Bat Rady
時刻は遡って、ヴィショップ一行が『ミッレ・ミライア』に到着し、宿泊場所を探して大通りを歩いていた頃。前を行くクァルクの言葉に耳を貸しつつ、どこか懐かしさを覚える街の光景に視線を向けていたヤハドは、不意に懐に違和感を覚えた。
「そういう台詞が…」
別段、クァルクの言葉を受けてスリに対する警戒を強めていた訳ではない。もとから大国曰く、悪逆非道のテログループの一員として渡り歩いていた為、そういった行為に対する警戒は意識せずとも自ずと張り巡らせていた。
「痛たたたたたたっ!」
何か声を上げたり振り向いたりするよりも速く、ヤハドの右手は斜め後方へと伸び、一本のか細い腕を掴んで強引に捩り上げていた。
ヤハドに掴まれた腕の主が、腕に奔る痛みに声を上げながら手にしていた袋を離す。先程の分け前の入ったその袋をヤハドはキャッチすると、自分相手に馬鹿をやらかした人物に視線を向ける。
ヤハドの視界に映ったのは、二十を少し過ぎた程度の女の顔だった。脂ぎった茶髪に、茶色の瞳。痩せ過ぎなきらいはあるものの整った顔立ちをしており、みすぼらしいぼろきれの様な外套を身に纏っている。
「何すんのよ、あなた!」
痛みと恥辱で顔を歪めたスリの女が、唾を飛ばしながらヤハドに向かって怒声を放つ。ヤハドはくだらなそうに眉をひそめると、淡々とした口調で言葉を発した。
「何をするのだと? それはこっちの台詞だ、売女が」
「なっ!? あなた、初対面の人間に向かって、無礼にも程があるわよ! 一体、どんな教育受けて育ったらそうなるのかしら!?」
「スリなんぞやっている人間に、育ちをとやかく言われる筋合いは無い」
面の皮が厚いのかそれとも血の巡りが悪いのか、ヤハドの侮辱に怒りを募らせる女に、ヤハドは呆れ混じりの声音で返事を返す。すると彼の後方から、倦怠感に溢れたミヒャエルの声が飛んできた。
「ヤハドさーん。他の三人行っちゃいましたけど、いつまで関わってるつもりなんですかー? もしかして、ヴィショップさんが言ってた偽善者精神ってやつに火が…がぺっ!」
「む……本当に居ないな。この状況で逸れることの厄介さが、連中には分かっていないのか?」
振り向きざまにミヒャエルの顔面に裏拳を叩き込んで、ヤハドは姿を消した他の三人への文句を呟く。もっとも、行動を共にしている人間の中にヤハドの面倒事にわざわざ付き合ってくれるような人間がいないのは既に承知していたことではあったが。ミヒャエルにしたって先程の面倒臭げな口振りからして、人の流れのせいでこの場に取り残されたと考える方が自然だろう。それにこの状況は確かに厄介ではあるが、所詮は厄介なだけで大した問題ではないことをヤハドは知っているし、ヴィショップもそうだといえた。だからこそ、彼等はヤハドをこの場に置き去りにしていったのだ。
(さて、と…)
ヤハドは身体の向きを戻すと、血の垂れ出ている鼻孔を抑えているミヒャエルの姿を、呆気に取られた表情で見つめるスリの女の姿をじっと見つめる。
身に纏っているもので薄々感づいていたことだが、女からは金の臭いは全くしなかった。まず間違いなく、乞食か何かなのだろう。それは身に着けているものや、ヤハド相手にスリを働いたことからも何の抵抗も無く受け入れることが出来た。その一方で腑に落ちないこともあった。女は薄汚く、少し痩せ過ぎているが決して醜くは無い。娼館にでも行けば自分一人の身くらいは賄えるぐらいの金は稼げそうなものだったが、どうにもそういうことはしていないらしい。
そして何よりヤハドの目を引いたのは、女の着ている外套の隙間から覗いている人形の頭だった。木を使って作られたような上等のものではない、布と綿で作られた安っぽい少女の人形。二十を過ぎてはいるだろうスリの女が持つには不釣り合いなものが、外套の下の服のポケットに突っ込まれていた。
そんなものを女が持ち歩いている理由として考えられるものは、決して多くない。女の頭がイカれているか、その人形が親の形見か何かか、或いはその人形が必要な他の存在を彼女が抱えているか。ざっとヤハドが考えて思いついたのはこれくらいだった。
