愛を求めた者たち
「くっ……っと……ほっ……」
三人の前から姿を消したミヒャエルが逃げ込んだと思われる、かつて『フレハライヤ』に住み付いていた大工の小屋の寝室。レズノフとヤハドと別れてそこにやってきたヴィショップは、壁際に置かれたベッドの足元にうつ伏せに横たわり、ベッドの下に両手を伸ばしていた。
「チッ…まさか毒物だけじゃなく、この手のトラップにまで通じてるとはな……」
そう呟いたヴィショップの顎先から、血の混じった汗が流れ落ちる。
横になってベッドの下に手を伸ばしているヴィショップの頬には、この小屋を訪れた時にはついていなかった傷痕がついていた。だが新たな傷はそれだけではなく、身に着けている外套の所々は破れており、血を滲ませて赤黒く変色していた。
それらの傷は全て、ヴィショップをこの寝室で待ち受けていたトラップの数々によってついたものだった。
まずは扉を開いて一歩目、部屋に入ってすぐ足元にあったカモフラージュの紐を避けた先にあった本命の紐を踏んで最初の洗礼を受ける。次は棚の引き出しを引いた直後、天上を突き破って切り出した木の先端部分を尖らせた即席の槍がヴィショップを襲い、それを避けて後退したかと思えば、フォークが飛んできて腕に刺さる。
どうやら薬を仕込んで手に入れた三日間のアドバンテージは、この小屋に張り巡らせた仕掛けの準備に使われたらしく、仕掛けられているトラップは数も多い上に配置も計算されているようだった。それに加えて、殺気を出すこともなく完全に自動で襲い掛かってくるトラップ相手ではヴィショップお得意の先読みも働かず、致命的な傷こそないものの小さな傷をいくつも負う破目になっていた。
「二人の声がしないが、まさかくたばってたりしないよな……ッ!」
ナイフを片手に、慎重にベッドの下を探っていたヴィショップだったが、ナイフの刃先が何かに触れたのを感じ取った瞬間、慌てて手を引っ込めた。
その判断は正しく、ヴィショップが手を引っ込めた直後に底から霧状のものが、直前まで彼の手があった場所に吹きかけられる。霧状のものを吹きかけられた床からは白い煙のようなものに加えて、何かが溶けていくような音が上がり始めた。
「……まともに喰らってた時のことを考えたくねぇな」
ヴィショップは左手で口元を抑えて煙を吸い込まないようにしつつ、ゆっくりと立ち上がる。片足が使えないこともあってベッドに右手を突きたかったが、突いたが最後、自身の右手と永遠の別れをすることになる気がして、結局傍目には阿呆にしか見えないような動きをしつつ、片足で転ばないようにバランスを取りながら立ち上がった。
「ここは外れか。となると、あの二人のどっちかが当たりだということになるな」
ベッドの下には何も無く、ヴィショップはこの部屋にはミヒャエルの隠れていられるような場所は無いと判断して、寝室を後にした。
「ん? 何だ、ジイサンじゃねェか」
「お前か。その様子だと、収穫は無さそうだな」
居間に戻ってきたところで、奥の扉から出てきたレズノフと鉢合わせる。彼の姿を見たヴィショップは、レズノフの身体を上から下まで一通り眺めて、彼が選んだ部屋もまた外れであったことを悟る。
「まぁなァ。にしてもあの強姦魔、ごついトラップ仕掛けやがる。ここまで気合いの入ったブービートラップは俺も久々に見るぜェ」
ヴィショップ同様、新たに身体に刻まれたいくつかの傷を見ながらレズノフは答える。
「前はいつ見たんだ?」
「チェチェン人とやりやってた時だな。まァ、色々と勉強になる経験だったぜェ。躾の行き届いたお利口なワンちゃんじゃ、頭のネジのぶっ飛んだ野犬共には敵わないってことを教えられたよ」
「お前が盛りのついた狂犬になったのは、その経験が引き金か?」
「さァ、どうなんだろうなァ。実際の所俺はァ…」
昔のことを思い出しながらヴィショップの問いにレズノフが答えようとした時、
「おい、二人とも! ちょっと来てくれ!」
