名も無き歌よ
「ちゃんと目は開いてるな? なら、取り敢えず現状の確認から始めるぞ」
ヴィショップ達が使用している『フレハライヤ』の宿屋の一階の酒場、そこにいた人間を村長の権限を使って悉く追い出したヴィショップは、自分と同じように寝かされていたヤハドとレズノフは叩き起こして集めていた。
ヴィショップの呼びかけに二人は無言で首を縦に振る。その手にはそれぞれグラスが握られており、ヤハドは氷水の入ったグラスを、レズノフはとびきり強い酒を氷で割ったグラスをそれぞれ自分の額に押し当てていた。
「村長から話を聞いたところによると俺達は三日前の朝、つまり俺がお前達にミヒャエルの過去のことを話したその翌日、朝食の途中にいきなりぶっ倒れて、今日まで意識を取り戻さなかったとのことだ。そして唯一意識を保っていたミヒャエルは俺達が部屋に運ばれるのを見届けた後、治療出来そうな薬草を探してくる、とだけ言い残して姿を消している」
ミヒャエルから人間の行動を操る薬の存在と琥珀の指輪の存在を聞かされた夜、ヴィショップはミヒャエルが二階に移動したタイミングを見計らってレズノフとヤハドにミヒャエルが生きていた頃に行った行為を話していた。それはシューレの息子のグレイと同じ指輪をブルゾイがしていることを知ったミヒャエルを見て、超えてはいけない一線を彼が越えつつあることをヴィショップは悟ったからだ。そしていざという時の協力を仰ぐために二人にミヒャエルの過去を話したのだが、この結果を見る限りそのタイミングは僅かに遅かったと言わざるを得ないだろう。
「タイミングから考えて、奴が俺達の朝食に何かしらの薬をもったと考えて間違いないだろう」
「そこが分からん。何故、あいつは三日前の朝の時点で既に俺達を無力化しようと考えていた? あの時お前が話していたのを奴は聞いていたのか?」
納得のいかなさそうな表情を浮かべてヤハドが疑問の声を上げる。
ヴィショップの推測はまず間違いないだろう。三人が意識を失ったタイミングからも、毒物を仕込めるようなタイミングの有無から考えても、ミヒャエルは三人の朝食に何かを仕込んだのだろう。しかしそうなると腑に落ちないのは、ミヒャエルがどのタイミングで毒を仕込むことを決意したかである。ヤハドの言う通りヴィショップの話を聞いたから毒を仕込んだのだとしたら、三日間も意識を奪い続けるような薬をタイミングよくミヒャエルは持っていたということになるが、いくらなんでもそれは出来過ぎというものだった。
ヴィショップは無精髭を擦りながら思案する。三日前に意識を失う以前、最後にミヒャエルと会話を交わした時のことを思い出しながら、何か違和感は無かったかと。そしてその作業の中でヴィショップの脳裏をヤハドが発した一言が過ぎった。
「そう言えば、お前言ってたよな。ミヒャエルの服が随分汚れていると」
「ああ。確か奴は、例の魔女の子供と遊んだ時のものだと言っていたが」
「あの汚れ、実際はガキと遊んだ時のものなんかじゃなく、俺達に使う毒物の材料を探す時に付いたもんじゃねぇのか?」
「つまりアレかァ? ジイサンはあの強姦魔が宿に帰ってきた時には既に、俺達を嵌めるつもりで動いていたと言いたいのかァ?」
酒を煽りつつレズノフが訊ねる。ヴィショップは神妙な顔付きで首を縦に振った。
「奴はあの女と一緒に何回かあの森で薬の材料となる薬草を探している。となれば、必要な薬草がどこにあるのかを把握していてもおかしくはない。あの野郎、毒物に関しては天賦の才があるようだからな」
「つまり、あの男は魔女の家を出た後、森で薬の材料となる薬草を集めてから俺達の所に戻ってきたという訳か? だが、どうしてだ! どうしてその時点で俺達を嵌めようとする?」
苛立ち交じりの声を上げる、ヤハド。ヴィショップは彼の声を聞きながら数秒間、脳裏に浮かんできた答えとは別の答えとは他の可能性を探すも、結局最初に浮かんできた答え以外には何も浮かんでこなかった。
「自分一人で片を付けるつもりだったんだろう」
「何?」
