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Bad Guys  作者: ブッチ
Death Race XXXX
119/146

死者の思い、生者知らず

「ん…ここは……」

「あっ、目が覚めたか!」


 頭に響く鈍痛に眉をしかめながらも目を覚ましたダリの視界に、最初に飛び込んできたのはすぐ真上でこちらを覗き込んでいるクァルクの顔だった。


「やぁ、クァルク。…ここは?」

「ここは、ってお前の家だよ、ダリ。お前が言うテストとやらが終わった後、気絶したお前をオレ達が運んできたんだ」


 クァルクが顔を退けようとしないので、ダリは仰向けに寝転んだ体勢のまま彼女と会話を交わす。言われてみれば、背中に感じる硬い感触は自分が毎夜、寝室で背中に感じているものと同じだった。


「気絶…ということは…」

「そう、オレ達の勝ちだ!」


 ようやく顔を離したクァルクが、自慢げに胸を反らせてそう告げた。

 だがダリには、彼女からわざわざそれを聞かされるまでもなく、自分が部屋に寝かされていることに気付いた時から、自分が負けたことを理解していた。

 ダリたちの真上を通過した砂船から、太陽を背に飛び降りてきた短い銀髪の大男。あろうことか撃ち込んだ魔力弾を左手の手甲で防いだその男に、立て続けに見せられた荒業で冷静さを欠いていたとはいえ、反応すら出来ない鋭さを伴った一撃でダリは意識を刈り取られて敗北した。その時の光景がずきずきと痛むダリの頭の中で、鮮明に蘇っていた。


(やっぱり僕は、お前がいないと半人前ってことか…)


 クァルクの持つ雰囲気に気圧されこそして勝負を持ち掛けたものの、負ける気など微塵も無かった。ついつい彼女の出方が気になって動きを待つようなこともしたが、間違いなく全力を尽くしてクァルクを迎え撃った。

 それでも彼は負け、親友の期待を裏切ることになってしまった。悔しさよりを先行して、自責の念がダリの心中に広がっていき、言葉に出すことなく自嘲する。そしてそんな彼に勝った当人は、彼の心中など知らずに嬉しそうな表情を浮かべて語りかける。


「お前が連れてきた連中は、ヴィショップ達がいくらか報酬を払って帰しといてくれたぞ。それと、ヴォルダーはオレが小屋に戻しといた」

「…そうか。有難う」

「いいって、礼なんて。それより、早速で悪いんだが頼みがあるんだよ」


 いくらか表情を真剣なものに変えて、クァルクが切り出す。既にその内容に見当がついていたダリは、言葉の続きを待たずに首を縦に振った。


「分かってる、約束は守るさ。ヴォルダーも砂船も持って行っていい。ついでだし、ミライアス・ラグーヌの出場に関してもある程度協力してあげるよ」

「本当か! ありがとな! って、それはそれで有難いんだけど、もう一つあんだよ…」

「もう一つ? 何だい?」


 これ以上自分が協力出来ることに心当たりなどなく、ダリは訝しげな表情を浮かべる。訊ねられたクァルクは一度頷いて、そのもう一つの頼みとやらを告げた。


「あのさ、ミライアス・ラグーヌまでの間に、色々と教えて欲しいんだよ。レースのこととか」

「…構わないけど、僕は手綱を握ったことは殆ど無いよ。だから君に教えて上げられることなんて…」

「んーと、オレも色々と教えてもらいたいけど、どっちかってゆーとメインはあいつらの方かな」


 クァルクはそう返して、自分の後方を親指で指し示す。それに従ってダリが視線を向けた先には、テーブルに着いて勝手にダリの家の食糧を食べているヴィショップとレズノフの姿があった。


「悪いなァ。こっちはまともに飯食ってねぇんで、拝借させてもらってるぜェ。安心しろ、あんたの分のちゃんと残してるからよォ」

「いや、それはまぁいいんだが…」


 ダリの視線に気づいたレズノフが食べるのを止め、軽く手を上げてダリに声をかける。食糧どころか酒瓶まで開けているレズノフの姿に戸惑い混じりの返事を返しつつ、ダリは横目で窓を見た。窓越しに見える空は既に漆黒の闇に染まり、太陽の代わりに無数の星々が散りばめられていた。


「今のクァルクの話は、本当なのかい?」

「あぁ、本当だ」


 視線をテーブルに着く二人に戻して、ダリは問いかける。するとヴィショップが頷いて、その質問に答えた。


「最初に言ったと思うが、俺達は砂船を使ってのレースの経験は全くと言っていい程無い。だから、元々有名なミライアス・ラグーヌの参加者の一人だったっていうあんたに、直々に教えを乞いたい訳だ」

