Desert Dome
雷鳴の如く上がっていた観客席からの歓声も、神導具を用いて垂れ流される甲高い実況の声も、砂船が動き初めて数分としない内に後方へと置き去りにされて聞こえなくなった。今、ヴィショップ達の耳朶を打つ音といえば、百数隻の砂船が砂漠を駆け抜ける音とそれを曳くオルートに撃ち込まれる鞭の乾いた音、そして先頭を巡って火花を散らせる男達の上げる咆哮ぐらいのものであった。
砂煙を上げて疾走する砂船の一団の中で、ヴィショップ達は砂船を半分より幾分か後方の位置を余裕を持った速度で走らせていた。周囲の砂船の動向に気を配りつつ、前に出過ぎずしかしどん尻にはならない程度の位置を保ち続ける。それをヴィショップ達はスタート地点を出発してから数十分間続けていた。
「おいィ、ジイサン。今、どこぐらいだァ?」
「もう三分の二を超えつつあるな。直にお楽しみが始まるだろうよ。つー訳だから、お前も覚悟を決めとけよ」
「お、おう」
後ろで退屈そうに水筒を傾けるレズノフの問いかけに答えると、ヴィショップは手綱を握るクァルクの肩を軽く叩く。クァルクは固い声音で返事をして、もぞもぞと身体を動かした。
「しっかし、聞いてた話と違うぐらい平和ですね。開催側の妨害とかいうのも、今の所無いみたいですし」
「まぁな。だが、一周目を終えて武器の使用が解禁されればそうも言ってられなくなるだろう。精々、今のうちに気を引き締めておくべきだな、ドイツ人」
同じぐらいの速度で砂漠を駆ける他の砂船に視線を向けながら、ミヒャエルが眠たげな声を漏らす。一方で彼の言葉に反応したヤハドの方は、真剣な面持ちで己の弓の弦を確認していた。
ヴィショップ達は現在、首位争奪戦に参加することなく後半の順位に甘んじている。だが彼等は勝負を投げた訳でも、他の面々が彼等を凌駕する実力で差を付けている訳でもない。ヴィショップ達は今、自らの意思で首位争奪戦を外れて後半の順位に身を置いているのだった。
彼等がその行動を取った理由は、ヤハドが漏らした予選のルールにあった。彼の言う通り、最初の一周は他の参加者への直接的な妨害は行えない。ミライアス・ラグーヌの醍醐味とも言えるそれらの要素が解禁されるのは二週目からになる。
このルールを聞いた人間の取る行動は二通りある。最初の一周を、他チームからの妨害に邪魔されることなく純粋にスピード勝負が出来るチャンスと捉えて、積極的に首位を狙う人間。もう一人は、このルール自体が生き残る参加者を篩に掛ける為の罠であると捉えて、あえて後半の順位に身を置く人間。ヴィショップ達はその後者の方であった。
ヴィショップ達が後者の選択肢を選んだ理由は、単純なものである。他チームに対する妨害が解禁されるのは二周目以降ということは、言い換えれば二周目以降ならば他チームに対して魔法をぶっ放そうが魔力弾を撃ち込もうが問題ないということである。そうなった場合、一周目の時点で首位近くに位置していたチームは、自分達は碌に狙う相手がいないまま後ろのチームの妨害を一手に引き受けなければいけないことになる。そうなればレースの為に前方に意識を割きつつ、他チームからの妨害に対抗する為に後方にも意識を割かなければいけなくなってしまい、戦況としてはかなり厳しい所に追い込まれる結果になる。それよりもむしろあえて後半の順位に身を置いてしまえば、意識を向ける方向も概ね一つで負担を軽減できる。おあつらえ向きに“最終ラップはレース続行可能なチームが十チーム以下になってから”というルールまである以上、ヴィショップ達がその戦法を用いない理由は無かった。
ただ、それで勝ちが決まる程ミライアス・ラグーヌは甘くない。ヴィショップ達と同じ結論に辿り着いたチームは他にもあり、現に彼等の周りにいるチームの中には明らかに本気を出していないチームの姿がちらほらと見えていた。
ヴィショップはそんな周囲のチームを、ある二人の姿を探しながら見渡していた。
(居ねぇな…。あんだけ派手な恰好してれば見つかりそうなもんだし、カタギリの野郎に至っては見間違える筈もねぇんだが…まさか、今回も外れか?)
