唯、愛の為に
暗闇の中から現れたミヒャエルは、靴音を響かせながらゆっくりと椅子に縛り付けられたシューレへと近づいていく。まるで彼女への一歩一歩を噛みしめるように。
満面の笑みを浮かべ近づいてくるミヒャエルを目の前にして、シューレは声を出すことが出来ずにいた。彼女の中に生れたミヒャエルに対する恐怖が、ミヒャエルの名を呼んでからの数秒間の内にシューレから言葉を奪い去っていたのだ。
「すいませんねぇ、窮屈な思いをさせてしまいまして。でもぉ、すぐに楽にしてあげますからねぇ」
シューレの目の前までやってきたミヒャエルは前屈みになって頭を下げ、シューレと視線を合わせる。そして彼女のアメジストの様な紫色の瞳を覗き込みつつ、顎にそっと手を当てた。
「……震えてますね。寒いんですか?」
顎に手を触れた瞬間、指先を通じて震えがミヒャエルへと伝わる。シューレの震えを感じ取ったミヒャエルは、顎に当てた手をシューレの左頬へと移しながら問いかけた。
シューレはミヒャエルの問いに答えられないまま、視線だけを動かして自身の顔に触れているミヒャエルの手の動きを追っていた。
「申し訳ないんですけど、我慢してもらうしかありません。あまり着込み過ぎると作業の邪魔になりますから」
返事が返ってこないのを確認すると、親指の腹でシューレの目の下を撫でつつ、ミヒャエルは言い聞かせるように彼女に告げた。そして彼女の顔から手を離して身体を起こし、バケツや鉈の置かれた机の方へと近づいて行った。
自分から離れたためか、はたまた背中を見せたからかは分からないが、シューレの中で渦巻いていた恐れが少しだけ薄まっていくのを彼女は感じていた。頭の中にかかっていた恐怖という名の靄が薄れていくにつれ、彼女は今の自分がおかれている状況がミヒャエルの手によるものであることを理解する。
「…ミヒャエルさん」
「何ですか?」
それを理解したシューレは一瞬躊躇ってから、ミヒャエルの名を呼んだ。シューレに名を呼ばれたミヒャエルは、弾かれたように勢いよく振り返るとすぐさまシューレに駆け寄り前のめりになって彼女の鼻先に顔を近づける。
そのミヒャエルの挙動に、薄れかかっていた恐怖が先程までの濃さを取り戻していく。思わずシューレは顔を引こうとしたが、椅子にきっちりと縛り付けられている為に無駄に終わる。
あと数センチで互いの鼻先が触れ合うという距離で、二人の視線が交錯する。しかしそこにはロマンティックな雰囲気など欠片も無い。あるのは、妖しい光を目に宿し不気味な笑みに表情を歪ませた男と、恐怖の余り言葉を詰まらせた女が向かい合っているという、どう見方を変えてみても異常としか思えない光景だった。
「グレイは…どこですか…?」
しかしシューレは再び渦巻き始めた恐怖を抑え込んでミヒャエルに問いかける。恐怖以上に強烈に息づく母性が、彼女の口を開かせたのだった。
「グレイくんのことなら心配はありません。今は別の場所に居ますけど、すぐに会えますよぉ」
「…今すぐ会わせて下さい」
ミヒャエルは優しげな口調でシューレを説得しようとしたが、彼女はそれを受け入れずにグレイと会わせることを要求する。先程まで怯えに曇り、揺れていたシューレの視線は今でははっきりとミヒャエルの顔を捉えており、逸らされることはなかった。
「困ったなぁ…」
一転したシューレの態度から彼女の思いの丈の強さを測り知ったのか、ミヒャエルはシューレから顔を離すと頭を掻きながら苦笑を浮かべる。そして少しの間、天井を仰いで考えるような素振りを見せていたが、やがて掌を軽く叩くと顔をシューレの方へと向けた。
「分かりました、こうしましょう。ちゃんとグレイ君はシューレさんに会わせてあげます。ただ、少しだけ待って下さい。なるべく速く終わらせられるように努力しますから。だから、シューレさんも出来る限り協力して僕に付き合って下さい」