「そういうこったァ。なんせあんたに教師になってもらう為に、こっちはあんたをころ…」


 ヴィショップは口走りかけたレズノフに、レタスとトマトを挟んだサンドイッチを投げつけて黙らせる。レズノフはそれを避けるどころかキャッチすると、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら口元に運ぶ。その笑い方を見て、今しがたの発言が口走った訳でもなくわざとであることを悟ったヴィショップは、こめかみをひくつかせながら近くに置いてある瓶に手を伸ばし、それに応じるかのようにレズノフも手近にあったソーセージを掴んだ。


「まー、そういう訳だからあんたには、ミライアス・ラグーヌに関して色々と教えて欲しいんだよ。兄貴と一緒に戦い抜いてきたあんた程、うってつけな奴もいねーしさ」


 勝手に一触即発の状態に陥った二人の代わりに会話を引き継いだクァルクは、歯を覗かせて笑いながらそう言った。ダリへと向けられた明朗なその笑みには、一切の嘘偽りの無い彼への信頼が浮かんでいた。

 故に、ダリは心中に湧き上がった疑問を押し殺すことが出来なかった。気付いた時にはその疑問は、既に言葉という実態を得てしまっていた。


「クァルク…君は、どうして僕を選んだんだい?」

「…ん?」


 質問の意図が分からないのか、不思議そうな表情をクァルクは浮かべる。ダリは思わず声を荒げたくなるのを我慢して、彼女に問いかけた。


「僕はオルートの手綱を握ったことは無い。戦ってみて分かったが、単純な戦闘経験なら君の連れてきた二人の方が上だ。ただ技術を教わりたいだけなら、他にもっと適任がいるだろう? なら、どうして僕の所に来たんだい? ヴォルダーと砂船の為か? それとも、他に頼れる人が居なくてしかたなくか?」


 湧き上がる激情が声に現れないように抑えるのに必死で、声音自体に変化は無くても口調そのものが非難するかのような形になっていたが、今のダリにはそれすら気付くことは出来なかった。

 全てを吐き出したダリは、答えを待ってクァルクの顔をじっと見据える。彼の異変に気付いたヴィショップとレズノフから向けられる視線も、今のダリにとっては取るに足らないものだった。

 何故、自分の許に来たのか。何故、親友の頼みを全う出来なかった自分に、そんな笑みを向けるのか。ダリの意識に今あるのは、それらの疑問に対する答えへの欲求のみとなっていた。


「…まぁ、そういった理由もあるっちゃあ、あるけど…」


 数秒の思考を経て、クァルクが閉じていた口を開く。彼女の言葉が自分の耳朶を打った瞬間、絶望と諦めとが自分の心に染み渡っていくのをダリは感じた。


「でもまぁ、やっぱり兄貴にそうしろ、って言われたからかな」

「…へ?」


 だが、心を満たしていったと思っていたそれらの感情は、クァルクが次に発した一言で掻き消される。

 一瞬、クァルクの言った言葉が呑み込めずに、間の抜けた声だけがダリの唇の隙間から漏れた。それを聞いたクァルクは、少々声を大きくしてもう一度、ダリに彼の質問に対する返答をぶつける。


「だーかーら、兄貴に言われたんだよ。もし俺が死んだりした後、お前がミライアス・ラグーヌに出たりしたくなったら、ダリを頼れ、って。あいつは俺より頭がいいからきっと生きてるし、俺に足りなかった部分もちゃんとお前に教えてくれるから、って」


 その言葉を呑み込むのに、ダリは十秒以上の時間を要した。

 かねてより抱いてきた、相棒に対する劣等感。今回の敗北によって明確な形で噴き出したその感情そのものを、否定するクァルクの言葉。それは決して、すぐさま受け入れ呑み込むことの出来る言葉ではなかった。

 例え、それがダリにとって救いとなる言葉だったとしても。


「え……あ……そ、それ…は……本当、なのか、い…?」

「あぁ。最後のレースに出る前、家に戻ってきた兄貴が帰り際に言った、いわば遺言のよーなもんだ。間違える訳がねー」


 大きく目を見開き呆気に取られた表情を浮かべるダリを、怪訝そうな顔つきで見つめながら、クァルクは答えた。


「そう、か…。あいつが、僕を、頼れと……」


 知らず知らずの内に浮かせていた腰を、ゆっくりとベッドの上に戻す。

 ダリの脳裏に、相棒と呼び憧れた男との日々が蘇ってくる。初めて会った日の思い出。ヴォルダーに砂船を曳かせるために苦心した時の思い出。初めてミライアス・ラグーヌに挑戦した日の思い出。生き残り、回を重ねる毎に高まっていく自分達の名に昂揚しながら、酒を飲み交わした日々の思い出。そして最後となったミライアス・ラグーヌでの思い出。