「あの女の家に言ってミヒャエルは女の息子から人間を操る薬の存在を聞いた。その時奴は確信したんだろう。あの女が今回の失踪事件に関わっていること、俺達もその話を聞けばその結論に辿り着くこと、そしてその結論に辿り着けば俺達が力づくでもあの女の口を割らせようとするであろうことを」
ヴィショップはそう告げると、自分の手元のグラスの中身を喉に流し込む。
室内に琥珀色の酒が喉を通る微かな音だけが響く。レズノフとヤハドは沈黙を守ったまま、ヴィショップが再び口を開くのを待った。
「奴はそれを良しとしなかったんだろう。だから、俺達を無力化しその間に自分で全ての真相を解き明かそうと考えた。それで、俺達の所に戻ってくる前に俺達の意識を数日に亘って奪うような毒物の材料を調達してきた」
「……つまり奴は…」
「俺達の会話を聞いた訳じゃない。いや、それどころかブルゾイがあの女のガキと同じ指輪を持っていたことを知らなかったとしても、次の日の朝食に薬を仕込んでいただろうな」
ヴィショップは静かな口調で答えた。
場に再び沈黙が流れる。これらの事実と予測は、ミヒャエルが完全に暴走していることを疑問の余地を挟むも点が無いものへと変えていた。そして薬の余韻も消え、ミヒャエルの暴走が現実として受け入れられるようになっていくに連れて、ミヒャエルと自分達の間に開いてしまった三日間をいう時間の開きがどれだけ大きなものなのかをヴィショップ達は思い知っていた。
「で、どうすんだ? こんな所でいつまでも酒飲んでていいのかァ?」
飲み干したグラスをカウンターに置いてレズノフが問いかける。彼のすぐ横にはまだ中身の残っている酒瓶があるが、それに手が伸びる気配は無い。
だが、酒をこれ以上入れるまでもなくレズノフは強烈な陶酔に精神を昂らせていた。『世界蛇の祭壇』でフランク・ウォーマッドや『パラヒリア』でハインベルツ・グノーシアと戦った時の様に。
「…今、村長に頼んで『ヤーノシーク』の動向を確認させている。向こうの状況次第によって、こっちも動きを変えていく必要があるからな」
レズノフに返事を返しながら、ヴィショップは新たな不安が胸を過ぎるのを感じた。ヴィショップにとってミヒャエルはまだ充分利用価値のある存在であり失う訳にはいかない。だが目の前の大男は、どうやらその限りではないようだった。
「やはり、あの男はブルゾイを狙うと思うか?」
「まだ狙っている段階なら良いんだけどな…」
問い掛けてきたヤハドにヴィショップは返事を返す。
まだ失踪事件の本質が見えていない以上、ブルゾイにはまだ生きていてもらわなければならなかった。そうでなくとも、ミヒャエルが彼を狙っている可能性が非常に高い以上、囮としての利用価値も高い。
だが、三日という時間の隔たりを考えるにブルゾイが未だ生きている可能性は絶望的としかいいようのないものだった。
「ヴィ、ヴィショップさん!」
大きな音を立てて酒場の扉が開かれ、額に汗を浮かべた村長が慌てた様子で駆け込んでくる。ヴィショップは立ち上がるとヤハドの手から水の入ったグラスをひったくって、村長の許へと駆け寄った。
「向こうは何と?」
ヤハドからひったくったグラスを村長に渡しつつ、ヴィショップは『ヴァライサール』との連絡の内容を尋ねる。村長は受け取ったグラスを口元へ運んで何とか最低限の冷静さを取り戻すと、『ヴァライサール』からの返事をヴィショップに告げた。
「『ヤーノシーク』が何者かに襲われたそうです。ギルドメンバーは全員が殺され、リーダーであるブルゾイさんの姿はどこにも無いと…」
「…! 分かりました。貴方が神導具で話した相手は誰でしたか?」
「町長のセグ・ロイシュさんで…」
そこまで聞いたところで、ヴィショップはヤハドの名を呼んだ。ヤハドは腰を下ろしていた机の上から下りると、椅子に立てかけていた弓を手にヴィショップに近づく。
「『ヴァライサール』に向かえばいいのか」
「そうだ。それで町長から今回の件の真相を聞き出せ。あの男が一枚噛んでいるのは間違いないだろうが、主導権を握っていたのはブルゾイの方だろう。そのブルゾイが消えた今、奴はかなりテンパってる筈だ。少し脅せば簡単に喋り出すだろう」
「分かった。お前達は?」
