表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Bad Guys  作者: ブッチ
Kinky Love
101/146

動く状況、進む野望

「……ふむ」


 天井の隅には蜘蛛の巣が張り、床には埃が溜まった、カビ臭さが空気に馴染み切ってしまっている室内で、ミヒャエルは満足気に頷いた。

 彼が今立っているのは、『フレハライヤ』の外れにある空家の中である。ヴィショップ達が『ヴァライサール』へと向かってからレズノフとの行動を義務付けられたミヒャエルは、ヴィショップの言い付け通りレズノフが村長の家へと向かいそこで村長と話している間にそっと抜け出して、予め場所を調べておいたこの場所へと足を運んでいた。

 この空家は『フレハライヤ』とシューレの住む森を繋ぐ道の途中に立っていた。前の家主は気の弱い大工で、たまに頼まれては古くてガタの来ているシューレの家の修理を請け負ったりしていた。もっとも、かといってその大工がシューレを差別せずに接していたという訳ではない。ただ単に大工はその気の弱さ故に、シューレからの報復がくるのではないかと恐れて頼みを断れなかったに過ぎないのだ。

 だがそれでもシューレと少なからず繋がりがあったことには違いなく、村人達は大工にも白い目を向けていた。大工はそのことを気にしつつも、たまに舞い込んでくるシューレの頼みを断れないまま生活していたが、そこに例の子供の失踪事件が始まった。大工は段々とシューレに対する村人達の態度が悪化していくのを見て、それが自分にも飛び火することを恐れた。普通ならその時点でシューレとの関係を断つなりするのだろうが、どうやらこの大工の気性の弱さは筋金入りだったらしく、ある日財産を纏めて夜逃げ同然の体で逃げ出したとのことだった。それはあまりにも唐突かつひっそりと行われた為、村人達はもちろんシューレでさえも気づくのに数日を要した程だった。

 そういう事情で大工の住んでいた家には人は居なくなったのだが、かといって魔女が住まうと言われる森の間近にある家にわざわざ住み着こうとする物好きは居なかった。しかも、その魔女が行っていると噂される子供の失踪事件が起きている最中では尚更で、大工の家は取り壊されることも中に大工が残していった家具の数々の処分すらも行われないまま放置されていた。

 シューレの住む森に近く、そして誰の手にも渡らずに放置されている空家。それはまるでミヒャエルが行おうとしている計画にとって、非常に都合の良い物件だった。


「悪くないですね。家具もまんま残ってますし。後は、僕の読みが当たっていればいいんですが…」


 誰に話すでもなくぶつぶつと呟きつつ、ミヒャエルは家具を物色する。その脳裏では、この空家の存在を教えてくれた村人の話が反芻されていた。


『そういやあの大工、一つ奇妙なことがあったんだ。魔女の仕事を受けているとは言ってもこの村で一人だけの大工だし、わざわざ足元見られに他の町の大工を呼ぶのも嫌だからって、子供が消え始めるまでは結構な金を稼いでた筈なんだ。にも関わらず、あの大工が金を使って遊んでいるところを見た奴が一人もいないんだよ。服とかに金をかけているようにも見えないし、食事も大したもん食ってないようだったし』


 その話を聞いた時、ミヒャエルはある可能性を見出した。


(気弱な性格ってことは、つまりは度を過ぎた慎重ということです。それで金を使っていないということは、稼いだ金は有事の為に全部どこかに溜めていたとみて間違いない)


 ミヒャエルの考えが当たっていたとしても、既に金は逃げ出した時に全て持ち出されている筈だった。それはミヒャエルも承知していたし、そもそもミヒャエルの目的は金などではなかった。


(しかも職業は大工。とくれば、もしかしたら…)


 薄らと汗をかきつつも、普段ヴィショップ達と一緒の時にはまず見せないような集中力で辺りを物色していたミヒャエルだったが、不意に何かが外れるような音を耳にして手の動きを止めた。


「やっぱり」


 そう呟くと、ミヒャエルは口角を吊り上げる。

 この発見で全てのピースが揃った。ミヒャエルはこのような幸運に見舞われたことを感謝しながら、ゆっくりと両腕を動かした。








「おかしいな、ヤハド。俺はあの馬鹿に、下品で厚化粧の雌豚の面倒を見ておけと言った憶えは微塵も無いんだがな」

「安心しろ、米国人。俺の記憶にもそんなものは無い」


 『ヴァライサール』で昼食を済ませ、問題児二人の様子を確認する為に酒場の門を潜ったヴィショップとヤハドが見たのは、赤ん坊の頭ぐらいなら握り潰せるんじゃないかと錯覚しそうになる程に筋肉の付いた右腕で娼婦を抱きかかえ、左手で酒の入ったグラスを国旗のように高らかと掲げて笑い声を上げるレズノフの姿だった。