残る最後の一部屋から聞こえてきたヤハドの声が、レズノフの言葉を遮った。
「何か見つけたみたいだなァ」
「そうだな。こんな目に遭ってるんだ、俺の予想が外れていないことを祈るぜ」
軽口を叩きつつヴィショップはヤハドが向かった部屋へと歩き始め、レズノフがその後に続く。
ヤハドの選んだ扉の先は狭い廊下になっており、壁にはヤハドが作動させた罠の痕跡と思しき、ナイフやら釘やらが突き刺さっていた。二人はまだ罠が残っていることも考慮して、極力壁には手を触れないようにしながら慎重に先に進んで、廊下の最奥まで辿り着く。
「来たぞ、ヤハド」
「入ってきてくれ、罠は大丈夫だ」
扉の取っ手に手を掛けてヤハドに呼びかけたヴィショップは、扉越しに返事が返ってきたのを待ってからゆっくりと扉を開いた。
果たして、ヴィショップの予想は的中していた。部屋の中心で膝を突ているヤハドの足元には、金属製の取っ手のついた扉のようなものがある。それはまさしく地下室へと通じる扉であった。
しかしその扉の上には、ヴィショップが予想もしていなかった存在が居た。
「ガキ…だと…?」
地下室に続くと思われる扉の上には、椅子に縛り付けられた一人の少年の姿があった。
髪は茶色で、身体付きは小柄で華奢。目は布で塞がれ口元には猿轡を噛まされているものの、その状態でも分かる程に顔付きは整っており、男らしくない身体付きと相まって一件すると少女のようにも見える中性的な出で立ち。
その姿に、ヴィショップは覚えがあった。はっきりと見たという記憶こそ無いものの、目の前で椅子に縛り付けられている少年の姿が、どういう訳か初めて見たようには思えなかった。
ヴィショップは顎の無精髭を擦りながら、記憶を掘り返していく。こうやってミヒャエルが隠れていると思しき場所に居る以上、この少年が何らかの形で今回の一件に関わっているのは明白だった。
「…あぁ、そうだ。このガキ、もしかして強姦魔が言ってた例の魔女のガキじゃねぇのかァ?」
遅れて部屋に現れたレズノフが発した言葉で、ヴィショップは数日前にミヒャエルの言葉を思い出す。
ヴィショップ達が『ヴァライサール』近郊の山で『ヤーノシーク』の策に嵌り、ミヒャエルが初めてシューレの自宅へと言った日の翌日に行われたミヒャエルの報告の中で、彼が語ったシューレの子供の特徴。それは見事なまでに目の前の少年に当てはまっていた。強いて言うのならば隠されている為に目の色が分からないが、現在の状況を考えれば少年がグレイであることに疑う余地は無かった。
むしろあるとすれば、今の彼の状況である。
「しっかし、何でこのガキ、こんな所で扉の重しなんてさせられてんだァ?」
「まぁ、扉を塞いでおくためだとは思うが…」
薬か何かで眠らされているのか、一切声を上げなければ身動き一つしないグレイを眺めつつ、ヴィショップは考え込む。
今の彼の状況を考えれば、ミヒャエルは他人が地下室に入ってこれないようにするためにグレイを扉の上に配置したのだろう。そしてそうだと仮定した場合、グレイの周囲には間違いなくミヒャエルお手製のトラップが複数仕掛けられている。恐らくはグレイを少しでも動かそうすれば発動する仕組みになっているのだろう。
つまりグレイは、地下室に人を近づかせない為の人質ということになる訳だ。
(まぁ、理屈は分からなくはない。あんなに入れ込んでた女のガキをこんな使い方するなんて、はっきり言って考えられないが、野郎の頭は完全にイカレてるし、考えるだけ無駄だろう。それよりも問題は、何故俺達にとって全く価値の無い人間を人質に据えたかだ…)
人質というのは相手にとって価値のある人間でなければ成立しない。しかし今回の場合、ミヒャエルが用意したグレイという少年にはそれ程の価値があるとは到底言い難かった。