ミライアス・ラグーヌに参加していると言われる尋ね人の姿は、少なくともヴィショップの見渡す限りにはいなかった。となれば残る可能性は自分達より前で首位争奪戦をしている連中の中か、セオリーに凝り固まり過ぎて最後尾で二周目を待っている連中のどちらかになる。しかしたった一回だけとはいえ殺し合いを繰り広げたヴィショップには、カタギリがこんな簡単なミスを犯すとは思えなかった。
そうなれば、当然ヴィショップの脳裏には最悪の展開が頭を過ぎることになる。そしてもしその最悪の展開通りに事が運べば、ここまでの旅費とは別件の厄介毎を背負いこまなければいけなくなることも。
(もしそうなった場合、どうやってこのじゃじゃ馬を説得したもんかね…)
心中で溜息を吐いてヴィショップは、緊張と興奮が綯い交ぜになった表情で手綱を握るクァルクを一瞥する。
カタギリとマジシャンがいないのならば、このような命を捨てるのと同義のレースに参加している意味は無い。当然、ミライアス・ラグーヌなどさっさと危険して『クルーガ』に戻ることになる訳だが、曲がりなりにも約束を交わした以上それをクァルクが許すとは思えなかった。そしてそうなった場合、クァルクの容姿を考えると自分の隣に居るターバンを巻いた色黒の男と、再び衝突しなければならない可能性が生まれてくることも、同時にヴィショップの頭を悩ませていた。
(ガキに対する執着さえなけりゃ、頭も全うで使える奴なんだがなぁ…)
「ねぇ、おい、そこの! そこのチャスカールの嬢ちゃんと人間の四人組!」
何度経験しても面倒にしか思えない衝突の予兆を感じて辟易していたヴィショップは、不意に右側面から飛んできた声で思考を中断すると、そちらに顔を向ける。他の三人もこのような状況下で飛んできた妙に親しげな声に思わず顔をそちらへと向け、手綱を握るクァルクは視線だけを声のした方向へと向けた。
ヴィショップ達が向いた先には、ヴォルダーよりも若干小さい体躯のオルートに曳かせた砂船に乗っている、三人組の男女の姿があった。内訳は男が二人、女が一人。男の内一人は手綱を握っており、もう一人は背中に矢筒を背負いこみ右手にクロスボウを持っていた。そして残る女は長槍を片手にヴィショップ達に向かって手を振っており、どうやら彼女が声を掛けてきた張本人と見て間違いなさそうだった。
「…もしかして、俺達に話しかけているのか?」
「当たり前じゃないか! あんた等以外のどこに、今言ったような五人組が居るっていうんだい?」
警戒心を隠そうともせずにヤハドが訊ねると、女は手を振るのを止めて返事をした。彼女の頭からは燃える様な赤毛をかき分けて一対の猫の様な耳が生えており、よくよく見て見れば他の二人の男も同様に猫の様な耳が生えていた。
「俺の記憶によれば、このレースはお友達作りが目的の運動会の類ではなかったと思うんだがな?」
「はははっ、中々言うじゃないか! まぁ、あんたの言う通りだけどね。でもだからってこのレース、周囲の連中を片っ端から皆殺しにしていけば勝てるような頭の悪い代物でもない」
亜人の女は快活な笑い声を上げたかと思うと、雰囲気を幾分か真剣なものへと変える。その雰囲気の変貌を見たヤハドは、少なくとも女が思いつきや下らない揺さぶり目的で声を掛けてきた訳ではないことを悟り、顔を一度ヴィショップ達の方へと向けた。そして特に誰も言葉を発しなかったのを確認してから、改めて女の方に顔を向ける。
「それで? 結局貴様は、何が言いたいんだ?」
「何、簡単な話さ。予選を通過出来るチームは十チーム。そん中に、あたいらで協力して食い込まないかってお誘いに来た訳よ」
