に変えた。
左腕から伸びる灰色の鋏を突き出しながら、怪物はヴィショップに向かってその身を投じる。床を抉る程の力を持った四本の脚によって生み出された推力は、怪物の身体を一秒と経たぬ間にヴィショップの許へと運んでいた。そしてその勢いに任せて突き出された灰色の鋏は、カウンターとその奥にある酒瓶の並んだ棚を易々と粉砕し、その裏にあった壁に巨大な穴を穿つ。
壁の崩れる音が店に木霊し、立ち込める砂煙が白い靄を店内にかける。怪物は両肩から生えた巨大な目玉をカウンターと棚の残骸に向けながら、ゆっくりと鋏を引き抜いた。
そこには本来あるべき筈のものは何も無かった。深紅の血溜まりも引き裂かれた肉片も零れ落ちた臓腑も無く、あるのはただカウンターと棚と壁の残骸だけであり、灰色の鋏を濡らすのは破壊した酒瓶に入っていた酒だけだった。
鋏を引き抜いた怪物は消えたヴィショップの姿を求めて、四本の脚を動かし身体の向きを変えようとする。その瞬間、轟音が二回店内に轟いたかと思うと、怪物の視界は黒一色に塗りつぶされた。
「四元魔導、烈火が第八十一奏」
唐突に視力を失った怪物は、無言で両手の鋏をでたらめに振り回す。鋏を生やした腕の生えた両肩は体液と“何か”が混ざり合った液体で濡れており、両肩から生えていた筈の二つの目玉はその姿を消していた。
苦しみにもがく怪物の姿を冷ややかに見つめながら、振り回される鋏の範囲外で片手に魔弓を構えて立つヴィショップは呪文を詠唱する。その声が聞こえたのか怪物は動きを止めて彼の方に身体を向けたが、既に手遅れだった。
「“レカルス”」
呪文の詠唱が終わると同時に、怪物の左の鋏から炎が燃え上がる。怪物の鋏に生を受けた炎は最初の一瞬こそ小さなものだったが、すぐに鋏に付着した酒を喰らって成長する。その速度は凄まじいもので、怪物が炎を消そうと鋏を振り回し始めた時には、炎は既に左腕を呑み込もうとしていた。
怪物は何とかして炎を消そうと必死に暴れ回る。とうにヴィショップのことは意識の外に押し出されているようで、誰を狙うでもなくその場で狂ったように肉の塊と化した上半身を振り回していた。その甲斐もあってか、見た目を裏切らない剛力によって生み出された風圧は順調に炎の勢いを殺していく。
だがあと少しで炎が完全に消えるというところで、再びヴィショップの魔弓が咆哮を上げた。
今度は魔力弾の発射音の後に、肉の断たれる音も血の吹き出す音もしなかった。代わりに上がったのはガシャンという瓶の割れる音だった。
彼が狙っていたのは怪物の肉体ではなかった。魔弓の狙いが定められたのは、ヴィショップが拾い上げ怪物の真上目掛けて放り投げた、逃げ出した客の残していった二本の酒瓶だった。狙い通り怪物の真上で撃ち抜かれた二本の酒瓶は、その中身を怪物へとぶちまける。死に体だった炎にあらたな活力が送り込まれ、勢いを取り戻した炎は再び踊り狂いながら怪物の身体を蹂躙し始める。酒を求めて炎は怪物の身体を追い上り、両肩から生える再生しつつあった巨大な二つの目玉をも呑み込んでしまった。
「これで幾分か時間が稼げるだろ……さて」
上半身の大半を炎に呑み込まれてもがく怪物の姿を見ながら、ヴィショップは怪物から余裕を持って距離を取る。瓶を投げる為にホルスターに収めていたもう一挺の魔弓を左手で引き抜くと、魔力弁を押し上げて矛先を怪物へと向けた。
そして、脳裏に映像を思い描く。しかし通常の属性付加と違って、『ウートポス』で一度だけ放った純白の魔力弾は、正体が解らないが故に何を思い描けば撃つことが出来るのかも定かではなかった。仕方なく初めて純白の魔力弾を撃ち出した時の光景を思い描いてみるが、記憶の中の光景の様に魔弓が白い光を放つことはなかった。
「チッ、駄目か……ッ!?」