この場所を突き止めてやってくる人間として最も可能性が高いのはヴィショップ達だが、失踪事件の黒幕だったブルゾイや、彼の目的だったシューレならともかく、事件に全くといっていい程関わっていないグレイを守る義理は彼等には無い。万が一奇跡的に『フレハライヤ』の住人がここに辿り着いたとしても、シューレを嫌悪していた彼等がグレイを助けようとするとは考えられない。シューレを除いてグレイを守ろうとする人間がいるとしたら、それはグレイをダシにシューレを引き込もうとしていたブルゾイ達だが、彼等は他ならぬミヒャエルの手でこの世を去っている。
となると、現時点でグレイの命を盾にされたところで躊躇する者は居らず、そうなれば彼に人質としての価値は無い。しかし現実にグレイは縛られて身動きを取れなくされた上で、地下室の扉を封じるように置かれている。
(俺達を嵌めたあいつが、こんなことに気付かないとは考えられないが…………あっ)
このような行為に及んだミヒャエルの真意、それは呆気ない程あっさりとヴィショップの脳裏に浮かんできた。
最初は軽い違和感だった。この部屋には三人の人間が居るにも関わらず、三人目の人物はヴィショップとレズノフが部屋に入ってくる直前に言葉を発したきり、声を出していない。それに気付いて、その無言の三人目の人物の存在を思い浮かべた時、ヴィショップはミヒャエルの真意を理解することが出来た。
(あの女の家に続き、ここでもか…。奴の切り札は毒物だと思ってたが、どうやら違ったらしいな)
ミヒャエルがヴィショップ達に対抗する為に用意した最大の武器、その真実の姿に気付いて、ヴィショップは忌々しそうな笑みを浮かべる。
そして椅子に縛り付けられたグレイの前で、膝を突いている三人目の男に声をかけた。
「俺はこのガキを見捨てるべきだと考えている。多分、後ろの馬鹿も同意見だろう。…お前はどうなんだ、ヤハド?」
ヴィショップに名前を呼ばれると、男は顔を動かして視線をヴィショップに向けた。
その視線は今までに見たことがあった。最初は『クルーガ』で、次は『ルィーズカァント領』で、そして三度目は『スチェイシカ』で。そしてその視線をヤハドが見せる度に、大なり小なりヴィショップは彼とぶつかり続けてきた。
その場にミヒャエルが居合わせたことはない。しかしヤハドの子供に対する甘さを彼は話しとして聞いていたし、何より今回の依頼を受ける前のやり取りを見ていた。
恐らくはそれで判断したのだろう。薬など使わずとも、子供を使えばヤハドとヴィショップを対立させることが出来るのではないか、と。
(身内こそが最大の障害、か。まったく、つくづく底意地の悪い野郎だぜ)
ヴィショップは心中で、この事態を引き起こした張本人に対して毒吐くと、答えを返そうとしないヤハドに言葉をかけるべく、口を開いた。
「……案外早かったですね。もう少しかかるものだと踏んでたんですけど」
頭上から聞こえてくる三人分の足音を耳にしたミヒャエルは、上を見上げて面倒臭そうに呟く。
まるでそうしていれば見透かすことが出来るかのように、じっと天井を見つめるミヒャエルの右手には、血のこびり付いた金槌が握られていた。対となる左手には何も握られていないものの、五本の指は全て血で赤く染まっており、それらは既にミヒャエルが凶行におよんでいることを示していた。
そして彼の凶行を一身に受ける羽目となったシューレは、ミヒャエルの目の前で弱々しく呼吸をしながら首を垂れていた。
「ぐれ……い…」
彼女の唇が震えて、最愛の息子の名が出てくる。そして何とか頭を持ち上げて、視線をミヒャエルと同じように天井へと向けた。
今の彼女の状態は燦々たるものだった。今の彼女は着ている服を全て剥ぎ取られて一糸纏わぬ姿になっていたが、それでもこの状態の彼女に劣情を抱く者はいないだろうと断言出来る程に。
金槌によって幾度も殴打された両ひざは完全に潰れてしまっており、原形を保ってはいない。それに加えて肘かけに固定されている両手にも、鉄槌による無慈悲な殴打はおよんでおり、十本の両手の指全てがあらぬ方向を向き、手の甲からは骨と思しき白い物体が皮を突き破って飛び出している。そして双肩には何本もの釘が骨を砕いて打ち込まれ、傷口から流れ出した血がシューレの白い肢体に赤い模様を描き出していた。