他のチームのことなど全く意に介さない、良く通る大声で女はそう告げた。
そう言い終わった後も相変わらず女は快活な笑みを浮かべたままだったが、ヴィショップ達はそうはいかなかった。何せ大声で同盟云々に関する話をしてくれたのだ。最低限のルールさえ守れば何でも有り、といったスタンスを取っている運営側がそれに文句を付けることはないにしても、厄介な連中は先に消すべしという万世共通の掟の許に周囲のチームから目を付けられかねない。その為、そういった掟と深く繋がってきたヴィショップ達はすぐに表情を歪めると、周りのチームの動向を窺うべく周囲に視線を向けた。
「……?」
だが奇妙なことに、周りのチームはヴィショップ達に一切の関心を向けていなかった。一瞬、演技でもしているのかと疑ったものの、どうもそういう訳でもなさそうである。
「…成る程、魔法か」
「ご名答。流石にあたいらもズブの素人って訳じゃ無いからね。こんな話を周りの連中に聞かれるっていうのがどういうことかってぐらい、ちゃんと承知してんのよ」
数秒の思考を経てヴィショップが行き着いた答えを、女は笑いながら肯定する。そして親指を立てて、クロスボウを持つ仲間の一人を指差した。どうやらその人物が何らかの魔法を用いて、周囲のチームにこの話が届かないようにしているようだった。
「神導魔法か?」
「まぁね。で、そういうそっちはインコンプリーターだね?」
黒の外套越しに覗く二挺のグリップを目聡く見据えて、女が問いかける。ヴィショップは「まぁな」とだけ答えると、右の親指の腹でグリップの曲線をなぞった。
「あいにく、こっちはインコンプリーターは捕まえられなくてね。あたいは槍使い、こっちは神導魔法とクロスボウ、残るは手綱ってなもんで、真っ向からやり合うと些か火力不足なんだよ」
「それで、俺達に協力を?」
「そういうこったね。あんた等の横に並んで片っ端から殺し回るっていうのは無理だけど、こっちの男は中々の神導魔法の使い手だし、あたいもそこそこやれるっていう自負はある。だから、上手いことあんた等が死なないようにサポートしてやれると思うけど?」
女はそう言うと、ヴィショップ達の答えを待って口を閉じる。ヴィショップ達は彼女達から視線を外し、互いに顔を見合わせてこの提案にのるかどうかを話し始めた。
「で、どうする? 乗るのか?」
「俺は賛成だぜェ、あのアマ、こんなところで死なすには惜しいプロポーションだしなァ」
下卑た笑みを浮かべてレズノフは振り返り、赤髪の女の豊満な胸元と形の良い臀部に視線を向ける。話の口火を切ったヤハドはそんな彼に冷めた視線を向けてから、レズノフの発言を無視して話を進める。
「タマん中に脳味噌まで詰まってる馬鹿のことは放っておいて、実の所どうするんだ? 俺はあの女は信用に値しないと思うがな」
「僕も賛成です。あの手の女は絶対穢れてますよ。どこのどいつ寝たか分かったもんじゃありません。あんなのを信用するのは危険です」
ヤハドとミヒャエルが珍しく意見を一致させる。もっとも、ヤハドの方はミヒャエルの判断基準を聞いて、やはりレズノフに向けたのと似た様な眼差しを向けていたが。
「俺は賛成だ。確かに信用の置けない連中ではあるが、俺等だって他の連中全員を相手にしてられる訳じゃない。あのチームを利用してやった方が勝率は高いだろう」
「あっ、オレも賛成で。兄貴も時と場合によっちゃ他のチームと協力したこともあった、って言ってたし」
「じゃァ、決まりだなァ」