「キャーッ! キャーッッ! すっごーい! おにいさん、たっくましーい!」

「まだまだこっからだぜェ、子猫ちゃぁぁん? この後ベッドの上で、俺の本髄をたっぷりと体験させてやるからよォ。まずは抜かずに…」


 抱え上げた女のキスを頬に受けながら、レズノフが馬鹿みたいな声を上げる。しかしレズノフが全て言い切る前に、ヴィショップがホルスターから抜いた魔弓から上がった轟音がそれを遮った。


「きゃっ!?」


 悲鳴を上げて女が頭を抱え、店の中に居た面々の視線が恐る恐るヴィショップへと集中する。ヴィショップは白銀の魔弓を指先にひっかけてクルクルと回転させてホルスターに収めると、この場で唯一笑みを浮かべたままのレズノフに話しかけた。


「よう、レズノフ。ミヒャエルの姿が見えないようだがどうした? それともあいつ、魔法でも使って女に姿を変えたのか?」

「止めろよ、ジイサン。もし比類なきスケの姿だったとしても、あの強姦魔が元なら抱く気なんて微塵も湧かねぇよ」


 レズノフはそう返すと、取っ手だけになったグラスを床に投げ捨て、逆の手で抱えていた女を突き離すようにして床に下ろす。彼の態度には悪びれた様子は一切無く、それがヴィショップの苛立ちを呆れへと変質させた。


