届かぬ祈り
「へぇ、シューレさんが…」
得意気にグレイが指に填めている指輪をミヒャエルに見せる。
吸い込まれそうな美しさを持つ琥珀の指輪は、女のように白いグレイの肌と絶妙なコントラストを描き出していた。ミヒャエルは思わず指輪に触れようと手をグレイの手に伸ばす。
「おっと」
「……何で触らせてくれないんですか?」
ミヒャエルの手が伸びてきていることに気付いたグレイは素早く手を引いてしまう。ミヒャエルは半目でグレイの顔を睨んで手を引っ込めた理由を訊ねるが、グレイは悪びれた様子もなくニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「これは母さんから貰った大切なものだからなぁ~。そう簡単には触らせられないなぁ~」
「子供の時からたかりなんて覚えてると碌な大人になりませんよ。きっと行く末は乞食か男娼ですね」
わざとらしい口調で呟くグレイを、ミヒャエルは呆れた様な目付きで見る。一方でグレイはミヒャエルの発した言葉の意味が分からなかったらしく、不思議そうな表情を浮かべていた。
「男娼? 男娼って何だ?」
「いいですよ、知らないんなら知らなくて。大人になればその内知りますから」
「だ、か、ら、俺を子供扱いするな! 俺はもう大人だ!」
子供扱いされていることが気に食わないグレイが右の人差し指を突き付ける。だが、いくら彼が自分では子供でないち主張しようと彼は子供だった。何故ならば、グレイがミヒャエルへと突き付けた指には彼が母親から貰った琥珀の指輪が填められていたのだから。
「でも、男娼は知らないんでしょ…っと」
「それは…って、あぁっ、お前!」
ミヒャエルは一瞬の隙を突いてグレイの指に填められていた指輪を抜き取る。指輪はどうやらグレイにはサイズが大きすぎたらしく、抵抗なく抜き取ることが出来た。
一瞬遅れて指輪を盗られたことに気付いたグレイは指輪を取り返そうとミヒャエルに飛びかかる。ミヒャエルは飛びかかってきたグレイを身体を横に反らして躱す。そしてベッドに突っ込んだグレイが身体を起こす前にベッドの上で立ち上がった。
「うーん、見れば見る程見事な琥珀ですね。大きさといい形といい、実に申し分ない」
「おい、返せよ! それは俺のだぞ!」
窓から差し込む光に当ててみながら、ミヒャエルは琥珀の輝きに見入る。その周囲では、指輪を盗られてしまったグレイがミヒャエルと同じようにベッドの上に立って何とか取り返そうともがいていた。しかしミヒャエルは決して身長がある方ではないとはいえ、グレイはまだ子供に過ぎず彼の指先がミヒャエルの手にしている琥珀の指輪に届くことはない。
「返せよ…っ! 返せって言ってんだろぉ…!」
それが悔しくて堪らないのか、段々とグレイの声から最初程の力強さが抜けていく。それで流石に不味いと悟ったミヒャエルは苦笑を浮かべて手にしていた指輪をグレイに返した。
「あー、分かった、分かりました。返しますから泣かないで…」
「泣いてなんかない!」
ミヒャエルの言葉が終わるのを待たずにグレイは差し出された指輪をひったくるようにして取ると、ミヒャエルに背を向けてまるで指輪をミヒャエルから守るようにして指に填め直す。
(全く、男の子っていうのが信じられませんね)
茶色の髪の毛先を揺らしながら指輪を填めるグレイの後ろ姿を見て、ミヒャエルは心中で呟く。彼の脳裏にはグレイに指輪を返す瞬間に垣間見えた、薄らと目に涙を浮かべたグレイの顔が浮かんでいた。その時のグレイの顔は普段の腕白な要素が抜け落ちていた為、元々見方によっては女に見える程に中性的だった顔がますます女の顔らしくなっており、一瞬実は女なんじゃないかという馬鹿げた考えが頭を過ぎる程だった。
(まぁ、それ程大切な代物ってことですか…)
それと同時にグレイのシューレへの愛情を買垣間見た気がして、ミヒャエルの口元が綻ぶ。最初に出会った時にミヒャエルに嫉妬に近い感情を向けていたことから、グレイがシューレに深い愛情を抱いているのは知っていたが、それでも流石に指輪を盗られて泣く程だとはミヒャエルも思ってはいなかった。
(でも子供ですし…それに、グレイ君はどうやらシューレさん以外の人とまともに付き合ったことはないみたいですから、当然と言えば当然かもしれませんね)
「見ろ! 泣いてなんかないだろ!」