ミヒャエルは一方的にそう告げたかと思うと、最初この場に現れた時に近づいていた机へと近づき、その上に革製のポーチを置く。
ミヒャエルが机の上に置いたその革製のポーチは、彼がヴァヘドに訪れた時に持ち合わせていたものだった。
「付き合うって…何にですか? 貴方は一体、何をしようとしているのですか?」
音を立ててファスナーを開くミヒャエルの背中に視線を向けつつ、シューレは問いかける。最早自分をこの場所に監禁しているのがミヒャエルであることは明確だった。そうである以上、彼女が知るべきはそのような行為をミヒャエルがとった理由だろう。
「私の魔女としての知識が欲しいのですか? それなら…」
シューレは真っ先に頭の中に浮かんできた可能性を口に出す。
様々な効果を持つ薬物を生成することの出来る魔女の知識。それはシューレにとっては一種の呪いにも近い存在だった。何故なら、人間の行動を操ることを始めとして多様かつ強力な効力を持つ魔女の秘薬は、誰にとっても喉から手が出る程に欲しい存在であり、それ故にシューレがその知識を持っていることを知った人間はこぞってシューレからその知識を聞き出そうとしてきたからだ。
ある者は力づくで。ある者は策謀を巡らせて。ある者は愛を囁いて。様々な方法を用いて人々はシューレから魔女の秘薬の知識を聞き出そうとした。そしてそういった人物達にとって、シューレという個人自体は意思を持った知識の入れ物でしかなく、一人の例外も無く彼女自身のことを見つめてくれる人間はいなかった。
それでも真に自分のことを見てくれる人間がいると思って旅を続けていたシューレだったが、子供を孕ませその子供を盾に知識を聞き出そうとしてきた男と出会ったことでその考えを捨てた。そして迫害に嫌気が刺して飛び出した故郷である『フレハライヤ』に息子と共に舞い戻り、息子を育てながら残りの人生を使い切ることを決めた。
故にシューレは、ミヒャエルの目的も自身の知識にあると考えた。そして息子の為ならそれを差し出そうとも考えていた。今の彼女にとっては、腹を痛めて産んだ我が子が人生における全てだったのだから。
「知識? 違いますよぅ、そんなものは要りません」
シューレの言葉を遮って、ミヒャエルは心外そうな声を上げる。
「えっ…?」
驚きにシューレの目が見開かれる。
ミヒャエルの目的が魔女の秘薬の知識でないとするならば、一体彼の目的は何なのか。それがシューレには本気で分からなかった。
「僕の目的はですね、シューレさん」
茫然としているシューレの方に顔だけを向けて、ミヒャエルは口を開いたポーチの底を掴んでひっくり返す。すると中から小さなナイフや鋏、手術用の縫合糸やそれを通す針、ペンチやハンマーなど様々な物が出てきて机の上に広げられた。
「貴女ですよ。僕は貴女と一つになりたんです」
ポーチの中身を全て机の上に広げたミヒャエルは、シューレの方を振り返ってそう告げる。
各地を放浪し、幾度の裏切りに遭ってでも耳にしようとシューレが思った言葉は、何の因果か彼女が人生の中で最も恐れを抱いた人間の口から発せられた。
「……ここ、か」
村長からミヒャエルが居る可能性のある場所として訊かされた、村とシューレの住まう森とを繋ぐ道の途中にある小屋。その目の前にヴィショップ達三人は立っていた。
「みたいだな。それにしてもお前、本当について来て大丈夫だったのか?」
ひっそりと隠れるようにして立っている小屋を見ているヴィショップ。その隣に立つヤハドは、幾重にも包帯を巻かれたヴィショップの右足と彼の右手に握られている杖を眺めて、眉をひそめた。