「俺とヤハドはシューレとかいう女の家だ。あの野郎が向かうとしたらそこぐらいだろうからな」
ヤハドはヴィショップの返事を聞くと一度頷いてから酒場を出て行った。ヤハドが立ち去ったのを見届けるとヴィショップはレズノフの方に顔を向け、顎をしゃくってついてくるように指示する。ヤハドは口角を吊り上げて鋭く尖った犬歯を剥き出しにた笑みを浮かべると、座っていたカウンターから降りて酒場の扉へと向かうヴィショップの後に続いた。
「あ、あの、ヴィショップさん! 一体何が起こっているんですか!? それにさっきの今回の件いうのは一体…」
ヴィショップが扉に手を掛けたところで、今まで困惑してヴィショップ達の会話を聞いているだけだった村長が彼を呼び止める。ヴィショップは扉を開こうとしていた手の動きを止めると村長の方に顔を向ける。
「万が一私達が帰ってこなかったら『クルーガ』に人をやって……そうですね、騎士団の一つでもまるごと投入するように言ってください。私の名前を出せば何とかなる筈です」
ヴィショップはそう言うと、扉を開いて外に出た。酒場の外にはヴィショップ達によって追い出された面々に加え、騒ぎを聞き入れてやってきた村人達が集まってヴィショップとレズノフに好奇の眼差しを向けていた。
ヴィショップは彼等を見渡すと、シューレの家のある森のある方向に向かって歩き出す。酒場を囲むように集まっていた村人達はヴィショップとレズノフが近づいてくると、無言で横に動いて二人に道を譲った。
「レズノフ」
「何だよ、ジイサン」
モーセの葦の海の軌跡よろしく二つに分かれた人混みの中を進む最中、ヴィショップは振り向かずにレズノフの名を呼ぶ。レズノフから返ってきた返事には抑えきれずに漏れだした笑い声が混じっていた。
「殺すなよ。奴にはまだ利用価値がある」
「殺さずに済ませられれば、なァ」
レズノフが短い返事を返す。ヴィショップは何か言おうと口を開きかけたが、途中でこれ以上言葉を重ねても無意味だと悟ると、何も告げずに黙って歩を進めた。
「ここか…」
酒場を出て歩き始めてから約一時間後、ヴィショップとレズノフの二人は『フレハライヤ』近郊の森の中にひっそりと建てられたシューレの邸宅に辿り着いていた。
「人が居る気配はしねぇなァ…」
レズノフがぽつりと呟く。二人の眼前にあるシューレの邸宅からは生活音の一つも聞こえてこず、木々の合間から差し込む糸の様な日の光を受けながら静かに佇んでいた。
「人の気配のしない森の中の屋敷、か。まるでオカルトホラーだな」
ヴィショップは軽口を叩きつつ腰のホルスターから白銀に輝く魔弓を引き抜く。隣に立っているレズノフも腰からぶら下げている手斧を右手に握り、二人は玄関に向かって慎重な歩調で進み始めた。
「野郎はもう来てると思うか?」
「それを今から確かめるのさ」
玄関の扉の前まで来たヴィショップはレズノフと短いやり取りを交わすと、扉を蹴破って中に入った。
家の中に入っても相変わらず人の居る気配は感じられなかった。扉を蹴破ったにも関わらず文句家の中からは誰の声聞こえてこない。ただヴィショップが扉を蹴破った際の派手な音が木霊しただけである。
「俺が先に進む。後ろに気を配れ」
「あいよ」
魔弓を手にヴィショップは、過敏の一つも置かれていない殺風景な廊下を歩く。その後ろをレズノフが二歩程間を空けてついて来ていた。
「ッ! クソッ…!」
廊下の終点までやってきたヴィショップは廊下と部屋とを隔てている扉を魔弓で押して開く。かなり年季の入った作りらしく、甲高い悲鳴の様な軋みが不気味な静けさを引き裂いて響き渡った。
そして扉を開いた先の光景を見た瞬間、ヴィショップの口から悪態が飛び出した。
扉を抜けた先は居間になっていた。本来ならば部屋の中心には食卓として使われている大きな丸テーブルといくつかの椅子が置かれている筈なのだが、それは今は部屋の隅に追いやられていた。
そしてそういったものの代わりに、衣服を全て剥ぎ取られ、全身を自らの血で真っ赤に染めた状態で椅子に座らせられたブルゾイが部屋の中心に置かれていた。