ミヒャエルがそんなことを考えている内に、指輪を填め終わったグレイがミヒャエルの方に向き直っていた。どうやら指輪を填めるついでに涙を拭ったらしく、確かに涙は目元に残っていない。ただ涙の痕はきっちりと残っていたが。
顔の残る涙の痕を見たミヒャエルは一瞬そのことを指摘しようかとも思ったが、また泣き出すようなことになっても困るので、適当に返事を返す程度にとどめておくことにした。
「あー…そうですね」
「何だ、その気の無い返事は」
「何でもないですよ。それより、お腹減ったんでシューレさんの手料理を下さい。指輪に気を取られてすっかり忘れてましたよ」
ミヒャエルはグレイが持ってきて今は脇の近くのテーブルに放置されている盆指差して、彼にそれを持ってくるように促す。
ミヒャエルの言葉で思い出したのか、グレイが視線を机の上に置いた盆の方へと向ける。盆の上に乗っている椀は最後に見た時は湯気が上がっていたのだが、今見て見ると上がっている湯気の量は明らかに減っていた。湯気が減っていることを確認したミヒャエルは、シューレが作ってくれた料理を冷ましてしまったことを本気で後悔しながら、ベッドの縁に腰かけてグレイが盆を運んできてくれるのを待った。
「……」
「ちょっと、何やってるんですか。これ以上シューレさんの手料理が冷めたらどうする気なんですか」
だがグレイは全く動こうとしない。ミヒャエルはもう一度声をかけて急かしてみたが、それでも盆を取りに動かないばかりか机から視線を逸らしてしまった。
「…じゃあいいですよ、もう自分で取りますから…」
グレイに取ってきてもらうのを仕方なく諦め、ミヒャエルはベッドから立ち上がる。しかしミヒャエルが立ち上がると、今まで動こうとしなかったグレイは慌てた様子で盆を向かってに走り出した。
それをミヒャエルは最初、ようやくグレイが料理を運んできてくれる気になったのだと考えて、ベッドの上に腰を下ろした。だがそれは間違いだった。グレイは机に置いてある盆を手に取ったはいいものの、ミヒャエルの方には行かず部屋の出口の方へと向かっていったのだ。
「ちょっ……あぁ、そういうことですか…。何が望みなんです?」
慌てて引き留めようとしたミヒャエルだったが、グレイが部屋の出口の目の前で歩みを止めたのを見て全てを悟った。彼は溜息を吐いて頭を抱えると、盆を持って赤みがかった顔を向けているグレイに問いかける。
「とりあえず、俺に謝れ」
「分かりました、ごめんなさい。これでいいですか?」
グレイに言われた通りミヒャエルは謝る。しかしグレイはそれでは満足出来ないらしく、首を左右に振った。
「それじゃ駄目だ」
「じゃあ、どうしろっていうんですか?」
「自分の何が悪かったのか、誰に対して悪いことをしたのか、ちゃんと言わないと謝ったことになるかよ」
「シューレさんにはいつもそう言われてるんですか?」
「母さんは関係ないだろ! いいからちゃんと謝れよ! お粥食わせてやんないぞ!」
グレイが感情を露わにする度に彼の手の中でガチャガチャと音を立てて椀が揺れる。いつか零してしまうのではないかとひやひやしながらそれを見ていたミヒャエルは、これ以上グレイをからかうのを止めて頭を下げた。
「えー、グレイさんがシューレさんから貰った大切な指輪を盗ってしまって、本当にすいませんでした」
「…よし、いいだろう」
ミヒャエルがベッドの上で手をついて頭を下げる。それを見て溜飲が下がったのか、グレイはひとまず満足そうな笑みを浮かべて盆をミヒャエルの手元まで運んできた。
「ほら、しょうがな……」
そしてグレイは盆をミヒャエルに突き出そうとしたのだが、グレイが近くに来た途端にミヒャエルの上半身が勢いよく起き上がり、気付いた時には盆の上に置かれていた椀を木で作ったスプーンを掠め取っていた。
「あぁ、やっぱり冷めてる…。畜生、シューレさんの出来たての手料理が食べられると思ったのに…」
「別に前の食事も出来たてだっただろ」
温くなった椀を両手で手にしつつ嘆くミヒャエルの姿を見て、グレイが呆れた様子で指摘する。するとミヒャエルは、何も分かっていないとでも言いたげな顔をグレイに向けた。
「何言ってるんですか、さっきのとこの料理は全然別物でしょうが」
「いや、そうだけどどっちも母さんの…」
