供物たちの沈黙
ヴィショップ達が去った後の宿屋の一階部分に設けられた酒場には、『フレハライヤ』の村長を始めとして村の人間が集まっていた。
酒場に居るにも関わらず彼等の手には酒は握られていない。精々数人が水の注がれたグラスを手にしているぐらいである。そして彼等の表情は一様にして不安に蝕まれており、殆ど口を開くことなく重苦しい空気だけが店内に満ち足りていた。
村長達がこの酒場に集まったのは、ヴィショップ達の帰りを待つと共に自分達に出来ることがないか話し合う為だった。彼等には戦う力など無いが、それでも長年この土地で生活してきただけあって、今この土地で異常なことが起こっていることは直感的に気付くことが出来たし、自分達の土地を守るために行動を起こそうという意思も持ち合わせていた。
しかし現実は無情なもので、そもそも何が起こっているのかすら正しく把握出来ていない彼等に何かが出来る筈も無かった。結局、村長を始めとした『フレハライヤ』の住人達に出来る事といえば、ヴィショップに言われた通り『クルーガ』に騎士団の派遣の要請をする準備をしておくことだけだった。
「なぁ、村長。今日中にあの人たちが戻ってこなかったら騎士団に連絡するんだよな?」
「そうだ。今日中にヴィショップさん達が戻ってこなければ、言われた通り『クルーガ』に連絡する」
グラスを手持無沙汰に回していた男が村長に確認を取り、村長が首を縦に振って答える。
それは最早先程から何回と繰り返されてきたやり取りだった。ヴィショップの帰りを待つ以外に出来ることのない彼等には、何もできない歯痒さを持て余す以外の道は無かったのだ。
しかし住人達の我慢の時は、荒々しく扉が開かれる男によって唐突に終わりを告げた。
「おお、ヴィショップさん!」
蹴破るようにして扉を開いて店に入ってきたのは、『ヴァライサール』へと向かったヤハドと、そのヤハドに肩を貸してもらっているヴィショップ、そしてレズノフの三人だった。
「村長、傷の手当を行いたいので包帯か何かがあったら持ってきてください。それと、ここに集まっている方々を外に」
「わ、分かりました」
ヴィショップはヤハドに肩を貸してもらいながら手近にあった丸テーブルの上に腰かけると、村長に治療用の道具と住民達の追い出しを頼んだ。村長は血でぐっしょりと濡れたヴィショップのズボン、衣服の切れ端を包帯代わりに左腕に巻きつけているレズノフの姿を見ると、急いでヴィショップの指示に従い始めた。
「しかし、連絡を受けて『ヴァライサール』からすっ飛んできてみれば、まさか同士討ちをしているとはな。まったく呆れた奴等だ」
村長に急き立てられて住民達が追い出されていく中、丸テーブルに腰かけたヴィショップとカウンター裏の棚に並べられている酒瓶を物色しているレズノフを、ヤハドが半目で睨みつける。よくよく注視してみれば、ヤハドの発言を裏付けるように彼の身に着けているシャツは汗に濡れており、そのヴィショップから連絡を受けた彼の奮闘ぶりが察せられた。
「文句なら俺じゃなくてそこのクサレゴリラに言いな。そいつがコロッとあのサイコパス野郎の罠に引っかかったおかげでこの様なんだからな」
「そいつは済まねぇなァ、ジイサン。いくら片足が使えねぇとはいえ、まさか銃持っといて剣しか持ってない奴にそこまでボコボコにされるとは思わなかっただよ。あァ、銃じゃなくて魔弓か? まァ、どっちでもいいけどよ」
「正気に戻ってまで殺し合いたいんなら、俺一人であのドイツ人を止めるから好きにするがいい。どうせ死んで悲しむ奴もいないだろうしな」
もう一ラウンド始まりそうな会話を交わすヴィショップとレズノフを、ヤハドが呆れ混じりに仲裁する。それを受けてヴィショップはわざとらしく両手顔の横で振ってみせ、レズノフは肩を竦めて瓶口を口元へと運んで傾ける。