(偽善、か。まぁ、確かにそうかもしれないな)
女の懐から覗く人形を見ながら、ヤハドは心中で呟く。
(だが、人間偽善すら出来なくなったらもう終わりだろうに)
決してミヒャエルだけに向けた訳ではない言葉を呟いて、ヤハドは視線を上げる。そして顔を後ろのミヒャエルの方へと向けた。
「お前は先に行って、米国人達と合流していろ。俺は後から追い付く」
「…何ですか、やっぱり…はいはいはい、分かりました、行きますよ!」
何事かを口走ろうとしたミヒャエルだったが、ヤハドが拳を振り上げて見せると一目散にヴィショップ達の後を追って人混みの中へと姿を消した。
周囲のことなどまともに目にかけずに歩き続ける人々の雑踏の中に、ヤハドとスリの女だけが残される。女は少しの間、猜疑と微かに怯えの混じった目付きでヤハドを睨みつけていたが、口を開いて脅しているように聞こえなくも無い口調でヤハドに話しかけた。
「言っておくけれど、私に手を出そうとしたらただじゃおかないわよ」
「安心しろ。お前のような売女に興味など無い」
女の懸念をヤハドの酷薄な一言が撃ち砕く。するととうとう我慢出来なくなったのか、女が怒りの籠った声を上げる。
「さっきから売女売女って、私は娼婦じゃないわ!」
「どうせ似た様なものだろう」
「馬鹿言わないでよ! またあんなことするくらいなら、死んだ方がマシよ!」
叫びと共に女の平手がヤハドの頬に迫る。彼にとってみれば止まっているに等しい女の平手を、ヤハドは易々と手首を掴んで止める。一瞬、ヤハドは何か言いかけたが、出かけた言葉を腹の中に呑み込んで彼女に問いかけた。
「お前の寝座はどこだ?」
「何でそんなこと、あなたに教えなくちゃならないのよ!?」
「確認する必要があるからな。お前がこの場で腕を切り落とした方がいい人間なのか、そうではない人間なのか」
そのヤハドの一言で、ようやく自分が対峙している人間の本質を垣間見た女は、声を詰まらせて身体を引いた。しかしヤハドが手首を掴んでいる為、彼女の身体は一歩後ろに下がっただけでそれ以上は進まなくなる。
女は茶色の瞳でヤハドの顔をじっと見つめる。その目には先程までとは違って、純粋な恐れが宿っていた。
「……ハァ。安心しろ、お前の仲間には手を出さない」
女の瞳に宿る感情を見てヤハドは、もし仲間を思う気持ちが恐れに勝った場合、彼女が寝座に自分を連れて行かない可能性に思い当る。そして、米国人ならばこのような事態は引き起こさないだろうな、と考えてヤハドは溜息を吐くと、取り敢えず彼女を説得させようとして言葉を吐く。
「仲間なんていないわよ」
「嘘を吐くな。お前のような奴がこの街で一人で生きていけるものか」
咄嗟に白を切ろうとした女だったが、即座にヤハドに見抜かれて口ごもる。ヤハドは次に取るべき行動を考えて沈黙に耽る女の姿を眺めながら、彼女が答えを返すのを待った。
「論外よ。信用出来るわけがないわ」
結局待った末に帰ってきた答えが予想を裏切ることはなく、その時点でヤハドは計画の失敗を悟った。
ヤハドはもう一度溜息を吐くと、掴んでいた女の手首を離す。そして彼女が盗もうとした硬貨の入った袋を取り出し、銀貨を二十枚程袋の中に残して中身をポケットに突っ込むと、二十枚の銀貨の入った袋を女に差し出した。
「な、何のつもりよ?」
袋からポケットへと硬貨を移す際に姿を覗かせた金貨の輝きに目を奪われていた女は、ヤハドが袋を差し出すと正気に戻って訝しげな視線を彼に向ける。
「くれてやる。お前個人ではなく、お前の仲間を含めたお前達全員にだ。これで精々まともな食事でもさせてやれ。子供の内にまともなものを口にしていないと、大きくなってからが大変だ」
ヤハドはそれだけ告げると、呆気に取られた女に背を向けて歩き出す。
「え、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なんで小さな子供が居るってこと…」
「外套の下の人形だ。それはお前が使う為のものじゃないだろう」
