悪魔と人間、そして天使
一番近くの町まで、歩いて二時間程度。森の中に少し開けた、野原といえる場所がある。そこに粗末な小屋が建っていた。
少し歩けば小川がある。森だから、動物も果物も、山菜も手に入る。もちろん木材も。自給自足で生活が成り立つとはいえ、決して便利とも安全とも言えない場所だったが、風変わりな、あるいは物好きな人間が一人、そこで暮らしていた。
青年とも少年とも言える年頃の男。髪は金、眼は青。名はルッツ。世俗を離れた隠遁生活と言うには若すぎるが、彼は自ら好んで森の中に暮らしていた。
その上空を、のんびりと渡る悪魔が一人。ルッツは当然気づいていないが、悪魔はルッツに気づいていた。しばらくその場に止まって、なにやら考え込んでいたが、やがて無邪気な笑みを浮かべると、青年の所に下りていった。
「ねえ、お前」
掛けられた声に、ルッツは反射で声の方を向く。向いて、黒い翼で宙に浮いている青年に気づいて、しばし固まった。
「聞いてる? 驚くのは良いけど、固まらないでよ」
あくまで無邪気に笑う青年の、髪は茶色で眼は琥珀。年の頃はルッツと同じくらい。黒い翼は、悪魔の証か。ルッツが驚きつつも青年から見て取った情報は、この程度だった。
「……何で悪魔が、こんな所をうろついてるんだ」
「次の獲物を探してたんだ」
「獲物?」
「そう。――次の獲物はお前に決めた。ねえ、願い事を何でも叶えてあげるから、お前の魂を俺にちょうだい?」
突拍子もない申し出に、開口一番、ルッツは言った。
「その前に下りてこい。首が疲れる」
悪魔はきょとんとして、それから面白げに笑いながら、ルッツの隣に立った。悪魔の方が、少し背が低い。
「下りたよ」
「そうか」
「どうするの?」
「どうと言われてもな。俺には特に叶えたい願いもない。それに、悪魔との契約はしてはいけないと聞いている。だから、他を当たれ」
「ほんとにないの? 願い事。何でもいいんだよ? お金持ちになりたいとか、出世したいとか、綺麗になりたいとか、好きな子と結婚したいとか。俺が今まで契約してきた人は、こんなお願いが多かったよ。それに、一つだけなんて言わないよ」
これだけ聞いていれば良いこと尽くめに思える。しかし、悪魔の契約がそんなに簡単なものであるはずがない。最初に言っていたではないか。『魂をちょうだい』と。
「だが、代わりに魂を持って行くんだろう?」
「うん」
「ならば、やはり必要ない。それに俺は、今のところ、金銭にも出世にも興味はない。だいたい、そんなものに興味があるなら、俺はこんなところで暮らしてはいないな」
「あはは。それもそうだね。……でも、ほんとにいいの? こんな機会めったにないよ」
「魂を賭ける気にはならないからな」
「死んじゃった後のことなんて、どうでもいいじゃない。それとも来世に期待してるの?」
現世でのことは諦めて、来世に望みを託すの? ルッツにはそういう風に聞こえた。だが、ルッツにそんなつもりはない。そもそも、来世など本当にあるのか怪しいし、あったとしてもそれはルッツのあずかり知らぬ所だ。
「いいや」
「じゃあ、なんで? こんな不便なところにいるのがお前の望みなの?」
「いいところだぞ? 静かだし、空気が綺麗だし。確かに不便かもしれないが、必要なものは手に入る。それにここには、誰もいない」
煩わしいことが、ここにはない。生活は大変だが、余計なことに悩まされずに済む。それは主に、人間関係とか。
「人が嫌いなの?」
「お前は好きなのか?」
「好きだよ。面白いし。みんな気持ちいいくらいに欲望にまみれてて」
「……そうか、悪魔だからな。醜い感情が好きなのか」
「醜いだなんて、誰かが勝手に決めたことじゃない。醜いって言うけど、お金がなくて死んじゃった人をたくさん見たよ。顔が綺麗じゃなかったから苦労をした人も。人間世界って、元々そんな風に出来てるんだよ。お金がある人や顔が綺麗な人に有利な世界なの。それなのに、お金持ちになりたいとか、綺麗になりたいとか、思っちゃいけないなんて可哀想だよ」
「…………悪魔に、そんなことを言われるとはな。いかにも悪魔らしいというべきか。しかし意外と説得力がある」
心底驚いた風にルッツが言うので、悪魔はまた笑った。