「にしてもよォ、まさかあの魔女が裸コートの昔のオンナだったとはなァ。こりゃあァ、強姦魔が裸コートを殺すのも納得ってもんだ」
酒瓶を口から離したレズノフが、シューレの邸宅からこの酒場まで戻ってくる間にヤハドから聞かされた話を思い出して納得したような声を上げる。
ヤハドはこの酒場までの道中で、ヴィショップ達に『ヴァライサール』で仕入れた情報について話していた。シューレの持つ薬の知識を欲したブルゾイとセグが、彼女を誘拐犯として陥れ自分達に頼る他無い状況に追い込もうと画策していたこと。ブルゾイとシューレがかつて夫婦で、ミヒャエルの言っていたグレイという子供は二人の間に出来た子供であること。夫婦だった時に入手した他の生物の行動を操るこの出来る薬を用いて子供達の誘拐、並びに依頼の為に郊外の山へと赴いたヴィショップ達に魔獣を差し向けたことといった、今回の一件における真相の全てを。
「あの死体の損傷からして、奴もブルゾイからこの話を聞き出しているだろうしな。こんな話を聞かされれば、奴がブルゾイを殺そうと思っても何ら不思議じゃねぇ。むしろ、死体がブルゾイだと判別出来るだけマシだったとみるべきか」
それが分かれば、自ずとミヒャエルがブルゾイをあのように痛めつけて殺した理由も分かってくる。
しかし、それらは全て起こってしまったことでしかない。ヴィショップが片足を、レズノフが片腕を負傷してまで得ることが出来た情報はこれからの行動にとって殆ど役に立つとはいえないもののみだった。
「あの……治療用の道具ですが、こんなものでよろしいでしょうか」
そこに救急箱を持った村長が現れる。ヴィショップはヤハドに村長が持ってきた救急箱を受け取らせると、もう一つ彼に頼みごとをした。
「助かります。申し訳ありませんが村長も外で待ってきてください。それと、もう一つ頼みごとをしても?」
「えぇ、大丈夫ですが…」
「では、村の方々にミヒャエルを見かけなかったか聞いてください。あるいは彼が居着そうな場所を」
「構いませんが…貴方達は今あの人を探しておられるのですか? あの人は今、一体何を?」
「それは全てが終わったらお話しします。申し訳ありませんが、今はそれしかお答え出来ません」
ヴィショップは一方的に会話を打ち切って村長を外に追い出す。村長が店の外に出ていくと、ヴィショップは血で濡れたズボンを捲り上げて右脚の傷口を露出させた。
「ヤハド」
ヴィショップがヤハドの名を呼ぶと、救急箱から取り出した包帯を投げて寄越す。ヴィショップは包帯をキャッチすると傷口に当てて巻き始める。
「『ヤーノシーク』は先を越され、魔女の家も引き払った後。となれば、後はどこを探す?」
「さぁなァ。そもそも、奴がまだこの近くに居るかどうかも怪しいぜェ」
ヤハドの発した問いかけに、レズノフがヴィショップと同じようにして受け取った包帯を自分の傷口に巻きながら答える。
「そうだな。既にブルゾイを殺し、魔女も手中に収めたのならばこの辺りに居続ける理由は…」
「いや、奴はまだ近くに居る」
レズノフに同調しかけたヤハドの言葉を、ヴィショップは否定によって遮った。
「どうしてそう思うんだ? ロシア人ならともかく、お前がそう言うからには根拠があるんだろう?」
根拠を求めるヤハドに、ヴィショップは首を縦に振ってから、ミヒャエルがまだこの土地を離れていないという判断に至った理由を語り始める。
「俺達が三日で……つまり、ブルゾイが殺されたすぐ翌朝に目を覚ました。それが根拠だ」
「ハァ? なんでそれが根拠になるんだァ?」
納得がいかずにレズノフが訝しげな声を上げる。ヴィショップはレズノフへと顔を向けると、彼に一つの質問をぶつけた。