普段と何ら変わらぬ青白い光を放つ魔弓の姿を見て悪態を漏らす。しかし、全く何も掴めなかったという訳ではなかった。脳裏で『ウートポス』での戦いが再現される傍ら、その片隅で“何か”がヴィショップの後ろ髪を引き続けていた。その正体が一体何なのかは全く分からないものの、それこそがあの純白の魔力弾を再び撃ち出すのに必要なものであることを、ヴィショップは直感で理解すると意識を“何か”へと集中させる。
だが、その直後に聞こえてきた肉の裂けるような音のせいで、ヴィショップの意識は“何か”から強制的に引きずり剥がされることになった。
その音で視線を怪物へと戻したヴィショップは、自分目掛けて迫る肉の塊の姿を見て、咄嗟に真横に身体を投げ出す。直前で獲物に逃れられた肉の塊は、今更軌道を修正することも出来ずにそのまま床に突っ込んだ。
ヴィショップに襲いかかってきたのは、丸太大の太さを持った柱型の肉塊だった。それは今も炎に焼かれる怪物の胸元から伸びてきており、赤黒い筋肉や神経が剥き出しになった醜悪な姿をしていた。しかしヴィショップがその肉塊の真の醜さを知るのは、それが蛇のように身体をくねらせて先端部を床から引き抜いてからのことだった。
「…流石に反吐が出そうになってきたぜ」
肉塊の先端部には顔が付いていた。頬が裂ける程に口を開き、白目の無い黒一色の瞳を持った、この悪夢を具現化したような怪物の元となった少年の顔が。
少年の真っ黒な瞳がヴィショップへと向けられる。ヴィショップは少年の瞳に映り込んだ自分自身と刹那の間視線を躱すと、青白い光を放つ魔弓を自身の鏡像に向かって突き付けて引き金を弾いた。
射出口から撃ち出された強化魔力弾が、少年の顔ごと肉塊の先端部を消滅させる。肉塊から迸る体液を浴びて緑一色に染まったヴィショップは、左手で顔を庇いながら肉塊から距離を取る為後ずさる。肉塊は鎌首をもたげ、店内の壁や天井を緑に染め上げながらのたうつ。その隙にヴィショップは魔弓を怪物の本体に向け、再び魔力弁を引き起こそうとする。その瞬間、ヴィショップは先端部を吹き飛ばされた肉塊が、ただ苦しみにもがいて暴れ狂っていた訳ではないことを知ることになった。
「…そういうことかよ。どこに脳味噌が詰まってんのか分からねぇような見た目してるくせに、小賢しい真似しやがる」
ヴィショップの視線の先には、肉塊から流れ出た体液でヴィショップ同様に身体を緑色に染め上げた怪物の姿があった。先程まで身体を容赦無く焼いていた炎の姿はどこにもなく、流れ出た体液で炎を消す為に肉塊が鎌首をもたげてのたうっていたことをヴィショップは悟った。
ヴィショップは両手の魔弓を怪物の肩の上から生えている目玉へと向ける。いつの間にか再生されていたそれを再び潰し、時間を稼ぐのが目的だった。わざわざ二度も同じ手を食ってくれる程、眼前の怪物は甘い存在でもなかった。
「何ッィ!?」
両手の魔弓の狙いを怪物の双肩の上から生える目玉に合わせ、引き金を弾こうと指に力を込めた瞬間、吹き飛ばされた肉塊の先端部から無数の触手が生えてきてヴィショップへと伸びる。ヴィショップは咄嗟に触手の方に向き直って魔弓の引き金を弾くが、数十という数の暴力を前に二挺の魔弓だけで立ち向かえるものではなかった。
悪あがきに二本程撃ち抜いた時点で、触手がヴィショップの身体を捉えた。無数の触手はまるで餌に群がる蟻のようにヴィショップの四肢を這い回り、絡みついて動きを奪う。その手並みや見事なもので、ヴィショップが口以外の全ての部位を動かせなくなるまでには五秒とかからず、彼の身体は無数の触手によって宙吊りにされた。
何とか振り解こうと、ヴィショップは四肢に力を込めてもがく。だが数本ならともかく、数十本の触手によって拘束されたヴィショップの身体は、たとえどれだけの力を込めようとも手首一つ満足に動かすことは出来なかった。