「な、に、よ、り! これはシューレさんが僕を心配して作ってくれた料理なんですよ!? それを冷ましてしまうなんて…ああっ、本当に申し訳ありません、シューレさん!」
「あ、あぁ、そうか…」
つい先程のグレイに向けたものとは明らかに段違いの熱情を込めて椀に頭を下げているミヒャエルの姿を見て、グレイの顔にぎこちない笑みが浮かぶ。
しかし当の本人はそんなことは全く気にせず三秒程頭を下げ続けると、ゆっくりと頭を上げて椀に盛られた粥を口に運び始めた。
「う、美味いか?」
「えぇ、もちろんです…」
ミヒャエルの返事とは裏腹に、彼の態度にはどこか元気がない。グレイの知っているミヒャエルならば、シューレの料理を食べてればいつも口喧しく賛辞の言葉を吐き続けるのに、今の彼は黙々とスプーンで掬った粥を口に運んでいた。
「何か、元気ないな。もしかして、ここに来る前にもらってきた毒のせいか?」
「いえ、違います。そっちの方はシューレさんの完璧な処置のおかげで何ともありません」
前回の食事の時と違うミヒャエルの姿を見て怪訝に思っていたグレイだったが、ミヒャエルが毒草で肌を切った為にここにやってきたことを思い出して、何か異常が出ていないかとミヒャエルの顔を覗きこむ。しかし彼の顔には毒の症状らしきものは出ておらず、ミヒャエル自身その可能性を否定した。
「じゃあ、どうしたんだよ?」
「いや、このお粥がとてもおいしいんですよ…」
「はぁ? そりゃ結構だけど、なら何で元気無いんだよ?」
ミヒャエルの返事に合点がいかずグレイは首を捻る。ミヒャエルはスプーンを動かすのを止め、既に半分ほど平らげている椀の中の粥を見つめながら答えた。
「これが冷めてなかったら、これ以上においしかったことを思うと、ひたすらに残念でならないんですよ…」
「……あぁ、そうですか」
最早何と答えたらいいのか分からず、思わずグレイの口から敬語が飛び出してくる。そして溜息を吐いたところで、ミヒャエルに出していた交換条件のことを思い出した。
「そうだ、飯持ってきてやったんだから、旅の話聞かせてくれよ」
「持ってきたって……グレイのおかげで冷めちゃったんですから、それでチャラでしょう」
「それは、お前が俺の指輪を盗ったからだろ。全然チャラになってない」
「あっ、そういえばその指輪で聞きたいことがあったんですよ」
さも今思いついたかのような口調でミヒャエルが話題を変えようとする。だが、その言葉を吐く直前まで面倒臭そうな表情を浮かべて粥を食べていたこともあってか、流石のグレイもミヒャエルの思惑を直ちに察した。
「そうやって話を…」
「その指輪、シューレさんがグレイに上げた宝物って言ってましたけど、いつくれたんです? 確かこの前会った時は付けてなかったと思いますけど」
「…おい。せめて、最後まで話させろよ」
ただし、気付いたところでそれを阻止できるとは限らないのだが。
「えー、いいじゃないですか。このことについて教えて貰ったら、ちゃんと話してあげますから」
「本当だな?」
「本当本当」
粥を呑み込みつつ適当にミヒャエルは返事を返す。グレイはそんな彼に胡散臭そうな視線を向けていたが、その質問に答えない限りミヒャエルが自分の要求に答える気が本気でなさそうだったので、渋々と言った様子でミヒャエルの質問に答えることにした。
「仕方ないな…。結構昔だよ。俺がまだガキだった頃の誕生日にくれたんだ。自分の一番大切な人に渡すものだ、って言って。確か、四歳五歳ぐらいの時だった筈だ」
「ガキだったって……今だって充分グレイ君は子供じゃないですか」
「俺はもう大人だっ! ていうか、さっきまで君付けしてなかった癖に何で今になってまた付けだした!?」
ミヒャエルのからかいに律儀に全力の反応を示して見せるグレイ。ミヒャエルは苦笑を浮かべて彼を宥めると、空になった椀の中にスプーンを入れて床にそっと置いた。
「で?」
「で? って何だよ?」
「ほら、前に会った時は付けてなかったじゃないですか」
「あの時は机の中にしまってあったんだよ。大切なものだからな。失くしたりでもしたら大変だし、いつも付けてる訳じゃないんだ」
当然のことを聞くなとでも言いたげにグレイは答える。グレイぐらいの年齢の子供なら、大切な物程片時も離さず持ち歩き、その結果壊してしまったり失くしてしまったりすることの方が多いだけに、ミヒャエルは素直にグレイに関心していた。