ヴィショップは急いでブルゾイに駆け寄ると首筋に指を当てて脈を測る。しかし脈を測るまでも無く、指を伝わって感じ得たブルゾイの身体の冷たさが既に彼が死人であることを物語っていた。
「どうだァ、ジイサン?」
「死んでる。どうやら遅かったみたいだな」
後に続いて部屋に入ってきたレズノフがブルゾイの様子を訊ねる。ヴィショップはブルゾイの首筋から指を離して、レズノフの問いに答えた。
「次はどうするゥ? 二手に分かれて家探し…あん?」
「どうした?」
レズノフの質問に答えたヴィショップは血塗れのブルゾイの死体を眺めながら、無精髭を擦りながら次に取るべき行動を考えていたが、後ろから掛けられていたレズノフの声が不意に途切れたことで、背後を振り返った。
振り返るとレズノフは天井を見上げていた。それに倣ってヴィショップが天井を見上げると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
「GO HOME…!?」
見上げた先には、天井を覆い尽くす勢いの大きさの深紅の六文字のアルファベットが描かれていた。
ヴィショップもレズノフもそのアルファベットを見た瞬間に理解していた。天井に描かれたこの文字が、目の前で椅子に座って死んでいる男の血を使って描いたものであることを。
「…野郎の仕業かァ?」
「アルファベットだぞ。あいつ以外に誰がいる」
天井に描かれたGO HOMEの文字。それを見つめながら二人は言葉を交わす。既にそれ以上見たところで、何か発見がある訳ではないと分かっていても、二人は中々天井から視線を引きはがすことが出来なかった。
「ヒャハッ、ヒハハッ、凄ェなァ、オイ。アイツ、相当にキレてやがるぜ」
「……みたいだな」
天井を見上げたままレズノフが不気味な笑い声を上げる。ヴィショップは視線をようやく天井からブルゾイの死体へと戻すと、心を奪われたかのように天井に見入っているレズノフを放っておいてブルゾイの死体へと再び近寄った。
「こいつの死体を調べたら他の部屋を調べる。それまでにトリップ状態から戻ってこいよ」
椅子から下ろそうとブルゾイの肩に手を掛けながらヴィショップはレズノフに話しかけるが、返事あ返ってこない。これならヤハドの方を連れてくるべきだったか、と己の判断を後悔しつつヴィショップはブルゾイを椅子から引きずり下ろした。
その時だった。不意にヴィショップの耳に歌声の様なものが聞こえてきたのは。
『…ぁ……ぇに………れ……ぃ………か』
(何だ…この歌は…ッく!)
頭の中で男とも女ともつかない声で歌いあげられる、歌詞はおろかメロディーすらはっきりとしない歌声。不意に聞こえてきたその歌声に驚く間もなく、ヴィショップは視界にぼんやりとした霧のようなものがかかっていくのを感じた。
(霧……いや、違う……霧なんぞ出ちゃいない……クソッ、あの野郎にまた嵌められたか…!)
霧が出ているなら本来感じるべき肌寒さを一切感じなかったことが、実際に霧など出ていないことをヴィショップが見抜く決め手となった。
しかし視界を覆う白い靄が霧ではなく幻覚の類であることに気付いている間にも、それはどんどんと広がってヴィショップの視界を覆っていく。そればかりか意識の方まで段々と薄くなり始めており、手を打つのに残された時間は殆ど無さそうだった。
『えに……れい……かえ……え』
(クソッ…何なんだこの歌は…! どんどんとデカく…ッ!)
視界が白く染まり意識が遠退いて行くにつれて頭の中で鳴り響く歌声も段々と大きさを増していく。
ヴィショップはがんがんと脳内で鳴り響く歌声を歯を食いしばって耐えながら視線をレズノフへと向ける。
レズノフは床に片膝を突いて、右手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く片目は大きく見開かれており、口元は歯を剥き出しにしてきつく食いしばられていた。身体が大きい方が効きやすいのか、それとも単にレズノフの体質的なものなのかは定かではないが、罠として仕込んだ薬はどうやらレズノフの精神を大分蝕んでいるようであった。
(チッ…! 迷っている暇は無いか…!)