「ここまでやられたんだ。この手で直接奴の鼻をへし折ってやらない限り、気が済まないね」
「でも殺しはしない訳か。貴様、随分とあのドイツ人を買っているな?」
ヴィショップの返事を聞いたヤハドが怪訝そうに問いかける。
ヴィショップとの付き合いはこの世界に飛ばされてからで決して長くはないものの、それでも『スチェイシカ』で二人で行動していたこともあり、ヤハドは彼の人となりを大体は把握していた。そしてヤハドが今まで見知ってきたヴィショップの人柄を考えると、彼がミヒャエルを殺めるという決断を下すことなくここまで我慢しているのは不思議なくらいだった。
『クルーガ』にしろ『パラヒリア』にしろ『スチェイシカ』にしろ、ヴィショップは利用出来るものは最大限利用し、邪魔なものは手段を問わずして排除してきた。そんなヴィショップが今対峙しようとしているミヒャエルは、彼にとって背中に爆弾を括りつけた人食い熊に等しい筈である。利用することなど出来ず、野放しにすれば心臓を抉り出され喉笛を噛み切られかねない存在。今までのヴィショップの行動に当て嵌めれば、まず間違いなく殺しにかかっている筈の存在だった。
「……まぁ、こうして俺達三人を手玉に取ってる訳だからな。少なくとも今まで過小評価してたってのは認めるさ」
そう答えたヴィショップの脳裏には、『スチェイシカ』の首都、『リーザ・トランシバ』で出会った仮面の魔術師の姿が過ぎっていた。
(しかるべき時に我が君の駒が揃い、しかるべき時にかの者の駒が揃う。奴はそう言っていた。奴の言う彼の者があの女神だとしたら、しかるべき時に揃った駒は俺達四人ということになる。そして、連中の駒も恐らくは…)
仮面の男が言っていた言葉。それに対するヴィショップの考えが確かならば、ここでミヒャエルを失うことは単純に戦力が低下するというだけの問題ではなくなる可能性があった。下手をすればそれで、この世界に送り込まれた目的を果たせなくなるかもしれない。そうである以上、ミヒャエルをここで失うのは自分達が本当に危なくならない限り避けなければいけなかった。
「フン…まぁ、いいだろう。ただし、奴を助けるなら俺がもし同じような状況になったとしても助けてもらおうか?」
「はぁ? 何でだよ?」
ヴィショップが思わず聞き返すと、ヤハドはさも当たり前のことを告げるかのような顔つきで答えた。
「あの変態以下だと判断されて死ぬなど、この世で最低の死に方だからだ」
「……ヒャハハッ。違いねェ。ターバン君の言う通りだぜ、ジイサン」
笑い声を上げたレズノフが、ヤハドのターバンを負傷してない方の手で叩きながら賛同する。
「はっ、それが嫌ならきちんと自分が使えるところを示してみろよ。例えば、先陣切ってここの中に飛び込んでみるなりしてな」
腕を振るって、ターバンを叩いていたレズノフの腕を払うヤハドに、ヴィショップはそう告げる。
ヤハドはレズノフの手を振り払うのを止めてヴィショップへと振り向き、何か言い返そうとして口を開きかける。しかしヴィショップの負傷した右脚を見てそれを思いとどまると、仕方なさそうに腰に吊るしていた曲刀を抜いて小屋の扉へと近づいて行った。
ヤハドが小屋の扉に近づいたのに従って、ヴィショップは魔弓を、レズノフは愛用の大型ナイフを手にして扉に近づく。扉に近づいた三人は、ヤハドが扉の右側の壁に、レズノフとヴィショップが扉の左側の壁に背中をつけて突入の準備を整える。
「では……行くぞ」
「あぁ」
ヴィショップが相槌を打つ。それを見たヤハドが壁から背を離して一歩前に踏み出し、身体を壁の影に隠したまま後ろ向きに扉に向かって右の足裏を突き出した。
勢いよく突き出されたヤハドの足裏は、薄い木製の扉を簡単に蹴り抜いた。