「お前、面白いね。教会の偉い人は、これも神の与えた試練だとかなんとか、言うんじゃないの?」
「俺は教会の偉い人ではないからな」
「悪魔と契約云々って言うからには、神様を信じてるんじゃないの?」
「信じてないこともないが。だが俺には関係ない。……いつまでここにいる気だ? 俺は契約をするつもりはないぞ」
「えー、しないの? お前みたいな奴は初めてだから、どんな魂なのか気になるのに」
「なら俺の考えが変わってから来い」
「変わってからじゃ、他の魂とおんなじでしょ。……んー、じゃあ、お前が契約してくれるまでここにいようかな」
「変わってからだと、同じなんだろう?」
おかしなことを言う、とルッツは首を傾げる。
「お前なら、他の人とは違う願いで、俺と契約するかなって。別に変わったら契約しないって訳じゃないよ? 契約は契約。言ったでしょう? 俺は人間が好きなんだ」
「……なら勝手にするといい」
ルッツは川がある方へ向かった。水汲みの最中だったのだ。余計な時間を取られたので、急がないと時間がなくなる。
「あ、俺、手伝うよ」
「ならこれを運んでくれ」
二つ持っていた空の容器の一つを悪魔に渡す。ルッツと比べると貧弱に見えるが、力はあるのだろうか。悪魔だから、これでルッツよりも怪力と言うことも考えられるが。聞いてみようとして、はたと気づいた。名前を聞いていない。
「お前、名は?」
「え?」
「名前だ。悪魔と呼びかければいいのか?」
「……名前ってのは、知られると支配される可能性も出てくるんだけど」
「別に本名を教えろとは言っていない。悪魔と呼びかけていいのだったらそう呼ぶが」
「悪魔ってのは種族名で、いわばお前が人間って呼ばれるようなものなんだけど……」
「なら何と呼べばいい?」
少し考えて、悪魔は言った。
「フェリーチェ」
「フェリーチェか。俺はルッツだ。ではフェリーチェ。急がないと時間がないのでな。もっと速度を上げてくれ」
「わ、待ってよ。俺はこの森の地理を知らないんだけど」
「なら遅れずについてこい」
相手が悪魔だというのに、全く気にした風もない。どうやら人間嫌いのようだが、悪魔は対象外なのだろうか。悪魔と契約を結ぼうという気がないのに、何だって悪魔なんどとの共同生活をあっさり受け入れてるのか。これまで関わってきた人間とは、ずいぶんと変わっている。フェリーチェが、これまでは欲深そうな人間ばかりを選んできたということもあるが、ではなぜフェリーチェは彼を選んだのだろうか。ああやっぱり、謎だけが増えていく。どうしてフェリーチェは、こんなにルッツのことが気になるのだろう。それが分かるまでは、彼の許にいたいものだ。
悪魔との共同生活は案外順調だった。悪魔といっても、フェリーチェは二日目には羽をしまって、まるで人間のような姿をとっていた。華奢な見た目と裏腹に、やはり悪魔と言うことか、身体能力はルッツをずっと上回っていた。人手が増えたこともあって、生活はだいぶ楽になった。もっとも、気をつけていないとやり過ぎてしまうところがあったから、気苦労は増えたが。だが、暇な時間というものが以前よりずっと増えたのは確かだった。そして退屈だったはずのその時間は、フェリーチェにつきまとわれることによって退屈ではなくなった。近くの町に二時間かけて行くことも、さらに遠くの町へへ一日がかりで行くことも多くなった。フェリーチェが興味を持ったからである。金銭の持ち合わせなどろくになかったが、森で取れる果物や山菜は意外と売れることを知ってからは、時折それらを売ることもあった。薬草の知識が役に立つこともあった。フェリーチェが来るまでは、考えられなかった生活である。そしてその生活を、ルッツは楽しんでいた。楽しんでいることが、ルッツには意外だった。人付き合いなど煩わしいだけと思って森の中に暮らしていたというのに、その自分が何度も町を訪れ、商売までしているのだ。少し前の自分が見れば目を疑うだろう。
悪魔だと言うことを無視すれば、ルッツにとってフェリーチェはいい同居人であり、友人といって良かった。何かあると契約を持ち出してくるのは困ったものだが、それはこちらがしっかり拒否すればいいだけだ。ただし未だに、フェリーチェがルッツの何を気に入っているのかは分からない。契約をしないと言っているのだから、さっさと他へ行けばいいのにと思う。その反面、フェリーチェにいてほしいと思う自分もいる。この生活を、ルッツはけっこう気に入っていた。おかしなものだ。相手は悪魔だというのに。いや、悪魔だからか。
