Pseubo Love
一段一段、痛む右脚を引きずりわざとらしい程に靴音を響かせながら、ヴィショップは地下へと続く階段を下っていく。彼の眼下には、驚いた表情を浮かべて椅子に縛り付けられている紫色の髪の女性……ミヒャエルの言っていた情報との符合からシューレ・ヴィレロと思われる女性と、剣呑な眼差しを向けるこの騒動を引き起こした張本人であるミヒャエルの姿があった。
「貴方は…?」
「その様子だと…ギリギリ間に合ったみたいだな」
呆気に取られながらもシューレがはっきりと言葉を発したのを確認して、ヴィショップはひとまず安堵する。肩に突き刺さっている何本もの釘に完全に潰された両膝など、到底無事であるとはいえない状態だが、それでも最悪の展開だけは避けられたようだった。
「意外と速かったですね。もうちょっとかかると踏んでたんですけど。まったく、ヤハドさんもだらしがないですねぇ」
そこに失望したようなミヒャエルの声が飛んでくる。ヴィショップはシューレへと向けていた視線を動かして、こちらをじっと睨みつけているミヒャエルを見る。
「お遊戯の時間は終わりだぜ、クソ変態野郎。手に持った鋏を捨てな。じゃないと…」
「まぁ、でも来ちゃったなら来ちゃったでいいです。今、大切な話をしてるんでそこで見ていて下さい」
ヴィショップは右手に持った魔弓をミヒャエルに向けて脅しをかけるが、ミヒャエルは一切躊躇うことなくヴィショップの言葉を途中で遮ると、彼に背を向けてシューレに向き合ってしまった。
「話を戻しましょう、シューレさん。僕が貴女を…」
「てめぇ……調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
ミヒャエルの声を掻き消す勢いで怒声を飛ばして、ヴィショップは魔弓の引き金にかけた指に力を込めた。
その瞬間、ミヒャエルの身体が物凄い速さで翻されたか思うと、ミヒャエルの両腕が動いて銀色の光がヴィショップ目掛けて放たれた。
「ッ!?」
ヴィショップは咄嗟に引き金を引いた。
ミヒャエルの動きはヴィショップ以上に一般人の域を出ていない。いくら多くの人間を殺したとはいえ、彼はレズノフやヤハドの様に軍事的な訓練を受けていないばかりか、ヴィショップのようにいくつもの修羅場を掻い潜ってきた訳でもない。彼の殺人は戦いではなくいわば蜘蛛の狩りの様なものであり、勝負は獲物を巣に誘い込めるかどうかで決まる為、彼自身には必要最低限の体力があればいいのだから。
それに加えて、ヴィショップには相手の動きを先読みする技術がある。よって本来ならば、ヴィショップが咄嗟に引き金を引かねばならないなどということは、起こり得る筈はなかった。
しかし、今回の場合は勝手が違った。何故ならミヒャエルが投げつけてきたものは、手にしていた鋏の他にもう一つあったからだ。
「チッ!」
地下室の中に轟音が木霊する。ミヒャエルの投げつけた鋏は、顔を捩ったヴィショップの頬を掠めて飛んでいき、階段にぶつかって甲高い音を奏でて床に落ちる。そしてミヒャエルがヴィショップへと投げつけたもう一つの物体…掌サイズの小さな布で出来た袋は、ヴィショップが放った深紅の魔力弾によって空中で撃ち抜かれた。
彼が魔力弾で撃ち抜いたこの袋こそが、ヴィショップの決断を遅らせ彼に咄嗟の判断で引き金を引かせた要因だった。この場所に訪れるまでに嫌と言う程に見せつけられたミヒャエルの毒物生成の技術。それは否応なしにヴィショップの意識に毒物の存在を焼き付け、中身の確認出来ない袋に対する警戒心を引き上げた。その結果、ミヒャエルの投げつけた袋を避けるかそれとも撃ち落とすかで、ヴィショップの判断を一瞬鈍らせることに成功したのだった。
「これは…!」
魔力弾に撃ち抜かれた袋が破裂し、中に入っていた白い粉末が辺りに広がる。ヴィショップはそれがミヒャエルお得意の毒物であることを警戒して咄嗟に口元を腕で空いている腕で覆うが、