蹴り抜かれた扉が小屋の中へと吹き飛んだ刹那、小屋の中から大きな質量を持った物体が風切音を奏でて飛び出してくる。その物体は蹴り抜かれた扉をと衝突して扉を容易く打ち砕くと、そのままドア枠から外に飛び出してヤハドの数センチ真横を高速で通り過ぎる。
「ブービートラップ…!」
飛び出してきた物体を横目で見たヤハドが呟く。
扉が蹴り抜かれた直後に姿を表したその物体の正体は、一本の大きな丸太だった。恐らく森の中の木を切り倒したものであろう丸太は、先端部分が削られて槍のように尖っている。飛び出してきた時の勢いを考慮すれば、普通に扉を開けていた場合ヤハドの身体には良くて風穴、下手すれば身体そのものが真っ二つになっていたかもしれなかった。
飛び出してきた丸太は鋭く尖った先端部分を木の葉で覆われた空へと掲げた後、誰の血も吸うことなく、振り子の動作で再び小屋の中へと引っ込んでいった。
三人はその場で立ち止まったまま、一先ず丸太が動きを止めるの待つ。少しして丸太は再び姿を現したが、その時は既に先程までの勢いはなく、次に出てきた時は先端部分を僅かに覗かせただけで小屋の中に引っ込んでしまった。
「……今のを見たか?」
「あぁ。間違いなくあの野郎、こっちを殺す気だったな」
丸太が姿を現さなくなってから数秒後、ヤハドは左側の壁に背中をつけているヴィショップに声をかける。ヴィショップは返事を返すと壁から慎重に頭だけを覗かせて小屋の中を覗き込んだ。
森へと続くこの道の両側にも既に木々が生い茂っている為に日光があまり当たらないせいか、小屋の中は薄暗かった。その為ヴィショップが判別することが出来たのは、粉々に砕け散った扉の破片と僅かに揺れている丸太の姿だけだった。
「まだあると思うか?」
「だろうな。援護するぜ」
丸太のトラップを見てヴィショップは、この場所にミヒャエルが居ることと同時に、自分達が完全にミヒャエルを追いつめた訳ではないことを悟る。そしてヤハドの問いかけに軽口を抜きにして返事を返すと、曲刀を手に小屋の中へと向かうヤハドの後ろに続いた。
「ここは居間のようだな」
小屋の中に足を踏み入れたヤハドが、片付けられずに放置されたいる家具の数々を見て呟く。
前のこの家の持ち主が一人暮らしだったこともあってか、家具の数は少なかった。あるのは食事の為に使われると思われる椅子とテーブル、そしていくつかの棚だけ。部屋の奥に暖炉が設けられているのと、天井の梁にから縄で吊るされた丸太が完全に静止した状態であるだけだった。
部屋にある物を一通り確認しながらヤハドは曲刀を鞘に収め、代わりにナイフを引き抜いて右手に持つ。
ここに本当にミヒャエルが居るならば、仕掛けてある罠は扉を開いた時に作動する丸太だけではない可能性が非常に高い。そうなった時図体のデカい曲刀では、動いている拍子に罠のスイッチとなるものをひっかけてしまう可能性があった。
「ヤハド…左右と奥に扉だ」
ナイフを手にしたところで、後ろに居るヴィショップから声をかけられる。ヤハドはその言葉に従って部屋を今一度見渡すと、言葉通り部屋の左右と奥の壁に木製の扉があるのが目に入った。
「あの中のどれかにドイツ人がいる訳か…」
「…の筈なんだが、妙だなァ」
背後から聞こえてくる懐疑的なレズノフの声に、ヤハドが振り向いた。
「というと?」
「人の気配がしやがらねェ。本当にここに居るのかァ?」
レズノフにそう告げられて、ヤハドは耳を澄ませてみる。すると確かに人が動いている物音や呼吸音などといったものは全く聞こえてこなかった。
「扉はそこまで厚い訳ではないし…それに小屋の面積もさして大きくはない……外れか?」
もし本当にこの場にミヒャエル、そして彼が攫ったと思われるシューレとグレイが居るのならば、建物の構造を考慮に入れても何かしらの物音が聞こえてきてもいいはずだったが、小屋の中は完全に静まり返っていた。