「てめぇもプロだろ? だったら任された仕事はキッチリこなしたらどうなんだ?」

「悪ィが、俺は変態相手の託児所で働いたことはねェんでな。そういった仕事にはあんまし慣れてねェのよ」


 ヴィショップはレズノフの隣にやってくる。近づいてきたヴィショップの姿を見た客が素早い動作で席を離れたので、ヴィショップはその席に腰を下ろした。


「まァ、その内あの変態も戻って来んだろ。それより、そっちの方はどうだったんだ?」

「端金と一つの仮説。それが今回の結果だ」


 ヴィショップと共にレズノフを挟み込むように席に着いたヤハドが、質問の答えと共に十数枚の銀貨が入った袋をカウンターの上に置いた。


「仮説っていうと?」


 袋の中身を確かめつつ、レズノフが質問する。ヤハドはこちらに視線を向けているバーテンを睨みつけて店の奥に引っ込ませてから、返事を返した。


「『ヤーノシーク』とシューレ・ヴィレロの間には繋がりがある。グルの可能性も考えられる」

「そう考えた理由は?」


 そこから先はヴィショップが話を引き取って答えた。レズノフはカウンターの奥の棚から勝手に酒を拝借して飲みつつ、ヴィショップの話に耳を傾けた。


「成る程ねェ…。となると、その真意を確かめる方法は一つしかねぇなァ」


 酒瓶を傾けつつレズノフが漏らす。ヴィショップはポケットから煙草を取り出すと、お前が言うなとでも言いたげな表情を浮かべる。


「そうだな。その為にも、あの馬鹿が今どこに居るかが知りたいもんだ」

「うしっ。んじゃあ、こいつを飲み終わったら探しに行くとしようぜ」

「そうだな。頑張れよ、ロシア人」


 ヤハドの返事を来たレズノフが首を竦めてヴィショップの方に視線を向ける。ヴィショップはわざとレズノフから顔を背けて、我関せずといった様子で紫煙を吹かし始めた。


「ん? 何だ、こんな時間に変な三人組が管巻いてると思ったら、ヴィショップさん達じゃないですか」


 ヴィショップに視線を逸らされ、仕方なさそうにレズノフが立ち上がろうとした時、酒場の扉が開いて汗で濡れた僧衣を身に纏ったミヒャエルが現れた。


「よう、強姦魔。丁度今、お前の噂をしてたとこだ」

「僕の噂ぁ? どうせろくでもないこと話してたんでしょう?」


 嬉しそうにレズノフがミヒャエルを手招きする。ミヒャエルは袖口で額の汗を拭うと、カウンターまで歩いて行ったヴィショップの隣に座った。


「……」

「何ですか? どうかしましたか?」


 席に着いたところで、ミヒャエルはヴィショップが黙ってミヒャエルに視線を向けていることに気付く。


「いや、何でもない」

「そうなんですか? 変な人ですね」


 ヴィショップは何かを言おうとしたものの、結局言葉を濁して煙を吹かす作業へと戻った。ミヒャエルはそんなヴィショップを怪訝そうに見た後、レズノフの方に顔を向ける。


「それで? 何を噂してたんです?」

「それについては、こいつから聞いた方が速いぜェ」


 レズノフはそう言ってヤハドを指差した。ヤハドはレズノフを一睨みすると、ミヒャエルに先程レズノフに話したのと同じ話をした。


「シューレさんが、その…ブルゾイとかいう人と? にわかには信じられませんけど…」

「まぁ、グルだと決めつけるにはまだ疑問がいくつか残ってる。だから、お前はお前の仕事を果たすんだ」

「つまり、本当のところは『ヤーノシーク』とシューレさんがどういう関係なのかを、僕に探ってこいと」


 ヤハドは頷いてミヒャエルの言葉を肯定する。すると黙って煙草を吸っていたヴィショップが口を開いた。


「やるなら、様子見などは止めて本腰を入れてやれ。使える時間もあまり無いかもしれないからな」

「どういうことです?」

「俺達は連中の策を一回乗り越えてる。今日の話で俺達が諦めていないことも向こうは理解しただろう。今日の連中の反応から見てもそろそろ俺等の事が本気で煩わしく思えてきているだろうし、次は魔獣なんぞに頼らずに自分の手を汚すのすら躊躇わずに潰しにかかってくるかもしれない」


 ヴィショップがそう答えると、レズノフが嘲るように笑った。


「何だよ、俺達が連中にみすみす皆殺しされるってか?」

「証拠も何も挙げられないまま、黒幕臭いのを皆殺しにして解決なんていう、締まらない終わり方にならないか危惧してるだけだ」


 レズノフの言葉を鼻で笑ってヴィショップはレズノフに手を向ける。レズノフは向けられたヴィショップの手に向かって持っていた酒瓶を放り、それをキャッチしたヴィショップは煙草を口元から離した。


「という訳だ。今迄みたいに甘い時間を堪能している余裕はもう無い。分かったな、ミヒャエル?」

「そんな念を押さなくても分かってますよ。それに元々シューレさんの全てを知る瞬間は、もう近づいてきていましたし」

「分かってるとは思うが、面倒は…」

「起こすなでしょ? 大丈夫です、ちゃんと承知してますよ」


 ヴィショップの言葉を遮って言い返すミヒャエルの姿は、まるで親の小言を煙たがる子供のようだった。そして親の発した小言が基本的に子供にきちんと届くことはないように、このヴィショップの言葉がミヒャエルに本当の意味で届いていないのは明らかだった。


「もし面倒を起こしたら、タマを吹っ飛ばしてやるからな」


 だがそうと分かっていても、ヴィショップに出来るのは精々が意味の無い脅し文句を発することだけだった。

 所詮、ヴィショップの持っているミヒャエルの知識など微々たるものでしかない。分かっているだけで四十八人の女性を責め殺したシリアルキラーであり、ヴィショップと同じく方の裁きの下に死を迎えることになった男。それがヴィショップの知る全てである。ミヒャエルが一体どのような思想の下に女性を殺すのかも、どのようにして殺すのかもヴィショップは知ってはいない。故に、彼はどのようにすればミヒャエルを止めることが出来るのかを知らなかった。

 何より、今回の一件の解決にミヒャエルの力は必要不可欠だった。今回の一件の中心にいる人物、シュ―レ・ヴィレロと繋がりを持っているのは三人の中で彼一人だけなのだから。


「大丈夫ですって。そんなことには絶対なりませんから」


 ヴィショップの脅し文句にミヒャエルが笑顔で返事を返す。

 ミヒャエルの発した言葉の意味が、面倒を起こしたところでヴィショップ達には分からないように始末を付けるという意味なのか、それともタマを吹き飛ばされる前にヴィショップを始末するという意味なのかは、ヴィショップには分からなかった。ただ、もしそのどちらかを選ぶことが出来るというのなら、ヴィショップはまず間違いなく前者を選んでいただろう。


(所詮、最悪か最悪の半歩手前かの違いしかねぇがな)


 ヴィショップは心中でそう呟いて嘆息すると、レズノフから受け取った酒を一気に煽った。









 ヴィショップとヤハドが『ヴァライサール』でブルゾイと話をしてきた翌日、ミヒャエルは森の奥にあるシューレの邸宅に訪れていた。


「本当にすいません、手間をかけさせてしまって…」

「いえ、いいんです。ミヒャエルさんが怪我をしてしまったのは、私が手伝いを頼んだからですもの」


 シューレの邸宅のベッドルームで、ミヒャエルはベッドの縁に腰を下ろしてシューレの手当を受けながら謝る。それに対するシューレの返事も本気ですまなそうな声音で発せられており、互いに相手に謝り合うという一種奇妙な光景が広がっていた。