「へぇ、偉いですねぇ。僕がグレイさんぐらいの時なんて、人形だったり何だったりしょっちゅう失くしてましたけど」
「ふん、お前と一緒にするなよ」
どうやら褒められたのが嬉しかったらしく、グレイの返事は心なしか誇らしげだった。ただ当人はそれを認めたくはないようで言葉自体はそっけないものだったが。
「じゃあ、どうしてそんな大切な物を今日は填めてきたんですか?」
「どうしてって、そりゃあ……!」
答えかけたところで、満更でもなさそうだったグレイの表情が固まる。かと思えば見る見る内に頬に赤みが差していき、ふるふると小刻みに震えだした。
「何ですか? そこまで行ったんならとっとと答えて下さいよ」
ミヒャエルから顔を背けたまま動かず、言葉すら発しようとしないグレイの姿を訝しく思いながら、ミヒャエルは続きを離すように促す。しかしそれでもグレイは口を開こうとはしなかった。
どうしていきなりこんなことになったのか分からず、ミヒャエルは首を傾げる。そして一向に何の反応も示さないグレイに向かって左手を伸ばしたその時だった。
「何となく! 何となく、今日はそんな気分だったんだよ!」
「痛ッ!」
グレイが肩に触れようとしたミヒャエルの手を払い除け、紅潮した顔のまま殆ど怒鳴るようにして早口にミヒャエルに告げる。
「それだけだ! 他には何の理由もない!」
「は、はぁ、そうですか…」
まくしたてるグレイに、叩かれた手を擦りながらミヒャエルは怪訝そうな表情を向ける。グレイはその後も何事かを言おうとしたが、しまいには諦めてミヒャエルに交換条件である旅の話をするように詰め寄った。
「とにかく、お前の言う通り指輪のことは話したんだ! 今度はお前が俺に旅の話をする番だ!」
「そんなに怒鳴らなくても、ちゃんと話して上げますよ…」
ミヒャエルは仕方なさそうに返事を返す。その裏腹、彼の脳裏では前日にヴィショップに言われた言葉が想起されていた。
(ヴィショップさんに言われていたこともありますし、グレイ君に話してあげたら切り出してみるとしますかね…)
「よしっ! じゃあ、前回の続きから話せよな!」
「えっと、前回ってどこまで話したんでしたっけ?」
「ったく、ちゃんと憶えてろよ。デカいムカデの化け物を倒した後、裏切って襲い掛かってきた二人組をお前が魔導魔法とかいうのでやっつけたとこだろ?」
「あぁ、そういえばそうでしたね…」
前回会った時にグレイにヴァヘドにおけるミヒャエルの旅――若干の脚色を加えた――を話したときのことを思い出して、ミヒャエルは心中で溜息を吐く。前回は『世界蛇の祭壇』でバウンモルコスとウォーマッド兄弟を倒した辺りまでを話して聞かせたのだが、グレイ自身の好奇心の強さに加えて、彼が殆どこの森の外において常識として認知されていることを知らなかった為、何度も話は脇道に逸れて単純に思い出話を聞かせてやる以上の労力を費やす破目になってしまっていた。
今回もまたそのような感じになるかと思うと、話し始める前からミヒャエルは億劫にならずにはいられなかった。その為、今回は適当にキリの良いところまでで終わらせよう、と心に決めてからミヒャエルは話を始めた。
「じゃあ今回は、僕とレズノフさんでロブスターの化け物と戦った時の話をしてあげますよ」
「レズノフってあいつか。お前が脳味噌まで筋肉で出来てる、ひ、ひん…ひんせいげれつ、な奴か」
「そうそう、その人です」
ミヒャエルは『パラヒリア』に赴き、そこで出会ったルイス達とランドシザースを狩った時のことを話した。そこいらで話を止めるのが時間的には丁度良いとミヒャエルが判断したのもあるし、どのみちそれ以上は到底話すことの出来ない内容になってくる。
話を始める前に抱いていたミヒャエルの予感は的中した。『パラヒリア』のこと、ランドシザースのこと、ルイスが使った拳法の事など、燃え盛る好奇心の炎に突き動かされてグレイはことあるごとに質問を繰り返した。ミヒャエルはその質問に面倒臭がりながらもちゃんと答えてやり、その結果ランドシザースの話が終わったのは二時間以上が経ってからのことで、時折楽しげに話す息子の様子を見にシューレが顔を出すことすらある程だった。
「みたいな感じで、頭に血が上って加減を忘れてしまったレズノフさんを、僕が魔法で華麗に止めたって訳です」