「ルッツー? 何難しいこと考えてるの? あ、とうとう俺と契約する気に……!?」
「なってない、ならない、なる予定もない」
「即答ひどいよー」
「どうしてそうなる……」
「じゃ、何考えてたの?」
「何で悪魔との共同生活がこんなに長続きしたのかと思ってな」
「それ、そんなに難しく考えること?」
「まあな。お前はさっさと余所へ行くのかと思っていたからな」
「えー。だってルッツがなかなか契約してくれないんだもん」
「しないと最初から言っているはずだぞ」
「えへへ、ほんとに強情だよねールッツは」
仕方ないなと言った風にフェリーチェは笑う。いや、彼はいつも笑っている。基本的に無表情で、フェリーチェが来てからは眉間にしわを寄せることが多くなったルッツには、それがよく分からない。何が楽しいのかと考えてしまう。それを言ったこともある。彼は面白そうにこう言った。
「そういうところが楽しいよ。お前は今までの人間とは全然違うから」
こんな所に好んで暮らすところも、何だかんだ言って優しいところも、俺に何も願わないところも、逆に俺の願いを叶えてくれるところも、俺が悪魔だって忘れちゃってるみたいな行動を取るところも、全然違う。そういうのが面白い。フェリーチェはそう言った。
「契約もしていない人間と長いこと一緒にいるのは初めてだよ」
それはルッツの台詞だ。ルッツが他人と長期間一緒にいて、それが苦痛でなかったことなど初めてのことだ。それどころか、楽しいと思っているなんて。
二人が一緒に暮らし始めてから何ヶ月かが経った、ある日のこと。
「…………」
珍しい気配を感じて、フェリーチェは目を覚ました。まだ空は暗いが、数十分もすれば日が昇るだろう頃合い。日が昇る頃にはルッツが目覚めるだろう。フェリーチェはいつもならまだ眠っている。ただし、ここまであからさまな気配に気づけないほど熟睡はしていない。
それにしても不思議だ。彼らが、わざわざ人間界に赴いてまで干渉してくるとは。
「……出て来いって? 何でまた」
家を出る前に、ルッツに術を掛けておく。ルッツを巻き込む必要はない。彼の安全のためにも、眠ってもらっていた方がいい。もっとも、彼らがルッツに危害を加えるとは思えないが。
「…………で、何の用かな、天使サマが」
小屋の前で、二人の天使が佇んでいた。友好的とは言えない目つきで、戦闘態勢に入ってすらいる。
「ここ最近、天使サマにお出まし願うようなことはしていないけれど?」
「契約もしていないのに、何故一つ所に留まる?」
右側の天使が言う。金髪の天使だ。
「そんなの君たちには関係ないじゃん」
「確かに他の人間だったら関係ないけどな」
今度は左側、銀髪の天使が言った。
「でもルッツは駄目だ。ルッツの側にあんたがいることも、あんたがルッツと契約を結ぶことも、好ましくない」
「……? おかしなこと言うね。悪魔と契約を結ぶかは、その人間次第なのに。それに、どうしてたかが人間の一人でしかないルッツの名前を知ってるの? 天使を二人も寄越してまで、どうしてルッツに悪魔を近づけたくないの?」
「……たかが人間、ね。ほんとーに、忘れちゃってんだから」
金髪の天使が、どこか辛そうな面持ちで、呟く。
「え?」
「いずれ分かる。だから、今はおとなしく退いてくれ」
「……退いて、ルッツと離れろって?」
「そうだ。断るなら、腕ずくでも引き離す」
「断る。何でそんなこと強制されなくちゃいけないの? 天使の言うことを聞く必要なんてない」
「……やっぱ、そう来るか」
フェリーチェは、決して弱い悪魔ではない。そして二人の天使もまた、それなりの高位にいる存在だ。
戦いは、フェリーチェから始まった。
「……?」
何か大きな音を聞いた気がして、ルッツは目を開けた。いつも目覚めるときよりも、家の中が明るい。寝過ごしたのだ。
「……っ!」
以前より生活が楽になったとはいえ、長年の習慣は変わらない。寝過ごすなど久しくなかった。それに、生活に余裕が出来たからと言って、寝坊を許すような甘さはルッツの中にはなかった。とにかく早く同居人を起こして、仕事を――