残るヴィショップとクァルクが女のチームとの同盟に賛成の意を示すと、レズノフは顔に浮かべた満面の笑みをヤハドへと向けた。ヤハドは小さく舌打ちを打つと、うっとうしそうに手を振ってレズノフから顔を逸らす。そんな彼の態度を見てレズノフは面白そうに笑いつつ、身体を引いたヤハドに代わって砂船の縁に手を突き、女の問いかけに対する返事を返した。
「いいぜェ! その話、乗ってやろうじゃねぇかァ!」
「流っ石、伊達男! 思い切りの良い奴は、あたいは好きだよ!」
「なら、ちょっくらそっちに移ってもいいかァ? 砂漠のど真ん中、揺れる船の上でってのも悪くねェ!」
「あんたみたいなのの腕に抱かれるっていうのはそれは心躍る提案だけど、今は遠慮させてもらおうかねぇ! どうしてもっていうんなら、こいつが終わった後にでも時間はあるんだしさぁ!」
品の無い会話が二隻の砂船の間で飛び交うのを、ヤハドは何かを諦めた様な表情を浮かべて聞いていた。そこまではいかないまでも同様に顔をしかめていたヴィショップは、いい加減にレズノフを黙らせて同盟に関しての話をするべく彼のベルトに向かって手を伸ばしかける。
「ね、姐さん! 前!」
「おい、お前等! 前だ、前!」
その瞬間、女とヴィショップの両方の砂船の操縦者が幾分か狼狽の混じった声で、チームメイトに前を向くように促した。
クァルクの声音から只事ではないものを感じ取ったヴィショップは、手を引っ込めて前方へと視線を向ける。それはレズノフを含めた他の三人も同様で、すぐさまクァルクの言葉通りに前方に顔を向け、そして向けた顔を驚愕に歪めた。
「な、何ですか、アレ…」
目の前の光景が信じられず、ミヒャエルの口から精気を欠いた言葉が思わず漏れ出る。
つい少し前までは、雲一つない空とそこに我が物顔で浮かぶ太陽、そして永久に続くのではないかと思える白砂の海が広がっていた。しかし少し目を離した先に、その光景は消え去っていた。前方に広がるのは、高さは空にまで届き横は終着点が見えない程に巨大な、濁り水の如き濃い褐色の巨大な壁の姿だった。
既に太陽はその壁の向こうへと隠れ、今までの晴れ模様は何処へ行ったのか夜と半ば変わらぬ薄暗さが砂漠へと広がる。余りにも唐突に表れたその大きすぎる存在に、誰もが思考を数瞬の間硬直させて眼前に広がる巨大な壁をぼうっと眺める中、最初にその褐色の壁の正体を見抜いたのは手綱を握るクァルクだった。
「砂嵐だ…」
そのクァルクの一言で、ヴィショップ達はようやく自分立ちの耳朶を、猛烈に吹き抜ける風の様な音が撃ち始めていることに気付く。
「ば、馬鹿な…! あれが砂嵐だと…!? 俺も今まで何度となく砂嵐にはあってきたが、あれは…!」
内部の様子など一切分からない、朦々たる褐色の砂嵐を見つめながらヤハドは信じられないような口調で呟く。ヤハド自身、ヴァヘドを訪れる前は幾度となく砂嵐には出会ってきたし、その真っ只中で戦闘を行うこともあった。彼が元の世界での生涯で見てきた砂嵐の数は、優に三ケタに上るだろう。しかしそれだけの数の砂嵐を見てきた彼でも、眼前に広がっている程の規模の者はお目に掛かったことはなかった。大きさもさることながら、まるで嵐の内部では砂ではなく泥が吹き荒れているのではないかと思う程に朦々たる色合いの砂嵐に遭遇するのは、ヤハドにとっては初めての事だった。
無論、幾度となく砂嵐に遭遇してきたヤハドが見たこともないような規模の砂嵐を、他の三人が見ている筈も無い。ただしそういった経験が無い分、逆にその規模の凄まじさを理解して物怖じすることはなく、彼等はヤハドよりも先に砂嵐に対する準備を始めていた。
「つまり、あれが例の運営側のサプライズって奴だろ? ほら、ボケッとしてねぇでさっさと準備を済ませちまいな。それとミヒャエル、お前はクァルクに魔法をかけろ」