ヴィショップ達四人の中では最も高い実力を持つといっても過言ではないレズノフが、立ち上がることすら出来ずに膝を屈しているという光景がヴィショップの中にあった逡巡を吹き飛ばした。
ヴィショップは覚悟を決めると、右手に持っている魔弓を自身の右の太腿に押し当てる。そして小さく息を吐き出してから引き金に掛けた指に力を込めた。
「ッ! ぐおおおおおっ…!」
轟音が室内に木霊すると同時に、痛みの激流が脳髄を駆け巡る。一応覚悟は決めていたものの、まともに働いていない頭で決めた覚悟など当てに出来るものではなく、ヴィショップの口からは叫び声が漏れた。
だがそうするだけの価値はあった。白銀の魔弓がもたらした激痛は、見事に薄れかけていたヴィショップの意識を呼び戻し、視界を覆う白い靄と頭の中で鳴り響く謎の歌声を吹き飛ばしていた。
「…はぁ…はぁ…くそっ……あの野郎、次会ったら鼻をへし折ってやる」
床に座り込んだヴィショップは荒い息遣いでミヒャエルに対して悪態を吐くと、自身の太腿に空いた風穴に視線を向ける。
長年の経験の賜物とでもいうべきか、意識を手放しかけていた状況にあってもきちんと骨を撃ち抜くことがないようにヴィショップは魔力弾を撃ち込んでいた。だが例えそうだったとしても出血は酷い上に筋肉も傷ついており、当分の間は満足に走ったりするのは不可能だった。
ヴィショップは魔弓を置き、外套の袖を無理矢理引き千切ると、太腿の傷口より少し上の部分できつく結んで止血する。結ぶ際に痛みが奔ったが、今度は意識が思案へと傾いていた為に声を上げることはなかった。
(歌…歌…何だ、どこかでこんな話を聞いた気がするな…)
正体の付かないデジャブを抱えながら、ヴィショップは魔弓を手にしてゆっくりと片脚で立ち上がる。そして肩なり太腿なりでも撃ち抜いてレズノフも正気に戻してやろうと振り向いた瞬間、ヴィショップの身体の動きがぴたりと止まった。
「レズ…ノフ…? お前、大丈夫か?」
言葉とは裏腹にヴィショップの口から出た言葉にレズノフを心配しているような様子は全く無かった。むしろ彼の発した声に籠っていたのは、明らかな警戒の色だった。
だが、そんな彼を責めることが出来る人間は恐らくいないだろう。
「…える…家に…かえる…い…えに…」
焦点の定まっていない目で虚空を睨みつけながら、ぶつぶつと同じ文句を繰り返してるレズノフの姿を、ヴィショップは見ていたのだから。
太腿の痛みもミヒャエルに対する苛立ちも、ヴィショップの心中からすっと引いていった。今ヴィショップが抱いているものは、全く異質の存在に変貌してしまったレズノフに対する、驚愕と警戒のみだった。
ヴィショップはぶつぶつと呟きながら何も無い空間を見つめているレズノフを静かに睨みつける。つい数秒前と比べて全くの別人と化してしまった今のレズノフからは、ヴィショップは何も感じとることが出来なかった。果たして今の彼が味方なのか、それとも敵なのかすら。
(…取り敢えず、一発ブチ込んでみるか)
暫くの間レズノフの姿を眺めていたヴィショップだったが、一先ず自分と同じ方法で戻るかどうかを確かめてみることに決めた。取り敢えず念のためレズノフの視界から外れることにヴィショップは決めると、じくじくと痛み右脚を引きずってレズノフの背後に回る。
ヴィショップが歩く軌道に合わせて、右脚から流れ出た血が床に道を描く。ヴィショップはレズノフの背後に周りながらも、依然として動く気配を見せずにぶつぶつと呟いているレズノフから視線を逸らさずにその様子を観察していた。
(にしても……何で阿呆みたいに、GO HOMEを繰り返してやが…!?)
延々と止む気配の無いレズノフの呟きにヴィショップの意識が傾いた時、彼が抱き続けていたデジャブの正体が氷解した。
(そうだ、あの町長から借りた本に載っていた記事…こいつはまるで…!)
ミヒャエルの仕込んだ物がよりにもよって、考え得る最悪の存在であったことにヴィショップは気付く。その衝撃は無意識の内に彼の歩みを止め、レズノフに対する注意を忘れさせる程であった。
(となれば、この呟いている内容が奴が行おうとしている行為の内容か…!? だとしたら…)
真相に行き当たると当時に目まぐるしく動いていたヴィショップの思考が、強烈な視線を受けてその働きを止める。知らず知らずの内にレズノフから逸らしていた視線を戻した時、ヴィショップの方に向き直ってじっと彼のことを見つめているレズノフと視線が交錯した。
レズノフの視線を受けて、ヴィショップはようやく気付いた。今自分が、レズノフと外へと通じるこの部屋の扉の丁度間に立っていることに。