 それら、ルァイズとの思い出がダリの脳裏を駆け巡り、そして自分はいかに愚かな思い込みをし、親友との約束を取り違えていたかに気付いた時、


「はっ、はははっ……こりゃあ、あいつに謝んないとな…」


 ダリは微笑を浮かべながら、静かに両手で顔を覆った。


「お、おい、どうしたんだ、ダリ? もしかして…」

「止めときなァ、嬢ちゃん」


 明らかにおかしいダリの態度に、クァルクが思わず声を掛けようとする。それを止めたのは、酒瓶を片手にその光景を見物していたレズノフだった。


「な、何でだよ…?」

「嬢ちゃんには分からねぇだろうけどなァ、男にァ、そっとしといて欲しい時、ってもんがあんのよゥ」


 怪訝そうに振り返ったクァルクにそう告げると、レズノフは机の上の酒瓶をいくつか手に取って席から立ち上がる。向かいに座っていたヴィショップも無言でそれに従い、二人は玄関に向かって歩き始めた。


「お、おい、どこ行くんだよ?」

「帰るんだよ。細かい話は、明日にでも決めればいい。どの道、役者は全員揃ってねぇしな」


 唐突に家を出て行こうとした二人を、クァルクが引き留める。ヴィショップは立ち止まって、クァルクについてくるように合図すると、顔を手で覆っているダリの方へと視線を向けた。


「あんたも、それで構わないだろ?」

「……あぁ」


 ダリの返事は、極めて短く簡素なものだった。恐らくそれが、彼が感情を押し留めて言葉を発することの出来る限界だったのだろう。

 ヴィショップとレズノフは、その短い返事を受け取ると扉を開いて家を後にする。クァルクは未だに腑に落ちずに、ダリと出て行った二人の背中を交互に見ていたが、やがてダリに別れの挨拶を告げて二人の後を小走りで追い始めた。

 三人が去り、部屋にダリ一人が残される。音を立てて扉が閉まり、その余韻が霧散していくと、部屋にはくぐもった嗚咽だけが残った。







 ヴィショップとレズノフ、そしてクァルクはダリの家を後にすると、そのまま『ミッレ・ミライア』における当座の拠点として確保しておいた、『ホテル・スパノザ』へと戻ってきていた。


「あー、やっと着いた。にしても疲れたなー。さっさと寝たい」


 四階までの階段を上がり切ったクァルクが、伸びを一つしてそう発する。

 冷静になって考えてみれば、この街に至るまでの砂船で一戦、そしてダリの試験で二戦と一日に三回も修羅場を潜りぬけてきたことになる。砂漠の気候自体には慣れていても、魔獣相手の狩りではない、人間相手の戦いなど初めてのようなものであるクァルクにとっては、かなりのハードな一日に感じられていても何らおかしくはなかった。


「その前に、水でも引っ被ってこい。臭くてかなわねぇ」

「何なら一緒に浴びるかァ、お嬢ちゃん?」


 むしろ彼女の後に続く、平然とした態度で階段を上ってくる二人の方がおかしいだけとも言えた。


「死んでも願い下げだね、って何であんた等、そんなに平然としてんだよ?」


 自分とは違って余り疲労している様子の見えないヴィショップとレズノフに、クァルクは訝しげな眼差しを向ける。


「単に、お前みたいに表に出さない術を身に着けてるだけさ」

「まァ、前はもっと酷ぇ戦いばっかだったからなァ。待ち伏せの為に殆ど身動きせずに、ジャングルの中で三日間待ち続けたりとかよォ」


 二人は思い思いの返事を返すと、クァルクの脇を抜けて自らの部屋の前に向かう。そして両手をさけに塞がれたレズノフの代わりに、ヴィショップが取っ手を掴んで扉を開いた。


「あっ、帰ってきましたね。随分と遅かったじゃないですか」

「まぁ、色々あってな。まさかそっちの馬鹿が帰ってくるよりも遅くなるとは、流石に思ってもみなかったけどよ」


 部屋に入ったヴィショップはミヒャエルに返事を返しつつ、視線を部屋の両脇に置かれたベッドの内の片方へと向ける。そこには水の入った瓶を片手に二段ベッドの下段に腰かけている、昼間に目を離した隙に逸れた色黒の男の姿があった。