小屋の中に広がる静寂を前に、この場所も外れである可能性がヤハドの頭の中を過ぎる。
しかしその疑念を、後ろから聞こえてきたヴィショップの声が打ち消す。
「まだだ。地下室の可能性が残っている」
「この小屋に地下室があると? その根拠は?」
ヴィショップ達が生きていた世界ならまだしも、それより数世紀も技術水準の劣るヴァヘドにおいて、辺境の土地に小金持ち程度が自宅の地下に部屋を作れるとはヤハドには考えられず、彼はその考えに至った理由をヴィショップに問う。
「向こうでの奴が捕まった時の記事の内容を思い出したんだよ。それによると奴は、何件かの殺しを教会の地下にある地下室で行っていたらしい」
ミヒャエルが殺害した女性の数は四十八人。その内警察に追われ始め逃亡生活の中で殺害した六人以外の四十二人は、彼が身を寄せていた教会の地下室で殺されていた。
そのことからヴィショップは考えたのだ。ミヒャエルがシューレの邸宅ではななく、わざわざこの小屋を使うことに決めたのは単に場所を知られていないだけでなく、誰にも邪魔されることなく安心して行為に及べる場所があったからではないのかと。
「陰気のサド野郎は地下室がお好みってかァ? まァ、もし本当に地下室なんてものがあるなら気配が無いのも納得だがァ…」
ヴィショップの隣で話を聞いていたレズノフは、視線を下に下げる。
「こん中を歩き回ってあるかわからない地下室を探すなんてのは、中々に骨だぜェ?」
レズノフが視線を向けた先には、汚れたり古びたりはしているものの埃は一つも落ちていない床があった。それは明らかに最近人の手が入ったことを表しており、今の状況を考えればそのようなことをする理由は一つしかなかった。
埃の有無、それでどこをどのように動いたのかを気付かれ、仕掛けた罠の存在が見抜かれるのを防ぐ為である。
「まぁ、地道に進んでいくしかないだろうな」
「だが、それだと間に合わなくなるんじゃねェのォ?」
諦めたように発したヤハドに、レズノフが反論する。
レズノフの言う通り、ミヒャエルに三人が出し抜かれてから三日が経っている以上、浪費することの出来る時間は無いに等しかった。ブルゾイも殺し終えた以上、いつミヒャエルがシューレをその手にかけたとしても不思議ではないのだから。
「なら、方法は一つしかないな」
「そうだな」
ヴィショップの呟きにヤハドが同調する。
「じゃァ、分かれるとしますかァ」
レズノフの言葉にヴィショップとヤハドが頷いてみせると、三人はそれぞれ視線を部屋の三方にある扉へと向けた。
「……誰か来たみたいですね」
机の上に広げた道具を物色していたミヒャエルが、何かに気付いたように呟いて視線を天井へと向ける。
「……!」
ミヒャエルが発した一言につられてシューレも視線を天井へと向けた。しかし耳を澄ませても物音の類は一切聞こえはこず、ミヒャエルの言葉通り何者かがこの場に訪れたのかは分からなかった。
しかし何も分からなかったという訳ではない。ミヒャエルの反応のおかげで、シューレは自分が今いる場所がどこかの地下であることに確信が持てていた。
「どうかしましたかぁ?」
「っ!」
ねっとりとした声を不意にかけられ、シューレは身体を震わせて視線を戻す。視線を向けた先には、シューレの方に顔を向けているミヒャエルの姿があった。
「大丈夫ですよ、シューレさん。不安がらなくても、ここには誰も来たりは出来ませんから」
シューレの心内にある不安を見抜いたミヒャエルが優しげな声をかける。不安の有無は見抜けても不安の本質は見抜けていないミヒャエルがシューレにかけた励ましは、余りにも的外れなものだった。