そこまで考えて、近くで寝ているはずのフェリーチェがいないことに気づく。いつもなら、ルッツが起こすまで寝ているのに。珍しいことが重なるものだ。先に起きたなら起こしてくれればいいのに。そう思いながら着替え始めたその時、音が響いた。
「なんだ?」
それほど大きな音ではなかった。しかし無視できるほどの小さな音でもなかった。このあたりにはあまり動物は来ないし、雨が降っているような音でもない。何か変わったことでもあっただろうか。状況を把握しようと、手早く着替えをすませて家を出る。
果たしてそこにあったのは、金髪銀髪の二人の天使と、天使たちに今にもとどめを刺されそうな、久しぶりに見た悪魔姿のフェリーチェだった。
考える暇もなかった。何が起きているのかとか、何で戦っているのかとか、天使だとか悪魔だとか、その時のルッツにはどうでも良かった。
友人が――久しぶりに出来た友人が、見ず知らずの誰かに殺されそうになっている。ならば、守らなければ。一途なその思いから、ルッツはフェリーチェをかばい抱き込み、フェリーチェが受けるはずだった攻撃を、その背に受けた。
驚いたのはかばわれた悪魔、そして攻撃を加えた天使たちである。
天使たちには当然、人間――ルッツを攻撃するつもりはなかった。もっと言うなら、フェリーチェを殺すつもりもなかった。悪魔は基本的に不老不死であり、人間であれば死ぬような攻撃を受けても、しばらくの間眠ることになるだけだ。そしてフェリーチェは、こうなることを避けるためにルッツを眠らせた。天使と悪魔の戦いに人間が関わるなど土台無理な話なのだ。ルッツの眠りは、フェリーチェか、あるいはフェリーチェの術を解除できる程の腕を持つ誰かが解除するまで覚めないはずだった。天使たちも、フェリーチェがそのような術を使ったことは気づいていたはずである。
だから、ここでルッツが飛び出し、あろうことかフェリーチェをかばうなど、誰にとっても予想外の出来事であった。
攻撃を受けたルッツは、フェリーチェを巻き込みつつ倒れた。
「……え?」
フェリーチェは驚きと、それから何か別の感情で、動けなかった。
「何で……」
天使たちは二人に近づいた。もはや戦いどころではなかった。攻撃を受けたルッツは動かない。当然だ。本来は悪魔に与えるべき攻撃なのだから。
「……フェ、リーチェ……」
「ルッツ!? 大丈夫なの? ねえ、何で……」
「……無事、か?」
「無事じゃないのはルッツだよ!」
「なら、良かった……」
「良くない! ちっとも良くない! 何でこんなこと!」
なおも言い募ろうとしたフェリーチェの脳裏に、不意に浮かぶ景色があった。ここよりももっと開けた場所。青い空。剣を握る子供。その子供の手の上から剣を握り、自らに突き立てた子供。正気に返った自分に、金髪の子供は言うのだ。
『俺は大丈夫だから』
「俺は、大丈夫、だから……」
『お前が無事で良かった』
「お前が、無事で……」
子供の言葉と、ルッツの台詞が重なる。こんなことが前にもあった。自分を守るために、あの子が死んだ。そして今、自分をかばって、ルッツが死のうとしている。
待って。ねえ、待って。あの子ってだれ。
あの子とルッツの面影が重なる。声も重なる。
もしかして、俺はまた、大切な人を失うのか。
待って。死なないで。お願いだから。
気づけば涙があふれていた。そして、唐突に気づく。この感情は、悲しみだと。
茶色の髪の、幼い天使がいた。茶髪の天使の近くにはいつも、金髪の、やはり幼い天使がいた。彼らが、幼いフェリーチェとルッツだった。
天界は平和そのもので、ちょっとしたケンカはあったものの、大きな争いとも悪意とも縁がなかった。穏やかな世界だった。
そんな世界で育ったから、フェリーチェは純粋そのものだった。ある程度成長した天使は、人間界での争いや悪意を眼にすることでその存在を知っていたが、幼いフェリーチェはまだそんなものを知らなかった。
だから、抗えなかったのだ。突然天界に現れた、形もなき悪意に。