「な、に…!?」
白い粉末を吸い込んでいないにも関わらず、ヴィショップの視界が突然に歪む。平衡感覚を崩されたヴィショップは立っていることが出来ず、壁に手を突くものの、耐え切れずに階段に座り込んでしまう。
「っ、ははっ。あっははははははは! 馬鹿ですねぇ、ヴィショップさん! こんな狭い場所で! シューレさんを巻き込んでしまうかもしれないのに、僕が粉末状の毒なんてばらまくと思いましたか!?」
座り込んだヴィショップを指差して、ミヒャエルが高らかに笑い声を上げる。歪む視界と強烈な虚脱感に苛まれる中で、ヴィショップはミヒャエルが毒を仕込んだ本当の対象に気付いた。
「鋏か…!」
「そうです。本当はこの後にでもシューレさんに使おうと思ってたんですけど、まぁ、結果オーライってとこですかね?」
「ってことは、死…」
シューレに使うつもりだったというミヒャエルの言葉を聞いて、少なくともミヒャエルが持っていた毒が死に至るものではないことに気付いたところで、ヴィショップの意識は完全に途切れた。
意識を手放したヴィショップの手から魔弓が落ちる。彼の手から離れた魔弓は階段を落ちていき、最後の一段から落ちたところで床を滑ってミヒャエルの足元の近くに転がる。ミヒャエルは近くに転がってきた魔弓を拾い上げると、興味無さそうに眺めてから部屋の隅に向かって投げ捨てる。そしてシューレに向き直ると、先程彼女が発した言葉の真意を問いただそうと口を開いた。
「さて、これでやっと話に戻れますね、シューレ…」
だがその瞬間、ミヒャエルの右肩に衝撃が奔る。
「……は?」
堪らず前に一歩踏み出してしまったミヒャエルが鬱陶しそうに視線を自分の右肩へと向けると、そこには肩を貫通して血で濡れた鏃を覗かせている、一本の矢の姿があった。
右肩から焼けるような痛みが産声を上げる。しかしミヒャエルはそれを容易く無視すると、振り返って矢を射った人物の姿を見るべく振り返った。
「ヤハド……さん…?」
地上へと伸びる階段の中腹、丁度ヴィショップが倒れている辺りに立つ、ターバンを頭に巻き弓を構えた浅黒い肌の男の姿を見て、ミヒャエルは驚きに声を震わせる。
「そこまでだ。動くなよ、少しでも動けばもう一本お見舞いしてやるからな」
鏃の矛先にミヒャエルの身体を捉えたまま、ヤハドはミヒャエルにそう告げる。そんな彼の呼びかけが聞こえているのかいないのか、ミヒャエルは射抜かれた右肩を押さえながら納得のいかなさそうな声を上げた。
「どうしてヤハドさんが…ヴィショップさんに負けたんじゃ…」
「フン、俺が老いぼれの米国人如きに遅れを取るものか……と言いたいところだが、今回は違う。そもそもからして、俺達は戦ってなどいないのだからな」
「何ですって…!?」
ヤハドの返した返事によって、ミヒャエルの顔に浮かぶ驚きの色が濃さを増す。
「そこで寝てる米国人は、上にあった仕掛けを見た瞬間にお前の思惑を見抜いた。そして奴はこう訊いたんだ。“このガキの周りにある仕掛けを解除するのに、どれだけかかる?”とな」
「馬鹿な…! ヴィショップさんが子供の命を優先したとでも…!?」
『パラヒリア』の件の時にミヒャエルはヴィショップと行動を共にしていた訳ではない。しかしそれでも同じ計画の下に動いていただけはあって、彼が計画の為に何の躊躇いもなく無関係の人間だろうが子供だろうが駒として使い捨ててきたのを知っている。だからこそ、ミヒャエルはあのような仕掛けを作ったのだ。グレイの命を盾にすれば、彼を救おうとするヤハドと見捨てようとするヴィショップの間で意見が対立するであろうとを見越して。
「そうだな…。まぁ、俺も驚いたさ。この男があんなことを言い出した時はな。だが…」
しかしミヒャエルの予想は外れた。ヴィショップはグレイの命を助けようとしたヤハドの意思を優先し、彼がミヒャエルがシューレを殺すよりも速くグレイの周囲に仕掛けられたトラップを解除する方に賭けた。