「レズノフ。もし奴がブルゾイを殺し、シューレを手に入れようとした時…つまり、ブルゾイを確実に殺す手段とシューレを確実に手に入れる手段を整えた時、奴が計画を失敗させる可能性があるとして危険視する存在は何だ?」
「そいつはァ……俺達だな。だから、奴は俺達に薬を持って動きを封じたんだろォ?」
少し考えてからレズノフはそう返した。
事実、ブルゾイを始めとした『ヤーノシーク』の構成員が全滅し、シューレも手の中に落ちたこの状況でミヒャエルを脅かすことの出来る存在はヴィショップ達しかいなかった。騎士団が捜査の為に動き出すには時間が掛かり過ぎ、『フレハライヤ』の住民は問題外。『ヴァライサール』も戦力を全て『ヤーノシーク』に依存していた以上、ブルゾイの契約の加担者だったセグが一人生き残っていたところで何も出来ない。この土地で実質戦力と呼べる存在は、今はヴィショップ達三人しか残っていなかった。
「そうだ。だとしたらおかしいだろ? 何故奴は、自分がブルゾイを殺したすぐ翌朝には俺達が目覚めるように計算して薬を仕込んだ? もし俺達に邪魔されずにこの土地を去りたいなら、もう何日か眠らせておくか殺すかすれば良かった筈だ」
「……盛る薬の量でも間違えたんじゃねェの?」
レズノフの反論を、ヴィショップはすぐさま首を横に振って否定する。
「シューレの家で使われた例の薬物は、まず間違いなくミヒャエルの野郎が作ったものだ。シューレを抑えた以上、ミヒャエルはあの女が持っている薬物の作り方の知識も全て手に入れているだろう。だが例えそうだとしても、あんな馬鹿げた薬を、しかも恐らくは今まで見たことも触れたこともないような材料を使う薬を、即興で完璧に作っちまうなんて所業は並の人間に出来るもんじゃねぇ。そんなことをやってのけた奴が、薬の量を間違えて予定より早く目が覚めるようにしちまうなんて有り得ないだろ」
ヴィショップの言葉にレズノフもヤハドも反論することが出来ず口を閉じていた。その沈黙が破られるのは三秒程が過ぎてからのことで、口を開いたのはヤハドだった。
「お前の言う通り奴はまだこの地に留まっているとしよう。だとしてもそれは何故だ? 奴は何が目的でこの土地に留まっている?」
「俺達が眠りにつく前に、俺がお前等に話した話を思い出してみろ。奴が女を嬲り殺しにする理由を俺は何と言った?」
ヴィショップの言葉でヤハドは彼から聞かされたミヒャエルの過去を想起する。ヴィショップの言葉を脳裏に浮かび上がらせたヤハドは、ヴィショップが言わんとしていることを理解して顔を嫌悪に歪ませた。
「痛みを通じて相手の全てを理解する為。そしてそれによって、相手と真の意味で愛し合う為…」
「そうだ。だから、奴はこの土地から離れようとはしない。女を嬲り殺しにすることじゃなく、奴にとっては過程に過ぎない。奴が求めているのはあくまで愛した女と結ばれることだ。つまり…」
ヴィショップは一端言葉を切ると、右手の人差し指を立て、その指先を床へと向けた。
「奴はあの女と家庭を持とうとしている。他でもない、あの女の故郷であるこの土地でな」
ヴィショップの発した言葉にヤハドは絶句する。それ程までにヴィショップが導き出したミヒャエルの最終目的は、許容することが困難なものだった。
拷問にかけた相手と真の愛を育む。それが不可能なことは、どんな馬鹿であっても分かる筈のことだ。もしそれが分からない人間がいるとするならば、その人物は決して稀代の愚か者でも究極の無知でもない。ただ単に、人間として必要な重要な部分を欠落させた狂人である。
そしてその狂人は、今ヴィショップ達の目の前に立ちはだかっていた。決して避けて通ることの出来ないか存在として。
「なァ、ジイサン。もう一度訊くぜ。あの野郎、生かして捕まえるのか? それとも殺しちまうのか?」