「へぇー、お前、やっぱり見た目に似合わず強いんだな!」
ミヒャエルの話を微塵も疑うことなく、グレイはキラキラと目を輝かせている。ちなみにミヒャエル曰く、ランドシザースを倒したのは自身の魔法とのことらしい。
「見た目にって下りが余計ですけど、まぁいいでしょう。取り敢えず、この話はここまでです」
「えぇー! 別にもっと話してくれてもいいだろ。夕飯も家で食べることになったんだし」
夕食の話が出てきたのは、少し前にミヒャエルの怪我の様子を確かめにシューレが顔を出した時のことだった。その時にグレイがミヒャエルに夕食を食べていくように言って一歩も退かなかった為、今日の夕食もシューレの下で馳走になることになった。
「別に話さないとは言ってませんよ。その代り、一つ交換条件があります」
「粥を…」
「それは今の話しでチャラですよ、当たり前でしょう」
「……ちぇっ。仕方ないな、何が望みなんだよ」
ミヒャエルに諭され、グレイは嫌々といった様子でミヒャエルの望みを訊ねる。
ミヒャエルは指でグレイに顔を近づけるように告げる。その指示通りにグレイが顔を近づけてくると、息が軽く掛かる程度に口をグレイの耳に近づけて囁いた。
「実はですね、シューレさんには内緒で一つ教えてもらいたいことがあるんです」
「母さんに内緒で?」
グレイの顔に怪訝そうな表情が浮かぶ、だがミヒャエルはそれを無視して言葉を続けた。
「実はですね、僕今探している薬があるんです。それは、魔獣を意のままに操れちゃうっていう薬なんですけど、心当たりありません?」
「魔獣を操る……それなら俺知ってるぜ」
数秒程記憶の中を浚うとグレイはそう返事を返した。
ミヒャエルの動悸が微かに激しくなる。ミヒャエルは思わず声を上げそうになるのを抑えて続きを話す。
「あるんですね?」
「あぁ。前、母さんに見せてもらった本の中に載ってたと思う。その本には、ヴィレロ家の作ってきた薬が全部載ってるんだぜ!」
得意気に笑みを浮かべてグレイが告げる。しかし今のミヒャエルにはそれに一々構っているだけの余裕は無かった。
「なら、人間を操る薬はどうです? それも、子供とか…」
それは四人の誰もが口にはしていなかったが、同時に四人全員の脳裏を一度は過ぎっていた可能性だった。
消えた九人の子供達の内、最初を除いて全員が家で眠りについた後に姿を消している。しかし窓等には無理矢理こじ開けられたような跡はなく、ただ玄関の鍵だけが開いていた。このような状況になった時、真っ先に考えられる可能性はヤハドが村長との会話の時に漏らしたように、子供自身が自分で鍵を開けて出て行ったという可能性である。しかし、問題はそのようなことをする動機だった。一体何故、何の目的があって自分から姿を消したのか。それが分からない以上、この考えは永遠に可能性の域を出ない。
だが、もし子供が自分の意思で出て行ったのではないとしたら。もし誰かに洗脳のようなことをされて出て行ったのだとしたら。そしてそれを行える人間が居るとしたら、それは一体誰か。
全てが分かり切っていたことだが、ヴィショップ達はそれを口には出さなかった。何故なら、彼等は信じられなかったからだ。獣相手ならともかく、人間相手に自分の思うがままの行動をとらせるような薬物が存在する等ということを。ヴィショップ達の元々の世界にも似た様なものはあったが、あくまで似てるだけに過ぎない上に、はっきり言って信用のおける代物ではなかった。だからこそ、ヴィショップ達は相手を意のままに操るなどという効力を持った薬物がどれだけ馬鹿げたものか知っていたし、その存在を簡単に可能性の一つに入れることが出来なかった。
だが、その馬鹿げた可能性こそが、最も高い可能性でもあった。
ミヒャエルは質問を言い終えると、グレイの顔を見つめて静かに答えを待った。心の中で、グレイが首を横に振って知らないといってくれることを祈りながら。ミヒャエルはグレイが答えを返すまでの数瞬の間に何度も神の名を読んだ。何度となく祈りの言葉を唱え、幾度も懇願した。
お願いだからノーと答えてくれ、と。最悪の可能性を現実にしないでくれ、と。
「子供…っていうのは無いけど」
だが
「でも、人を思いのままに操れるって奴ならあったぜ」
その祈りを聞き入れる神は存在しなかった。




