第2部 第30話 彼女の悪夢は終わりを告げ、彼はむせび泣いた
康太郎に頭を撫でられていた穂波は、はっとなって康太郎の手を跳ね除けた。
その跳ね除けた力は強すぎて、弾いたというべきか。互いにじんじんとしびれるほどで、穂波は痛みに顔をしかめながら、
「九重、一体、何をしたの」
康太郎は弾かれた手を痺れを取るためにぶらぶらと振りながら、
「ああ、D4ドライブ・強制出力。俺の力の禁じ手を君に使った。効果は理想の押し付け、つまり対象にこういうものであって欲しいという願いを叩き込んでそのとおりに変える力さ。使用には色々条件はあるけど、ともかくそれで君の身体を傷一つない綺麗な身体にしたというわけ。そして五感もね、ちゃんと元通りさ。殴って直すという矛盾を孕むところなんか実に漫画っぽいだろう?」
穂波は言われ、呆然とした。
そして自分の手を見つめると、もう片方の腕を思い切り引っかいた、血が出るほどに。
「ちょ、おま……!」
「……あはは」
驚く康太郎を余所に、乾いた笑いを零しながら穂波はさらに二度三度深く爪を立てた。
「痛い、痛いなぁ……今まで、何をしても、されてもちっとも感じなかったのに」
穂波の目に涙がたまり、溢れて頬を伝ってぽたぽたと落ちて行く。
一方で口の端を曲げて、笑顔を作っており、穂波は奇妙に泣き笑いの状態になった。
「でも、今更……遅すぎるよ、九重」
「……俺からは、なんとも。でもさ、これでようやく君も人並みに青春出来るじゃん」
康太郎は手持ち無沙汰に頭を掻いて言った。
「えっ……、青春って」
康太郎の言葉に穂波は目を丸くした。
「痛覚無いっていう日常生活だけでも大変なハンディがなくなったから、その分をもっと自由に使えるようになるよ、これからは。過去は消えないけどさ、結局この世界での出来事って傍から見たら夢でしかないわけだし、先の人生長いんだしさ。『ああ、あんな夢に苦しんでたときもあったな』ってただの思い出に出来る日もきっと来るよ。だって君の悪夢は、これから見なくなるわけだから」
康太郎はゆっくりと穂波に近づき、彼女の傷ついた手を取って、せっかく直したのにと漏らしながらその傷を理力で塞いだ。
「どういう、こと。見なくなるって……」
康太郎に胡乱気な視線を送りつつ、穂波は言った。
康太郎はそれを受けても、平然と言葉を続ける。
「言葉の通りだけど? 夢も悪夢も、いつか覚めるものだ。そして今日、俺が君の悪夢を終わらせる、比喩でもなんでもなく文字通りにね。そして君は十分なまでに思いを吐き出して少しはスッキリしただろう? 君を苦しめた連中は、君自身が断罪して何処にもいない。それでも満たされなくて復讐の対象を世界に持ってったのは、つまるところ八つ当たりだって、穂波さんだって本当はわかってるだろう?」
「…………」
穂波は俯くだけで、口を開くことはしなかった。
「沈黙は是と言うけれど……まあ、いいや。とっととやることやっちゃおう。もう穂波さんにも、この世界にいる理由なんてないだろうし」
そう言って康太郎は穂波に手を差し伸べた。
「なに、この手」
「帰るんだよ、元の世界に。地球に。それで、二度と君をこちらに来られないようにする」
穂波の目が大きく見開かれた。
「本気? そんなことが出来ると――」
「本気も本気だ。警戒するのはわかるけど、手を触れなきゃはじまらないんだよっと」
「……あっ」
康太郎が穂波の手を無理矢理とり、穂波の身体が一瞬大きく震えた。
久方ぶりに痛覚が戻り、外からの感覚に慣れていないのだろう。
そんな反応を示す穂波を新鮮に感じて苦笑しながらも康太郎は理力を高めた。
「D4ドライブ・コネクト」
穂波の手を繋ぐ一方、康太郎は目を瞑り、空いた手を前にかざした。
「イメージ・シンクロニシティ、オーバーハンドレッド」
康太郎の身体が蒼く輝き、同時に穂波の体も蒼く輝きだす。
「これは……」
「跳ぶよ、穂波さん」
穂波は意味をつかめず、康太郎を問いただそうとしたが、遅かった。
その前に、康太郎も穂波もD世界からその姿を消したのだから。
***
「え」
穂波は気づくと、月明かりだけが照らす薄暗い空の中にいた。
ただし自分の姿は透けていて、眼下には文明の灯りと、高層ビル群。
紛れもない、地球の都市上空であった。
「九重、これは」
「うん、今はC県の中央。さてと、穂波さんの家ってどこかな」
康太郎は穂波に教えられたとおりの住所へと移動した。
そこは、都市部にある高層マンションの上から三つ目の階の部屋だった。
無論D4ドライブを用いた不法侵入だが、曲がりなりにも本人の許可を得ているので問題は無いと康太郎は胸を張った。
穂波は、そのマンションで一人暮らしをしていた。
「これは……」
「気にしないで」
康太郎も思わず絶句するほどに非常に散らかっていた。大体が本の類が積み上げられている。
ごみの類がないのは不幸中の幸いといえよう。
康太郎は穂波の許しを得て寝室へ。意外にも寝室周りは物を置いていなかった。
ベッドの上に横たわるのは、現実の穂波だ。
呼吸は浅いが死んでいるわけではない。
康太郎は、透明な穂波を現実の穂波と重ね合わせるようにしてゆっくりと置いた。
「ん……」
しばらくして、穂波の目が覚めた。
「やあ、穂波さん」