 こんなことになった発端は三十分程前に遡る。シューレとミヒャエルはいつものように森の入り口で待ち合わせをしていた。といっても、二日前のこともあって薬を売り歩くためではなく、その日は薬の材料となる薬草の類を集めるために集まっていた。

 約束の時間より前に二人が揃って動き出すという流れにも慣れた二人は、早速森に入って材料となる薬草類を探し始める。二日前の事件、そしてシューレの子供であるグレイのミヒャエルに対する態度もあってから、前に材料を探す為に森に足を踏み入れた時よりも二人の間で飛び交う会話の量は増えていた。シューレはふとした瞬間にそのことに気付いて驚き、ミヒャエルは行動し始めて早々にそのことに気付いて延々とその幸せを噛みしめていた。

 しかし二人の森林探索は予期せぬ事態に見舞われて中断せざるを得なくなった。ミヒャエルが材料を探している途中で毒を持った葉で腕を切ってしまったのだ。

 その時ミヒャエルは偶然にもサイズが大きめの僧衣を捲り上げて細い腕を剥き出しにしており、偶然にもすぐそばにあった葉脈が妙な模様を作り出している葉の存在に気付かず腕を切ってしまったのだ。

 ミヒャエルはバレンシアの屋敷にあった本でこの国に生える毒草の知識を仕入れていた為、すぐに自分が毒を含む葉で腕を切ったことに気付いてシューレを呼んだ。ミヒャエルが腕を切った葉は、身体に回るのこそ遅いものの一端回ってしまうと全身が麻痺して動けなくなってしまうという毒を含んでいる代物だった。その為駆け付けたシューレはすぐに事態を把握すると、ミヒャエルを自分の家へと連れて治療することにしたのだ。

 既に一度ミヒャエルを招待してることもあって、この決断は迅速に下された。そしてミヒャエルはシューレに肩を貸してもらいながら彼女の家までやってきて、治療を受けることになったという訳だった。


「…っ」

「大丈夫ですか? 沁みますか?」


 シューレがミヒャエルの傷口に灰色の軟膏を塗ると、燃える様な痛みがミヒャエルを襲い、思わずシューレに握られている腕を振るわせる。シューレは一端軟膏を塗るのを止め、心配そうというよりは申し訳なさそうな声でミヒャエルに問いかけた。恐らく、彼女自身この薬がかなり沁みることは知っているのだろう。


「い、いえ、大丈夫です」

「…すいません。すぐ終わりますから」


 痛みに耐えながらぎこちない笑みを浮かべてミヒャエルは答える。だがそれが虚勢であるのを見破るのは容易く、シューレは再び手を動かす前に一度謝ってから治療を再開した。

 ミヒャエルはシューレの謝罪に対し何か返事を返そうとしたものの、傷口に塗られた軟膏がもたらす痛みのせいで結局まともに口を動かすことは出来なかった。彼は歯を食いしばり苦しげに指を動かしつつ治療が終わるのをひたすらに耐え続けた。


「終わりましたよ、これでもう、大丈夫です」

「あ、ありがとうございます…」


 結局ミヒャエルが口を開くことが出来たのは、シューレの治療が粗方終わって彼女が包帯を巻き始めてからだった。

 シューレの細くしなやかな指が、男のものにしては細すぎ白すぎなミヒャエルの腕に包帯を巻いていく。その手付きは、ミヒャエルにこれ以上の苦痛を与えないようにというシューレの心遣いをそのまま反映させたかのように繊細で優しかった。

 ミヒャエルは包帯を巻くシューレの手をじっと眺めていた。包帯越しに薄らと伝わってくるシューレの指の腹の感触と暖かみは彼の動悸にどんどんと拍車をかけていき、今すぐにでも彼女の手を掴んで自分の顔に抱きすくめたいという欲求を大きくしていった。


「少し痛むかもしれません」

「は、はい…」


 幸か不幸かミヒャエルがその欲求をぶちまける寸前に包帯を巻く作業が終わった。シューレは断りを入れてから包帯をしっかりと結び、彼女の予告通り包帯を結ぶ際に奔った痛みが幾分かの冷静さをミヒャエルの頭に引き戻した。