天井から戻されたミヒャエルの視線が、そんな無残な彼女の姿をじっと見つめる。つい先程までと比べて、劇的なまでに弱った彼女の姿を捉えるミヒャエルの双眸には、明らかに満足そうな色が浮かんでいた。
「大丈夫ですよ、シューレさん。僕はヤハドさんが勝つ確率の方が高いと思ってますし」
姿無き息子の存在を追い求めて天井を仰ぐシューレに、ミヒャエルは優しげな声音で語りかける。
その声を聞いた瞬間、シューレは僅かに身体を震わせて視線をミヒャエルへと戻した。その素振りをミヒャエルは、今まで幾度となく見てきた。
苦痛がもたらす、恐怖の感情の結晶。それこそがシューレが今見せた素振りであり、そしてミヒャエルにとっては一種の指標だった。
(うん、いい感じです。これならあの三人が来る前に、本当のシューレさんと話せるかもしれません)
恐らくは彼にしか分からないであろう手ごたえを感じて、ミヒャエルはほくそ笑む。そして怯えた表情を向けるシューレに向かって、更に言葉を投げかけた。
「それに仮にヤハドさんが負けても、問題は無いじゃないですか。死ぬのはほら、害虫が貴女に無理矢理孕ませた子供なんですし」
そのミヒャエルの言葉を受けたシューレの表情が凍りつく。
「?」
表情を固まらせたシューレをミヒャエルが訝しがる。するとシューレの表情は変化し、今度は怯えではなく嫌悪の感情が彼女の顔に現れた。その感情の矛先が誰に向けられているかは、言うまでもないだろう。
「確かにあの子は望んで産んだ子じゃありません。でも……ギッ!?」
シューレの上げた反抗の言葉は、肩に奔った想像を絶する激痛によって途切れさせられた。ミヒャエルが手にした金槌を、彼女の肩に突き刺さっている釘の中の一つに向かって打ち下ろしたのだ。
「駄目ですよぅ、そんな嘘を吐いちゃ。僕にはちゃぁんと分かるんですからね」
「何を……あうッ!」
呆れた様な視線をシューレに向けて、ミヒャエルはそう告げた。余りの痛みに悶絶しながらもシューレが言葉を返すと、ミヒャエルの手が動いて再び彼女の肩に突き立てられた釘へと金槌が振り下ろされる。
「まぁ、でも大丈夫です、安心して下さい。ちゃんと僕が、シューレさんが自分を偽らなくても済むようにしてあげますから。気付けば自分の力で破ることが出来なくなった貴女の心の殻を、僕がぶち壊してあげますから」
ミヒャエルの言葉の意味は、シューレには全くと言っていい程分からなかった。しかし痛みに耐えることで精一杯で、ミヒャエルを問い質すなととてもじゃないが出来そうにはなかった。
歯を食いしばって痛みに耐える内に、自然とシューレの頭は下がっていく。ミヒャエルは微かな呻き声を漏らして頭を俯かせる彼女を一瞥すると、シューレに背を向けて他の道具を取りに動く。
「ねぇ、シューレさん。嘘や偽りで塗り固めた仮面を剥がすのに、最も効果的なものは何だと思います?」
金属同士がぶつかり合う音を奏でながら、ミヒャエルはシューレに問いかける。しかし質問に答えるだけの余裕の無い彼女には、歯を食いしばって痛みに耐えながらミヒャエルの背中を睨みつけるのが限界だった。
「分かりませんか? では、教えて上げましょうシューレさん」
シューレが答えを返せずにいると、ミヒャエルは彼女の方に振り返る。振り返った彼の右手には布を断ち切るのに使うような大きな鋏と刷毛が、左手には木製のバケツが握られていた。
「それはね、恐怖ですよ、シューレさん。恐怖の前ではどんな人間も嘘を吐かない。どんな人間も己を偽らない。僕はそう教えてもらいましたし、それは実際正しかったです」
シューレの目の前まで戻ってきたミヒャエルは左手に持っていたバケツを足元に置く。シューレが視線を下げてバケツの中身へと向けてみると、中に真っ赤な粘性の液体がたっぷりと注がれているのが目に入った。