果たして、彼は賭けに勝った。ヤハドはシューレの命が奪われるより前にトラップを解除し、地下室に入ることが出来た。そして完全にヤハドは戦えない状態にあると考えていたミヒャエルの不意を突いて、文字通り一矢報いることに成功したのだから。
「まぁ、こいつにもこいつなりに色々あったってことだろうな」
視線を一瞬だけミヒャエルから逸らし、足元で倒れているヴィショップの姿を見る。その時ヴィショップへと向けられたヤハドの視線は、いつも彼が向けているものと比べて幾分か柔らかいものだった。
「じ、じゃあ、無事なんですね、グレイは!」
ヤハドの視線を戻したのは直後に飛んできたシューレの声だった。涙を浮かべた彼女の表情は、実の息子の生存を知って精気を取り戻し始めていた。
「あぁ。上で俺の仲間が見ている。意識は無いが、呼吸も安定しているし問題は無いだろう。さてと…」
ヤハドは頷いてグレイの無事を告げると、悔しそうに表情を歪めるミヒャエルに視線を向けた。
「この男の二番煎じになるのは癪だが、言わせてもらおう。終わりだ、ドイツ人。諦めて床に伏せろ」
「…ッ」
敗北を告げる言葉がヤハドの口から発せられた。
痛みと、何より彼にとって神聖である時間をぶち壊された怒りに身を焦がしながら、ミヒャエルはヤハドをじっと睨みつける。その状態で十秒程が過ぎた辺り、ミヒャエルは何とかこの場を切り抜けようと口を開きかけた。
「ぐっ…!」
その瞬間、ヤハドが引き絞っていた弦を放し、矢を放った。放たれた矢は真っ直ぐミヒャエルの左太ももに向かって飛んでいき、肌と肉とを食い千切って太腿を貫通した。
太腿を射抜かれたミヒャエルはバランスを崩して床に倒れ込む。それに追い打ちをかけるように更にもう一本矢が放たれ、今度はミヒャエルの左手の甲を射抜いた。
「がああああああっ!」
「米国人とロシア人、それと今のはそこの女の分だ。まぁ、米国人とロシア人はともかく、女の方はこんなものでは全く釣り合わないだろうがな」
怒りに満ちた叫びを上げるミヒャエルを冷ややかな視線で見下すと、ヤハドは彼の真横を通って椅子に縛られているシューレに近づく。そしてナイフを取り出すと、シューレを椅子に縛り付けている縄を切った。
「歩け……そうにはないな。少し待ってくれ」
「分かりました」
「ロシア人!」
シューレに待つように告げて、ヤハドは上で待機しているレズノフを呼ぶべく声を張った。
「何だァ?」
「上に行きたいが米国人がのされたせいで人手が足りん! 子供にはそこを動かないように言って、こっちを手伝いに来てくれ!」
「おい、マジかよォ!? ジイサンやられたのかァ!」
喜色めいた声を上げると、レズノフはどたどたと足音を立てながら階段を降り始める。その足音を聞いたヤハドはシューレの身体に手を伸ばし、声をかけた。
「悪いが担架を用意してきていないのでな。…痛むぞ?」
「分かりました。ただ、その前に少し待って下さい」
「いいだろう」
肩に刺さっている釘はともかく、完全に砕かれた両膝が身体を動かす際に激痛を与えることは、シューレの目から見ても一目瞭然だった。その為、ある程度覚悟を決めさせる必要があることを悟ったヤハドは、伸ばしていた手を引っ込めて彼女が覚悟を決めるのを待つ。
しかし、彼女が動くのを待つようにヤハドに求めたのは、全く別の理由からだった。
「…聞こえてますか、ミヒャエルさん」
まさかミヒャエルに声をかけるとは思っていなかったヤハドは、驚いた表情を浮かべて背後のミヒャエルに顔を向ける。ミヒャエルは大粒の汗を浮かべ、痛みに歯を食いしばりながら視線をシューレに向けていた。
「先程、私は言いましたね。貴方は私のことを愛しているわけではない、と…」
「ええ。でも、そんなことはありません。僕は貴女を愛してる」
ミヒャエルの発した言葉を聞いたヤハドの顔が嫌悪に歪む。思わず矢の突き刺さっている左手を蹴りつけてやりたい欲求に駆られたものの、すぐ後にシューレの発した声が彼の予想に反して冷静なものだったため、シューレの方にヤハドの意識は向いてしまいその衝動が解き放たれることはなかった。