まな板の上の鯉という言葉が相応しいヴィショップに、怪物は四本の脚を動かして近づいていく。二者の間にある距離が狭まるに連れて、怪物の鋏が高々と持ち上げられていくのを見たヴィショップは力尽くでこの拘束を解くのを諦めると、唯一自由に動かせる口に意識を集中させ、自分に為し得る最速の動きで動かした。
「四元魔導、大地が第三十二奏“ウォール・イレクト”!」
口早に叫んだ呪文の詠唱が終わると、床を突き破ってヴィショップに絡みつく無数の触手の真下から岩石の巨壁が姿を現す。一息に天井近くまでその身を伸ばした岩石の巨壁は、頭上にあった触手を意図も容易く引き千切った。
拘束の解けたヴィショップが一足先に床に着地し、遅れて引き千切られた触手がぼとぼとと落ちてくる。ヴィショップは腕に絡みついたままの触手を引きはがしつつ、視線を自らが生み出した岩石の巨壁へと向けた。
「チッ!」
しかし、相手は休む暇などヴィショップには与えてくれなかった。低い獣の唸り声の様な風切音を捉えたヴィショップは、即座に身体を沈み込ませて床に伏せる。
怪物の鋏が岩石の巨壁を刺し貫いて姿を現したのは、その直後のことだった。派手な音と共に、岩石の巨壁を薄っぺらい紙か何かのように刺し貫いて現れた灰色の鋏は、ヴィショップの頭上をかすめ、そのすぐ背後の床に先端を突き刺す。
首の皮一枚で自分の命が繋がったことを確信したヴィショップは、小さく口笛を吹いた。そして右手の魔弓の魔力弁を起こすと、自分の頭上にある怪物の腕に射出口を押し付けて引き金を弾く。
強化魔力弾は怪物の右腕を吹き飛ばし、それだけに飽きたらず肉片や体液を真上へと引き飛ばして天井に叩き付けた。怪物は堪らず右腕を引き戻す。ヴィショップはその隙を見逃さずに立ち上がると、僅かに口元を歪ませて店の反対側の壁に向かって走り出した。
怪物の巨大な瞳が店内を横切るヴィショップの姿を追って動く。ワンテンポ遅れて、再び先端部に少年の顔を取り戻した肉塊がヴィショップを狙って真上から叩き付けられた。
巨木同然の質量を持った一撃を、身体を前方に投げ出して躱す。何とか肉塊の下敷きにはならず、ヴィショップの身体は肉塊が床に刻み込んだ凹みの三十センチ程横に倒れ込んだ。そこを狙って、怪物の左の鋏が迫る。ヴィショップは身体を起こそうとして両腕に力を込めるが、鋏から逃れる為に走り出すには時間が足りなかった。
しかしヴィショップの表情に諦めの色は浮かんでいなかった。何故ならこのような事態は予想の範疇であり、既にこれを凌ぎ切るだけの布石も打ち終えた後だったからだ。
「四元魔導、疾風が第二十四奏“トート・ラフェルダ”!」
呪文の詠唱に合わせてヴィショップの足元で突風が巻き上がり、彼の身体を上方へと勢い良く吹き飛ばす。宙に舞い上がったヴィショップの身体は、直前までヴィショップが立っていた場所に突き立てられる怪物の鋏を眼下に、怪物目掛けて飛んでいく。ヴィショップは空中で身体を捩りつつ両手の魔弓を怪物の目玉へと向けて引き金を弾いた。
魔力弾を受けた怪物の目玉が再び破裂する。それにワンテンポ遅れて、ヴィショップの身体が怪物の真上を通り過ぎた。背を丸めて衝撃に備える。怪物の真上を通り過ぎて数秒と経たずに、ヴィショップは壁に背中から激突し、そのまま落下した。
またもや視界を奪われた怪物が、鋏をを振り回して悶え苦しむ。割れた酒瓶の上に着地する羽目になったヴィショップは、額に出来た切り傷から流れ落ちた血を袖で拭いつつ立ち上がると、左手の魔弓の魔力弁を起こし、魔力を流し込むことなく、脳裏の片隅でヴィショップの意識を呼び続ける“何か”の声に意識を傾けた。
(…これは、声か?)