「大丈夫ですよ、シューレさん。これは毒なんかじゃありません。ここらで集めた木の実を磨り潰して作ったものです。だからこうしてみても……」
シューレの視線に気づいたミヒャエルは言うが早いが、刷毛と一緒に持っていた鋏を床に落とし、刷毛をバケツの中に突っ込む。そして刷毛をバケツから引き上げると、釘の突き刺さっているシューレの肩に垂らし始めた。
「ッ!?」
「精々、物凄く痛い程度ですから」
毒々しい程に鮮やかな赤をした液体が傷口に入った瞬間、釘を打ち込まれた瞬間のものを凌駕する痛みがシューレの中で爆発する。
堪らず絶叫を上げるシューレ。ミヒャエルはそんな彼女の姿を満足気に眺めながら、もう一度刷毛をバケツの中に突っ込み、今度は逆の肩に液体を塗り込み始めた。
「アアアアアアアアアアアアッ!」
痛みの余り縛り付けられている椅子を激しく揺さぶりながら、シューレは叫び声を上げる。ミヒャエルは手にしていた刷毛をバケツの中に落とすと、彼女の眦から零れ落ちた涙を人差し指で拭って話を再開した。
「僕にこのことを教えてくれたのは、僕のお父さんなんです。お父さんは優しい人でしたが、嘘がとても嫌いな人でした。元々そういう気性だったんですけど、それは僕の母親に裏切られてからますます激しくなりました」
「…………」
肩で息をしながら、シューレはミヒャエルの話に黙って耳を傾ける。何らかの反応を示すだけの体力すら残っていないということもあったが、それよりもむしろ余計な口を挟んでまたバケツの中身を傷口に入れられるような羽目に陥りたくはない、という感情の方が強かった。
ミヒャエルがシューレの傷口に入れた液体の効力は、シューレにとって余りにも強力過ぎた。それこそ、一瞬にして思考能力を彼女から奪い去ってしまう程に。これを繰り返されればまず間違いなく、シューレの中にある僅かな反抗の意思は時間をかけずして崩れ去ることになるであろう。
だからこそ、少しでもミヒャエルの機嫌を損なわないようにしなければならなかった。目の前の狂人の手から、最愛の息子を救い出すためにも。
「僕の母親は、僕がまだ幼い時に他の男を作って出て行ってしまったんです。お父さんが稼いできたお金と一緒にね。それ以降、お父さんは僕が嘘を吐くと僕に罰を与えるようになりました。叩いたり、蹴ったり、締めたり、煙草を押し付けたり、一日中納屋の中に閉じ込めたり。それは段々とエスカレートしていって、終いには僕が本当のことを言ってもすぐには信じてくれずに僕を罰するようになりました」
シューレはミヒャエルの語る虐待の歴史を沈黙を貫いたまま聞いていた。語る言葉の内容とは似つかない、過去を懐かしみ慈しむ幸せそうな表情のミヒャエルをの顔を見つめながら。
「でも、ちゃんと罰を受けて、泣きながら僕が本当のことを話せば、お父さんはいつも僕の事を信じてくれました。そしていつも言うんです。“これもお前を愛しているからだ、俺が愛しているお前は俺に嘘を吐いてはいけないんだ。愛し合っている者どうしは、相手に嘘を吐いてはいけないんだ。”って!」
最後の方は、地下室の中に響き渡る程の大きさにまでミヒャエルの声は膨れ上がっていた。だがミヒャエルは自分の声に気付いていないのか、声を下げようとはせずに話し続ける。
「分かりますか、シューレさん! これなんですよ! 人は恐怖に囚われている瞬間にしか、嘘から離れて生きることは出来ない! 恐怖に囚われている瞬間こそが、人間が己の真の姿を晒すことの出来る瞬間なんです! だから! だから、僕は貴女をこうして嬲っているんですよ、シューレさん! 何故なら、僕は貴女のことを愛しているから! 愛し合っている者同士の間に、嘘偽りなどがあってはいけないから!」
ミヒャエルの語る言葉、それは妄想と誇大解釈に囚われた文字通りの狂人の戯言であった。事実、シューレは彼の語る言葉を一片程も理解することが出来なかったし、受け入れることなど以ての外だった。