ヤハドに指摘されて、女は慌てた様子で外套の下の人形を見る。そしてたったこれだけの要素で、自分が小さな子供を抱えていることを見抜いたヤハドに感嘆していると、そこに件の本人の声が飛んできた。
「それと、スリはもう止めておけ。お前にその才能は無い。その内本気で死ぬぞ」
「余計なお世話…って、あ、だから待ちなさいって!」
引き止める女の声を無視しして、ヤハドはヴィショップ達にの去って行った方向に向かって歩き始める。どうせこのことを話せば茶化されるのがオチなので黙っておこうと、心に決めながら。
だが、彼の歩みは十メートルやそこら歩いたところで、背後から腕を引かれて止まることになった。
「…何だ、まだ金が欲しいのか」
「そ、そんなんじゃないわよ」
顔をしかめてヤハドが振り返ると、さっきまでと比べて些か髪の乱れが増した女が立っていた。恐らくは、人混みの中を避けることもままならずに突っ切ってきたのだろう。
「じゃあ何だ。俺とて、暇を持て余しているという訳ではない。お前のせいで逸れた連れ達と合流しなければならんのだ」
ヤハドの目的はあくまで金を渡すことだけであり、必要以上に深入りする気は無かった。流石のヤハドも、ミライアス・ラグーヌまで殆ど時間の無い今の状況で単独行動に走り続けようと考える程、協調性というものを捨てている訳ではない。目的を済ませた以上、一刻も早くヴィショップ達と合流するべきだとヤハドは考えていた。
だが、彼を引き止めた女はそんなことは知る由も無い。彼女は微かに顔を上気させると、気を抜けば周囲の喧騒に掻き消されてしまいそうな声でヤハドに声をかけた。
「リリーヌ・パルケフェラッソ・サザーロウス…」
「は? 何だと?」
「だから、私の名前よ! リリーヌ・パルケフェラッソ・サザーロウス!」
声がまともな大きさだったとして、一回でまともに聞き取れるかどうか怪しい名前が飛び出してきて、ヤハドは思わず反射的に聞き返してしまう。すると彼女は一回目よりも大きく、そして早口に自身の名前をヤハドに告げた。
「……リリーヌか。良い名だ。俺はアブラム・ヤハドだ。機会があったらまた会おう」
「あなたこそ…って、何どこか行こうとしてんのよ。案内しろって言ったのはそっちでしょ」
フルネームを憶えることを早々に放棄したヤハドは、リリーヌに別れを告げてその場を立ち去ろうとするも、不服そうな顔を浮かべた彼女によって引き止められる。
腕を離す気配を見せないリリーヌの方を、ヤハドは小さく溜息を吐いて振り返った。ヤハドが振り返るとリリーヌは、「じゃあ、ついて来て」とだけ言うと、ヤハドの腕を引いて表通りから外れた裏路地に向かおうとする。ヤハドはその場から動かないで彼女に抵抗すると、怪訝そうな表情を浮かべて振り向いたリリーヌにもう案内してもらう必要が無い胸を告げる。
「待て。確かに連れて行けといったが、それはもういいんだ」
「何でよ。脅し染みたことまでして行こうとしてたじゃない」
「単に、お前が金を渡すべき人物なのかどうか確認したかっただけだ。お前がその金を受け取るに値する人物なのは充分に分かったから、もう案内してくれなくてもいい。だから手を離せ」
自分が彼女の寝座に向かおうとしていた理由を説明し、腕を掴んでいる手を離すようにヤハドは求める。しかし彼女は手を離すことはなく、それどころか不満気な表情を浮かべていた。
「何言ってるのよ。金だけ貰っておいて、何の礼もせずにあんたを帰せっていうの? 冗談じゃないわ。腐っても私はサザーロウスの女よ、受けた恩に背くような真似はしないわ」
「礼と言っても、お前に出せる礼なんてたかが知れているだろう。俺自身礼が欲しくてやった訳じゃないんだ。どうしても礼がしたいというなら、ここで頭を下げてくれればそれでいい」
「確かに私に出来る事なんてたかが知れているけど……それでもただ感謝の言葉を述べて、はいお終いっていうのは論外よ。とにかくついて来て」
リリーヌはそう言うと、ヤハドの腕をぐいぐいと引っ張って裏路地の方へと向かう。