穂波は康太郎をじっと見つめた後、起き上がって自分の頬をつねり、次に目の前の康太郎の頬を引っ張った。
「ひ、ひゃいよ、ふぉなみさん」
そして今度はまざまざと自分の身体のあちこちを穂波はまさぐった。
時折ピクリと震える様な反応するのは……康太郎はそれ以上を考えるのはやめた。
「……そう。九重との戦いは夢ではなかったのね。私の痛い妄想かもと思ったけど」
穂波のなんとか搾り出したように漏れた言葉は、様々な思いを吐露したものだった。
「これでもう私は、あの世界に行くことはない……?」
「ああ、俺の力がうまく作用していれば。まあ仮に駄目だったとしても、これから君は一人じゃないし、前よりは楽しいと思うよ」
そう言って康太郎は肩をすくめた。
「さて、と」
康太郎は寝室から繋がるバルコニーの扉を開けた。
「じゃあ帰るよ、穂波さん。また学校で」
「待って」
穂波は、外に歩みだそうとした康太郎を呼び止めた。
「なに?」
「……なんで、私に、こんなに良くしてくれたの? 私は九重を振ったし、殺そうともしたのに」
「あー……」
康太郎は穂波から視線をそらして上を見ると、頬を掻きつつ、
「理由はまあ色々あるけど……一番は、友達が苦しそうだったから、かなあ?」
「え……」
「まあそりゃあ振られたけどさ、それで今までのやり取りの全てが否定されるものでもないし、振られようと絶交を突きつけられてるわけでもないから、友達であることに変わりないし……友達だったら、出来ることなら助けたいって思うし、俺にはその力があった。それだけだよ」
「友達だから……友達だったら命さえも、あなたは掛けるというの?」
そんな問いに、当然と、康太郎は穂波に即答で返した。
「親の薫陶が生きていてね。本当の友達は、値千金でもつりあわない価値がある。だから本当の意味での友は滅多に見つからない。もし見つけたらその友達は大事にしろってね。 だから建前上はともかく、俺本当は、友達は少ないんだぜ?」
康太郎は少しだけ口の端を曲げて薄く笑った。
「ためしに寝てみなよ。今日は多分、夢さえ見ることはないよ」
「あ、九重……」
康太郎は穂波から漏れた言葉を聞くこともなく、空中へ躍り出た。
蒼い光の粒子をその軌跡に残しながら空を駆ける姿は、穂波にはとてもまぶしく見えた。
そして穂波は今までのように諦観からではなく、ごく自然な眠気に従い眠りに就いた。
そして次に目覚めたときは、同じく眠る前と同じ天井を見上げていて。それ以降、彼女がD世界への転移を経験する日は二度とやってこなかった。
***
康太郎の家は一戸建てである。
鍵はD世界での穂波との戦いで紛失していたので康太郎は家を出るときに開けっ放しにしておいた窓から入った。
「ふごぉっ!」
入ったと同時に飛んできた拳を顔面に受けて、そのときに口の中を切ったために血の味が康太郎の口内を満たした。
康太郎を殴ったのは、彼の母である朱里であった。
月明かりに浮かび上がる母の姿は、服はごく普通のネグリジェでありながら髪は白く輝き、目は赤く爛々としていた。
目つきは鋭く、間違いなく殺気が向けられていた。
気を抜いていたとはいえ、今の康太郎に拳をぶち当てることが出来る時点で只者ではないことを知らしめる。
もっとも次の瞬間には殺気は霧散し、髪も目もごく普通の黒と茶に戻っていたのだが。
「まったく、こんな遅くに泥棒まがいの方法で家に入ってくるなんて、お馬鹿さんね康太郎は」
つまり、朱里は康太郎を泥棒と間違えたらしい。自分の不注意を息子になすりつけるとは、なんてお茶目な母親だ。
「酷いよね、お母さんは。まあそれはともかくもただいま、無事に帰ることが出来ました」
「おかえりなさい。置手紙は見たけど、目的は無事に果たせたのかしら?」
「思わぬハプニングはあったけど、最優先の目的は達成できたよ。それに新しい目標も見えてきた」
「そう……私もジョーくんも、あなたが健やかにあってくれれば、それ以上は望まないわ。好きにやってみなさい」
「はい」
それはそうとと、朱里は手を合わせて鳴らした。
「そんな血だらけのまま寝るのはやめなさいよね。ちゃんとシャワーで綺麗にしてから着替えて寝てね。服はゴミ袋に入れておいて。紛らわしいから燃やして処分しておくから」
言って、朱里は康太郎の部屋から出ていった。
血だらけの康太郎を見ても病院だなんだと騒がず、シャワーを浴びて来いと命じるのは、淡白なのか冷静なのか、微妙なところである。
康太郎は、シャワーでこびりついた汚れや固まった血を洗い流し、ベッドの上で横になった。
鏡を見て、とうとう髪の毛全てが蒼に染まっているのを見たときは、己自身ドン引きしたものの、それ以上の変化は見当たらなかった。
幸い、今の時間は土曜の夜である。まだ明日もお休みなのである。
康太郎が寝ようと思った瞬間に眠気がびっくりするほどの速さで襲い掛かってきた。
問題は山済みだが、今度ばかりは康太郎の体力も限界を超えていた。生身での異世界転移に何度死に掛けたかわからないほどの激戦を繰り広げたのだから。
康太郎は眠気に身を任せて、まどろみの中へ潜っていった。
起きたのは月曜日の朝だった。さしもの康太郎も寝すぎだろうと呆れ、
「アニメの予約忘れた……」
むせび泣いた。