次第にその“何か”を、声としてヴィショップは認識し始めた。しかしその声は依然として小さく、果たして何を話しているのかは分からない。さらに意識を集中させてその声を聞きとろうとするが、脳裏ではなく身体の外部から聞こえてきた風切音がヴィショップの意識を現実に引き戻させた。
肉塊の先端部の子供の顔が大口を開けてヴィショップに迫っていた。ヴィショップは左に転がって突っ込んできた肉塊から逃れる。そしてすぐさま左手の魔弓の矛先を肉塊に向けると、床から引き抜かれてこちらを向いた子供の顔に二発魔力弾をぶち込んだ。
子供の黒一色の双眸が、二つの暗い風穴へと変わる。こちらにはこちらで独自の痛覚があるのか、肉塊は子供の顔を振り回しながら痛みに悶えていた。その隙にヴィショップは両手の魔弓のシリンダーを開き、使用済みの魔弾を排出する。そしてクイックローダーを使って新たな魔力弾を装填しようとするが、自分を覆う影の存在に気付くとシリンダーを戻そうとすらせずに、身体を背後に投げ出した。
「…早いな」
後転して膝立ちの状態になったヴィショップは、自分が一瞬前まで居た場所を刺し貫く灰色の鋏の姿を見ると、視線を上げて怪物の完全に再生された両肩から生える目玉を見た。怪物もまた、中々思うように殺せぬ獲物を見つめる。そして先端部の尖った脚を持ち上げて、ヴィショップ目掛けて振り下ろす。
立ち上がりつつ背後を振り向くと、ヴィショップは床を蹴りつけ前方に跳んで振り下ろされた怪物の脚を避ける。しかし後怪物の脚は三本も残っており、それらがヴィショップの身体を押しつぶすべく持ち上げられた。
ヴィショップはうつ伏せに寝転がったまま怪物の方に向かって床を転がって二本目の脚を避ける。振り下ろされた脚が床を砕く音を聞きつつヴィショップは、お役御免となり力無く垂れているかつては子供の下半身だった部分で、仰向けになって動きを止める。そして左手に持っていた魔弓を口で咥え、空いた左手で素早くクイックローダーを取り出し右手の魔弓のシリンダーに魔弾を装填する。そこまでを終えたところで、怪物の灰色の鋏が足元をうろつくヴィショップに向かって伸びてくる。装填を終えた右手の魔弓の魔力弁を起こして魔力を流し込みつつ、今度は怪物の身体の外側に向かって転がって鋏から逃れると、待ってましたとばかりに振り下ろされる前に、右手の魔弓を他の三本の脚の内の、振り下ろされる脚の対角線上にある一本に突き付けて引き金を引き、灰色の甲殻に覆われた脚を吹き飛ばしてやった。
脚を一本吹き飛ばされた怪物はバランスを崩し、ヴィショップに吹き飛ばされた脚の方に向かって倒れ込んだ。ヴィショップは立ち上がって走り出すと、加えていた魔弓を左手に戻し、魔弓を握ったまま右手でクイックローダーを使ってもう一挺の魔弓に魔弾を装填した。
(マズいな…手数が足りない)
左手の魔弓のシリンダーを閉じたヴィショップは、使い終わったクイックローダーを外套のポケットに落としつつ、残った三本の脚で立ち上がろうとする怪物を見て心中で呟く。そうしている間にも、今しがた吹き飛ばした怪物の脚は再生を始めていた。
(この怪物とやり合ってるおかげか、きっかけ染みたものは掴めつつある。だが……それを追うだけの余裕がねぇ)
一対の鋏、胸から生えた肉塊、そして四本の脚。質量と威力を兼ね備えたそれらの得物から繰り出される暴威は、脳裏をチラつく声を追うだけの時間を、ヴィショップから完全に奪い去っていた。再生能力により殆ど絶え間なく放たれる攻撃を凌ぎ続ける、それすらも本来なら常人には行えぬ行為なのだ。それを熟しながら、意識を他の対象に傾けるというのはヴィショップであっても到底不可能だった。
(長い時間は必要無ぇ…少しでいい、あれの動きを止めていられれば)
怪物の動きを止める方法が無いか思考を働かせる。しかし回り出した頭も、鋏を振り上げて突進してきた怪物によって、その回転を止めざるを得なくなってしまう。