彼女に引っ張られながらヤハドは、このまま力尽くで腕を振り解いて走って姿を眩まそうか、という考えを頭の中に思い浮かべる。だが今しがた垣間見たリリーヌの頑固さからして、下手したらつけ回されかねないと考えたヤハドは、仕方なく彼女について行くことに決める。
「分かった、ついて行けばいいんだろう。だが、こちらにも用事という奴がある。手短に済ませてくれよ。そうでなければついて行かない」
「…分かったわよ。出来るだけ手早く済ませるわ」
ヤハドの出した条件をリリーヌが受け入れたのを確認して、ヤハドは彼女について歩き始めた。
裏路地に入ったリリーヌはヤハドの手を引きながら、蜘蛛の巣のように街に広がる大小様々な路地を迷うことなく突き進んでいく。路地自体が入り組んでいるのもさるものながら、彼女が通るルート自体もかなり複雑で、時には階段を上って地上から離れ、時には階段を下って地下のような場所を進んでいった。周囲の光景は目まぐるしく変わり、おかげで碌に目印らしきものを決めることも出来ない。ヤハドはリリーヌに手を引かれるままに『ミッレ・ミライア』の街を踏破していきながら、果たして自分は元居た通りに帰ることが出来るのかという不安を覚えつつあった。
「よし、着いたわよ」
結局リリーヌが目的地までヤハドを案内した時、彼はここまで来るのにどれくらいの時間が掛かったのかすら定かではなかった。
二人が立ち止まった場所は、街中に立ち並ぶビルのような建物群の狭間にあるような土地だった。土地の広さ自体は決して狭くはないが、この場所に続く通りは今しがたヤハド達が通ってきた、ぎりぎり二人通れるかどうかといった細い路地のみ。周囲を高い建物に囲まれて完全に太陽の光を遮断されており、恐らくはまだ太陽は沈んでいないにも関わらず、夜中と勘違いする程に暗かった。
そんな街から見捨てられたかのような土地に、リリーヌの寝座になっている建物はあった。それは小屋にしては些か大きく、屋敷と呼ぶには小さすぎる感じの、中途半端な大きさの二階建ての建物だった。建てられてからかなりの年月が経っているらしく、外から一目見ただけであちこちにガタがきていることが見て取れた。その風体は周囲の暗さと相まって、まさしくお化け屋敷といった感じだった。もっとも、そういったものに縁の無いヤハドにはそのような感想は抱きようがなかったが。
「ここは…何だ…?」
「何か、教会みたいな場所だったらしいわよ。といっても、女神様を信仰するような類のものじゃない、この土地特有の土着神を崇めるためのものだったらしいけど。何でもここがこんな有り様になる前からあったみたいなんだけど、ここが今みたいになってからは当然使う人も居なくなってこの有り様になってるのよ。それが何で取り壊されずにいるのかは分からないけど、便利だから私達で使わせてもらってるって訳。人も来ないから便利だしね」
ヤハドの漏らした疑問に、リリーヌは建物の入り口に向かって歩きながら答える。言われてみれば確かに、建物の屋根の辺りにイトスギの木の枝を加えた狼の紋章が設えてあり、その構図はどことなく、この世界で最も普及している女神信仰の教会で掲げられている百合を加えた梟の姿を象った紋章と似ていた。
『リリーヌねーちゃーん!』
狼とイトスギの紋章を見上げていたヤハドの耳朶を複数の子供の声が打つ。視線を下げてヤハドがそちらに視線を向けると、丁度リリーヌが建物の玄関口で中から出てきたと思しき子供達に囲まれていた。
「だーかーら、私のことはリリーヌ姉さまと呼びなさいと、何度言ったら分かるのよ!」
「それよりもリリーヌ姉ちゃん、食べもんはー?」
「私の人形はー?」
「きしさまの剣は手に入ったのかよー? 前みたいな木を削ったやつじゃなくて、ちゃんとして鉄で出来たやつは?」
リリーヌの言葉などさらりと受け流して彼女に群がる子供達の姿を、ヤハドは立ち止まって遠巻きに眺める。彼等は皆似たり寄ったりの乞食が身に着けるような薄汚れた服を身に纏っていた。肌は薄汚れ、手入れのされていない髪はぼさぼさであり、上半身に何も身に着けていない何人かの少年は、痩せた手足に反してぽっこりと突き出た腹を剥き出しにしていた。