「まさか、その馬鹿というのは俺のことを指しているのではあるまいな?」

「当たり前だろ。人混みで勝手逸れて姿消すような奴の呼び名なんぞ、馬鹿じゃなけりゃガキのどっちかだろうが。お前の持ってる瓶の中身がお前のママのオッパイだっていうなら、今すぐにでももう一つの方に呼び名を変えてやろうか?」


 軽くこちらを睨みつけてきたヤハドに大して、ヴィショップは一息に捲し立てると身に着けていた黒い外套を脱いで、床に放る。建物に入るつもりに叩いて砂は落としたつもりだったが、落とし切れていなかった分の砂が床に落ちた衝撃で微かな音を立てて散らばっていた。


「仕方ないだろう。まさか、町に入って数分でスリに遭う破目になるとは、思ってもみなかったんだからな」

「お前も素人じゃねぇんだし、それくらい適当に切り抜けろよ。そこの阿呆じゃあるまいし」


 ヤハドとは反対側のベッドにヴィショップは腰かけると、言い訳がましい台詞を吐くヤハドを非難する。それにヤハドが何かを言おうとした時、中央のテーブルに酒瓶を置いたレズノフが割り込んできた。


「でェ? あんたからスリをやらかそうとした奴は、どんな奴だったんだァ? 俺の記憶だと、相手は女だったと思うが、慰謝料代わりに一発カマしてきたのかァ?」

「んな訳ないだろう。それに女といっても、まだまだ子供だ。そんなのに手を出すほど、俺の性根は腐っていない。どこかの誰かと違ってな」


 下卑た笑みを浮かべるレズノフに、ヤハドは呆れ混じりの口調で返事を返す。そんな彼とヴィショップのことを、ミヒャエルが気に食わなそうな目で見ていたが、その無言の主張に取り合う者はこの場にいなかった。


「まさかとは思うが、慰謝料代わりをふんだくる代わりに、逆に金をくれてやったなんて締まらない話にはなってないよな?」

「…別に大した額はやってない」


 一瞬間を置いて、ヤハドはヴィショップの投げかけた問いに答える。その返答を聞いたヴィショップは、大げさな手振りで片手を頭に置いて、頭を左右に動かして見せた。


「その子供を見たら何かしら手を差し伸べてやろうとする姿勢は、もうちょっと何とか出来ねぇのか? その内俺達の命まで差し出しそうだぜ」

「安心しろ、お前達の命なんぞくれてやっても、子供に悪影響が出るだけだ。……で? こんな時間まで少女を引きつれてぞろぞろと、お前等一体何をやっていたんだ?」


 ヤハドは面倒臭そうにヴィショップの軽口をあしらうと、自分がはぐれている間にあった出来事を訊ねた。ヴィショップは机の上にレズノフが置いた酒瓶に手を伸ばし、栓を空けてからクァルクの紹介で出会ったダリとのやり取りを語った。


「…では、そのダリとかいう男から砂船と…オルート? とやらの乗り方を教わる訳か」

「そういうことになるな。取り敢えず明日、お前等の顔見せも兼ねてもう一度行くぞ」

「構わん。にしても、お前等が行くところいつも流血沙汰になるのはどういう了見だ? やはり、お国柄と言うやつか?」

「てめぇにゃ言われたかねぇよ、テロリスト野郎(マザー・ファッカー)。」


 ヤハドの軽口に、ヴィショップは中指を突き立てて応える。そこに、横で話しを聞いてきたミヒャエルが面倒臭そうな口ぶりで割り込んできた。


「ちょっと待ってくだささいよ。何ですかお前等って。まさか、僕もその頭数に入ってるんじゃ…」

「当たり前だろうが。てめぇにはこのターバンが二個も三個もあるように見えんのか?」

「だ、だって、話し聞いてる限りその砂船とやらに五人も乗れるかどうか分かりませんし……だったら、そういうのに向いていない僕は除外していいんじゃないですかね?」

「安心しろ。どんなクソみてぇな人間にも、案外何かしらの才能が眠ってるもんだ。…って、どうした?」


 何とかしてミライアス・ラグーヌに参加しないように必死なミヒャエルに、ヴィショップが止めを刺そうとしていると、不意にヤハドが立ち上がって扉へと歩き出す。ヴィショップが声を掛けて彼を呼び止めると、ヤハドは足を止めてヴィショップの方を振り向いた。