「違います、ミヒャエルさん。貴方が愛しているのは私じゃありません。貴方が愛しているのは、自分を愛してくれる人間です」
「僕を…愛してくれる人間…?」
呆けた表情を浮かべて、ミヒャエルはシューレの告げた言葉を繰り返す。シューレは首を縦に振ると、ミヒャエルの顔を見据えて話し出した。
「貴方は…昔の私と同じです。世界で一人ぼっちで、愛に飢えて…。だから、自分のことを愛してくれる人を欲した。自分に優しくしてくれて、自分のことを想ってくれる人を。でも、逆に愛してくれさえすればどんな人でも良かったんです」
気付けばヤハドも言葉を失って、シューレの語る言葉に耳を傾けていた。かつての自分と同じ過ちを犯すものを憐れむ、シューレの言葉に。
「ミヒャエルさんが欲したのは、愛していたのは、私じゃありません。愛という感情そのものです。貴方は…実際には私のことなんてこれっぽっちも見ていなかったんです」
痛みも忘れてシューレの話に聞き入るミヒャエルの顔には、打ちのめされたような表情が浮かんでいた。シューレは一言も発することが出来ずにいるミヒャエルの顔を見下ろして、はっきりと告げる。
「改めて言わせてもらいます、ミヒャエルさん。私は貴方の想いに応えることは出来ません」
「……それは、僕が貴女のことを見てなかったからですか?」
「それもありますが…」
シューレは言葉を区切ると、視線を地上へと続く階段の先に向ける。そして最愛の我が子の姿を思い浮かべて、再び口を開いた。
「今の私は、貴方とは違います。私には今、愛されたいのではなく愛したい大切な人が居ます。そして貴方は、その大切な人を傷つけました。…色々考えましたが、これが貴方の想いに応えられない最大の理由です」
シューレはそう告げると、ヤハドに目配せする。ヤハドは彼女の身体に手を回して抱き上げると、放心して虚空を見つめるミヒャエルの横を通って、地上へと続く階段を上っていった。
薄暗く、血の臭いの充満する陰惨な空間。最後にそこに残ったのは、僧衣に身を包み一人の女によって告げられた言葉に打ちのめされた、一人の男だけだった。
「……以上が、今回の事件の全容だ。細かい所は捕まえた『ヴァライサール』の町長にでも訊けばいい」
ミヒャエルの手からシューレを救い出してから、二日後の朝。ヴィショップとヤハドの二人は、『フレハライヤ』の村長の家の客間で彼等をこの地に送り込んだ張本人である人物、征煉皇騎士団の団長である中年の男…ジードと机を挟んで向かい合っていた。
「うむ、御苦労だった。それにしても、人の自由意思すら意のままに操る魔女の秘薬か。世界には神導教会や魔導協会も認知していない秘技、秘術の類が存在していることは知っていたが……まさか、そんなふざけた効力の薬物を生成する方法が長年に渡ってこの土地に息づいていたとはな」
ヤハドの語った今回の事件の顛末を聞いたジードは、信じられないような声を漏らす。実際、魔法が平然と存在する『ヴァヘド』の世界においてすら異質な薬物を作り続けてきた一族を、長年に渡って『グランロッソ』の政府があずかり知らなかったことになるのだから、容易に受け入れたくはないという感情も自然なものと言えた。
ちなみに、ここでヤハドがジードに話した事件の顛末とは、シューレを味方に引き入れる為にブルゾイとセグが共謀して『フレハライヤ』の子供を攫っていた、というところまでであり、当然ミヒャエルが引き起こした騒動については話していない。理由は無論、そんなことを話したところでヴィショップ達に百害有って一利無しだからだ。幸いなことに村人達は何が起きていたのか分かってなく、被害者であるシューレも公にしないことを約束してくれた為、ジードに隠し通すのはさほど難しいことにはないそうになかった。
「しかし…」
「どうした?」