人間大の鋏が勢いよく振り下ろされる。しかし怪物のとった大振りな動作はヴィショップに容易く予測され、ヴィショップは一歩横に跳ぶだけの最少の動きで鋏を躱すと、続けて襲い掛かってきたもう一本の鋏の切っ先を後方に跳んで躱す。そして着地と同時に両手を振り上げ、手にした魔弓の引き金を弾く。放たれた魔力弾は再生された怪物の目玉へと一直線に進むが、意思のを持たない魔力の結晶では間に割って入ってきた肉塊を避けることなど出来ず、二発とも肉塊に命中して大した傷も負わせられずに姿を消した。
思わず舌打ちが口から漏れる。するとそれに反応したかのように、肉塊の先端部についた子供の顔がヴィショップの方を向いた。再び突っ込んでくるのかと予想して、ヴィショップは足に力を込める。しかしその予想は裏切られる。彼に向かって伸びてきたのは肉塊ではなく、大口を開けた子供の口から現れた数多の触手だった。
咄嗟に指に込めた力を抜きつつ、ヴィショップは床を蹴りつけて走り出す。彼が走り出したのは、自分目掛けて迫る触手の群れの方向。もしこの場に誰か一人でも観客が居たのなら、自棄をを起こしたのだと考えただろう。しかし実際にはその逆で、彼の思考は生存のみを考えてフル回転していた。
ヴィショップが行動に出たのは、子供の口から這い出てきた数多の宿主が彼の身体を捉える直前でのことだった。走る勢いはそのままに、身体を沈み込ませて背中から床に倒れ込む。互いに押し退けあうようにして迫っていた触手はその動きを追い切ることが出来ずに、スライディングで床を滑走するヴィショップの真上を通過していく。
それを踏み潰さんとすべく、怪物が脚を振り上げる。だがその脚が振り下ろされるよりも、ヴィショップが唱えていた呪文の最後の一節が口から吐き出される方が速かった。
「四元魔導、疾風が第二十四奏“トート・ラフェルダ”」
唱えたのは先程同じ呪文だが、使い方は全く異なっていた。魔力によって生み出された突風は、先程はヴィショップの身体を宙に高々と吹き飛ばしたが、今度は床を滑る彼の身体を真横に向かって押し飛ばした。
一瞬にして九十度の方向転換を成し遂げたヴィショップの身体は、怪物の合間を抜けて店の壁に向かって滑っていく。勢いに負けてうつ伏せに転がってしまわないように片手で調整しつつ、もう片方の手に握られた魔弓を怪物の目玉へと向けて引き金を弾こうとする。
だがその瞬間、怪物の脇腹の辺りを突き破って数本の触手が現れてヴィショップへと伸びた。予備動作も無ければ培ってきた経験も意味を為さない反撃に対し、ヴィショップの反応は大きく後れを取った。精々が一本触手を撃ち落とすのが精いっぱいで残りの触手が四肢に巻き付き自由を奪う。そしてヴィショップの身体を勢いよく持ち上げると、店の最奥の壁目掛けて放り投げた。
「あぐっ…!」
余りの勢いに、ろくに受身も取れずに壁に叩き付けられる。衝撃で肺の空気が粗方押し出されて生まれた窒息間のおかげで、何とか手放しかけた意識を何とか引き寄せると、ヴィショップは頭を軽く振って狂った視界のピントを合わせる。
壁に叩き付けられたヴィショップは、両手に魔弓を握りしめたまま仰向けに倒れていた。となれば、必然彼の視界に最初に飛び込んでくるのは薄汚れた灰色の天井だった。白からは程遠く、かといって黒でもない中途半端で煮え切らない光景。だが奇妙なことにそんな光景がヴィショップに、一つの答えをもたらした。不死の怪物の動きを止める、恐らくはこの場で唯一の方法を。
しかしそれは打開策であると同時に、禁忌の策でもあった。それを行った先に待っているのは、数多の理不尽かつ非情な死である。常人ならば、それを思い付いたとしてもすぐには実行に移せないだろう。その行為の持つ意味に恐れを抱き、己の身体を凍りつかせてしまうかもしれない。そしてその隙を突かれて怪物の鋏に身体を引き裂かれ、行動も思考からも隔絶された物言わぬ躯と化す。