しかしそれに気付いていないミヒャエルは満足そうに視線を机の上へと戻して、道具の物色を再開する。シューレは、プレゼントを開けるのを待ち切れない子供のようなミヒャエルの横顔を眺めると、躊躇いで動きの鈍くなった口を何とか動かし、ミヒャエルに語りかけた。
「あの……本当のことを…教えてください」
「? 本当のことって?」
シューレの言葉の意味が分からず、ミヒャエルは怪訝そうな表情を浮かべて顔をシューレへと向ける。
「私をここに連れてきた…本当の理由です……薬の作り方が知りたいなら教えて…」
「あぁ……あぁ、あぁ、あぁ、あぁ、あぁ、ああっ!」
ミヒャエルは手の動きを止めたかと思うと、唐突に天井を仰ぎ、シューレの言葉を掻き消す勢いで声を上げながら両手で頭を掻き毟る。
その突然の奇行に圧倒され、シューレは思わず喋るのを止める。ミヒャエルはシューレが口を閉ざした後も頭を掻き毟っていたが、不意に手の動きを向けたかと思うと、物凄い勢いで頭を戻して顔をシューレへと向けた。
「シューレさん、シューレさんシューレさんシューレさん、シューレさんっ! 貴女は何て可哀想なんだ。きっと今まで何度も、あのダニみたない連中に騙され続けてきたんでしょう。だから、僕の言葉が貴女には届かないんだ」
ミヒャエルの放つ言葉は物静かだったが、言い知れぬ迫力を纏っていた。その迫力の前にシューレは返事どころか声すら上げることが出来ず、ただミヒャエルの言葉を聞き入ることしか出来なかった。
「でも、大丈夫です。僕はあんなダニ共とは違います。貴女に寄生する寄生虫なんかじゃありません」
一言も発せずに押し黙るシューレを前に、ミヒャエルはそう告げたかと思うと懐から古びた装丁の分厚い本を取り出して、床の上に落とした。
「それは…!」
すっかり茶色く変色してしまった表紙が、流れた時の長さを表している一冊の本を見て、シューレの口から今まで出せなかった声が漏れ出る。
彼女はミヒャエルが床に落としたその本に見覚えがあった。その本は間違いなく、彼女が母から受け継いだ、ヴィレロ家に伝わる魔女の秘薬の製造方法が書かれた本であった。
「四元魔導、烈火が第百八十三奏、“ファヌグス”」
床に落ちた本を見つめながらミヒャエルが呪文を唱える。すると本から紅蓮の炎が噴き出し、瞬きする間に本の全体を呑み込んだ。
「あっ…」
乾き切っって水分の抜けた本のページは、僅かな抗いすら出来ずに炎に焼かれて真っ黒な炭へと姿を変えた。ミヒャエルは燃えカスとして僅かに残った本の残骸を見下ろすと、右脚で踏みつけて磨り潰す様にぐりぐりと踏みにじった。
そして燃えカスを床に黒い染みへと変えると、満面の笑みを浮かべた顔をシューレへと向けた。
「言ったでしょう? 僕は違うんです。貴女を辱め、利用しようとしたブルゾイなんかとは」
「聞、いたんですか? 彼、から…?」
そう問いかけるシューレの表情は痛みに満ちていた。それを見たミヒャエルは悲しそうな表情を浮かべると、そっと彼女の頭を撫でた。
「…はい。死ぬ間際のあいつから聞きました」
「死ぬ…!? まさか、貴方……!?」
ミヒャエルの発した一つの単語に反応して、シューレの表情が驚愕を孕んだものへと変わる。
ミヒャエルはシューレの質問には答えずにただ微笑みかけると、彼女の頭から手を離した。
「そろそろ始めましょうか」
ミヒャエルはシューレから手を離すと、道具を拡げた机へと近づく。そして机の上に置いてあった金槌と鋏を手にすると、シューレの方に向き直った。
「互いの全てを知るための、愛の儀式を」
そう告げると、ミヒャエルは視線を下げた。視線を下げて、スカートに覆われたシューレの右足へと視線を向けた。
まずはそこから。口は動かさずとも、ミヒャエルの視線がそう告げているのを、シューレは聞いた様な気がした。