不意にジードが怪訝そうな視線をヤハドに向ける。それをヤハドが問い質すと、ジードはヤハドの隣に座っているヴィショップへと視線を向けた。
「どうしてお前ではなく、こっちの男が説明しているんだ? 私と面識があるのはお前なのだが」
「今回の件は俺が主導で進めていたのでな。だから、俺がこうして説明している訳だ」
得意気な笑みを浮かべて、ヤハドがジードの問いに答える。
確かに二人の間でそのようなやり取りは交わされていた。しかし実際には、段々と事が大きくなっていくにつれてその約束は形骸化していき、自然とヴィショップが指揮を執るような体制が出来上がっていた。
では何故ヤハドがジードに報告しているかというと、それはヴィショップがミヒャエルの手からシューレを救出した日の記憶を失っているからだった。どうやらヴィショップを昏倒させた薬の中には、接種した対象の最近の記憶を消去させる効力もあったようで、ヴィショップが目を覚ました時には彼の頭からはその日の内の出来事は全て吹き飛んでいた。その為、ヴィショップではジードに対する報告が満足に出来るか怪しく、代わりにヤハドがジードに事の顛末を報告することとなったのだった。
「…そういうことなら別にいいだろう。とにかく、御苦労だった。外に馬車を用意してある。事後処理はこちらに任せて『クルーガ』に帰るといい。それと報酬の件だが、本当にいいんだな?」
とりあえず納得したような素振りを見せてジードは立ち上がると、念を押すように二人に質問を投げかける。それに対しヤハドは迷うことなく頷いた。
「構わない。彼女達には色々と借りもあるからな」
ジードの語る報酬の件とは、今回ヴィショップ達に支払われる筈だった報酬を全てシューレ達に譲渡する、というものだった。
最初に提案したのはヤハドだった。ミヒャエルのことに責任を感じているらしく、せめてもの罪滅ぼしとして報酬を全額シューレとグレイに渡そうと言い始め、口止め料としては丁度良いだろうと判断してヴィショップがそれに賛成。レズノフだけは女に回す金が無くなるからという理由で拒否したが、ミヒャエルに選択権が与えられていない為、多数意見でヤハドの要求が通ることとなったのだ。
「まぁ、お前達がそうしたいというなら止めはせん、好きにするがいい。それより後の二人はどうしたんだ?
「あぁ、残りの二人なら酒場で酒でも飲んでいる筈だ。まぁ……その内来るだろう」
この場に居ないレズノフとミヒャエルの行方を訊ねたジードにヤハドはそう返すと、視線を窓枠の向こうに見える宿屋兼酒場の建物へと向けた。
「うおーいィ、サド野郎。お前、いつまでそうしてるつもりだァ?」
老若男女問わず村の中の人間という人間が、普段殆ど目にすることの無い騎士団見たさに飛び出していき、すっかり閑散としてしまった酒場の中に、レズノフの声が響き渡る。
バーテンもミヒャエルとレズノフの二人に店番を任せて出て行ってしまい、酒場にいるのは二人だけ。がらんとした酒場の中でレズノフは丸テーブルの内の一つに腰かけて酒瓶を傾け、ミヒャエルはカウンター席に腰かけ酒を注いだグラスを口元に運ぶでもなく、ただ手持無沙汰に満足に動く右手で弄んでいた。
「…無視かよ。ったく、初めて失恋したガキみたいにメソメソしやがってよォ…」
一向に返事を返す素振りを見せず、虚ろな視線をグラスの中で揺れる酒に向けているだけのミヒャエルに、レズノフは呆れた調子で言葉を漏らす。しかしそれにもミヒャエルが反応を示すことは無かった。
「チッ、これならターバン野郎と一緒に報告しに行った方がましだったなァ」
レズノフは段々と、面倒臭そうという理由でヴィショップにジードへの報告を負かせたことを後悔し始める。しかし後悔してみたところでもう遅く、レズノフは仕方なく丸テーブルから降りた。
「もう外に迎えが待ってんだろ。行こうぜェ」
声を掛けてみるが、ミヒャエルからの反応は全く無い。レズノフは溜息を漏らすと、襟首でも掴んで引き摺っていこうかと考えながら、ミヒャエルに近づくべく一歩踏み出した。