どうして悪意が天界に潜り込んだのかは分からない。悪意はフェリーチェに取り憑いた。悪意に取り憑かれたフェリーチェは、大量の天使の殺害未遂を犯した。天使だから死ななかっただけで、実質殺害といっても良かった。まだ幼く力も弱かったが、悪意の力は強大だったのだ、呑み込まれて正気を失って、フェリーチェ自身も危うかった。彼は自らをも害そうとした。自害もまた罪である。そして自害は、これまでのように未遂にはなり得ない。剣を自らの身体に突き立てようとした。それをすんでの所で止めたのが、ルッツだった。
「もう止めろ!」
「止めないで!」
悪意の目的だったのか、悪意に取り憑かれたフェリーチェの目的だったのか。未遂ではなく、天使を殺害することをフェリーチェは望んでいた。他の天使ではうまく行かなかったから、とうとう矛先を己に向けたのだ。
「止めるんだ。自殺は駄目だ。自殺しちゃいけない!」
自殺した天使は、最悪の場合堕天する。堕天した天使は、もう天使には戻れない。おそらくルッツは、それを止めたかった。
「止めないで! 殺さなきゃいけないの、天使を殺さなきゃいけないの!」
「だったら!」
フェリーチェの手ごと掴んでいた剣の刃先を、ルッツは自分に向けた。
「俺が死ぬ。お前が死ぬ必要はない」
「――え?」
「お前は誰も殺してない。全部未遂だ。そしてこれは自殺だ。お前が殺す訳じゃない」
子供とは思えない強いまなざしが、フェリーチェを見据えた。
「負けるなフェリーチェ。悪意なんかに呑み込まれるな。お前はそんなに弱くない。――だから悪意、これが最初で最後だ。俺の命と引き替えだ。消えろ!」
そして剣を、自らに突き立てる。
剣を離さなかったフェリーチェは、剣が人に突き刺さる感触に正気を取り戻した。
「……え? ルッツ?」
自分の名前が呼ばれたのに気づいて、ルッツは弱々しく笑った。
「フェリーチェ……良かった。正気になったんだな」
「何で……何で? どうして……何があったの?」
問いかけつつもフェリーチェは知っていた。悪意に取り憑かれていた頃の記憶は、そう都合良く消えたりはしなかった。
「あ……ごめんなさい、ごめんなさい、死なないで、ねえ、ルッツ」
「大丈夫だ。……俺は大丈夫だから」
「で、でも……! 待って、ねえ、治すから」
「大丈夫……。お前は無事か?」
「うん、無事だよ! だから、ねえ、死なないで」
「お前が無事で良かった。正気に戻ってくれて……」
ルッツの体が倒れた。呼吸がだんだん弱くなっていく。フェリーチェが術を使おうとしても、使えなかった。治癒は清らかな術だ。殺害未遂を、そして殺害の罪を犯したフェリーチェには、もはや使う資格がないということだ。
しかし、例え使えたとしても、意味はなかっただろう。これはフェリーチェの殺害であると同時にルッツの自害でもある。自害による怪我は、治すことが出来ない。
まもなくルッツは死亡し、後には茫然自失のフェリーチェが残された。他の天使が到着したのは、この後のことだ。
悪意が原因とはいえ、事件を起こしたフェリーチェをそのままにするわけにはいかない。フェリーチェは罰として悪魔へと転生した。そしてルッツは、人間に転生した。数十回の転生の後、再び天使へと生まれ変わることを約束されて。もちろん二人とも、天使であった頃の記憶は失っている。
そして時は流れ、悪魔として成長したフェリーチェと、人間としての最後の生を受けていたルッツが、何の因果か再び巡り会ったのだ。
「ルッツ……待って、死なないで、置いてかないでよ」
フェリーチェは思い出した。どうして自分が悪魔となったか。どうしてルッツがこんなにも気になっていたのか。
「俺、まだ何にもしてない。謝らなきゃ、償わないといけないのに」
その台詞に、二人の天使はハッとした。
「フェリーチェ、思い出したのか!?」
しかし天使の言葉は、フェリーチェの耳には入っていない。ただただルッツを見つめていた。
ルッツの呼吸は弱々しい。天使が治癒をしているが、上手くいってないらしい。こんなところまで、あの時と同じ。
「起きて。ねえ、ルッツ。起きてよ」
「……フェリー、チェ」
「ルッツ」
「大丈夫だから……。怒ってない。償う必要なんて、ない」
「でも」
「俺が決めたことだ。……だから気にするな」
「違うよ。だって俺が、俺があんなことにならなければ」
「フェリーチェ。お前は強い。だから大丈夫だ」
「強くなんてないよ。強かったら、こんなこと……!」