その姿は決してヤハドにとって見慣れていないものではなかった。一度死んでこの世界に送られる前から、彼はその光景を何度となく目にしていた。
決して、この世界でもそのような光景を目にしないと思っていた訳ではない。事実、ふとした拍子に街の裏通りなどに目を向けた時にそのような姿の子供達を二、三人見かけることはあった。だが今回は話しが違った。その数もさることながら、今彼が立っている土地は彼の故郷とよく似ていた。あらゆる生命を拒絶する、砂漠の乾いた死の空気。その懐かしき臭いは、彼が飢えた子供達を見る度に覚える懐かしさと苛立ちの感情をより強大なものへと変えていた。
「あら? そういえばカミーラの姿が見えないけど…」
「カミーラ姉さんなら、リリーヌ姉さんが返ってくる少し前にどっかに行っちゃったわ」
そして肥大化した感情はヤハドの警戒心に影を差した。
彼が頭上から聞こえる布をはためかせるような僅かな音に気付いたのは、建物を取り囲む周囲の背の高い建造物からヤハド目掛けて降下した人物が、落ちてきた勢いを利用して彼を組み伏せる一瞬前のことだった。
「むおっ…!?」
ヤハドが顔を上げた時には既に飛び降りてきた人物の手はヤハドの身体を捉えていた。予期せぬ奇襲にヤハドはろくに抵抗することも出来ず、仰向けに押し倒される。ヤハドを押し倒した襲撃者は驚愕の感情が浮き出たヤハドの顔を赤い瞳で一瞥すると、懐からナイフを引き抜いてヤハド目掛けて振り下ろした。
だがヤハド腐っても、弾雨飛び交い策謀渦巻く戦場を生き抜いてきた猛者だった。彼は振り下ろされた腕の軌跡に左腕を割り込ませて喉元に迫るナイフの切っ先を止めると、右手で圧し掛かっている襲撃者の喉を掴んで締め上げつつ自身の身体の上から引きずりおろし、位置を逆転させて今度は自分がマウントを取って組み伏せる。そして上半身に斜め掛けにしたベルトからスローイングナイフを引き抜いて、襲撃者の首元に押し当てた。
生殺与奪の権利を一瞬にして襲撃者から奪い取ったヤハドは、襲撃の目的を問い質そうとして口を開きかける。だが一語目を次の瞬間には彼の目は大きく見開かれ、動きかけていた口は動きを止めた。
「貴様…」
周囲が暗いとはいえ、首元に刃を押し当てていつでも殺せる状況に持ち込むまで、自分が戦っている人間の姿形に気付かないという事実は、いくら甘さや情を持ち合わせていたとしても、ヤハドの本質が戦士であることを物語っていた。
襲撃者の容姿に気付いたヤハドは首元からナイフを離すと、立ち上がって襲撃者の上から退く。解放された襲撃者は機微な動作で立ち上がり、ヤハドから距離を取って手にしたナイフを構えた。立ち上がったヤハドはスローイングダガーを手にしたまま、未だ敵意を向け続ける襲撃者の姿をじっと睨みつける。
ヤハドを襲い、彼が返り討ちにして組み伏せた人物は一人の少女だった。少女といってもリリーヌの周りに群がっていた者達程幼い訳ではなく、歳は十八程度で半ば以上女性の域に足を踏み出しつつある。ただそれでも顔の端々に残る未だ抜け切れていない幼さや未熟さといったものが、彼女を少女という枠組みに押し込めていた。
肌は新雪のように真っ白で、瞳はそれとは対照的に鮮血を思わせる深紅。首にかかる程度で乱雑に切り揃えられた黒髪は、手入れなど殆どされていない筈なのに黒曜石の様な艶やかさを持っており、顔立ちはどこか欧州の高級人形を思わせる程に整っている。それらの要素は互いが互いの魅力を殺し合うことなく合わさり、少女にどこか人間離れした妖艶さを纏わせていた。そしてそれは実際、間違いではなかった。
「亜人、という奴か?」
ナイフを構える少女の腕から伸びる、鳥のものとは違い一切羽の無い膜のような薄い翼と、黒髪から突き出して伸びる蝙蝠のような大きな耳。それらが少女は正真正銘の人外であることを雄弁に物語っていた。
「だったら何か? ワーマー風情よりは幾段マシだと思うけど?」
「ちょ、ちょっ、何やってるのよカーミラ!」