そう言うとヴィショップは砂船の後方に置いておいた袋から布を五つ引っ張り出し、それらを他の面々に配りながら自身の口元に布を巻いていく。ヴィショップから布を受け取ったヤハドも同じ様に口元に布を巻く。それが終わるとヴィショップはミヒャエルに目配せをして見せ、それを確認したミヒャエルはいつも持ち歩いている杖を構えて魔法の詠唱を始めた。
「四元魔導、嵐風が第百三十一奏、“ハルケーバリス”」
ミヒャエルが呪文の詠唱を済ませると、手綱を握るクァルクを中心に風が吹き起こった。魔法によって生み出された風はクァルクから離れることなく彼女の周りを微かな音上げながら吹き、彼女に襲い掛かる砂塵を吹き飛ばす。
「全く、あれがこの船全体に使えれば話は速いのだがな」
クァルクのみを避けて吹き荒れる砂嵐を目を細めて眺めながら、ヤハドがぽつりと呟く。しかし彼が言ったことはある理由により不可能だった。その理由とは、彼等が乗る砂船全体に魔法をかければその分魔力の消費が増し、この場を切り抜けたとしても後のレースに響くからだ。
加えてこの魔法が一度発動させれば後は一定時間効力が続く様な類のものではなく、術者自身が魔力を消費して維持させなければいけない魔法である以上、魔法の規模を大きくすればそれだけ求められる集中力も高まる。かつての『フレハライヤ』の時のような状態ならばまだしも、今のミヒャエルにそれを求めれば視野が狭まり周囲の状況に対応出来なくなる可能性が有る。また、この魔法を使っている最中にその他の魔法が必要にならない事態にならないとも限らない。そういった諸々を考慮して、ヴィショップはミヒャエルにクァルクのみに魔法をかけるように指示を出したのだった。
「無茶言わないで下さいよ、これだけでも少ししんどいっていうのに…まったく、僕が怪我人だってことちゃんと分かってます?」
「この予選が終わったら神導魔法の使い手を見つけ出して直させると、米国人も言っていただろう。愚痴を垂れていないで目の前の出来事に集中しろ」
不服そうな表情を浮かべるミヒャエルをヤハドがたしなめる。ヤハドの言った言葉に対して、ヴィショップは肯定も否定もしなかった。何故なら予選が終わった次があるかどうか、彼自身まだ測りかねているのだから。
「にしても、あのネェちゃん達、すっかり姿が見えなくなっちまったなァ。せっかくディナーの予約を取り付けたっていうのによォ」
「生きてれば、この砂嵐を出た後でも会えるだろうよ。それより、一周目が終わるまでさほど距離も無い筈だし、今は現在位置を確かめる方が先決だろう。おい、クァルク」
恐らくは本心から残念がっているであろうレズノフに適当に返事を返すと、ヴィショップはクァルクに声を掛けた。クァルクは無言で鼻を二度、三度とひくつかせる。
砂嵐によって視界は零に近い状態の中、ヴィショップ達が現在地点を確認する方法として選んだのはクァルクの嗅覚だった。彼女の種族であるチャスコールはその見た目を裏切らない、優れた嗅覚を持っている。それは意識して用いれば数キロ離れた先の微かな水の臭いすら嗅ぎ取ることが出来る程で、砂嵐に限らず視力が頼りにならない状況に襲われる砂漠においては、非常に重宝する能力であり、チャスコールを砂漠の住人足らしめる重要な能力でもあった。
「もうそんなに離れてねー。大体、数分もすればスタート地点を通過すると思うぜ」
少しして、観客席から発せられる大量の人間の汗の香りをかぎ取ったクァルクが鼻を擦りながらヴィショップにそう告げる。布で口元を覆っているのに加えて砂嵐のせいではっきりと確認することは出来なかったが、ヴィショップに向けられた彼女の横顔は心なしかしかめっ面になっているように見えた。