少ししてレズノフがヴィショップに問いかける。彼の声の調子にはシューレの邸宅へと赴く際のふざけた様子は微塵も無かった。
シューレの邸宅でのトラップ、そして今一度再確認したミヒャエルの狂気を前に、レズノフはミヒャエルを生きたまま抑えることを不可能に感じ始めていた。よしんば彼の許まで辿り着いて身柄を抑えることが出来たとしても、ミヒャエルを説得してシューレを諦めさせることなど到底無理としか思えなかった。
そしてそれはレズノフだけが抱いていた考えではなかった。今となってはこの場で顔を合わせている三人、全員が胸中にその考えを抱き始めていた。
「……出来る限りの範囲で手を尽くせ。自分の命が危険にならない範囲でな」
故に、ヴィショップはシューレの邸宅に向かう前のように断言することが出来なかった。そしてそれに反対する者も、誰一人としていなかった。
ヴィショップはレズノフの質問に答えると無言で止まっていた手を動かし始めた。レズノフも短く返事だけを返し、ヤハドはヴィショップと同じく無言を貫いていた。
バーテンの居ない、三人の客のみが入った酒場に重苦しい沈黙が漂う。その沈黙は数分近くその場に漂い続け、先程外に追いやった村長が慌ただしく扉を開いて駆け込んでくるまでその沈黙は続いた。
「ヴぃ、ヴィショップさん! い、居ました!」
「見つかったんですか、奴が!?」
駆け込んでくるなり開口一番に発した村長の言葉に、ヴィショップは思わず弾かれるようにして顔を向ける。村長は何度も頷くと、呼吸を整えてから言葉を吐き始めた。
「村人の中に、ミヒャエルさんが行っていそうな場所を知っているものがいました。何でも数日前に、ミヒャエルさんにその場所を聞かれたとかで…」
「その場所は? どこなんです!?」
ヴィショップは丸テーブルのから降りると片足を引きずりながら村長に近づき、彼の両肩に手を乗せて問い質す。そのヴィショップの剣幕にただならぬ事情を読み取った村長は、ヴィショップの求めていた情報だけを速やかに伝えた。
「魔女の館のある森の近くにある、少し前まで大工が住んでいた小屋です。森に通ずる道の途中にあるので、すぐ分かる筈です」
「有難うございます。…レズノフ、ヤハド!」
ヴィショップは村長に慌ただしく礼を言うと、二人の名を呼んで出口へと歩き出す。呼ばれた二人は各々の獲物を手に出口に急ぐヴィショップの後を追った。
村長は、負傷しているにも関わらず何の躊躇いも歩み続ける三人を茫然と眺めていたが、やがて思い出したようにヴィショップを呼び止めた。
「ヴぃ、ヴィショップさん…。我々はどうすれば…」
「先程と一緒です。我々“三人”が戻らなければ騎士団に連絡を。それと今仰った小屋には誰も近づけないように」
ヴィショップはそう告げると、村長に背を向け歩き出した。
この世界に訪れて以来三人が経験してきた全ての戦いは、いずれも確実に勝てると見込んでの戦いではなかった。ただそれでも、勝機だけは見出してきていたし、逆に勝機が全く見出せない戦いは避けてきていた。
よって、今から身を投じようとしている戦いは彼等にとってこの世界で経験する、初めての勝機が全く見出せない戦いだった。
「う、うぅ……うん…?」
闇の中に沈んでいたシューレの意識を引き上げたのは全身をはい回る肌寒さと両腕に感じる鈍い痛み、そして薄らと聞こえる何者かの足音だった。
「…? ここは…」
瞼を開いてから数秒程して、シューレは今自分が居るのが全く見覚えの無い場所であることに気付く。
周囲は一面灰色の壁に覆われていて窓の類は一切見受けられない。灯りは壁にかけられているカンテラ型の神導具のみで、室内はぼんやりと薄暗い。広さは余りあるとはいえず、人一人がギリギリ生活していける程度しかない。