意味は分からないが、明らかに侮蔑の意味合いを含んだ言葉を少女から返された直後、建物の入り口にいたリリーヌが少女のものと思しき名を呼びながら慌てて駆け寄ってくる。
「何やってるも糞もない。どうして見知らぬ人間をここに連れてきたの」
「そいつには借りがあるのよ! ほら、こんなに金をくれたわ。これだけ貰っておいて何もせずに返すなんて、出来る訳ないでしょう!」
責める様な口調で訊ねるカーミラに、リリーヌはヤハドから貰った銀貨入りの袋を見せながら反論する。カーミラは銀貨の入った袋をリリーヌから受け取ると、重さを確かめるように手の腕で転がしてから彼女に投げ返した。
「本当にあなたは甘ちゃんね。これだけの金を何の見返りも求めずに渡す奴なんて居る訳ないじゃない。あなたはいいようにこのワーマーに騙されたのよ」
「そんなことないわ! そもそも最初はそいつ、袋だけ私に渡して帰ろうとしてたのよ! ここに来たのだって私が無理矢理連れてきたようなもので…」
「もういいから黙ってて。こいつをここに連れてきた時点で、あなたは私達を危険に晒してる。これ以上うだうだ言うようだったら、あんたから先に黙らせるわ」
話は終わりだ、とでも言わんばかりにカーミラはリリーヌから視線を逸らし、再びナイフを構えてヤハドを睨みつける。
だが、そのように一方的に話を打ち切られて、はいそうですかと引き下がるような女ではリリーヌはなかった。彼女はこめかみをひくつかせると、カーミラの肩に手を置いて無理矢理振り向かせて声を張り上げた。
「なっ…!? 貴女、私に料理から何から任せてる分際で、よくそんな大口叩けるわね!」
「…それは今関係無いわ。それに、私はここの警備という自分の役目を忠実に…」
「何が警備よ! 旧神の祟りだか何だかを恐れてこんな所に人なんてろくに来ないもんだから、暇な一日ずっと屋根の上で呆けてるだけじゃない」
「その言葉は心外ね。取り消してもらおうかしら。現に、こうして危険な輩が入り込んだ時に真っ先に対応したのは私よ」
「対応が聞いて呆れるわね! 賊と客人の区別もつかないくせに! それならルースにそのナイフを持たせて見張りに立たせてた方が、よっぽど効果的よ!
最早ヤハドそっちのけで幼稚な口喧嘩を始めたリリーヌとカーミラを、忘れ去られた当人であるヤハドは唖然とした表情で眺めていた。ふと視線をリリーヌについて来てこの場に集まっている子供達に向けると、その大半が呆れているというか、こういった光景を見慣れてるといった感じの表情を浮かべていた。
そんな子供達の表情を見て、ヤハドは目の前で罵り合っている二人を含めた彼女等が悪人ではないことを悟った。ヤハドは微笑を浮かべて、右手をポケットに伸ばす。彼がポケットから右手を抜いた時、彼の掌の上には金貨が一枚乗っかっていた。彼はそれを親指の上に乗せると、リリーヌが服の下に持っていた人形を抱きかかえ、楽しそうな笑みを浮かべながら二人のやり取りを眺めている少女に近づいた。
「そこの君」
「なぁに?」
「あれのほとぼりが冷めたら、こいつを渡してくれ。くれぐれも信用出来る場所以外では使ったり出したりしないように、と俺が言っていたと伝えておいてくれ」
「…うん、わかった」
一目した時、一番幼く分別が未熟そうな子供を選んだヤハドの判断は正しかった。少女はヤハドに手渡された金貨をじっと見つめたが、それがどのようなものなのかははっきりと分からないらしく、さっさとスカートのポケットにねじ込んでしまうとリリーヌとカーミラの喧嘩に視線を戻した。
おかげで騒ぎを起こすこともなく、ヤハドはその場を去ることが出来た。カーミラとリリーヌがヤハドの姿が消えたことと彼が金貨を残したことに気付いたのは、ヤハドが少女に言い付けた通り二人の喧嘩が終わってからのことだった。
そして帰り道をろくに憶えていないことにヤハドが気付いたのは、リリーヌ達の住む建物を離れて二、三分程歩いてからのことであり、何とか最初の大通りまで戻ってきて彷徨っていたところを、『ホテル・スパノザ』の部屋の窓際に腰かけていたミヒャエルが見つけて招き入れたのは、すっかり日が沈んでからのことだった。