「よし。お前等、“アラモの砦”は目と鼻の先だ。根性入れ直しな」
ヴィショップはそう呼びかけて、ホルスターから魔弓を引き抜く。レズノフとヤハドも同じ様に自身の得物に手を掛け、ミヒャエルは縋るかのように手にしている杖に込める力を強めた。
「よし、目前まで来たら改めて教え…」
ヴィショップがクァルクに声を掛けようとする。その刹那、砂船を曳くヴォルダーがいきなり吠え声を上げてヴィショップの声を掻き消したかと思うと、彼等の乗る砂船は急なカーブを描いて左に曲がった。
「なっ!?」
余りに急な出来事に、バランスを保つことも出来ずヴィショップの身体は遠心力に吹き飛ばされて、砂船の右縁に叩き付けられる。かと思えば体勢を立て直す暇も無く、今度は砂船が右へと曲がり、ヴィショップの身体は向かいの縁に向かって弾き出された。
「ッ!」
あやうく頭から落ちて砂漠に突っ込みそうになるのを、何とか両手で踏ん張って堪える。その拍子に頭から落ちそうになったカウボーイハットをギリギリのところでキャッチすると、ヴィショップは身体を引き上げて手綱を握るクァルクに声を飛ばした。
「おい、何やってる!」
「済まねー、他の砂船が……ッ! ヴォルダー!」
クァルクの叫びに呼応して、ヴォルダーが大量の砂を巻き上げながら首を振り上げる。それと同時に何かが砕ける様な重い音がヴィショップ達の耳朶を打ったかと思えば、巨大な何かがヴィショップ達の真上、つまりは砂船の上を飛んでいき派手な音を上げて後方に落ちた。
「…ふぅ、ギリギリだったな」
大事を取ってか若干砂船のスピードを落としつつ、クァルクが安堵の溜息を吐く。ヴィショップは真上を通過した物体を追って後方へと向けていた顔を彼女の方に向けて口を開いた。
「今のは砂船だな」
「あぁ……多分前を行ってた奴等のだ。あいつ等、かなりのスピードで突っ走ってたからな。多分、そのまま砂嵐に突っ込んで操縦をしくじったか、他の砂船に突っ込みでもしたんだろーよ。臭いからして、まだそこらへんに結構な数転がってるはずだぜ」
クァルクはその匂いの正体が何なのかは言及しなかった。だがわざわざ彼女に教えてもらうまでもなく、彼等は気付いていた。何故ならその匂いは彼等にとって、母親の肌の香りよりも遥かに縁深い匂いなのだから。
「でも…前を行っていた人たちが戦わずしてこのザマってことは、結構楽になったんじゃないですかね?」
忙しなさそうに周囲を見渡していたミヒャエルが、顔に無理矢理笑みを浮かべてそう発した。彼に場の空気を取り持とうなんて思考がある筈も無く、それは所詮自分の心内に沸き立つ不安を抑えるための言葉に過ぎなかった。
ヴィショップは黙ってミヒャエルの方に顔を向ける。彼にはクァルクのような人間離れした嗅覚は無い。しかしそれでもミヒャエルが、暑さによるものとは別種の汗をかいているであろうことは容易に判別することが出来た。
「むしろ、弾除けに出来る馬鹿が脱落してくれた分、状況は面倒になったかもしれねぇ。何せこれから相手にしなきゃならんのはそこそこ知恵が回ってかつ、この砂嵐に打ち勝つことが出来る様な連中な訳だからな」
脅しでも何でもない自身の本心を、ヴィショップはミヒャエルに告げた。ミヒャエルは小声で愚痴らしきものを呟くと、手にしている杖を改めて握り直す。
「おい」
そこにクァルクの声が飛んでくる。彼女の声が帯びた緊張の気配のおかげで、本題に入ることなくヴィショップ達は彼女の言わんとしていることを察していた。
白砂の海を血で染め上げる死のレース、ミライアス・ラグーヌ。その序幕が今、ようやく上がろうとしていた。