にも関わらず、彼の紡ぐ言葉を聞く内に彼女の中に、僅かながらミヒャエルに対するシンパシーのようなものが生まれつつあった。そしてシューレはその感情を、ミヒャエルの言葉とは対照的にすんなりと受け入れることが出来た。
「ミヒャエル…さん…」
「はいぃ?」
故に、彼女は開くまいとしていた口を開いた。心の中にぽつりと芽生えた、生まれる筈の無いシンパシー。その根源を探る為に。
「貴方のお父さんは、本当に貴方を愛していたんですか?」
「……何言ってるんですか、シューレさん。愛していたに決まっているでしょう? だって、お父さんは僕のことをよく褒めてくれましたもん。お前の肌は本当に綺麗だ、お前の髪は本当に美しい、お前の顔は本当にラウラそっくりだ、って。あっ、ラウラっていうのは僕の母親の名前で…」
得意気に語るミヒャエルの言葉を聞いている内に、ミヒャエルに対して抱いたシンパシーの正体に気付き始める。
(そうか…この人は同じなんだ…。昔の私と…)
彼女は気付いたのだ。目の前の狂人が真に求めているモノが、かつて自分が求めていたモノと一緒だということに。
「…ミヒャエルさん。私は、貴方の想いに応えることは出来ません」
そのことに気付いた時、シューレの口からはその言葉が独りでに飛び出していた。
シューレの発した拒絶の言葉を聞いたミヒャエルの動きが止まる。表情からは一瞬前まで浮かべていた笑顔は消え去り、まったくの無表情が張り付いていた。
喜びも怒りも哀しみも楽しみも現れていない、全くの虚無の表情。少し前までのシューレならば、湧き上がる恐怖に負けて目を逸らしていただろう。しかし、もうシューレは目を逸らすような真似はしなかった。全く理解の及ばない存在などではなく、かつての自分と同種の人間だと分かった以上、シューレの中にミヒャエルに対する恐れはもう無くなっていた。
「ふ、ふふふふふふふ、あはははははははははは」
不意に天井を仰ぎ、ミヒャエルは高らかに笑い声を上げる。シューレはそんな彼の姿を黙って見つめる。
「やっぱり、まだ足らないみたいですねぇ、シューレさん。だからそんな嘘を…」
「嘘ではありません。私は例え何が起ころうと、貴方を愛することはありません」
ミヒャエルの声を途中で遮って、シューレの言葉が彼に打ちつけられる。
「そんなことはありません! だって僕が貴女を愛してるんだ! 僕が愛してるんだから、貴女も僕のことを愛しているんだ! 愛している筈なんだ! 愛してなくちゃいけないんだ!」
ミヒャエルの声は殆ど怒鳴り声同然までに荒くなっていた。そこには最早先程までの得体のしれない恐ろしさなどない。
今までミヒャエルは分かっているだけで四十八人の女性を殺してきた。世間に明らかになっていないのも含めれば、数はそれ以上になるだろう。そして、そうして殺してきた女性の中には一人たりとして、冷静な口調でミヒャエルの言葉を遮り、ミヒャエルに対して全く恐れを抱かずに彼の思いを拒絶した女性はいなかった。ましてや、一度抱いた恐怖を克服した者など。
だからミヒャエルは、シューレの中から植え付けた筈の恐怖が消え去っていることに気付いた時、隠すことが出来ない程の動揺を覚えていた。そして彼が見せた動揺は、シューレに確かな手ごたえを与えることとなる。
「なら、尚更です。私は貴方を愛すことはありません」
肩で息をしながら、爛々と光る眼差しを向けるミヒャエルにシューレは告げる。恐れも迷いも無い彼女の声は、ミヒャエルのものとは対照的に落ち着き払っていた。
「何故なら、貴方は私のことを愛していないから」
「なっ…!?」
シューレの告げた言葉が、ミヒャエルの表情を驚愕に染め上げる。
その直後、ミヒャエルの後方から扉の開く音が上がったかと思うと、
「やっと見つけたぜ、クソ野郎」
すっかり聞きなれてしまった声をミヒャエルの背中に投げ掛けながら、黒い外套を身に纏い白銀の魔弓を手にした男が地下室に舞い降りた。