家具の類は彼女が座っている椅子と、その正面に向かい合うように椅子が一つ置かれている他、瓶やバケツが乗った机が置かれている。机には他にも鉈や鋸といったものも置かれており、それらにスペースを奪われた瓶やバケツは無造作に床の上に置かれていた。
見える範囲にある家具はそれだけだった。シューレは背後に何があるのか確認するべく振り返ろうと試みるが、そこであることに気が付いた。
「動けない…? ッ!?」
動かそうとしても自分の身体が微動だにしないに気付いたシューレは、視線を自分の身体へ向ける。そして視線を向けた先で、自身の身体を椅子に縛り付けているいくつもの革製のベルトの姿を見た瞬間、思わず息を詰まらせた。
見慣れない場所に縛られた身体。シューレが自らのおかれた状況の異常さを察するにはそれらの情報だけで充分だった。
「グレイ! グレイ、どこなの!? 返事をしなさい!」
首を必死に動かして周囲を見渡しながら、シューレは有らん限りの声量で我が子の名を叫ぶ。
自らのおかれた状況を理解した時、最初に彼女がとった行動は恐怖にかられて喚き散らすでもなく、冷静にこの状況の分析を始めるでもなく、母性本能という名の衝動に忠実に従うことだった。
シューレの叫びが室内に響き渡る。しかし彼女の許に戻ってきたのは自身の声の木霊だけで、彼女が待ち望んだ返事は一向に返ってこない。
それでもシューレは叫ぶことを止めようとはしなかった。母親としての本能が彼女に諦めることを許さなかったのだ。
「グレイ! グレイ! グレイっ!」
室内に幾度となく反響するシューレの叫び。次第に彼女の叫びは涙声になっていき、段々と掠れ始める。
「グレイ…グレイ……ぐれいっ…!」
だがそれでもなお、シューレは我が子の名を呼ぶのを止めようとはしない。最早木霊すら返ってくることがなくなっても、叫びとすら呼べないものに彼女の声がなってしまっても、シューレは口を止めようとはしなかった。
「ぐれい…ぐれい…ぐれい…」
拭われることなく重力に従って双眸から流れ落ちた涙は、彼女の服の上に大きな染みを作っている。顔を上げることすら出来なくなって俯きながらも、シューレは呟くような大きさの声でグレイの名を呼び続けていた。
その時、不意に彼女の前方から足音のようなものが聞こえてきた。
「グレイっ!?」
俯いていたシューレの顔が跳ね上がり、足音のした方に向けられる。足音は一定のリズムを刻みながら少しずつ大きくなっていき、それに合わせて人の気配が一つ、段々とシューレの方に近づいて来ていた。
そして最初の足音が聞こえてから十数秒後、その足音の主がシューレの目の前に姿を現した。
「おーはーよーうーごーざーいーまーすー、シューレさんっ」
果たして足音の主はグレイなどではなかった。足音の主は一人の男。フード付きの僧衣を身に纏い右手に魔法発動を補佐する機能持った杖を手にし、女と見間違う程の端正な顔を満面の笑みに歪めて立っている、金髪の男だった。
シューレはその男の姿に確かな見覚えがあった。いや、見覚えなどという生易しいものではない。彼女は暗闇の中から姿を現したこの男と、何度も顔を合わせ時間を共有してきていた。
その男を前にして、シューレは驚愕に眼を大きく見開く。そして震える声でその男の名を呼んだ。
「ミヒャエルさん…?」
シューレが男の名を呼んだ刹那、男の表情が歓喜によって更に歪む。
シューレに向けられている男の笑みは、純粋な歓喜からくるものだった。更に言ってしまえば、シューレは目の前に立っている男と今まで共に過ごした時間に、幸福を確かな幸福を見出していた。
「そぉぉうでぇぇすよぉぉぉぉ?」
にも関わらず、シューレは男の笑みを前にして恐怖を抱いていた。彼女がこの世に生を受けて以来感じてきた中で、最も強烈な恐怖を。