その瞬間酒場の扉が開く。騎士団の人間が酒でも貰いにきたかと思って振り向いたレズノフは、振り向いた先に立っていた人物を見て表情を驚きに歪めた。
「テメェ、あの女のガキじゃねぇか…」
今まで全く反応の無かったミヒャエルの身体が、僅かに震える。
父親譲りの茶色い髪に、母親譲りの紫色の瞳。そして中性的で遠目には男なのか女なのか判別がつかない程に整った顔立ち。
酒場の入り口に立つその少年は、間違いなくグレイ・ヴィレロその人だった。
「……何の用ですか?」
グラスに視線を向けたまま、ミヒャエルが問いかえる。グレイは店内に足を踏み入れると、ミヒャエルの三歩程後ろで歩みを止めた。
「母さんから全部聞いたよ。あんたがしたことも、あんたがどんな人間なのかも」
「安心して下さい。僕はもう二度と、シューレさんと会うことはないでしょう。後ろの人を始めとした怖い人達がそれを許してくれそうにないですしね」
ミヒャエルの言葉に反応してグレイが振り向くと、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべているレズノフと視線が合う。レズノフはグレイに向かって軽く手を振ってみせたが、グレイはそれに応えずに視線をミヒャエルの背中へと戻した。
「だと助かる。あんなことがあった後じゃ母さんもあんたに会いたくはないだろうし、俺も会わせたくはない」
「そんなことをわざわざ言う為に来たんですか?」
分かり切ったことを話すグレイに対して、ミヒャエルは辟易した口調で言葉を吐く。
するとグレイは首を横に振って、ミヒャエルにその一言を発した。
「だから一人前になったら、今度は俺があんたに会いに行くよ」
グレイの言葉を聞いた瞬間、ミヒャエルの手にしていたグラスの動きがぴたりと止まる。驚きのあまり目は大きく見開かれ、その背後ではレズノフが口を半開きにしてグレイを穴が開く程に見つめていた。
「もしかして、同情してるんですか? シューレさんから僕の話でも聞かされて? だとしたらお門違いですよ。僕は同情なんて求めてません」
グレイの言葉を嘲笑う、ミヒャエル。しかし嘲りの言葉を吐き出している最中も、彼の背中はグレイに向けられたままだった。
「確かに、全く同情してないと言えば嘘になるかもしれない。どことなく母さんもあんたを許している感じがしたし、だからあんたに対してそこまでの怒りが湧いてこないのかもしれない」
「だったら…」
「でも、俺がまたあんたに会いたいのはもっと単純な理由なんだよ」
言葉を遮られて、ミヒャエルの口が動きを止める。まるでその隙を突くかのように、グレイは微かに頬を赤らめてミヒャエルに告げた。
「だって、あんたは俺の初めての友達なんだから」
さして大きな声でないにも関わらず、グレイの発した一言は静まり返った店内に響き渡った。
「だから、また俺はあんたに会いに来るよ。それでその時になってもまだ似た様なことをしていたら、俺がやっつけて改心させてやるよ」
「……貴方が僕を、ですか? 出来るとは思えませんけどね」
「なっ、舐めるなよっ! お前ぐらい、俺一人でよゆーだっつーの!」
やっとの思いでそれだけ絞り出すと、ミヒャエルはグラスの中身を一気に飲み干して立ち上がる。そしてグレイの方に向き直り、憤慨する彼の頭にそっと手を置いた。
「まぁ…期待せずに待ってますよ」
そう告げて、ミヒャエルはグレイの頭から手を離すと、呆けた表情でこのやり取りを眺めていたレズノフに目配せする。目配せを受けたレズノフは半開きになっていた口を閉じて空き瓶をテーブルの上に置き、扉の方に向かって歩き始めた。
「またな、ミヒャエル!」
レズノフの後を追うミヒャエルの背中に、グレイの声が投げかけられる。ミヒャエルは振り向いて顔をグレイの方に向けると、微笑みを浮かべて返事を返した。
「えぇ、また会いましょう」