しかし、ヴィショップ・ラングレンは違った。己の欲望の為だけに数千、数万の人々の心臓を踏み潰してきた彼は、その策が頭に浮かんだ瞬間にはそれを実行に移すことに決め、そして立ち上がって走り出していた。故に彼の身体は、突き出された怪物の鋏に捉えられることなく、命の鼓動を先へと繋げることが出来た。
怪物の鋏を避け、走り出したヴィショップは魔弓の魔力弁を引き起こす。そして彫り込まれた装飾から青白い光が漏れだすや否や、両手の魔弓を顔の横を通して後方へと向け引き金を弾いた。
撃ち出された強化魔力弾は、壁と壁の接する店の四隅の内二つに命中して粉々に吹き飛ばす。衝撃が建物全体を揺らし、砂埃がヴィショップと怪物の上に降り注ぐ。だが両者ともに、それを一切気にかけることはなかった。もっとも、片方はこれから起こることを承知しているからであり、もう反対に無知ゆえの無関心だったのだが。
自身の真下を駆け抜けようとするヴィショップを狙って、怪物が四本の脚を次々と振り下ろす。ヴィショップは魔弓の魔力弁をもう一と起こしながら左右に跳んでそれを躱していき、三回目の踏みつけを躱したところで、突風を生み出す魔法を三度詠唱した。
「四元魔導、疾風が第二十四奏“トート・ラフェルダ”」
突風がヴィショップの背中を押し上げ、彼を一瞬にして怪物の鋏の範囲外へ、そして店の出口へと運ぶ。それを追って横薙ぎに振り回された灰色の鋏は空を切り、物々しい風切音だけがヴィショップへと届く。しかし無論、それで終わりなどではない。まだ怪物には一つ、武器が残っているのだから。
怪物の胸から伸びる肉塊が、ヴィショップを追いかける。先端部についた子供の口から、幾本もの触手を覗かせながら。ヴィショップは背後から迫るそれを、振り向かなかった。青白い光を発する魔弓を店の四隅の内、まだ残っている出口左右の二つに向けたまま魔力によって生み出された突風のもたらした恩恵に、己の身の全てを委ねた。
そして彼の身体が店の出口から飛び出す直前、ヴィショップは引き金を弾いた。
「ぐおっ…!」
ヴィショップの身体は店から飛び出すと、その後も一メートル程宙を舞った後、砂塵を巻き上げながら地面に落下した。その勢いを殺すことも出来ぬまま転がっていき、そのまま反対側にあった建物の壁にぶつかってようやく動きを止める。
そして、地震の様な地響きが周囲に鳴り響き、ヴィショップが地面に落ちた際に巻き上げたものとは比べ物にならない程の砂塵が辺り一帯を呑み込んだのは、彼の身体が反対側の建物の壁にぶつかって動きを止める直前だった。
再び身体を襲った鈍痛に悶える暇もなく、自身を呑み込んだ砂塵に咳き込む。左腕で口元を庇いつつ、痛む身体に鞭を打って何とか立ち上がると、意識を周囲に張り巡らせつつ風が砂塵を吹き飛ばすのを待った。
辺りの光景がクリアになってきたのは、十数秒程経ってからのことだった。薄らと周囲の住人の声がし始めたのを聞き流しつつ、ヴィショップは自分の為したことを確かめる。
視界が開けた先に、カタギリとの再会の場であり怪物と死闘を繰り広げた酒場の姿はなかった。あるのは建物五階分の瓦礫と、ヴィショップの二、三歩手前で千切れて転がっている肉塊の先端部だけだった。そんな目の前の光景を見て、ヴィショップは薄ら笑いを浮かべた。
建物の四隅を破壊し支えを奪うことで、怪物を建物の下敷きにする。無論、未だ建物に残っている他の住人もろとも。それこそが怪物の動きをある程度の時間止める為に、ヴィショップが選んだ策だった。まともな人間ならば、承服など出来ない策。それをヴィショップは見事に為し遂げ、自分の脳裏に浮かんだ光景と寸分違わない光景を生み出してみせたのだった。
「…さて、と。今のうちに“兎”を捕まえちまうとしますか」
目の前に広がる瓦礫の山を見たまま、ヴィショップは小さく呟いた。そして速やかに意識を、脳裏で僅かに反響する声にへと傾けた。
微かに漂う血の臭いは、すぐに取るに足らぬ情報としてヴィショップの意識の表層から蹴落とされた。