「少し夜風に当たってくる。今度は道に迷うような愚は犯さないから、お前等は先に寝ていろ」


 窓から見える夜景を顎で指し示して、ヤハドは答える。ヴィショップは視線を窓の外に暫し向けた後、肩を竦めて言った。


「そうかい。なら、朝までには帰ってこいよ。さっきも言ったが、明日は人に会いに行くんだからな」

「分かってる。ではな」


 そう告げて、ヤハドは部屋を後にする。彼は後ろ手に扉を閉めると、薄らと聞こえてくるミヒャエルの訝しげな声に背を向けて、下へと続く階段に向かう。既に夜もとっくり更けているとあって、どこの階にも人影は無い。精々酒に酔った者の笑い声か、女の嬌声と苦しげな男の唸り声とが僅かに聞こえてくる程度だった。

 壁にかけられた、埃を被り明るさの弱くなった神導具の灯りを頼りに、ヤハドは急勾配気味の階段を下りていく。そして一階までやってくると、フロントに突っ伏したまま寝ているやせ気味の男の前を横切って玄関を抜け、肌寒さの感じる深夜の通りへと出てきた。

 通りに出てきたヤハドは、無言で周囲を見渡す。既にこの界隈は寝静まっている為、出歩いている人は見かけられない。精々、家無しの乞食が道に布を敷き薄汚い毛布に包まって寝ているぐらいだ。

 だがヤハドは、はっきりと視線を感じていた。点々と地に寝そべりいびきをかいている乞食とは異なる者の視線を。それもこの通りに出てきてからではなく、ヴィショップ達と部屋の中に居た時から。


「…そこか」


 辺りを一通り見渡して誰も居ないことを悟ったヤハドは、視線を上方へと向ける。

 果たして視線の主は、彼が上げた視線の先に居た。星空に浮かぶ満月をバックにして、この通りに所狭しと立ち並ぶ看板の内の一つの真上に、その人物は立っていた。その人物は黒い外套らしきものを身に纏い、身体をその中にすっぽりと隠していた。フードは付いていなく、頭の上からツンと立った一対の大きな耳が隠されることなく剥き出しになっている。髪は黒で、後ろ髪の毛先が首に届く程度で乱雑に切り揃えられ、赤い色の瞳は半目になった地上にいるヤハドを睨みつけていた。


「何の用だ。また、負けに来たか?」


 看板の上に立つ人ならざる人物を見上げて、ヤハドは問いかける。その人物はヤハドの問いに隠れることなく、外套のようなものの下に隠していた両腕を拡げた。

 外套らしきものが勢いよくはためき、左右に広がる。それは僅かに波打ちながら左右に広がった後、拡げられた両腕が軽く振られるのに合わせて、ピンと張りつめられ空中で静止した。ヤハドを見下ろすその人物の左右に伸びた、その人物自身よりも遥かに大きなソレは、まるで翼のような影を眼下に立つヤハドの下に落としていた。

 ヤハドは、まるで翼を生やしたかのようなその人物を無言で睨む。その人物も同様に、二つの赤い瞳でヤハドのことを睨んでいた。互いに無言の睨み合いが、数秒程続く。かと思うと看板に立つその人物は、不意に看板を蹴りつけてその身を宙に投げ出した。

 高さにして地上五階以上の高さから身を投げたその人物は、両腕と黒い外套らしきものを自身の左右に広げながら、まっすぐ地上に向かって落ちていく。

 そしてその光景を見た者ならば誰もが抱くであろう予想を裏切って、その人物は音も無く地面に着地した。

 両手を垂らし、膝を曲げて着地したその人物を、ヤハドは静かに見下ろす。看板から飛び降りたその人物はゆっくりと立ち上がって、顔をヤハドへと向けた。距離にして三十センチ弱。それ程までに近づいてようやく、雪の様に白い肌とそれとは対照的な真っ赤な瞳を持つその顔が月明かりに照らされてはっきりと見え、その顔が女性のものであることを見分けることが出来た。

 数秒の間、ヤハドとその女はなにも発せずに視線を交錯させた。かと思うと、不意に女性が懐に手を伸ばし、微かに金属同士のぶつかり合う音のする小さな袋を取り出して、ヤハドの胸に押し付けた。


「返しに来たわ。借りは作らない主義だから」


 ヤハドの胸元に袋を押し付けたまま、女はそう告げた。ヤハドは胸元に押し付けられた袋に手を伸ばすことなく、意識を過去へと巡らせる。

 今日の昼ごろ、ヴィショップ達と逸れた直後の記憶へと。

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