「許すから」
ルッツは笑った。
「許すから。いや、本当は許すも何も、最初からお前は何も悪くない。……だから、そんなに苦しむな」
許す。それが、一つの鍵だった。
不意に光がフェリーチェを包んだ。みな驚きに目を見張る。フェリーチェとルッツは何が何だか分からないといった風だったが、天使二人は違った。安堵と、期待が入り交じっていた。
光が収まったとき、天使二人は期待が裏切られなかったことに喜んだ。ルッツは痛みも自分の状態も忘れ、ただ驚いていた。そしてフェリーチェは。
「え……?」
信じられないと、そんな様子だった。悪魔の証である黒い翼は、天使の証である白い翼へとなっていた。身にまとう空気も清浄なものに変わっていた。
呆然としていたフェリーチェだが、ルッツの状態に我に返る。躊躇うことなく治癒の術を使う。先程までとは違い、驚くくらいにすんなりと、怪我は治っていく。同時に呼吸も確かなものになって、フェリーチェはホッと息をついた。ルッツはいつのまにか眼を閉じていたが、ただ眠っているだけだと分かる。分かるから、怖くなかった。
「良かった……」
「ほんとにな」
独り言に反応されて、フェリーチェは慌てた。
「あ、……フェルナン、ゲルト」
「奇跡だねえ。あのタイミングで思い出して、あのタイミングで天使に戻って」
金髪の天使――フェルナンが言う。
「もしあのまま死んじゃってたら、俺らにとっても大問題だったからね。良かったよ、ほんとに」
「……何で、天使に戻ったの?」
「あー、それはね、ルッツがお前を許したから」
「え?」
「つまりだ、ルッツみたいに人間になった奴と違って、悪魔に転生した奴には転生によって天使に戻るってことが出来ないからさ。代わりに別の条件があるわけ」
「それが、被害者に心から許してもらうことってわけだ」
銀髪の天使――ゲルトが続けた。
「心からってのが問題でな。表面上の言葉じゃ意味がない。悪魔になった奴ってのはそれなりにあくどい事をやったわけで、なかなか心から許すってのが出来ないんだよな」
「え、でも……俺が殺しかけたのは、ルッツだけじゃない……よ?」
「他の奴には、もう許されてるんだよ」
「元々、フェリーチェのせいっていうよりは、悪意が問題だったからね。みんな許してくれてるよ。ルッツの言葉で元に戻ったって事は、それが嘘じゃなかったってことの証明だ。……だからフェリーチェ、気に病むことはない。お前はもう許されてる」
フェルナンは立ち上がった。
「じゃあとりあえず、ルッツを運びましょ。いつまでも外に置いとくのは良くないよ」
「あ、うん!」
ゲルトがルッツを抱えようとしたが、フェリーチェが横からさらう。軽々と持ち上げて、小屋に運び込む。天使二人は、それを後から追いかけた。
ルッツが死にかけてから数日。全てではないが、自分が天使だった頃のこと、特に死の間際のことを彼は思い出していた。フェルナンとゲルトから話も聞いた。
そして今。悪魔から天使へと姿を変えたフェリーチェと、ルッツは相も変わらず一緒に暮らしている。
天使に戻ったフェリーチェには当然天界に戻るという選択肢も用意されていた。だがフェリーチェはそれを拒み、ルッツと共に居ることを望んだ。ルッツとしてもそれを拒む理由などない。フェリーチェは遠い前世の自分、そして現世の自分が命を懸けてまで守った存在なのだから。
とはいえ、それがいつまで続くのかは分からない。フェリーチェがどう考えているかは知らないが、ルッツはあまりそれを考えないようにしていた。少なくとも、今は平和だし、幸せだ。それでいいと、無理にでも思いこもうとしていた。
「ルッツ! 今日は町へ行く日だよ。早く行こうよ」
フェリーチェが笑顔で言う。
「お祭りなんでしょ? 早くしないと終わっちゃうよ」
「心配しなくても、そんなにすぐには終わらん」
年に一度の収穫祭が、最寄りの町で行われる。フェリーチェはこのことを知った日からずっと祭りを楽しみにしていた。悪魔から天使へ変わっても、元々の性格に変化はないらしい。
今日もまた、朝は早い。日は昇ったばかりで、あたりは薄暗かった。
「ほら、早く行こうよ!」
「はいはい」
催促するフェリーチェを連れて、ルッツは水を汲みに川へ向かった。