「これでお終いです。私の手際が悪いせいで痛い思いをさせてしまい、申し訳ありません」

「いえ、そんなことはないです。シューレさんはとっても上手でしたよ。多分、他のヤブ医者共にやらせてたら途中で僕は痛みで失神してましたって」


 平気であることを示すかの様にミヒャエルは手当を受けた方の腕を振って見せる。シューレはそれを見て苦笑を浮かべると、ミヒャエルの傷口に塗っていた軟膏の入れ物に蓋をし、包帯と一緒に持ち手の付いた木箱の中に入れて立ち上がった。


「そろそろお昼なので、何か食べるものを作ってきます。少しの間は身体にだるさが残ったりすると思うので、余りしっかりとしたものは出せませんが」

「いえいえ、全然大丈夫です。本当にもう、僕のミスなのにすいません」

「でも、ミヒャエルさんに手伝いを頼んだのは私ですから……じゃあ、ちょっと作ってきます」


 シューレはそう言い残して、キッチンの方へと姿を消した。一人残されたミヒャエルはベッドの上に身体を仰向けに投げ出すと、包帯が巻かれた方の腕を顔の前に掲げる。


「…ふふっ」


 包帯を巻かれているのとは逆の方の手の親指で、巻かれている包帯を愛おしそうに撫でる。親指が傷口の上を撫でる度に痛みが奔ったが、その痛みによってミヒャエルの顔に浮かんでいる幸せそうな笑みに影が差すことは無かった。


「…………」


 ミヒャエルは少しの間包帯を撫で続けていたが、不意に何かに気付いた様な表情を浮かべて指の動きを止める。かと思えば、視線だけを動かして自分が今横たわっているベッドを見つめた。


「もしかしてこれって……シューレさんのベッドですかね…?」


 そう呟いたかと思うと、素早い動作でミヒャエルはうつ伏せになり布団に顔を沈み込ませる。そしてその状態で二度、三度と深呼吸をしてから再び仰向けに戻った。


「うん、やっぱりそうです。何か、シューレさんの臭いがする気がします……ふふ、ふふふ、ふふっ」


 天井を見つめながらミヒャエルは押し殺した笑い声を漏らす。そして笑いが一段落したところで、彼は息を大きく吸って再びベッドに顔を埋めようとした。


「おい、メシ持ってきてやったぞ」


 ミヒャエルがうつ伏せでベッドに飛び込もうとする直前に、グレイが湯気の上がっている椀を盆の上にのせて部屋に入ってきた。ミヒャエルは寸でのところで身体の動きを止めると、身体を起こしてグレイの方に顔を向ける。


「あんた、今何かしようとしてなかったか?」

「そんなことより、それシューレさんが僕の為に作ってくれた料理ですよね。速く渡して下さい」


 怪訝そうな表情を浮かべるグレイの問いかけをさっさと流して、ミヒャエルはグレイが持っている盆を引き渡すように要求する。あからさまに自分を蔑ろにしている態度に、グレイはムッとした表情を浮かべながらも盆を渡そうとするが、直前で何かを思いついたらしく伸ばしかけた手を引っ込めた。


「何するんですか、冷めちゃうでしょうが。シューレさんが僕の為に作ってくれた料理が」

「そんなに母さんの作った料理が食べたいか?」

「馬鹿みたいな質問してないで、速く僕にシューレさんが僕の為に作ってくれた料理を渡しなさい」


 ミヒャエルは立ち上がってグレイへと腕を伸ばすが、ニヤニヤと飛びきりの悪戯でも考え付いた様な笑みを浮かべるグレイは、さっと後ろに下がってミヒャエルの手を避ける。


「そんなに食べたいなら食わせてやってもいいけど、それには条件がある」

「条件? 何ですか? シューレさんが僕の為に作ってくれた料理が冷めない内に答えて下さい」


 諦めてベッドに腰を下ろしたミヒャエルが条件とやらをグレイに訊ねる。グレイは得意気にミヒャエルに指を突き付けた。


「また、旅の話を聞かせろ!」

「前話したじゃないですか」

「他のだ!」

「他のって……ん?」


 グレイの突き付けてきた条件に呆れながら頭を掻いていたミヒャエルだったが、自分に向かって突き付けられたグレイの指に何か指輪らしきものが填められているのに気付いて、思わず前かがみに覗き込む。


「何だよ…あぁ、これか。いいだろ。母さんが俺にくれた宝物だ!」


 ミヒャエルの視線に気づいたグレイは、手を裏返してミヒャエルにその指輪を見せつける。

 グレイが填めているその指輪には、透き通るような黄褐色の光を宿した見事な琥珀が填め込まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